閑話 一番星の笑顔
「なぁ、レーニエ。女性が笑顔になるのは一般的にいつだ?」
俺の唐突な質問に、執事長のレーニエは呆れたような顔で俺の方を見た。
「大公殿下、それは執事長としての私に聞いているのでしょうか?それとも私的なものでしょうか?」
「もちろん、私的なものだ。他でもない乳兄弟のお前にしか聞けない事だな」
そう言えば、レーニエは大きく一つ溜息を漏らすと、纏めていた髪を手でがしがしと無造作に掻き乱す。と、胡乱気な瞳で抱えていた書類の山をテーブルの上に下ろし、自身もソファへとどかりと座り込んだ。
「……で、なんだいきなり?お前の大切なお姫様とうまくいってないのか?」
レーニエは俺の乳母の息子だ。幼い頃から兄弟のように育ち、騎士団では補佐官を務めてくれていた部下でもある。
俺が騎士団長を辞してからは、こうして執事長としてついて来てくれたのだから何とも奇特な男だ。身内を除けば、最も信頼できる者はレーニエだろう。
彼は公的な場では礼儀正しく振る舞っているが、乳兄弟としての役割を俺が求めた時にはこうして砕けて会話してくれるありがたい存在でもある。
俺は執務机から立ち上がると、戸棚に隠しておいたワインとグラスを取り出し、レーニエの向かいのソファへと腰掛けた。
「ははぁ……なるほど。素面じゃ話せないような話なんだな?」
「あぁ、付き合ってくれるか」
「オレは美味い酒が飲めるならなんでも構わないぞ」
ワインのボトルをレーニエに手渡せば、彼は慣れた手つきでコルクを開けると、2人分のグラスになみなみと注ぐ。軽くグラスを合わせて口に含めば、ワインの豊かな香りと芳醇な味わいが口いっぱいに広がった。
「やべぇ、これめちゃくちゃ美味いやつじゃないか!こんなのどこで手に入れたんだ?」
「兄上から頂いたものだから、それなりの物だろう」
「はー……流石国王陛下は良い物をご存知だな」
ワインが気に入ったらしいレーニエは、味わうように少しずつグラスを傾けている。俺もワインは嫌いではないが、酔いやすい体質なのでそう多くは飲めないものだから、気をつけなくては話が終わる前に酔ってしまいそうだ。
「……さて、ワインも入ったし、お姫様の話だな。お前の長年の片想いがようやく報われて結婚を承諾してもらえたんだ。今が一番幸せな時期の筈だろ?」
「あぁ……」
「なんだよ、歯切れ悪いな。シモン王太子殿下の事、まだ気にしてんのか?確かにお姫様はお前より王太子殿下と一緒の方が気を許してる感じはあるけどな」
レーニエの言葉に、俺はぐっと眉間に皺を寄せた。
ポーラとシモンは同い年で幼馴染。仲も良好で、誰が見ても理想的な縁組である事は解っている。定期的に開かれている親睦を深める為の2人だけのお茶会や、勉強会と称して義姉上が密かに王太子妃教育をしていた事も事実だ。
俺と違ってシモンは義姉上によく似た可愛らしさがあるし、あの笑顔は王太子としても一人の男としても理想的だろう。
実際シモンと話している時のポーラは、いつも笑顔で楽しそうだった。2人が幼い頃はそれが微笑ましかったし、ポーラに出会ってからのシモンは悪戯も覚えて、随分と活発な子供らしい子供になった事は良かったと思う。
けれどいつからか、俺はそんな2人の姿を見るとどうにも胸がざわつく事に気付いたのだ。
それが恋だと気付くのには随分とかかり、騎士団の仕事にかこつけて、ポーラを避けていた時期もある。自覚してからは過度な心配から、つい小言じみた事を言ってしまう事も増えたし、そのせいでポーラには疎ましく思われていただろう自覚もある。
昔から表情を作るのが苦手で、騎士団に入ってからは攻撃の手を悟られないように意図して無表情を心がけていたからか、最近では俺が近づくだけでポーラを怯えさせてしまった事も記憶に新しい。
出会った頃の幼いポーラは本当に天使のような可愛さだったが、最近の彼女は可愛らしさはそのままに美しく成長したものだから、俺はいつだって彼女の姿を見ると咄嗟に身構えてしまうようになっていた。妖精のように可憐で、子ウサギのような愛らしさは思わず抱き締めたくなるからだ。
