それはまるで魔女狩りのような ②
もはや大声で歌われる聖歌も、罵りの言葉も、リリアーナの笑う声さえディアンヌの耳には届かない。完全なる死の静寂がディアンヌを包み込む。
だが彼女の意識は、かろうじてこの世に踏みとどまっていた。
(お願い、神でも悪魔でもかまわない、どうか、私から死の安らぎを奪ったリリアーナに復讐する、力を!)
その願いに応えるかのように、静寂の中に時計の音が生まれた。1秒ごと正確に繰り返される、小さな音が。
(私の何を捧げてもかまわない、魔女になったっていい、どうか奇跡を!)
ディアンヌの目の前に大きな時計が現れる、それは驚くほど唐突に。
(これは、死に際に見る幻覚? それとも、本当に魔法?)
この時まで、ディアンヌは魔法などというお伽噺の中にしかないような幼稚で曖昧な力の存在を信じたことは一度もなかった。だけど今、彼女はその幼稚で曖昧な力を何よりも欲していた。
(どっちでもかまわない、だって、どうせ私は死んだんだもの)
ディアンヌは大きな時計に向かって手をかざす。強い光が辺りを満たし、秒針の音が忙しなく、大きく響く。
その光に包まれて、今度こそディアンヌは、完全に意識を失ったのだった。
「こっ、ここは!」
ディアンヌは身が沈むほど柔らかい寝具の真ん中で目を覚ました。時間は明け方だろうか、鎧戸の隙間から微かに白い光が差し込んでいる。
「あれは、本当に魔法だったのね」
拷問によって身に刻まれた傷の痛みも、死の間際に抱いた強い憎しみも、絶望の淵で魔法を渇望した気持ちまでも、全て覚えている。
それらの強い感情に応えて現れたあの大時計、あれによってディアンヌは時を遡り、自分の死の瞬間の6年前に戻ってきた。今のディアンヌは17歳、体はどこも傷付いておらず、公爵家令嬢としての地位も財産も、何ひとつ失ってはいない。
ディアンヌはまず、胸の前で両手を組んで祈りを捧げた。
「ここに帰ってこられた奇跡に感謝を」
これが神の御業でも、悪魔の所業でもかまわない。ただ、リリアーナに復讐するチャンスが与えられたことが嬉しかった。6年分の『未来の記憶』は、リリアーナが権力を手にすることを阻むには十分な武器となるはずだ。
「見てなさい、リリアーナ、あなたが手に入れるはずのものを、この私が全て奪ってあげるから!」
まずはここが6年前の何日なのか、正確な日付を確かめなくてはならない。ディアンヌはかけ布団を跳ね上げて床に足を下ろした。
「寒いわね」
ベッドサイドにかけてあったガウンを手に取る。分厚い毛織物で作られた冬物のガウンだ。
暖炉を見れば太い薪がゆっくりと燃えている。壁には新年を祝う緋色と白で織られたタペストリーがかかっているのだから、十二月であることは間違いない。
「私が17歳の時、そして十二月……」
ディアナは思い出した——十二月も終わりに差し迫ったある日、公爵家の本邸から少し離れた薪小屋で火事が起きる。
薪をとりにきた下働きの娘が薪小屋の中でランプを倒してしまい、その火が薪に移って燃え上がってしまうのだ。幸いに被害は薪小屋を焼いただけですむが、この火事によって下働きの娘は焼け死んでしまう。
「ああ、そうだ、アナ、私の可愛いアナ!」
ディアナはその娘に特に目をかけて可愛がっていた。親に売られるようにして奉公に出された娘ではあったが、本来の性質が聡明で、とても気がきく良い娘だったのだ。
ディアナはこの娘をいつも手元に置いて礼儀作法や言葉遣いなどを厳しく指導した。時には侍女の真似事などもさせて、いずれメイドとして身を立てることができるようにと、大事に大事に育てていたのだ。
厳しくするだけでなく、時に話し相手として一緒にお茶を飲んだり、他の使用人には内緒で身の回りの小物など与えたり、まるで歳の離れた妹であるかのように可愛がっていた娘だ。
「今なら、あの子を救うことができる!」
ディアナはガウン一枚を羽織っただけの姿のまま、部屋を飛び出した。室内履きすら忘れて、裸足のままで。
ディアナには、今日がその火事が起きた日なのだという確信があった。廊下の窓を開けて庭を見下ろせば、まだ夜の開けきらぬ薄暗がりの中をランプ片手に小さな荷車を引くアナの姿があった。
「アナ! 行ってはダメ!」
ここからでは声は届かない。アナは少し立ち止まって、小さな両手にはあっと息を吹きかけて温めてから、再び歩き出してしまった。
「ああ、アナ、ダメよ、アナ、止まって!」
いくら17歳の健康な体に戻ったとはいえ、しとやかな侯爵令嬢の足では広い侯爵邸の廊下を走り抜けることさえできないだろう。ましてそこから庭に降りて屋敷の周りをぐるりと迂回してアナに追いつくなんて、絶対にできっこない。
「何よ、結局、大事な人一人助けられないなんて!」
ディアンヌは膝から崩れ落ちて泣き喚いた。
「こんなの、魔女になった意味がないじゃない!」
その悲痛な声が廊下に響き渡る。と、唐突に、廊下の中ほどに置かれていた柱時計がボーンボーンと時を告げる音を立てた。その時計は新しい物好きの父が買ってきた最新式のもので、わざわざ時計のネジを巻くための職人を家に置くほど大事にしているものだ。だから、こんな夜中に時間を間違えて狂ったように鳴るはずがない。
「まさか!」
ディアンヌは時計に駆け寄った。時計版をのぞけば、全ての針が狂ったみたいものすごい速さで、めちゃくちゃに回っている。
ディアンヌはその時計版の前に手をかざした。
「止まって!」
時計の針がぴたりと動きを止める。それと同時に、完全なる静寂が世界に訪れた。
一度死を経験したディアンヌは、この感覚を知っている。死の間際の静寂に似た、自分が時間の流れから切り離されたかのような。
「まさか!」
窓の外を見れば、木立が風に吹き散らされた形のまま固まっている。枝から離れて空中に投げ出された木の葉も、まるでそこに貼り付けられたみたいに動かない。
「時間が……止まった……」
ディアンヌは弾かれたように走り出す。どのくらい時間を止めていられるのかはわからないが、今ならまだ、アナを救うことができるかもしれない。
走り方もわからず、ただ手足を振り回して少しでも早く、とにかく早くともがく姿はみっともなかった。裸足のまま、髪を乱して、とても淑女とは思えぬみっともない格好になっても、ディアンヌは走ることをやめなかった。
(魔女の濡れ衣を着せられて拷問を受けたあの時、もっとみっともないボロボロの姿だったのだから、それよりは随分とマシだわ)
そう思えば、令嬢としてのプライドが傷つくこともなかった。
この世には、そんなものより大事なものがいくらでもある。一度失ってしまったら、二度と取り戻せない、とても大事なものが。
「あなたを、絶対に助ける……アナ!」
ディアンヌはよろめきながらも、必死に走った。