それはまるで魔女狩りのような
このヴェルサレアの国にも産業革命の余波が届くようになって8年、今まで村女たちが寄り集まって細々と糸車を繰っていた紡績業は水力で動く紡績機が並ぶ工場に取って代わられ、蒸気で動く自動織機も導入されてこの国の産業は大きく変わった。以前この国で植えられるものといえばやせ地で細々と作る旨くもない麦であったが、今や麦よりも多く真っ白い実をふんわりとつける綿花が植えられ、この国の経済を支える重要な工業となっている。
そんな近代化の中にあって、魔女裁判などという前時代的な迷妄がよもや通用するとは——ヴェルサレア宮殿前広場に立てられた断頭台に引き上げられたディアンヌ=ロクサリーノは、ひどく冷めた気持ちで足元に押し寄せる民衆を見下ろしていた。
とはいっても彼女の右目は焼きごてを押し付けられて潰れている。目玉を失った眼窩の中から膿を垂らし、残る左目も視力を失いかけて濁っており、広場を埋め尽くすほどに押し寄せて押し合いへし合いする群衆でさえ大きくうねる時化た海のように灰色に霞んで見えるだけだが。
波間からは大声で聖歌を歌う声が聞こえた。己の清らかな信心を神に捧げる尊い歌ではなく、『魔女ディアンヌ』を貶し、その死を祝う隠語を散りばめた替え歌だ。だがその歌を歌っている下卑た男たちですら、よもやディアンヌが魔女だなんて本気で信じているわけじゃない。一昔前ならともかく、平民の子供達にまで教育が行き渡るようになったこの時代に、魔女だの魔法だのと言ったお伽話的で不確かなものの実在を信じているものなどいないだろう。
だがディアンヌは、今日、ここで、魔女として首を落とされる。
断頭台に上げられたディアンヌは、魔女らしさを演出するためなのか豪華な漆黒のドレスを着せられていた。それはもしかしたら彼女が元侯爵令嬢であることに対する誰かの同情だったのかもしれないし、あるいは民衆に贅沢三昧に耽った悪女のイメージを刷り込むためだったのかもしれないが、少なくとも今のディアンヌはやつれ切っていて、枯れ木のように骨ばった手足と釣り合わぬドレスの豪華さが逆に哀れであった。
彼女の両腕は後ろで一つに縛り上げられているが、左肩だけが大きく落ちて歪んでいる。きっと骨折しているに違いない。
ドレスから突き出した両手足や顔には、大小の傷が元の白い肌の色が消え失せるほどみっしりと刻まれている。ドレスに隠された身体中にはさらに、焼きごてを押し付けられて腐れた傷や、殴る蹴るされた痣や、もっと恐ろしい拷問のためだけに作られた器具で切り裂かれた深い傷やらが無数に刻まれている。
ドロリと白濁した左目で処刑台の足元に押しかける民衆を見下ろしたディアンヌは、心の底から湧き上がる安堵に打ち震えて言葉をこぼした。
「ああ、これでようやく、この苦しみから解放されるのね」
そう呟くほどの拷問をディアンヌは受けた。
そもそもディアンヌは、これほどの仕打ちを受けるような罪など何も犯してはいない。ただ彼女は公開処刑という民衆を宥める娯楽のために魔女の汚名を着せられただけの、あわれな生贄なのだ。
ことの起こりは5年前、この国の王が長い病を得たことによって、水面下にあった二人の王子による王位継承権を手にするための戦いが表面化したことにある。順当にいけば穏健派である第一王子が何事もなく王位に収まるはずであったのに、第二王子が2年前に起こした軍事クーデターによって状況は逆転した。第一王子は宮中でその首を落とされ、彼に与した第一王子派の貴族たちは粛清された。ディアンヌは第一王子派最後の生きのこりである。
軍靴で大地を踏み荒らす軍事クーデターにより国内は荒れた。多くの血が流され、それは民草の生活にも少なからぬ影を落とした。特に王都では、平素であれば12レセダ程度で買える黒パンが200レセダを越えるほどに値上がりして都民は生活苦を強いられたのだ、この愛さを晴らすために捧げられる、毛並みのいい生贄が必要だった。だから堂々と民草の前で首を落とすための便宜として、ディアンヌは『魔女』の罪業を与えられたのだ。
