第二話 村に漂う霧と影
蜂の雨にふられながら、鞘に剣を納めるクロ。そして木陰に横たわる男。
それが、クロを追ってきたカルネが目にした光景だった。
遡ること、一時間前。
クロとカルネは、師団支部にて軽めの朝食を済ませ、早めに王都キルキスへ向かうことにした。
剣鬼クロが率いる、国防軍第三師団は、シンセルに拠点を置いている。シンセルは王都キルキスの東隣に位置している。ただ、二つの都市の境には、エルデリアン山脈が聳え立っている。そのため、山脈を迂回するルートがシンセルからキルキスに向かう最短ルートとなっている。
現在はキルキスに向かう道中で、クロとカルネは馬車に揺られていた。少しだけ開けられた窓より入り込んでくる風は、日と草花の香りを運んできた。この時期はファルの花が見ごろを迎えている。それは春の終わりを告げる花であった
「風が気持ちいわ。たまには馬車もいいものね」
「……」
「団長には毒だったかしら?」
カルネがクスクスと笑いながらに、向かい側に座るクロを見つめていた。
「………」
やばい、吐きそう...、カルネめ面白がってるな。魔女見習いをしていると性格まで矯正されるのだろうか。
「昨晩はネロ達が戻ってましたから、盛り上がりましたな。またやりましょう、今夜やりましょう!!」御者役の団員が振り返って、二人に話しかける。舌を嚙まないように、少し舌足らずな喋り方が印象的だった。
「えぇ是非とも...楽しみね」
決して名指しはできないが、第三師団でも屈指の酒豪が、秘密の微笑みを浮かべている。(国防軍全体でも五本の指に入ると噂される彼女だ)
「…考えとくよ、それよりネロ達は?朝から姿が見えなかったが」クロが目を瞑りながら呟く。
「彼等なら、今朝から近辺の見回りに出ました」
「えーーー」
クロの驚愕と唖然の入り混じった様子に、二人は、弟を愛でるように微笑んでいた。
しかし、平穏なひと時は終わりを迎える。それは突如ではなく、次第に一歩づつといった具合に。
「...変ですね」団員が告げる。
「どうした?」
クロが御者台に身を乗り出しながら問う。
「静かすぎまっせ。村の連中が見当たらねぇです」団員が辺りを見回しながら答えた。ヒリついたような緊張感のせいか、森から吹く風はどこか妖しさを孕んでいるように感じられた。たしかにと、クロは思い返す。「そういえば、今日はまだ村人を見ていないな」
クロの指示により、最寄りの村に立ち寄ることにした。
木に軛をかけ、御者が馬車の扉を開いた。その時、
村で一番大きな畑の側にある池の辺りから、人の慄く声が鳴り響いた。家や木々といった遮蔽物があり、クロ達からはその全容を把握することができない。ただ、尋常ならざる悲鳴だった。
「警戒」クロが鋭い眼光で悲鳴のした方向を睨みながら、カルネ達に指示を出した。
「「承知!!」」
クロは二人の返事を聞くや否や、一直線に駆け出した。踏み込んだ地面は抉れ、一瞬の間をおいて突風が舞い起こった。クロは既に抜刀しており、鈍く光る刀身の残像が尾を引いているようだった。
薄紅色の霧がクロの身を包む。
その瞬間、世界はクロという存在に目を眩めた。「闘気」と呼ばれる力の奔流が、世界の創造を凌駕していく。
__クロが現場に駆け付けるまで、一秒も要さなかった。
池のほとりで男が一人、踊っていた。おそらくあの悲鳴の主だと推測できる。ただ、喉がつぶれたのか声音も次第に弱くなっている。しかし、依然として激しく踊り狂っている、まるで愚者のように。
妙な服装だった。ミノムシを思わせる、黒いマントで全身を包み込んで、自分の顔だの腹だのを目一杯叩いている。その度に、黒い埃が経ち、男の周りを群がっている。
いや、違う。あれは服なんかじゃない!! クロは目を凝らし確信した。
男に無数の蜂が纏わりついていたのだ。蜂たちが明確な意思を持って、男に群がり襲っている。
逡巡することなく、
クロは一度 深く息を吐き呼吸を整えた。それは剣鬼の臨戦の意を表す。
クロの体の周囲に、薄紅色の霧が立ち込め、彼の足に一段と多く闘気が漲った。そして…弾ける。