今まではどうにか理性で耐えていたものの、それが崩れたのはシモンの成人祝いのパーティーだった。
「……ポーラが結婚を了承してくれたのは、相手が俺だったから断りにくかったんじゃないかと思ってな」
「この数年は毎年毎年、オランジュ公爵にせっせっとお姫様への求婚状を送ってたもんな。シモン王太子殿下も送ってた筈だが、結局公爵が選んだのはアルテュール、お前の方だろう?」
「だが、それはポーラの意思だったんだろうか……」
俺はそうぽつりと漏らし、グラスの中で揺れるワインの波をぼんやりと眺める。
今年はポーラがとうとう成人を迎える大切な年だ。求婚の為に危険が伴う騎士団長の役目は辞して、代わりに兄上から賜ったのは大公の地位とアスター領だった。
アスター領はこれまで王家の直轄地だったが、領地も広く、管理が行き届かない所もあるという点と、その周囲の領地の一つが少しきな臭い事もあって、牽制の意味も含めた拝領だ。
その頃にはオランジュ公爵から結婚を許可する返事を貰っていたから、俺は天にも昇りそうな心地でポーラの為に一番景色が良い部屋を用意したり、彼女への贈り物のドレスをオーダーしたりしていた。
すぐにでもポーラと話をしたかったものの、領地の状態の確認や諸々の仕事は山積みでなかなか時間をとれず、兄上からはどうしてもと頼み込まれて隣国の王女のエスコートまでしなくてはならなかったのだ。
そうして王女をエスコートしたパーティーで見たのは、見るからに恋人同士にしか見えないポーラとシモンの姿だった。
『シモン!』
自分でも驚く程低い声でそう言えば、俺の声を聞いたポーラはぷるぷると怯えた様に震えていたのだ。しかもその表情は物凄く辛そうだったものだから、俺はぐっと眉間に力をこめてしまう。
決して彼女を驚かせるつもりではなかったし、そんな顔をさせるつもりもなかったというのに。
『……ごめんなさいね、シモン。私、先に帰るわ』
『は?え、ちょっとポーラ!?』
『この埋め合わせはまた今度するから……!』
それでも話がしたくて近づこうとすれば、彼女は目の前からすり抜けて行ってしまったのだ。走り去る彼女の夜空のように美しい瞳は、悲しみに揺れていた。
追いかけて彼女を抱き締めてしまいたかったけれど、俺の目の前には困惑したシモンが取り残されていたから、他人の目があるこの場で騒ぎを起こす事もできない。
俺は溜息を漏らすと、小声でシモンに声を掛けた。
『シモン、頼むからポーラ嬢と適切な距離を保ってくれ』
『叔父上には関係無い事ではありませんか。ポーラは僕の大切な人なんですから』
『……』
俺から視線を背けるシモンの言葉に、ずきりと心臓が痛みを訴える。
この時思ったのだ。ポーラは俺との結婚を承諾していないのではないか、本当はやはりシモンが好きなのではないかと。
手ずからお菓子を食べさせるだなんて、友達というにはあまりに親密だ。オランジュ公爵は俺を選ばれたかもしれないが、それがポーラの意思を無視したものであるなら話は違ってくる。
『……とにかく、人前で誤解を生むような行動は慎む事だ。お前は王太子なのだから』
それだけ絞り出すと、俺は力無くその場を後にした。最後までエスコートしなかった事を王女は怒っていたようだが、俺にはそんな事よりポーラの事が気掛かりで堪らなかったから。
あんなに悲しそうな表情をさせる原因が、彼女にとって望まない結婚を強いる俺であるなら、俺は身を引いた方がいいのかもしれない。俺が好きなのは、空に輝く一番星みたいな笑顔だから。
けれど――
『わたしを助けてくれたもの、ちっとも怖くなんてないわ。それにさっきだって、笑ってたじゃないの。お顔もきれいだし、とってもやさしいわ!』
俺の心を救ってくれた、幼い彼女の笑顔が脳裏によぎる。
あれが幼さゆえと、俺が王弟だとは知らなかったからこその笑顔だとは解っているが、俺はあの日の笑顔に僅かな希望を捨てきれない。彼女の本質は、あの日から変わっていないと信じたいから。
「……まぁ確かに、あんな人前での公開プロポーズだもんな。普通は断れないだろ」
「ぐっ……」
レーニエの言葉はあまりに正論で、俺は小さく呻き声をあげる。