潜伏していたヌスールの村で捕えられてから半年、ゴシップ紙は魔女ディアンヌが自分の欲望のままに男をたらし込んでは放蕩に耽っていただの、若い娘を攫っては生肝を抜いて食らっていただの、事実など何もないオカルト話を熱心に書き立てた。少しお堅い経済誌は『侯爵令嬢ディアンヌ』がいかに傲慢で贅沢を好む女であるか、その欲望を満たすためにどれだけ国庫の金を使い込んだかという捏造記事を連日書き立てた。こうしてディアンヌは処刑されるに相応しい『大悪女』に仕立て上げられたのだ。
牢に閉じ込められたディアンヌはわざとのように手ひどい扱いを受けた。どうせ死罪になる女だという侮りからだろう、ディアンヌは牢番の兵たちによって散々に慰みモノにされた。
ディアンヌの体に刻まれた無数の傷も牢番たちによって刻まれたものである。彼らは普通にディアンヌを抱くのではなく、自分たちは罪人に対して拷問をしているのだという体を装いたがった。最初は「魔女は刃物で傷つかないという噂を検証しよう」という程度の些細な刃物傷に始まり、それはすぐに日常的な暴力へと変わった。嗜虐的な性的欲求を満たすために顔を殴り、酔いの戯れに刃物で肉を抉り、憂さ晴らしのために焼きごてを肌に押し付け……ディアンヌは、人間という生き物が人外の扱いをしてもいい罪人に対してはどれほど残酷であるのかを思い知らされた。
だが、そんな牢番たちを恨む気持ちはもはや少しもない。正確に言えば、ディアンナには恨みを抱くなどという健全な心などすでに残ってはいない。彼女は今、この苦痛が終わることだけを待ち望んでいた。
処刑台の足元からは罵りと共に礫が投げられる。
「この魔女が!」
「みろよ、あの顔、死ぬのが怖くないらしい」
「やっぱり魔女だ!」
その罵りの声さえ、ディアンヌにとっては福音だった。
処刑台に上がってきた司祭が最後の祈りを与えている間でさえ、ディアンヌはもうすぐ訪れる死の安寧を思って心静かであった。司祭はそんなディアンヌを哀れみの眼差しで見下ろしていた。
「ディアンヌ嬢」
祈りが終わった後で、司祭は片膝をついてディアンヌだけに聞こえるであろう小声で囁いた。
「どうか、ディアンヌ嬢、罪深い私をお許しください」
司祭は小さなナイフを取り出してディアンヌの額に十字形の傷を刻んだ。これは処刑された魔女が生き返らないようにするためのヴァルサレア式のまじないである。
ディアンヌに罪などないことを知っている司祭の手は震えて、ナイフは傷だらけの肌の上を浅く掻き切るのみにとどまった。真新しく刻まれた傷は一筋だけ血を垂らす程度の浅いものであったが、司祭は己の罪深さに怯えて顔を伏せる。
ディアンヌはそんな司祭に向かって静かに微笑んだ。
「司祭様、どうかお顔をあげてください」
「しかし……」
「私、感謝していますのよ、こうして終わりの印を刻んでいただけたんですもの」
傷だらけの顔に浮かんでいるのは恨みでも憎しみでもなく、ただ死の静寂に向けた純粋な希望の色であった。
「司祭様、どうか無事に何事もなくこの首が落ちますように、どうぞお祈りください。あとはもう、ただ一刻も早く、この苦しみから解放されますようにと……」
司祭が処刑台を降りると、次の上がってきたのは首切り役人であった。ディアンヌはわずかに顔を上げ、期待のこもった眼差しをその男に向けた。
その男の腕は丸太のように太く逞しい。その腰に下げられているのは罪人の首を切るための太身の剣だ。あれが振り下ろされた時に苦痛に満ちた人生が終わるのだと思えば、その姿は救いを与える天使のようにも見えた。
(ああ、早く……早く殺して!)
