閑話 最高で最悪の日
その日は夢にポーラが出てくるという、朝から最高の目覚めだった。内容ははっきりとは覚えていなかったものの、俺に向ける彼女の満面の笑顔だけは鮮やかに俺の心に刻まれていた。
今日はきっと、良い一日になるだろう。
そんな浮き立つような気分のまま手早く支度を整え、緊張しながらも食堂に向かえば、そこには既にポーラの姿があったのだから、俺の心は更に幸せに満たされる事となる。
しかも彼女が着ているドレスは、俺の瞳の色にも似た蜂蜜色だ。俺の色を着てくれているというだけであまりに嬉しくて、顔が緩みそうになるのを抑えるだけで必死だった。
彼女が昨夜の言葉通り食堂に出てきてくれた。その事が本当に嬉しくて、心の中で幸せを噛み締める。
それというのも、昨日があまりにつらく、苦しい一日だったからだ。何せ一度もポーラの愛らしい顔を見られなかったのだから。
婚約する前は顔を合わせない日の方が殆どだったというのに、シモンの成人祝いのパーティーからは毎日顔を合わせられていたからだろうか。一日でもあの愛らしい顔を見られないというのは、耐え難く感じてしまうのだ。
すぐ触れられる距離にいられるというだけでも僥倖だというのに、一度あの温もりに触れてしまえばもっと触れたいと思ってしまうのだから、人の欲というものは際限がない。
本当にそう感じたのは、全てが幸福に満ちていたあの婚前旅行の帰りの馬車での事だ。
あの日、ポーラは俺に触れられるのは嫌ではないと言ったのだ。彼女が一番気にしていたのは、人目の多さだ。やはりあのパーティーでの時のように、人前での触れ合いが恥ずかしかったのだろう。
それなら二人きりの時なら、もう少し俺を受け入れてくれるのだろうか。
そんな願望から、二人きりの時にはもう少し先に進みたい事を伝えれば、ポーラは少し迷いながらもこくりと頷いてくれたものだから、この時俺は天にも昇るような心地だった。
正直な所、その後の収穫祭の記憶はあまりない。隣にいるポーラの事しか目に入らなかったし、早く二人きりになりたいとそんな事ばかり考えていたのだ。
その結果、馬車でがっつきすぎた俺はポーラを気遣う余裕もなく、挙句気絶させてしまったのだから己の自制心の無さにほとほと呆れ果てる。こんな俺をポーラが避けるのは当然の事だろう。
(だが、俺の口付けに頬を染めて恥じらうポーラの潤んだ瞳を見た瞬間、完全に理性の糸が切れてしまったからな……まだ唇には触れていないというのに既にこれでは、初夜になったら俺は俺自身が一番信じられん)
ポーラには自制できるようにすると言った手前、これ以上性急に事を進めては確実に嫌われて、また避けられてしまうだろう。だが果たして、もう何年も片想いし続けてきた愛しい彼女を前にして、正気でいられるだなんて事が俺にできるのだろうか。
つい重い溜息を漏らしてしまえば、隣に座るポーラが気遣わしげに俺を見上げる。
「アルテュール様、大丈夫ですか?お顔の色が優れませんが……」
「君が気にする事はない。全て俺が至らないだけだからな」
本当に俺は至らない所だらけだ。元々表情に乏しいし、口下手だから、アルコールの力を借りないとポーラにプロポーズだって出来ないような男だ。
最近は彼女が傍にいると、自然と愛おしさが込み上げてくるものだから、以前よりは気持ちを伝えられている気がしているものの、溢れる想いの全てを伝えきれていない気がしてならない。
アルコールが入っていた時は饒舌に愛おしさを伝えられていたのだから、普段の俺だってもう少し上手くできる筈だというのに。
領民に寄り添える心根の優しい彼女に、気にかけてもらえる程、俺はできた人間でもないのだから。