「お前、口下手なのによくあんな事できたよな。しかもあそこからずっとお姫様抱っこだろ?あれはお姫様も恥ずかしかったと思うぞ」
「やはり、そう思うか……?」
あの日、本当はポーラをエスコートしたかったものの、王族の一人として参加しなくてはならず、せめてと仕上がったばかりのドレスだけを彼女の元へと届けていた。
彼女の瞳の色を連想させる夜空色の美しいグラデーションに、俺の瞳の金色で星を表現させたドレスは素晴らしい出来だった。これを着たポーラを何度想像したか解らない程だ。
ポーラはこのドレスを気に入ってくれるだろうか、着てきてくれるだろうか。柄にもなくそわそわと落ち着かない俺を兄上は揶揄ってきたが、正直その相手をしている余裕はなかった。
そうして目にした彼女の姿は、言葉に出来ない程に美しくて、俺には光り輝いて見えた。
兄上の挨拶が終わってすぐ、逸る心を抑えながら彼女の元へと向かえば、差し出されたのはカクテルだ。
『あ、あの!アルテュール殿下!喉は渇いておられませんか!?こちらのカクテル、お勧めですよ!』
アルコールに酔いやすい事を自覚しているから、公の場ではいつも一口程度しか飲まない事にしているのだが、せっかく彼女から勧められたものを断れる筈もない。
俺は迷う事なくそれを受け取ると一気に飲み干したのだが、恐らくこれがまずかったのだろう。
急激なアルコールの摂取で体は熱くなるし、頭はふわふわとして心地良い。そうなると目の前の愛らしいポーラの事しか考えられなくなった俺は、気付いた時にはその場に跪き、愛を乞うていたのだ。
アルコールの力を借りたお陰で、羞恥心や理性も吹き飛んでいたのだろう。いつもは心の中に留めていたポーラへの想いが溢れて止まらない。
俺の言葉に頬を染めるポーラはあまりに愛おしくて、触れたくて、その結果があの横抱きだ。気持ちが昂りすぎたのか、あの夜の記憶は曖昧な部分もあるのだが、額に口付けた時の彼女の照れた表情は、正直あの場でなければそのまま押し倒してしまっていたに違いない。
冷静になった今思えば、彼女にとっては人前で抱き上げられて口付けまでされているのだから相当恥ずかしかった事だろう。
だからあんな風に危険を冒してまでバルコニーから逃げようとしたのだとしたら、全部俺のせいなのだ。
思わず大きな溜息が漏れ、俺は彼女に触れた自分の手をぼんやりと見下ろす。
「あれだけ人前で恥ずかしい思いをしたんだ。ポーラは俺に愛想をつかしただろうか……」
「あー……まぁでも、普段のお前は言葉が足りなすぎるからな。照れてはいたが、怯えてはいなかったんじゃないか?」
「だが、彼女の笑顔は見れてないんだ」
そう、ポーラは照れた顔や怒った顔は見せてくれたが、俺が一番好きな笑顔は見せてくれていないのだ。どうしたら彼女は俺にもあの笑顔を向けてくれるのだろう。
また一つ溜息を漏らした所で、ワインを飲もうとしたのだが、いつの間にかグラスは空になっていた事に気付く。もう一杯注ごうとしたのだが、それはレーニエに止められてしまった。
「酔いたい気分なのは解るが、それくらいにしとけ。もう既に目が据わってるぞ」
「……ポーラは、俺を嫌いになったろうか……だからあんな……」
「大丈夫だって。アルテュール、お前はこれくらいで諦める奴じゃないだろ?お姫様に好きになってもらえるように、これからも正直に気持ちを伝えて、努力したらいいんだよ」
好きになってもらう努力。具体的にはどんな事だろうか。
ふわふわとしたアルコールの酩酊感に揺られながらレーニエの方を見やれば、彼はにっと口角を少しあげた。
「そりゃあやっぱりデートだろ、デート。オレのお勧めのデートスポットを、お前の酔いが覚めたら教えてやるから。今日はもう寝た方がいいぞ」
「あぁ……」
俺はそこでこくりと頷いた所まではかろうじて記憶にあるものの、そこからの記憶は定かではない。
ただ、デートという言葉だけが頭にこびりついて離れなかった。
読んでくださってありがとうございます!
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次回はシモン視点のお話です。