悪女覚醒②
ディアンヌがまず最初にしたことは、時を止める魔法の使い方を研究することだった。
つまり、いつどんな時にどんな条件で魔法が発動するのかを、何度も何度も試したのだ。ディアンヌの体には代償として与えられた傷がいくつも刻まれた。
「でもおかげでわかったの、この魔法を使うには時計盤に手をかざす必要があるみたい」
二の腕にできた大きな傷をアナに手当てさせながら、ディアンヌはそう言った。
しかしアナは代償として刻まれる傷の痛ましさに心を痛めているところだったので、肯定的な言葉を返すことができずに目を伏せた。
「お嬢様、一使用人である私がこう言った口を聞くのは差し出がましいということは十分に承知しているのですが……もうこんなことはおやめください」
アナはすでにディアンヌから時を止める魔法のことも、主が死に戻った身であることも聞き及んでいる。だからこそ、ディアンヌが復讐に身を落とそうとしていることに小さな胸を痛めているのだ。
「確かに私はお嬢様に身を捧げる覚悟でおります、でもそれはお嬢様に幸せになっていただくためであって、こんな傷だらけになることなどを望んではいないのです」
「貴方は優しい子ね、アナ、でももう手遅れよ、あの薪小屋の火事から貴方を助け出したあの瞬間から、未来はもう変わり始めているのだから」
「それでも、お嬢様、今はこの程度の傷で済んでおりますが、手当てしきれないほどの傷が刻まれたらどうなさるおつもりなのですか」
「そうね、確かに、右目を焼き潰された傷や、足の指を落とされた傷なんかが出たら困るわね」
「それだけじゃありませんよ、拷問の中で生死の境を彷徨うような大きな怪我もなさったんでしょう」
「ああ、そうね、手当が少しでも遅れたら命を失うような怪我をしたこともあったわね」
「もしもそんな怪我が浮き上がった時に、手当が遅れたらどうするおつもりです!」
「落ち着いて、アナ、私だって怪我を作るのが趣味ってわけじゃないのよ、この魔法の使い方一通り理解したから、これからはいざという時しか使わないわ」
「それって、いざというときは使うっていうことですよね」
「だから、そんなに怒らないで、だって私にはこの先6年間の未来の記憶があるのよ、それをうまく利用すれば、『いざという時』なんてこないはずよ」
その言葉に、アナは渋々納得した。
「使用人である私では、これ以上お嬢様をお止めすることはできません。ですが、いつでもこの身を差し出す覚悟はできておりますので、いざという時にも、魔法ではなく私をお使いください」
「ありがとう、アナ、そうさせてもらうわ」
ディアンヌは口先だけでそう答えた。
自分の主人が意地っ張りで、他人を犠牲にするを良しとしない性格であることをよく心得ているアナは、それ以上何も言わず頭を下げて次の言葉を待った。
ディアンヌが楽しそうに両手を打ち鳴らす。
「そうそう、今日の午後、リリアーナが私を訪ねてくるはずだから、おもてなしの準備をしておいてちょうだい」
「そんな予定は聞いておりませんが」
「そうでしょうね、私が逃げ出せないように、わざと急に訪ねてくるんだもの」
「それは、未来の記憶というやつですか?」
「ええ、そうよ」
アナの胸中に疑念が生まれた。
「お嬢様、もしかして、ですよ、その、お嬢様が復讐なさりたいお相手って……」
「あら、言ってなかったかしら、リリアーナよ」
「やはり……」
「貴方は他の使用人たちみたいに、リリアーナを庇ったりはしないのね」
この頃はまだ、誰もリリアーナの残虐な本性を知らなかったはずだ。ディアンヌですら、少しわがままが過ぎるところはあるけれど天真爛漫な娘だと思っていたくらいだ。だからリリアーナは使用人たちから人気があった。
「他の子みたいに『平民から貴族になったシンデレラ!』とか言わないの?」
ディアンヌの軽口に、アナは大いに顔を顰めた真顔で答えた。
「あんなに意地汚いシンデレラがいるもんですか」
