6 最初の逃亡
「……ん……ここは……?」
目が覚めてまず飛び込んできたのは、見慣れた自分のベッドの物とは全く違う豪華な天蓋だった。美しい夜空が描かれていて、星がキラキラと輝いて見えるけれど、絵具に何か光る物が混ぜられているのだろうか。
暫くそれをぼんやりと眺めてから、視線を落としてベッドの横のサイドテーブルにある時計を確認すれば、今はまだ早朝みたいだった。
「私、どうしてここにいるんだったかしら……?」
のそのそと体を起こしながら、寝ぼけている頭を働かせようとした所で、昨夜の記憶が一気に蘇ってきて私は思わず頭を抱えてしまった。
「あぁぁ、まずいわ……!ここはもしかしなくても大公家のお邸ね!?馬車の途中から記憶が全く無いわ……」
ドレスを着ていた筈なのに、今はシルクのナイトドレスに変わっているし、馬車からここまで運んでくださったのは恐らくアルテュール様なのだろう。
流石に一晩経てば媚薬の効果は切れているだろうから、きっともう少ししたら正気を取り戻したアルテュール様が私の所にいつも通りの不機嫌な御顔でやって来られるに違いない。
本当にもうこんな大事になってしまって、アルテュール様には合わせる顔がないというのに。
「……きっと今ならまだ逃げられるわ。そうよ、国境に程近い修道院にでも入ってしまえばいいんじゃないかしら?私がいなくなれば、アルテュール様だって本当に好きな方と結婚できるもの」
ずきりと痛む心には気付かない振りをして私は一つ頷くと、そろそろとベッドから抜け出す。着替えはいつもアンナが手伝ってくれていたけれど、こっそり街に抜け出す時にはバレないように自分で平民の服に着替えていたから、ワンピースなら私一人でも着られる筈だ。
部屋の中をきょろきょろと見渡し、ウォークインクローゼットと思われる扉を開いた所で、そこに揃えられたドレスの多さに目を丸くする。
「凄いわ……どれも有名なお店のドレスばかりね。ここはゲストルームかと思ったけれど、違ったのかしら……」
アルテュール様には従姉妹が何名かいらっしゃった筈だから、もしかしたら彼女達のどなたかが訪れた時に使用している部屋なのかもしれない。
人様のドレスをお借りするのは申し訳ないと思いつつも、クローゼットを確認するのだけれど、当然私がお忍びで着ていたようなワンピースは一着もなかった。
「それはそうよね……せめて上に羽織る物だけお借りするしかないわ」
私は溜息を漏らしつつ、ナイトドレスの上から薄手のコートを羽織るとバルコニーへ続く窓を開けた。バルコニーからは美しい庭園が見えるけれど、まだ朝日も昇っていないからか、庭には人影は見えない。
手すりから下を覗き込めば、ここは3階部分に位置している事が解り、下の階へはそこまで距離もない。バルコニー毎に降りていけば下まで行く事は可能だろう。
「うん、これならいけるわね。普通の御令嬢なら無理でしょうけれど、長年邸を抜け出してきた私なら余裕だわ」
うんうんと頷きながら、私は気合を入れるために腕まくりをする。高さもそんなにはない手すりを軽々と乗り越えると、手すりの柱を掴んでそのままぶら下がる格好になる。
そうして勢いをつけて下の階のバルコニーへと飛び降りようとした所で、不意に私の腰辺りが力強く掴まれてしまう。驚いて目を丸くしているうちに、体は私を掴んだ人の方へと引き寄せられてしまった。
「ポーラ!君がお転婆なのは解っていたが、まさかバルコニーからやって来るとは予想していなかったぞ!?俺が気付かなければ、どうなっていた事か……頼むから危ない事はやめてくれ」
アルテュール様は私の腰を両腕でぎゅっと抱き締められたまま、心底ホッとされた様子で大きく息を吐き出された。
私はといえば、まさか真下がアルテュール様のお部屋だとは思わなかったし、こんな早朝の逃亡がいきなりバレてしまった事で冷や汗が溢れてしまう。顔を合わせ辛かった事もあって、どんな顔をすればいいのかも解らない。
「ア、アルテュール様は朝が早いのですね?」
動揺して声が上擦りながらも出てきた言葉は、我ながら今言う事ではないだろうと呆れてしまう。
けれどアルテュール様は私のおかしな様子に気付いておられるのかおられないのか、私の腰辺りに顔を埋められたままだ。またしても彼の両腕にがっちりと掴まれてしまっているから、私は抱え上げられたままで身動きも取れない。
返答もないし、どうしたらいいのだろうと見下ろした所で、いつもなら見上げているアルテュール様を見下ろしているというのは新鮮だわとふと思う。よく見ればいつもきっちりとされている髪も、少しうねっているみたいだ。
アルテュール様の髪質は、シモンみたいにふわふわと柔らかい感じではなさそうだけれど、目の前にあるとつい触りたくなってしまってうずうずとする。私の背では通常ならアルテュール様の髪になんて、屈んで頂かなければ届く筈もないから余計にそう思うのかもしれない。
(5歳の子供ならともかく、いきなり髪を触るだなんて友達でもないのにそれこそ愛想を尽かされてしまうわ。あぁ、でも……こんな機会、もうないかもしれないのに……)
なけなしの理性を総動員していれば、私が身じろぎした拍子に彼の髪がはらりと少しだけ顔に落ちてしまう。反射的にそれを直そうと手を触れれば、彼の体がびくりと揺れた。