また一つ溜息を漏らした所で、彼女の表情が妙に悲しげに曇っている事に気付く。俺が何かしてしまったのだろうかと眉根を寄せたところで、彼女はへにゃりとした力無い笑みを浮かべた。
「あ……そう、ですよね。なんだかすみません」
「……?ポーラ、君は何を謝って――」
「ほ、ほら!冷めてしまいますから、早く食べましょう!アルテュール様、はいどうぞ」
ポーラの浮かない表情は気になったものの、彼女が手ずからちぎったパンを差し出してくれるだなんて初めての事だ。
その事に俺は舞い上がり、深く考えずに口を開ける。普段と同じパンだというのに、彼女が食べさせてくれたというだけでより美味しく感じるのだから驚きだ。
この時俺は、目先の幸福に目が眩み、彼女が何を考えていたのかに思い至れなかった事は本当に愚かだったとしか言いようがない。
そうして朝食を終えた後は、婚前旅行の間に溜まった仕事の処理に追われていた。
それについてはある程度予想していた事だったし、書類仕事よりは体を動かす方が得意ではあるのだが、大公になった以上は俺がやるべき責務だ。
それよりも頭が痛い事は、昨日届いたセレスト王女からの招待状だ。
元々、我がブラーヴ王国とカラン王国の友好関係をより強固な同盟とする為、今回の友好使節団の旗頭となっていたセレスト王女の役割は俺かシモンとの婚姻であろう事は明白だった。それが例え王女自身の意思でなくとも、だ。
だが、俺もシモンもポーラに求婚していたし、国力では圧倒的に我が国の方が上だ。ご自分が恋愛結婚をしている兄上としても、俺やシモンに政略結婚をさせてまで同盟を結ぶ意思はなかったのだが、向こうの顔を立てる為にも俺に彼女をエスコートさせたり、シモンとはお茶会を設けたりしていたのだ。
それだけで良しとして国に帰れば良かったものを、彼女は今回、俺に対してパーティーの招待状を送ってきたのだ。しかも既に公開プロポーズをしてポーラと婚約までしている俺に対して、エスコートをしろと言ってくるだなんてありえない事だ。
それは婚約者であるポーラを蔑ろにする行為であり、あまりにも傲慢な振る舞いだ。こちらとしてはこんな無礼な申し込みを受ける道理もないのだが、下手に断ったせいで王女が何かしら騒ぎ立てて、それがポーラの耳に入る事だけは絶対に避けなくてはならない。
とりあえずは兄上に報告を行い、然るべき対応をしようとレーニエとも話し合っていたから、後は兄上からの返事待ちだ。
我知らず溜息が漏れた所で、書類を捌いていたレーニエが顔をあげる。
「大公殿下、随分とお疲れのようですね。この辺りで少し休憩を致しましょう」
「あぁ、そうだな」
「紅茶で宜しいでしょうか?菓子も用意させますが、何かご希望はございますか?」
甘い物は好きな方だが、菓子の事を考えると思い浮かぶのはいつも美味しそうに頬張るポーラの姿だ。頬が膨らむ姿は、リスにも似ていて何とも癒される。
そんな彼女の姿を思い出すと、つい口元が緩んでしまう。それをレーニエが生温かい目で見ている事に気付き、俺は一つ咳払いをした。
「レーズンの菓子はあるか?ポーラの好物だからな。彼女も呼んで休憩でも――」
そう言った所で、コンコンと執務室の扉が軽くノックされる。許可をすれば入ってきたのはポーラの侍女のアンナだ。彼女の持つトレーには、湯気がのぼる温かな紅茶が乗せられていた。
「失礼致します。こちらお嬢様が大公殿下の為にお淹れになられた紅茶になります」
「っ!?ポーラ自ら俺の為に……?レーニエ、俺の頬をつねってくれ」
「ご自分でつねられれば宜しいではありませんか。大丈夫です、大公殿下の妄想ではなく現実ですよ」
呆れたようなレーニエの言葉を聞きつつも、俺の思考は目の前の紅茶でいっぱいだ。ポーラが俺の為に淹れてくれたというだけで、なんだか光り輝いて見える。
