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38 狂気の神

「ジル、あなたどうして……」


 ありえない場所にありえない人がいるのだから、私の頭はこの状況を理解できずに空回りするばかりだ。


 声は掠れ、呆然としている私とは裏腹に、目の前のジルは大公家のお邸で働いている時と変わらずに可愛らしい笑顔を浮かべているのだから、その全てが酷く現実感がなかった。


 弟がいたらこんな感じだろうかと思わせるような可愛らしい笑顔はそのままだというのに、何故か背筋がぞくりと寒くなってくる。


 本能的に逃げなくてはとそう感じているのだけれど、掴まれた腕はびくともしなかった。


「あぁ……その顔、堪らないなぁ。もしかして怯えてる?大丈夫、ぼくはきみを傷付けたりはしないから安心して」


 どこか恍惚とした笑みを浮かべる彼は、いつの間にか口調も砕けたものになっている。きっとこれが本来の彼なのだろう。


 私は彼からできるだけ視線を外さずに、助けを求めるようにバジル様の方をちらりと見るのだけれど、彼はこちらの様子に気付いていないのか、公爵夫人の手を握ったままだ。


 そんな私の考えなんてお見通しとばかりに、ジルは可笑しそうに口角をあげた。


「あんな男に助けを求めても仕方ないよ。何の効果もないブレスレットを得意気に着けているくらいだからねぇ」

「っ……」


 あぁ、やっぱりバジル様のあのブレスレットは眉唾物だったんだわ。そう思うものの、だとしたらどうしていつもとは違ってこの部屋に来られたのだろう。


 そう考えた所で、ようやく回り始めた思考は、自ずと一つの答えを導き出す。


 ここにいる筈のないジルがどうしてここにいるのか。これだけ会話をしていてもバジル様がこちらを気にした様子が全くないのはどうしてなのか。


 感覚が曖昧になり、辿り着けない部屋。その中に誰かが居るというのなら、それはその現象を起こしている原因でしかありえないのだから。


「ジル……あなたのスキルは何?あなたが公爵夫人をこんな風にしたの?フレジエ公爵様とはどういう関係なの!?」


 再度振り解こうとしてもびくともしない腕に顔を歪めつつ、私は声を震わせながらも彼を睨みつける。


 ジルはそんな私の足掻きを見て、蕩けるように微笑んだ。


「きみがそんなにぼくに興味があるだなんて嬉しいなぁ。年甲斐もなく胸が高鳴るよ」

「年甲斐って……あなた、私よりも年下でしょう?」


 身長はシモンと同じくらいだろうか。そこまで高すぎる事もないし、見た目も可愛らしい印象の美少年だ。どこからどう見ても年上には見えないのだけれど、彼は意味ありげに笑みを浮かべる。


「そうだねぇ、順番に答えていくと、ぼくのスキルは『狂気』だよ。人を惑わし、狂わせ、意のままに操る。そういうものさ」


 そんな恐ろしいスキルは聞いたことがなくて、私は信じられない思いで目を見張る事しかできない。


「『狂気』ってそんな……フォリー神じゃあるまい、し……」


 人を惑わす事が出来るというのなら、その力でどこか曖昧な場所を作り出し、自身も曖昧な存在にしていたとでもいうのだろうか。


 そもそも森に棲む動物を狂わせ、巨大な魔物へと変質させているのは狂気の神、フォリーの力だと言われている。それを考えるとコルシックの街の近くに現れた魔物も、彼と無関係ではないのではないか。


 そんな事をふと思ってしまい、私の背を冷たい汗が滑り落ちる。嫌な考えを肯定するように、彼はにっこりと満面の笑顔を浮かべた。


「そう、ぼくは狂気の神フォリーの化身のようなもの、といった所かな」

「そんな、まさか……」

「信じられない?そうだろうねぇ、人の身に神の力は大きすぎる。ぼくだってずーっと昔はそう思っていたんだよ」


 見た目は少年だというのに、そう言う彼はまるで遥か昔から生きているかのようなそんな達観した雰囲気を纏っている。どこか自嘲めいたその笑顔に、ざわりと胸が騒いだ。


 この顔を、昔どこかで見たような。けれどそれは酷く曖昧な記憶で、雲を掴むような感覚だった。


「それで、次はあの公爵夫人の事だったね。ぼくは、彼女の願いを叶えてあげただけだよ。他でもないこのぼくに願ったんだ。何も考えずに、ずっと眠っていたいと」

「そんな……!公爵夫人本人の望みだというの?あの状態が……!?」

「温かい愛に囲まれているきみには考えつかないだろうねぇ。誰かの重すぎる愛が、他の誰かにとっては重荷になる事があるんだよ」


 それはフレジエ公爵様と公爵夫人の事を言っているのだろうか。


 パーティーでお見かけした事があるお二人は、仲睦まじい夫婦に見えていた。それは対外的なもので、実際にはどういったものかはお二人にしか解らない事だ。


 例え彼女がそう願っていたとしても、バジル様の事を考えると私にはあの状態でいいだなんてとても思う事はできなかった。


「それと次は公爵の事だったかな。彼は彼女をそれはもう愛していたからねぇ。藁にも縋る思いだったんだろう。彼女の事は願いをただ叶えたにすぎなかったけれど、公爵は丁度都合がよかったんだよ」

「それはどういう……」

「公爵はきみにも、王太子にも近付きやすい存在だったからね。いい餌になると思ったんだよ」


 人を餌と呼ぶその言葉とは裏腹に、にっこりとした可愛らしい笑顔を浮かべているのが、酷くちぐはぐで恐ろしさを感じる。


 それではまるで、公爵様は私とシモンに近付くためだけに利用されているようなものだ。


 そう考えた所でハッとする。公爵様は今、一体どこにいるのか。それに気付き、私の顔色はさっと青褪める。


「待って、まさかあなた、公爵様を利用してシモンに何かする気なの!?」

「あぁ、きみは本当に友達思いだよねぇ。自分の事より、王太子の方を気にかけるんだからさ」

「茶化さないで、答えてちょうだい……!」


 くすくすと鈴を転がしたように微笑む彼を、私はきっと睨みつける。彼はそんな事は全く気にした様子もなく、ただただ楽しそうに笑うばかりだ。


「あの王太子は丁度良い器なんだよ。ぼくの力とも相性が良さそうだしねぇ。血筋ときみとの関係を考えたら、大公とも迷ったんだけれど、見た目もぼくに似ているのは王太子の方だから」


 彼は一体何を言っているのだろう。


 シモンを器と呼び、アルテュールまでその候補にされていただなんて、そんな恐ろしい事考えられないし、彼が一体何をしようとしているのか、私の頭ではとても考えられなかった。


 やはり彼は人の見た目をしていても、真実フォリー神の化身なのだろう。その得体の知れなさが恐ろしく、私は腕が離れないながらも身じろぎするように、少しだけ後退った。


「あなたは……一体なんなの?」

「ぼくの本当の名前はね、ジルベスターというんだ。ジルベスター・エルヴェ・ブラーヴ。それがずーっと昔から変わらないぼくの名前だよ」


 その名前を知らない人はこの国にはいないだろう。


 肖像画こそ残っていないけれど、毎年彼の功績を讃える建国祭がずっと続いているくらいなのだから。


 それはこのブラーヴ王国の礎を築いた、初代国王陛下の御名前と全く同じだったのだ。






読んでくださってありがとうございます!


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