第一章 プロローグ:夜明けに泣く
月が照らす真夜中、一匹の小鬼が物見櫓の鐘を激しく打ち鳴らす。
「剣鬼が一人、かち込んできやがった――」
言葉の途中で、小鬼の首が天高く舞い上がった。
その最後の瞬間、小鬼の目に映ったのは――憤怒に溺れる少年だった。
黒髪、血走った瞳、雪のような肌。
自分が置かれた状況を、小鬼は十分に理解していた。
それでもなお、目の前の少年の美しさに見惚れてしまう。
「見ること」――それ自体が罪であるかのように感じ、
その罪悪感とともに命は軽々と散っていった。
アクタスは、不毛の地である。
ここでは魔物が人を支配する――それが常識とされる島だった。
アクタスが「不毛」と呼ばれる理由は二つある。
ひとつは、魔王ガルガンが拠点としていること。
もうひとつは、その地理的な問題だ。
アクタスは東大陸の端に位置し、東大陸全体が闇の勢力に支配されていると言っても過言ではない。
その端に孤立するように浮かぶ島――それがアクタスだった。
人類の希望とされる西大陸からも見放されたこの島は、まさに「不毛の地」という名にふさわしい場所だった。
だが、その不毛の地に突如として希望の光が降り注ぐ。
夜、魔物が最も力を発揮する時。
どこからともなく現れる魔物たち。
たった一人の剣鬼が不毛の地を魔物どもの血潮で潤したのだ。
「やっちまえ!!」
「殺せ!!」
「いや、生け捕りだ。ペットにしよう!!」
魔物たちの大半の言葉は、下品な戯言だった。
そして、残りのほとんどは剣鬼への命乞いや悲鳴だった。
一夜の惨劇。
アクタスに生きる全ての人々は、魔物たちの阿鼻叫喚に耳を傾けていた。
それは彼らにとって、希望の讃美歌のように響いた。
魔物たちの屍山、降り注ぐ血潮の雨、雷のような魔物たちの断末魔の叫び。
「魔王様、お逃げください。ここは私が――」
必死の忠誠を誓う声が、無慈悲に断ち切られる。
ズシャッと血の滴る音とともに、魔王の側近の鬼が足元で転がった。
魔王は目の前の光景に言葉を失った。
いや、言葉など不要だった。
あまりにも凄惨で、あまりにも圧倒的な死の情景が、すでにすべてを物語っていた。
屍山血河――魔族の拠点は、今やその言葉を体現する地獄と化していた。
無数の魔物が惨たらしく横たわり、飛び散った肉片が地を赤く染める。
異形たちの断末魔が、夜風に溶けていった。
そして、その中心にただ一人、少年が佇んでいた。
剣を携え、血に塗れた剣鬼。
夜色の髪が、魔物の鮮血を吸い、闇のように重く滴る。
血走った瞳が、静かに魔王を見据える。
「……お前が、魔王ガルガンか?」
「如何にも。」
「首を削ぐ。大人しくしてろ。」
その声音は静かで冷たい。
まるで、すべてを見透かしているかのようだった。
「一人で乗り込むとは威勢がいいな。剣鬼...クロだったかな?」
「気安く名前で呼んでくれるな。吐き気がする。」
魔王ガルガンが嗤う。
「……ふん、魔王種子如きに一度敗れたそうじゃないか。」
「....。」
「下等も下等。貴様が我に挑もうなぞ、、、無謀も無謀よ。」
「無謀?」
クロの唇がわずかに歪む。
笑った。
その笑みは、まるで嘲笑だった。
「その下等に討たれるお前は、魔王列強の道化役だな。」
「....囀るなよ、三下が。」
「お喋りは嫌いか。気が合いそうでよかったよ。」
「思い上がりも甚だしい.....本物の鬼の前で、、、不遜も不遜!!」
ガルガンが猛る。
「あらん限りの絶望を貴様に見せてくれよう!!」
剣鬼と魔王の激戦は、海を割り、山を穿ち、天を削ったという。
人々は、その行く末を固唾をのんで見守っていた。
終幕は、朝日が夜を打ち消すのに似ていた。
「なかなか、やるじゃないか」
「....」
クロが言葉を零す。
雨に似た声音で。
「 。手向けだ」
刹那。
魔王の足元で、骸となった配下たちの血が蠢き始めた。
滲み、流れ、混ざり合い、形を変えていく。
無数の死骸から流れ出た血が、重力を無視して宙へと浮かび上がる。
ドクン――ドクンと、不気味な鼓動が鳴る。
それはまるで、生きているかのように脈動する紅。
幾筋もの血が寄り集まり、ひとつの球体を形成する。
闇に浮かぶ、どす黒い紅の月。
魔王は言葉を失った。
「……な、んだと……?」
震える声が漏れた。
「ブラッドムーンに恩恵を受けるのは別にお前たちだけじゃない」
その赤い月は、禍々しくも神々しく、静かに夜空へと昇っていく。
そして、クロが淡々と呟いた。
「紅月」
次の瞬間――
紅き月が霧散した。
霧となった血が、クロへと降り注ぐ。
ドクン――
空気が震える。
血の霧が、クロの体に吸収されていく。
彼の肌が、髪が、紅の波動を纏い、闇の中にただ一つの異質な光を放つ。
光はやがて、一点へと集束する。
剣鬼が持つ剣へと――
その刀身が、鮮血の奔流に呑まれ、どす黒く染まる。
――"剣"ではない。
それは破滅そのものだった。
魔王は、ただ見つめるしかなかった。
己の運命を。
その一刀の奔流を。
朝日が昇った。
魔王の生首に剣を突き立てた剣鬼は一人涙を流した。
そして、アクタスの人々はその後、たった一人の少年を「アレテソル」として崇め、
歓喜の声を上げながら彼を神として祭り上げた。
彼の手により、魔王は倒れ、人々の自由がようやく訪れたのだった。
毎夜々々悪夢を見る。
街中に響く叫び声は雷のように轟き、一瞬間の内に消え去ってしまう。幾度も、幾度も、夢が終わるまで鳴りやんでくれない。
命が次々と散っていく。私が命を摘んでいる。
あぁ、哀しいかな。命が刈り取られるその刹那、血しぶきが花のようで、ひどく美しかった。
城壁の西門――次の瞬間、東門。視界は次々と逡巡する。剣を振るうたび、また一輪、また一輪、花が咲いては散っていった。
——嫌だ。
——やめて。
——死にたくない。
——人殺し。
憎悪が私を睨んでいる。震える手、竦みそうな足。それでも私は剣を振るうことを止めなかった。
命が次々散っていく。
悪夢の瀬戸際、夢の舞台の街には私ただ一人が佇んでいた。夜明け前の、街の静けさを忘れてしまいたい。
思えば、良い夢というやつを私は見た記憶がない。ひょっとすると、ただ私が「良い夢」というやつを忘れてしまっただけかもしれないが。それでも、つくづく思わされる。
運命というやつは残酷だな。
この悪夢を見る前は、
思い出したくもない。幼少の頃のトラウマだった。