しかし、首切り役人に続いて処刑台に上がってきた若い女を見た瞬間、期待に目を輝かせていたディアンヌの表情が僅かに曇った。
その若い娘はディアンヌの義妹であるリリアーナ=ロクサリーノ嬢であった。
「ああ、かわいそうなおねえさま!」
リリアーナはディアンヌに顔を寄せる。
「もう目も見えないんでしょう、どう、このくらい近づいたら私の顔が見えるかしら」
「ええ、よく見えるわ、久しぶりね、リリアーナ」
そう答えるディアンヌの表情は僅かにこわばっていた。
「何をしにきたの、リリアーナ」
リリアーナは怯えたように眉根を寄せて身を震わせた。押し寄せた群衆から見ればそれは、恐ろしい魔女と化した義姉に恫喝されて怯える可憐な令嬢のように見えたことだろう。
けれど、その口からこぼれたのは仕草にそぐわぬ嘲笑含みの声。
「おねえさまの最期を特等席で楽しむために来たのよ」
この義妹こそがディアンヌを民衆に捧げる生贄として選び出し、魔女の汚名を着せて第二王子派に売った本人である。だが、そのこと自体に対する恨みは何もない。
第一王子を見限って第二王子派に身を寄せるチャンスは何度かあったのに、そのいずれも見送って最後まで第一王子の派閥にとどまったのはディアンヌ自身だ。その結果、早々に第二王子に擦り寄って今やその婚約者という座を手にした義妹に負けた。つまりディアンナは政争の敗者なのだから、勝者によって粛清されるのは当然である。
しかしディアンヌは、もっと別の理由でこの義妹を強く恨んでいた。
「でも、残念だわ、もっとおねえさまで遊びたかったのに」
リリアーナの言葉を聞いて、ディアンヌの濁った左目が怒りの色に染まった。しかしそれもほんの一瞬のこと、ディアンヌは何事もなかったかのように穏やかに笑う。
「これでようやくあなたともお別れね、リリアーナ」
「あら、お別れが寂しいの?」
「まさか、やっとあなたから逃れられるのに」
ディアンヌが妹の冷酷な性格に気付いたのは、魔女として牢に入れられた後だった。
本当ならばディアンヌの処刑は捕えられてすぐに行われるはずだった。それを助命のための嘆願書を何度も何度も出して引き伸ばしたのはこの義妹だ。
なんのために——少しでも長くディアンヌをいたぶるために。
リリアーナはことあるごとに牢に閉じ込められたディアンヌを訪ねてきては、その弱ってゆく様をゆっくり眺めて楽しんでいた。時には牢番をけしかけてディアンヌに焼鏝を押し当てさせたり、またあるときは男たちに押さえつけられて泣き叫びながら犯されるディアンヌをワイン片手に見物していたり。
この義妹は、およそ人間らしい罪悪感や情というものが欠落しているに違いない。
リリアーナはディアンヌの耳元に口を寄せて囁いた。
「ねえ、最後だから、私の秘密を一つ、教えてあげましょうか?」
「いらない、余計なものを持っていきたくないの」
「いいから聞きなさいよ、昔、うちの薪小屋が燃えてあなたが可愛がっていた下働きの子が死んだことがあったでしょ、あれ、私がやったの」
ディアンヌは顔色ひとつ変えずに答えた。
「だからどうしたっていうの?」
「あれ? 悔しくない? 私が憎いとか思わない?」
「そんな気持ち、とっくの昔に消えたわ」
「ふうん、つまんないの」
「いいから、早く殺してちょうだい」
リリアーナはその細い指を伸ばしてディアンヌの頬をするりと撫で上げた。