いそいそとソファへと移動すれば、俺の目の前に紅茶が置かれた。なんとも言えない爽やかな良い香りが鼻腔を擽る。
「これは、とても良い香りだがハーブティーか?」
「はい。こちらのレモンバームは、お嬢様が公爵家で自らお育てされた物を使用しております。疲れがとれる効果があるそうで、大公殿下を労いたいというお嬢様のお気持ちでしょう」
「そう、か……ポーラが俺を気遣って……」
まだ飲んでいないというのに、既にじわりと胸が温かくなってしまう。感動に打ち震えていた所で、アンナがくすりと小さく笑みを溢した。
「どうぞ冷めないうちにお召し上がりください」
「あぁ、ありがたく頂こう」
本当はこのまま保存したいくらいなのだが、それは無理な話ではあるから、俺は紅茶を目に焼き付けた後、こくりと一口ゆっくり口に含む。
爽やかな香りではあるが、口当たりはなんともまろやかで、仄かに感じる甘味は蜂蜜だろうか。甘すぎる事もなく、実に飲みやすい。
「なんだかスッキリとするような味わいだ。思考が澄みきって晴れ渡っていくような感じがするな。これなら仕事も捗りそうだ」
「そう言って頂けるとお嬢様も喜ばれるでしょう」
「そうだ、今からポーラの好きなレーズンの菓子を用意させようと思っていたんだ。紅茶の礼も直接言いたいんだが、ポーラは今忙しいのだろうか?」
そう言えば、アンナは少し考える仕草を見せた後、ややあってこくりと頷いた。
「実はお嬢様なのですが、恥ずかしがっていらっしゃるのかご自分でお持ちするのは遠慮されたのです。ですがお嬢様はレーズンのお菓子には目がありませんから、必ず来られる筈です。お呼びして参りますね」
「あぁ、宜しく頼む」
ぺこりと頭を下げてアンナが退室した後も、俺は一口一口ゆっくりと味わうように紅茶を口に含む。不思議と飲む度に、思考が冴えていく感覚がしてこれは癖になりそうな味だ。
つい表情が緩んでしまえば、レーニエがニヤニヤとした表情を浮かべているのが目に入り、俺はぐっと表情を引き締める。
本当に今日はなんて幸せな日だろうか。そう感じていた所で、急に廊下が騒がしくなる気配がする。何かあったのだろうかと腰を浮かせかけた時、ノックもなしに勢いよく扉が開かれた。
「大公殿下!大変です!お、お嬢様がお部屋にいらっしゃいません!」
「………………は?」
アンナの言葉の意味が解らず、自分でも間の抜けた声が漏れる。
ポーラが部屋にいない……?
「先程まで部屋にいらっしゃったのでしょう?庭に散歩にでも出ていらっしゃるのではないですか?」
言葉を失った俺の代わりにレーニエがアンナに問いかけるものの、アンナは真っ青な顔で首を横に振ると、俺の方に封筒を差し出した。
「机の上にこちらが置いてありました。公爵家でもよくお忍びで邸を抜け出される事はありましたが、こんな風に手紙を残して行かれるのは初めての事です」
震える手でそれを受け取り、封を開けようとするのだが、上手く力が入らず開けられない。見かねたレーニエが俺の手からそれを取り上げると、さっと封を開き、手紙だけを俺へと手渡した。
『アルテュール様
私には過分な程の幸せを受けながら、何も言わずに立ち去る無礼をどうかお許しください。
アルテュール様と過ごした日々は、短い間でしたが、私にとっては人生最良の毎日でした。
だからこそ余計に心苦しく、私はここにいてはいけないという思いばかりが募ってしまいました。
アルテュール様には謝らなくてはいけない事がたくさんあるのですが、正直に言えず申し訳ありません。
どうか私の事など忘れて、本当に愛する方とお幸せになってください。それだけが私の望みです。
ポーラ』
読み終えた後も、訳が解らず俺はただ呆然とする事しかできない。
本当に愛する方……?
