悪女覚醒①
ようやく薪小屋の前にたどり着いたディアンヌは、扉を半分ほど開いた姿で固まっているアナを見て、ほっと安堵した。
と、次の瞬間、戦慄する。
アナが持つランプからは炎がこぼれてドアに向かって糸を引くように燃えている。そしてドアの隙間からは、小屋の中から押し出された空気そのままの形をした炎が、今まさに噴き出さんとしているのだ。
「アナっ!」
ディアンヌはアナの手からランプを叩き落とし、その小さな体を強く抱いた。
——どこかでカチリと、時計が動き出す音がした。
ディアンヌは残り少ない体力を振り絞って跳躍した。それと同時にドンと腹に響く音がして、薪小屋は炎に包まれた。爆風はディアンヌを突き飛ばす。
「くぅっ!」
幸いだったのは、ディアンヌが拷問を受け続ける長い日々の中で自分が受ける衝撃を逃す方法を熟知していたことだ。彼女はアナを腕の中に抱いたまま、爆風の流れに逆らうことなく地面の上を転がされるままに転げた。ようやく爆風がおさまって身を起こしたときには、丁寧な刺繍を施した毛織物のガウンも、その中に着た繊細なシルクの寝巻きもボロボロになっていた。
だがディアンヌには、自分の姿など気にする余裕がない。
「アナ、大丈夫! どこか怪我をしたりはしてない! アナ、ああ、アナ!」
腕の中で身をすくめている少女の体を撫で回し、その名を何度も呼ぶ。
「アナ、私の声が聞こえないの、返事して、アナ!」
その声に、アナはビクッと身を震わせてぽろりと涙をこぼした。
「ごめんなさい……」
「あら、どうして謝るの」
「だって、薪小屋が……」
「あれはあなたのせいじゃないわ」
「それにお嬢様、お召し物が……」
「バカね、着るものなんかまた買えばいいのよ、だけどアナ、あなたは買い替えがきかないじゃない」
「うううっ、お嬢様……」
「なぁに、アナ」
「あ、あり……がとう……ございます」
「ああ、ほら、泣かないで、もう大丈夫よ」
アナを腕の中に強く抱いて、ディアンヌは安堵のため息をついた。
「よかった……」
運命は変えられる。
本当ならアナはこの火事で失われるはずだった。それが今、こうして無事に腕の中にいる。その喜びに打ち震えながら、ディアンヌはアナを強く強く抱きしめた。
このときディアンヌは、心の底から魔女になってよかったと……本当に心の底からそう思った。
しかしディアンヌは知らなかったのだ、人智を超える力を使うには代償が必要だということを。そのことに気づいたのは、汚れた姿を隠すようにして穴と共に部屋に戻った時のことだった。
「お嬢様、怪我を!」
アナが悲鳴をあげた。見れば寝巻きの胸元に血が滲んでいる。
「お嬢様、早く手当を! 傷を見せてください!」
アナに言われてディアンヌが寝巻きの胸元を開くと、そこには真新しい十文字型の傷が刻まれていた。それは偶然何かに引っ掻かれてできた傷ではなく、明確な害意を持って抉るように切り裂かれたナイフでの傷だった。
「ああ、この傷、覚えているわ」
魔女として捕らえられたディアンヌには、さまざまな拷問が加えられ、そして無数の傷がその身に刻まれた。この傷は酔った牢番が「魔女に神の祝福を与えてやろう」といたずらにナイフで刻んだ傷だ。
ディアンヌは傷口から溢れる血を拭って呟く。
「なるほど、さっき使った魔法の代償、ということなのね」
つまり魔法を使えば悲惨な未来で受けるはずだった傷が身に刻まれるという、実にシンプルなルールだ。
「ふふ、リリアーナに復讐できるならば、この程度の代償、安いものだわ」
不敵に微笑むディアンヌの顔を、アナが不安そうに覗き込む。
「あの、お嬢様、手当てを」
「ああ、そうだったわね」
アナに傷口を拭ってもらいながら、ディアンヌは考えた。
(別に、死ぬのは怖くないわ、どうせ一度死んだ身だもの)
この先6年分の未来の記憶があるというのは強みである。
この先3年後には、第二王子が軍部を掌中に収めてクーデターの準備を始める。今ならばその企みを挫く準備をすることも可能だろう。
その一年後には社交界でディアンヌが義妹をいじめているのだという噂が立ち、それを発端としてゴシップ紙が悪女だの魔女だのという見出しをつけてデマ記事を散々書き立てる。それがディアンヌを断頭台に立たせる原因となるのだが、そうしたゴシップ記事を書くインチキ出版社を今から潰して歩く時間だってある。
6年分の未来の記憶には、それほどの利用価値がある。さらには時を止める魔法を使えるのだから、二度目の断罪を回避することは難しくないだろう。
だがディアンヌは、そんなことのためにこの能力を使う気などなかった。ディアンヌは、死の間際に見たリリアーナの笑みがどうしても許せなかったのだ。
「リリアーナ、絶対に、許さない」
処刑台に立たされた瞬間にディアンヌが望んだものは拷問による苦痛の日々を終わらせてくれる安らかな死、ただそれのみだった。何も大それた大きな望みを言ったわけでも、命乞いをしたわけでもない。
しかしリリアーナはそれを踏み躙った。処刑人に鈍な刀を与えてディアンヌの苦痛を引き延ばした。あまつさえディアンヌの苦悶を喜んで無邪気な笑みを見せた、その冷酷な本性が許せなかった
だからリリアーナがこれから6年の間に手に入れるであろうものを奪い尽くし、あの無邪気な笑顔を怨嗟に歪める姿が見られるならば……そのためならばもう一度断頭台で首を落とされるようなことがあっても、いや、それ以上に酷く惨めな死に方をしたって構わないと、ディアンヌはそう思った。
ディアンヌは言った。
「これから忙しくなるわね」
アナは傷の手当てをする手を止めずに、不安そうに瞳だけを揺らした。
「何をなさるつもりなのですか、お嬢様」
「そんな顔して、本当にあなたは可愛いわね。大丈夫よ、ただ、薪小屋に細工をした犯人を探すだけよ」
「やはり、誰かが何かしたのですね」
アナは聡明な娘だ。炎に巻かれた瞬間は仰天して冷静さを失っていたが、すっかり冷静さを取り戻した今、あの火事の不自然さに気づいていた。
「でも、犯人を探す必要はありません、私はこうしてお嬢様に助けていただいて無事だったんですから、それ以上望むことは何もありません」
それを聞いたディアンヌは、真新しい包帯を巻かれた胸元を指先でなぞって微笑んだ。
「違うわ、アナ、これは私のための、私がなすべき復讐の第一歩なのよ」
「お嬢様?」
「アナ、私はね、私に悪意を向ける『誰か』が許せないの、だから、どんなことをしてでも相手を追い詰めるつもり。そのためなら、どんな悪いことでもするし、誰かを不幸に陥れても構わないと思っているの。そう、私は悪女になるの」
「お嬢様が、悪女に、ですか?」
「そう、悪女に。それでも私について来てくれる?」
アナは、悩むそぶりすらなく首を垂れた。
「お嬢様がそれをお望みなら」
「ふふ、いい子ね、アナ」
ディアナは立ち上がり、アナに向かって微笑む。
「じゃあ、早速始めましょうか、復讐を」
その微笑みは凛として気高く、そして強い決意に満ちていた。
こうしてディアナの復讐は幕を開けたのである。