「私は見届け人として、ここにいるわ。本当に首が落ちる瞬間までその涼しい顔が崩れることがないのかどうか、一番近くで見守っててあげるから、どうぞ安心して泣き喚いてもいいのよ」
リリアーナはそう言うと、ディアンヌの頬から手を離して処刑台の端に立った。代わりに処刑人がディアンヌの前に立つ。
(ああ、これで本当に終わり。やっと終わり)
焦がれていた死がようやく与えられる喜びに、ディアンヌは大人しく俯いて首を差し出した。群衆はいよいよ魔女の首が落ちるその瞬間に期待して、息を止めた。あれほど鳴り響いていた聖歌も、罵りの声も消えて、静寂だけが当たりを満たした。
剣が鞘から抜かれるゾッとするほど冷たい金属音が響く。
あとはただ一瞬の苦痛——であるはずだったのに。
「かはっ!」
肺が潰れるほどの痛みを感じて、ディアンヌは静寂の中から引き戻された。痛みを感じるのは首の後ろではなくて背中の真ん中だ。
あれほど渇望していた死の安らぎを取り上げられたディアンヌの絶望は、驚くほどに深かった。
「な……ぜ……」
熟練の首切り役人が狙いを外すわけがない。わざと狙いを外されたのだ。
どうやら刀も鈍であるらしく、背中の傷は血を噴き上げてはいるがすぐに命を奪ってくれるほど深くはない。
「なんてこった、やっぱり魔女だ、一体どんな魔法を使ったんだか、剣が弾かれた!」
首切り役人のわざとらしい叫び声に、群衆が再び沸いた。
「殺せっ! 早く殺せっ!」
「首を落とすだけじゃ生ぬるい、切り刻め! 八つ裂きだ!」
その声に応えて振り下ろされた二戟目は、ディアンヌの左肩に食い込んだ。だが骨を断つには至らず、傷口を抉りながら剣が抜かれる。
ディアンヌは苦痛に悶えながらリリアーナを見た。彼女は唇の端をくっきりと吊り上げて、明らかに笑っていた。処刑人に鈍刀を与え、一撃で首を落とすことのないように指示したのは、きっと彼女だろう。それは、少しでも長くディアンヌを苦しめるために。
ディアンヌが叫ぶ。
「リリアーナ、そこまでっ! そこまで私が憎いのっ!」
苦痛と怒りのままに吐き出された叫喚は、しかし、群衆のあげる大歓声に紛れて消えた。その声を刈り取るかのように、今度こそ首の後ろに剣が振り下ろされる。
「グゥッ!」
しかし、まだ浅い。首切り役人は非情にも、丸太をノコ挽きする時のように剣を押して引いて、その頚椎を断とうとした。
「ああああああああああああ!」
ディアンヌは激しい断末魔をあげながら、自分の身のうちに怒りと憎しみが急速に膨らんでゆくのを感じた。
(リリアーナ、私をこんな目に合わせたあなたを、私は許さない、絶対に、死んでも許さない!)
その表情は強い憎しみに醜く歪んで引き攣り、リリアーナを喜ばせた。
「ああ、そうよ、その顔だわ、おねえさま、私はその顔が見たかったの」
リリアーナは満面の笑みを浮かべていた。いっそ清々しいほどに無邪気な、心の底からの歓喜を湛えた美しい笑い顔だった。
「かわいそうなおねえさま、せめて本当の魔女だったなら、私を呪うこともできたでしょうに」
これを聞いたディアンヌは、魔女になりたいと強く願った。どうせ魔女として殺されるのならば、せめて一矢を報いる呪いの力でもあればよかったのに、と。
ちょうどその時、ゴキリと頚椎の折れる音がした。
こうして『魔女ディアンヌ』は死の静寂の中に、静かに落ちていった——はずだった。