そんなもの、ポーラ以外にいる訳がないというのに、彼女は何故こんなにも自分が本当は愛されていないとでも言いたげな言葉を綴っているのだろう。
心苦しく思う事なんて何もない。彼女の居場所は間違いなく俺の傍だ。
俺と過ごした日々が最良だと言いながら、何故立ち去らなくてはならないのか。
「何故……何故だ、ポーラ……俺の愛は、君に届いていなかったのか……?」
ぐしゃりと前髪をかきあげ、俺は項垂れて顔もあげられない。
そんな俺に対してアンナが恐る恐るといった様子で、困惑した声を漏らした。
「あの……もしかしたら、お嬢様は何か勘違いをされていらっしゃるのかもしれません」
「勘違い……?」
「実は、お嬢様は大公殿下からの求婚の釣書を見ておられないのです」
「…………そ、んな……まさか」
信じられない言葉にがばりと体を起こすものの、アンナの表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには全く見えない。
オランジュ公爵に送っていた求婚の証を、まさかポーラが見ていないだなんてそんな事は思いもしなかった事だ。ポーラは当然それを見ていた上で、俺のプロポーズを受けてくれたのだとばかり思っていたからだ。
あれを見ていないという事は、ポーラはいきなり公の場で思ってもいない相手にプロポーズされた訳だから戸惑っていたのも当然だったのだ。
「何故、そんな事になったのだ!?オランジュ公爵はポーラの返事を聞かずに、俺との結婚を許可されたというのか!?」
最初、ポーラは俺との結婚を了承していないのではないかとは感じていたが、まさか本当にその通りだったとは、こればかりは娘の意向を無視したオランジュ公爵に物申したくなる。
ふつふつと怒りが込み上げる中、アンナは静かに首を横に振った。
「いいえ、旦那様はお嬢様のお気持ちをよくご存知でしたから、他でもない大公殿下に許可されたのです。そうでなければ、とうの昔に王太子殿下と婚約を結ばせていた筈です」
「ポーラの気持ち……?」
ほんの少しの希望が芽生える中で、アンナは少しだけ逡巡した後、そっと口を開いた。
「お嬢様はうまく隠せているおつもりなので、この事は内密にして頂きたいのですが、オランジュ公爵家内ではお嬢様の初恋が大公殿下で、出逢われた時からずっと大公殿下をお慕いされているという事は周知の事実なのです」
その言葉は思ってもみなかった事で、俺は間抜けにもぽかんと口を開けたまま固まってしまう。
ポーラの初恋の相手が俺……?そんな夢みたいな事が現実なのだろうか。
「だからこそ旦那様は、大公殿下が求婚され始めた時から、お嬢様のお気持ちが変わる事がなければ大公殿下に嫁がせるおつもりでずっと心の準備をされてきました。旦那様も奥様も、坊っちゃまも、お嬢様の幸せが何よりの望みなのですから」
「なら、どうしてポーラは俺が他に愛する人がいるだなんてとんでもない勘違いをしているんだ……?俺は他の女性とは誰とも親しく付き合っていないぞ」
騎士団に居た時には任務で忙しくてそんな暇はなかったし、それ以前も記憶にない。そもそも俺が初めて抱えた女性は幼いポーラだ。それ以外だなんて――
「お一人だけ、いらっしゃるではありませんか。大公殿下が初めて公式の場でエスコートされた御方が」
レーニエの言葉に、俺はハッとする。
そうだ、ポーラへの求婚の条件として兄上から依頼されたエスコートだったから、俺にとっては仕事と同じ感覚だったが、セレスト王女のエスコートをポーラが勘違いしていたとしたら。
それなら、この手紙にも説明がつくのではないだろうか。
「くそっ……兄上からの頼みとはいえ、あのエスコートさえ受けなければ違っていたのか……?」
「後悔は妃殿下を無事に連れ戻してからになさいませ。大公殿下、貴方様は騎士団長時代、一度も諦める事なく戦い続けておられました。まさかこのまま諦めるおつもりではないでしょう?」
レーニエもアンナも、俺に対して真っ直ぐに力の篭った眼差しを向ける。
ポーラを諦めるなんて事は絶対にない。彼女のいない日々は、死んでいるのと変わりないのだから。
「ポーラの捜索をすぐに開始する!彼女を見かけた使用人がいれば速やかに報告せよ!我が家の騎士団全員もすぐに召集だ!」
「はい!騎士団の方は私が参ります。アンナさんは使用人達を集めて情報収集をお願いします」
「畏まりました!」
俺たちは顔を見合わせて頷くと、すぐさまそれぞれの持ち場へと向かう。俺はといえば、真っ直ぐに厩へと向かい、愛馬に鞍を付けさせた。
「待っていてくれ、ポーラ。どこに行こうと、俺は必ず君を見つけてみせる」
ぎゅっと手綱を握る手に力を込めると、俺は空を見上げる。
昼は肉眼では星は見えない。だが、見えないだけで星は存在しているのだという。
今はまだ、どこにいるのか見えない、俺の愛する星だけを目指して、俺は馬を駆けさせた。
読んでくださってありがとうございます!
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