クロは肉体の限界を超えた速さで、蜂の群れに飛び込んだ。
そして例の男を抱きかかえ、次の瞬間には近くの木陰にそっと寝かせつけていた。
男の全身の至るところが、痛々しく腫れあがっている。呻くような呼吸は途切れ途切れである。
「かなり...ひどいな」
その中で一匹の蜂がクロの存在を認め、次の攻撃対象にしたようだ。そして続くように蜂が一匹、十匹、そして桁が飛んで数千匹 クロをめがけて襲い掛かる。
クロの背に守られた男が、その羽音を聞き発狂し、身をくるめた。それは目の前の蜂たちに植え付けられた反射的な恐怖なのだろう。
「少し眠ってるといい」
クロは振り返らずに呟く。剣先を地面に向けてゆらゆらと左右に振り、そして下段の構えをとった。
蜂の群れが黒い球体を思わせる陣を組みながら、剣鬼に向かって飛来する。
蜂の玉がクロの眼前に迫る。そして次の瞬間「シュンッ」と何かしらが切り裂かれる音が、静かに鳴った。幾千、幾万もの短い音が一つに凝縮された音だ。
数千の蜂は只の一匹も例にもれず、羽と頭と触覚と胴体とが四散した後、地に伏した。
蜂の雨にふられながら、鞘に剣を納めるクロ。そして木陰に横たわる男。
それが、クロを追ってきたカルネが目にした光景だった。
これらは全て、事の発端から数十秒での出来事である。
「カルネ、【回復魔法大全】は持ってきてるな。この人を頼む。蜂に刺されまくってる」
「・・・直ちに!!」
カルネは、駆け付けたそばから魔導書を開く。
「ティル・ビル」と短く詠唱し、手元の草を右手でむしりとり握りつぶす。
すると魔法陣が腕輪の様にカルネの右手首あたりに現れた。辺りに爽やかな匂いが立ち込める。彼女の拳からは一滴、また一滴と緑色の雫が垂れ堕ちる。それは癒しのエキス。即席の魔法薬であった。
「腫れが酷い」
「治せそうか?」
「…えぇ。でも、もう少し清潔な場所に」
カルネが辺りを見回しながら、そう呟く。周囲の草原は蜂の体液でびっしょりと濡れていた。
「それなら、馬車の中はどうでしょうか。今朝掃除したばかりでっせ」
団員が言葉を思い出したように提案した。
クロが怪我人を背負って馬車へ移動をしていると、異変に気が付いた村人たちが恐る恐る外へと出てきた。訝しむ様に、あるいは酷く怯えた様に。しかしながら、気にならずにはいられないらしい。その中で、一人の女がクロ達の方に駆け寄ってくる。正しくは怪我人を、というべきかもしれないが。
「あなた!!」と、怪我人に呼びかける声で、二人の間柄は容易に想像ができる。三十代か、そこらだろうとクロは検討をつけた。そして、同時にカルネに視線を向ける。カルネはこくりと頷いて、クロ達の一歩前に踏み出た。
「安心してください。今は気を失っているだけです。それより、貴女は?」
「あぁ、あなた!!あなた!!なんてことなの」
気が動転してしまったのだろう。村女は無理にでもクロから夫を引っぺがそうと、クロの服だの髪だのを掴んでは騒ぎ立てた。
「痛い。いたたた、おば、、。ちょっと落ち着いてってば。…カルネ、何とかして!!」
カルネは手の平を女の顔の前に差し出し、ふっと息吹いてみせた。彼女の手に幽かに残った魔法薬の香りが村女の鼻腔を叩く。先ほど彼女が摘んだロウレイ草には、薬草学の観点から鎮痛効果だけでなく、若干の精神鎮静も期待できたのだった。
薬草の効果が効き始めるまで、そう時間は要さなかった。
(まったく、【回復魔法大全】様々ね。お師匠に感謝しなくちゃね。)カルネは内心でそう呟く。
「はっ、、、私ったら。あぁ、こんなに引搔いちゃってごめんなさいね。まぁ大変 こんな綺麗な顔に、私はなんてことを!!」
どうやら、村女はクロの容姿からある誤解をしている様子だった。男、いや漢の沽券にかかわる誤解を。
クロはその盛大な勘違いに対して弁明をしようかと悩んだが、また目の前の村女が騒ぎ出しても面倒である。それに、今のこの村では井戸端会議をする余裕は無い。森の奥の騒がしさに気が付いているのは、クロただ一人だけだった。
(いいか...クロ。漢には毒を飲み込まなくてはいけない場面が人生で幾度かある)
