15 温かなぬくもり
「ふぅ……これでやっと少しは落ち着けるかしら……」
イリスの街から辻馬車というものに初めて乗った私は、アスター大公領とは隣り合う領地の一つであるフレジエ公爵家領にも程近いコルシックという街へと移動したものの、座り心地が普段乗っている馬車とはあまりに違うものだから、宿屋に着く頃には既に疲労困憊となっていた。
こんなにお尻が痛くなるだなんて、これをいつも利用している領民の皆さんはなんて大変なのだろう。アルテュール様には是非、主要な街の間を行き来する辻馬車だけでも、乗り心地の改善をお願いしたい所ではある。
(まぁ、もうアルテュール様には合わせる顔がないのだけれどね……)
また一つ溜息を漏らした所で、私は宿屋のベッドにどさりと倒れ込んだ。本当にただ馬車に揺られただけだというのに、まさかこんなにも疲れるとは思いもしなかったのだ。
それでなくても、一人で行動する事は今まで殆どなかったものだから、少し緊張していたというのもあるのだろう。横になった途端に疲労がどっと押し寄せたみたいで、自然と瞼は重くなってしまった。
そうして次に気が付いた時には、既に翌朝になってしまっているのだから本当に驚いてしまう。ほんの少し横になるだけのつもりだったものだから、着ていた外出用のドレスはそのままだったせいで、すっかりしわくちゃだ。
「困ったわ……着替えたいけれど、このドレスは一人では脱げないのよね……」
アンナもいないのだから、自分でどうにかするしかないとはいえ、厄介な事にこのドレスは後ろをリボンで編み上げているデザインなのだ。とても一人では脱ぐ事が出来ず、途方に暮れてしまう。
逃げる予定だったのだから、一人でも着替えられるドレスにするべきだとは考えていたものの、悟られないように普段通りを装った結果がこれだ。
「……とりあえず、シモンに貰った指輪を試そうかしら。いろいろと報告もしないとだものね」
厄介なドレスの事は後回しにして、私はベッドの端に腰掛けると、右手にはめている指輪のペリドットにそっと触れる。初めて使うものだから、本当にこれに触れるだけで会話ができるのかは半信半疑だ。
「シモン、本当にこれで聞こえているの?聞こえていたら返事をしてちょうだい」
指輪に向かってそう言えば、ペリドットからは何かが落ちたような大きな音が聞こえてくるものだから、一瞬肩がびくりと跳ねる。
ややあって聞こえてきたのは、間違いなくシモンの声だった。
『ポーラ!?こんな朝早くにどうしたの!?』
「あら、もしかしてシモンってばまだ寝ていたのね?それで驚いてベッドから落ちたのでしょう?」
『はぁ!?そんな訳ないでしょ。僕はそんな間抜けじゃないから』
少し上擦った彼の口ぶりからは、明らかな動揺が感じられて、私はついくすくすと笑みを漏らす。先程の大きな音は、十中八九ベッドから落ちた音だろう。
『ちょっと、いつまで笑ってるの。そんな事より、まさかもう何かやらかした訳じゃないよね?それともこんな朝から叔父上との惚気話を聞かせるつもりなら、僕は君と友達やめるから』
むすっとしたその声だけで、彼が今どんな表情をしているのかはありありと想像できてしまう。最初は機嫌が良さそうに思えたのだけれど、今は絶対に拗ねている。シモンはこういう気分屋な所が昔からあるのだ。
「惚気話なら良かったのだけれどね……私、アルテュール様の所から逃げてきちゃったのよ」
『……………………は?』
ふぅと私が溜息を一つ漏らしたのと、シモンが間の抜けた声を漏らしたのは殆ど同時だった。
『待って、叔父上の所から逃げてきたってどういう事!?まさか今一人とか言わないよね!?』
「よく私が一人だって解ったわね。買い物に出て、そのまま逃げてきたものだから、今はコルシックという街の宿屋よ。昨夜はここに着いてすぐに寝てしまったせいで、実は今ドレスがしわくちゃなの。アンナもいないから一人では脱げなくて困っていた所よ」
声しか聞こえないから、今の私の現状を説明してはみたものの、実際はドレスだけでなくて髪もくちゃくちゃだ。いくら友達とはいえ、こんな格好はとても見せられなかったから、この指輪が声だけのやり取りで本当に良かったと思う。
けれど、こんなよれよれの私の姿は見えていない筈だというのに、指輪の向こうからは呆れたような大きな溜息が漏れた。
『ポーラ、君ねぇ……そういう想像させるような事、平気で言う所が無防備なんだよ』
「そういう想像って何なのよ。変なシモンね」
『っ……と、とにかく、着替えは宿屋の女の人に頼んで手伝ってもらって。今から僕もコルシックに向かうから、絶対に僕が行くまで一人で動き回らないでよね』
「えっ?」