「あっ!も、申し訳ありません……!髪を直そうとしただけで、決して髪を触りたいだなんてやましい気持ちではありませんから!えぇ!」
ばっと両手をあげながら下心は無い事を必死に訴えるものの、逆に嘘くさくなってしまったみたいで冷や汗が溢れる。
気に障られただろうかと顔色を伺いたいのに、こう抱えられてしまっていては、俯いている彼の顔色が見えなくて余計に不安になってしまう。
「………………わない」
「え?」
ぼそりと呟かれた言葉がよく聞こえず、私がこてんと小首を傾げていれば、今度は勢いよく顔を私の方へとあげられたアルテュール様と視線が重なる。昨夜程ではないものの、その頬はほんのりと赤く染まっていた。
「構わないと言ったんだ。君は俺の妃になるのだから、君だっていつでも好きなだけ俺に触れてくれて構わない。寧ろ俺は、君が俺に触れたいと思ってくれた事が堪らなく嬉しくて仕方ないんだ。さぁ、思う存分俺をめちゃくちゃにしてくれ!」
妙に期待に満ちたキラキラとした眼差しで微笑まれるアルテュール様に、私の顔までみるみるうちに赤くなってしまう。
「なっ!?何を仰るのですか!なんだかその言い方は物凄く語弊がありますっ!私は少しだけ髪に触れられたらそれだけで……」
「髪だけでいいのか?昔は遠慮なく俺の顔を触っていた気がするんだがな」
「覚えておられたのですか!?どうかあの時の私の無礼はお忘れください……!」
私は5歳の日のあの出会いを忘れた事なんてなかったけれど、アルテュール様はあれきりあの日の事に触れられた事は無かったものだから、とうに忘れてしまったものだとばかり思っていた。
覚えてくださっていたのは嬉しいけれど、王弟殿下相手に対してあまりに無遠慮だった黒歴史でもある。そこは忘れていてほしかったというのに、アルテュール様はにっと少しだけ口角をあげられた。
「忘れる訳ないだろう。あの日の小さな君に俺は救われたのだから」
「……?迷子だった私を救ってくださったのは、アルテュール様の方では?」
きょとんとした顔をする私に対して、彼は目を細めると私をそっとバルコニーの手すりに座らせてくださる。そうなると今まで少し距離があった目線は、驚く程に近くなった。
落ちないように彼の腕は私の腰に添えられてはいるけれど、先程までのように抱き抱えられていた時程に密着している訳ではない。それでもお互いに見上げなくても交わる目線の高さや、いつもよりも優しい彼の表情に、否応無しに私の胸は高鳴る。
どきどきとしながら彼の瞳を見詰めていれば、次に続いたのは思ってもみない言葉だった。
「ところでポーラ、君が何故バルコニーからやって来たのか、まだ理由を聞いていなかったな」
「えっ!?」
「ここが俺の部屋だと知って寝込みを襲いに来たのか?それともまさか、この結婚に怖気付いて逃げようとしていた訳ではないだろうな?」
「ひっ!?」
アルテュール様は少し口角をあげて微笑まれていたけれど、なんだか妙な迫力がおありでつい小さく悲鳴を漏らしまう。
しかもこの質問はとてもまずい。前者なら私はとんでもなく慎みがなくなってしまうし、後者だと逃げようとした事を認めた事になってしまうのだから。逃げようとした理由は怖気付いた訳ではなくて、全てはアルテュール様の為ではあるのだけれど。
何か、何か言わなくてはと冷や汗をかきながら視線を彷徨わせた私は、ふと庭先に咲いている薔薇に気付く。
「っ……!ば、薔薇です……!」
「うん?」
「薔薇が綺麗に咲いてるみたいだったので、近くで見たくて……!私、薔薇が一番好きなんです!」
アルテュール様と出会ったのが薔薇園だったものだから、薔薇が一番好きなのは本当だけれど、それでも監禁されている訳でもないのだから庭が見たいのなら普通に玄関から出ればいい事だ。
こんな風にバルコニーから外に出る必要は全くないのだから、流石に苦しい言い訳だったろうかとちらりとアルテュール様を見れば、彼は何故かとても嬉しそうに微笑まれていた。
「そうか。俺は花は詳しくないが、薔薇だけは好きなんだ」
「そ、それは私達、気が合いますね……!」
「そんなに見たいのなら、一緒に見に行こうか。もう夜も明ける」
いつの間にか夜の帳は上がり、眩しい朝日が少しずつ昇ってきている所だった。
明るくなっては人目についてしまう。こうしてアルテュール様に見つかってしまった以上、今日はもう逃亡する事は難しいだろう。
観念してこくりと頷けば、私の体はまたしても軽々と横抱きにされてしまった。どうやらこのまま庭に向かうみたいだ。
内心溜息を漏らしながら彼の顔を見上げれば、私を見て少しだけ目元を緩められる。
今までより明らかに優しくて言葉数も多く、積極的に触れようとされる姿は媚薬の効果のようにも見えるけれど、私が逃亡しようとしたのではないかと問い詰める姿は今までの彼に近いものがあった。
アルテュール様は今、正気なのだろうか。
もう彼が今どんな状態なのか私にはさっぱり解らず、底のない沼に足を踏み入れてしまったかのような不確かさが私の心に重くのし掛かるばかりだった。
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次回はアルテュール視点のお話です。