クロは或る人に聞かされた言葉を胸のうちで繰り返す。
__それが今なんだろ、先生!
クロはぐっと奥歯を噛みしめた。
「…お気になさらず。その、、落ち着いて話せますか?」
苦虫を嚙み潰したような声は、返って女性じみた声音を思わせた。
その様子にカルネは失笑を抑えられなかった。顔をクロから逸らしてはいたが、肩が楽しそうに震えている。遠方の森の騒がしに気が付くクロが、それに気が付かない訳もなく。腰に携えた剣の柄で彼女を小突いた。「痛っ」とカルネが呻く。それからクロと顔を合わせ、彼女達…ではなく二人は視線のみでコミュニケーションを取る。その内容は想像の通りで、敢えて語る必要は無いものだ。
そんな二人のことなど露知らず、村女がクロの質問に答える。まだ恐る恐るといった塩梅だ。
「はい。あの、、、私はミレと言います。あなた方は?」
「私たちは、」そう話すカルネは、含みのある視線をクロに向ける。クロは、ばつの悪そうな表情でかぶりを振った。
「…私たちは通りすがりの冒険者です。この辺りを定期調査するようにとギルドから派遣されて参った次第です。それより、急いで家へ。ご主人にはもう少し手当てが必要かと」
「あら、まぁ。さぁこっちです」
カルネの言った「冒険者」という言葉が、村人たちの特に興味を引いたようだ。きっと、それが嘘であったとしても村人達には関係ないのかもしれない。平凡で代り映えのしない村の生活の中で、彼等は内心で刺激を求めているのだから。
手招きしながら家へとむかう女の後ろで、クロがカルネに耳打ちする。「ちょっと、カルネ。村人達を家の中に。森の奥で羽音が騒がしい。・・・段々近づいてきてる」
クロが森の方角を顎で指し示す。
「えぇ、わかりました」
カルネはクロが示した方角を一度見やったが、ただ木々の葉が風に揺られているだけであった。それが彼女の見えている世界だ。それでも、カルネにクロの言葉を疑う選択肢はなかった。
他でもない剣鬼の危険信号である。それはヘタな索敵魔法よりも確かな情報だった。
「皆さん、各自家の中へ、戸締りをしっかりなさってください。蜂が来るかも」
カルネは凛とした鈴の様な声は村人達の耳によく響いた。
村人たちは、一瞬間にカルネの声に魅了された。そして、今にも綻ばんとする彼女の若い美貌に見惚れていた。
それは、「若々しさ」と「時折ちらつく大人らしさ」を、コインの様に併せ持った彼女の魅力の一つであった。
カルネの言葉を何度も頭で反駁するうちに、村人達は事の重大さを思い知ったのだろう。時間が巻き戻っていくように、みな家の中へ逃げ込んでいった。
「団長...」
「ん?って何だよ。やめ、わしゃわしゃしないで」
カルネは自身の右手で、クロの髪に手櫛を通しはじめた。
サラサラとした彼の髪が、一層を増して黒く深みを持ち始める。月に照らされた川の色に似ている。それはきっと冷たく澄んだ清流だ。
それが哀しみをぶつける精一杯の行為だった。クロが正体を隠す理由に対しての...。
「動かないでください。ロウレイ草は髪の艶に良いんです。それに、ほらいい匂いでしょ?」
「…ありがとう」
「それに軍の人間だと思われないように演技ですよ。私がお姉さんで、あなたが弟。フフフ、案外妹でも通るんじゃないかしら?」
「ㇵッ…からかわないでくれよ、姉さん。」
「えっ?」
彼女は雷に打たれたように、立ち止まった。彼女は目を瞬かせ、しばらくクロを見つめたまま動かなかった。そして不意に俯いてしまった。
先ほどの失笑とは、すこし違った様に震えている。悪手だったのだろうかとクロは不安だった。そして恐る恐る伺うように彼女の顔をのぞき込む。
カルネの頬はふわりと朱色が広がっていた。口を開きかけては閉じ、どう言葉にしてよいかわからない様子だった。
「演技」
「…違う。…もっかい。」
「え?」
「だから、もう一回言って!!次はカルネお姉ちゃんでお願い!できれば上目遣いで!!」
カルネの弟に対する愛情が臨界点を突破していた。それも一種の愛なのだろうが、愛に暴走は付き物だ。
「カルネ、左腕の魔法陣。それが何か正直に教えてくれたら言ってあげる。」
はっとした表情で、カルネは左腕を隠す。
クロの疑念が確証に変わった。
__絶対、音声記憶をする魔法だろ!!
「ミランダさんのとこで、ナニ習ってるんだよ。」
「違くて。 これは、その、お師匠からの課題で、、、その 違うの。そう蜂よけの呪い的なやつで。」
クロには聞こえていた。猛烈な勢いで村に向かってくる蜂たちの羽音を。
「そう。ミランダさんに効果がなかったってケチつけとく。」
「え、それは、、その、、、、」
カルネが手をじたばたとさせて、焦っている。そこにクロが追撃をはなつ。
「お前、これが初犯か?」
ある種、諦めた様にカルネが息を吐いた。そう彼女は開き直ったのだ。
「ショハン?何ですかそれ。音楽家の名前みたい。」
白状させるには時間がかかりそうだと、あきらめたクロは再び毒を飲むことにした。
あくまで白を切るつもりらしい。クロはカルネの盗聴の数々(盗撮は無いと信じたいが)が行われていそうな場面を推理してみる。・・・それらは決まって酒の席での様な気がした。
__お酒は控えようかな。
程なくして、目的地の家にたどり着いた。