思ってもみなかった言葉に、私はきょとんとしてしまう。シモンにはただ私の現状を伝えるだけのつもりで、まさか彼に助けてもらおうとは思っていなかったからだ。
けれどよく思い出してみれば、この指輪を送ってきたシモンは、助けがほしい時にはこれを使うように書いていたから、きっと私が助けを求めていると思ってしまったのだろう。
「シモン、私あなたに助けてもらおうと思って連絡した訳ではないのよ。ただ指輪を試してみたかったのと、私の現状の報告のつもりだったの。だからここまで来てくれなくても大丈夫よ。それに私はこのまま国境近くの修道院を目指すのだし……」
『待って待って!ポーラ、君まさか修道院に入るつもりなの!?』
私の言葉を遮るように、シモンが酷く驚いた声をあげる。それが本当に切羽詰まったように聞こえたものだから、私の方が驚いてしまう。
「どうしたの、そんな声を出して」
『どうしたもこうしたもないよ!あぁもう、君の行動は相変わらず斜め上だって事がよく解ったよ。いい?頼むから僕が行くまで大人しくしていて。父上と母上に話したらすぐに向かうから』
「え、えぇ……解ったわ」
シモンの勢いに圧されて、私はこくりと頷く事しかできない。一体どうして彼はこんなにも必死なのだろうか。なんだかこれでは、私が一人では不安だとでもいうみたいだ。
そうしてそのまま、彼からの言葉は途絶えてしまったものだから、今頃は国王陛下と王妃殿下と話されている所なのかもしれない。
シモンがここまで来るというのなら、暫くはこの街に滞在しなくてはならない。このままここに暫く泊まらせてもらいたい事を伝えるついでに、宿の人にドレスのリボンを解いてもらおうと思い、私はそっと廊下の様子を伺う。
幸いまだ朝が早い事もあって、廊下には他の宿泊客の姿は見えない。流石にこのよれよれの姿を見られるのは恥ずかしくて、上に一枚羽織ってから下の階へと向かった。
宿屋の一階は食堂になっていて、既に良い香りが漂っている。香りに引き寄せられるようにそちらへ向かえば、厨房にいた女性が顔を覗かせた。彼女は昨夜、受付をしてくれた女性だ。
「あら、貴族のお嬢様。随分とお早いですね。まだ朝食の準備はできてないんですよ」
「あ、いえ。私は朝食を食べに来た訳では――」
そう言いつつも、美味しい匂いのせいか、私のお腹は狙いすましたようにぐるぐると音を立てるのだから恥ずかしくなってしまう。なんだかこれでは、美味しい匂いにつられてやってきたただの食いしん坊みたいだ。
顔を赤くして俯く私を見て、彼女はくすりと笑みを漏らした。
「こりゃ随分と可愛らしい御方だね。昨夜は夕食も取らずに寝ちまったんでしょう?特別にあたしの朝食を分けてあげるから、座って座って!」
「え!?そんな悪いわ」
「さぁさぁ、遠慮なさらないで。今丁度焼き上がった熱々だよ」
にこにこと満面の笑みを浮かべる彼女に促されるまま、食堂の席の一つに腰掛ければ、目の前には美味しいバターの香りが漂うパンが乗ったお皿が置かれた。
「あたしが食べるつもりだったから、昨日の残り物のパンを牛乳と卵に浸して焼いただけの簡単なもので悪いね。この蜂蜜をかけたら甘くて美味しいから食べてみて」
手渡された蜂蜜をかければ、更に美味しそうな香りになる。一口口に含めば、じゅわりと口の中に優しい甘さとバターの香ばしさが広がって癖になる美味しさだ。
「まぁ!とっても美味しいわ!」
「だろう?それに空腹は何よりのスパイスだからさ」
にっと人好きする満面の笑顔を浮かべる彼女は、私が食べ終わった後、少し言い難そうな表情でそっと小声で私に話しかける。
「それにしても、お嬢様。随分とその……くちゃっとした格好だけど、お嬢様みたいにお綺麗な方がお一人だなんて訳ありかい?もしかして、物凄く嫌なやつに無理矢理嫁がされて逃げてきたとか……」
「いいえ!そんなまさか、嫌な方では全くないわ!寧ろ私の方があの方にとんでもない事をしてしまって、逃げ出したのよ……」
思い出すのは、いつだってアルテュール様の蕩けるように優しい眼差しと笑顔だ。私から逃げ出したというのに、もう恋しくなってしまっているのだからあまりに自分勝手だ。
思い出せば余計に想いはつのる。
しゅんと落ち込む私の前に、ことりと何かが置かれる。見ればそれは温かなホットミルクだ。
「詳しい訳はきかないけど、これ飲んで元気だして。それ飲んだら、そのくちゃくちゃの格好をどうにかしないとね。一人で脱げないんだろう?」
彼女の温かい言葉と眼差しと、出されたホットミルクの温かさに、私はこくりと小さく頷く。ぽろぽろと涙は溢れるけれど、彼女は何も言わずに、ただ優しく背中を撫でてくれていた。
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