アナから見たリリアーナは強欲な女だ。無邪気なふりをしてドレスや、宝石や、靴から日用品に至るまで、ディアンヌが持っているものをなんでもねだる。
「化粧品だって、お菓子だって、この間なんか工房から届けられたばかりのネックレスだって、『貸してちょうだいよお、おねえさまぁ』のひとことで持って行っちゃあ返してくれないじゃないですか」
「うふふ、それはリリアーナの真似? 似てる似てる」
「笑い事じゃありませんよ、お嬢様は人が良すぎるんです、あれは何か欲しい物があるわけじゃない、お嬢様が持っているものを奪うことが楽しいだけの、悪質な性悪女ですよ」
「そうよね、それに気づかなかったから、私は首を落とされる羽目になったのよね」
だがリリアーナの冷酷な本性を知っている今、その天真爛漫を装った振る舞いに騙されることもないはずだ。
「大丈夫よ、アナ、私は今日、何が起こるのかを知っているのだし、それに抗する策も用意したわ、それにね、魔法なんか使わなくってもリリアーナなんかに負けないっていうことを証明したいの」
「わかりました、でも、でも、なにか不測の事態があれば、いつでも私を使ってやってください」
「そんなに心配しないで、さ、おもてなしの準備をしてちょうだい」
その言葉を受けたアナが紅茶用のお湯を沸かし、ティーセットを並べ、ポットをお湯で温めているちょうどその時に、リリアーナはやってきた。彼女はドアをノックすることすらなくいきなり扉を開けて、姉であるディアンヌに向かって両手を広げた。
「おねえさま、ご機嫌麗しゅう」
ディアンヌは少し眉間に皺を寄せて渋面を作る。
「リリアーナ、あなたは淑女なのだから、ノックくらいしなさいな」
リリアーナはあざとく、「あ」と口を手で押さえた。
「ごめんなさい、おねえさま、ほら、私、ついこの間まで庶民だったから、そういうのに慣れてなくて」
まるで昨日今日のことのような口ぶりだが、リリアーナがこの家に来たのは7年前、彼女が8歳の時だ。だからもう人生のほぼ半分をこの家で貴族令嬢として過ごしている計算になる。
しかしリリアーナの後ろに付き従っている年若い侍女は、そんなことは知らないのか、知っていてなおもリリアーナの肩をもつつもりなのか、ディアンヌを憎々しげに睨みつけていた。
ディアンヌはそんな侍女の視線には気づかないふりをして、リリアーナに対面の席をすすめる。
「とりあえずお座りなさい、ちょうどお茶にするところだったのよ」
リリアーナはカップが二つ温められている意味さえ深く考えず、リリアーナの向いに座った。
「ねえ、おねえさま、お願いがあるの」
「ええ、聞いてあげるわ、でも、まずはお茶を楽しみましょう、今日は良い茶葉が手に入ったのよ」
「う〜ん、私、庶民舌だから、紅茶の味とかわからないのよね、ねえねえ、それよりも……」
以前のディアンヌなら、こうして「庶民だから」と自分を下げるリリアーナを甘やかしていたはずだ。生まれつき侯爵令嬢として育てられて物心つく頃には淑女としての振る舞いを身につけていた自分とは違って、庶民だったのがいきなり侯爵令嬢として貴族的な振る舞いを身につけるべく淑女教育をうけることとなった義妹に同情もしていた。だからつい、この義妹を甘やかしてしまったのだ。
だけどその本性を知った今、ディアンヌにはリリアーナを甘やかしてやるつもりなど少しもなかった。厳しい声でピシャリと言う。
「わからないなら今から学べばいいわ、お座りなさい、リリアーナ」
リリアーナは薔薇色の頬を可愛らしく膨らませて不満そうに言った。
「だってお姉さま、私なんかがどれだけ勉強しても、生まれつき貴族でなんでも持っているお姉さまには届くわけないわ」
リリアーナはまだデビュタントも済んでいない15歳、そういう可愛らしいわがままが許されるような子供の歳である。
が、ディアンヌは一切情けなく、もう一度ピシャリと言った。
「いいからお座りなさい、リリアーナ、淑女が立ち話などするものではなくってよ」
それでリリアーナは、渋々ながらディアンヌの対面に座った。