8 笑顔と妙薬
「わぁ……!この一面が果樹園なのですね」
馬車の窓から見える先に広がるのは、均等に配置された様々な木々だ。遠目なので種類までは解らないけれど、何かの果物がたくさん生っている事は解る。
「この辺りでは主にマンゴーやパッションフルーツを栽培しているそうだ。滞在する予定の果樹園では、ポーラの希望通り収穫の体験もさせてもらえるように話は通してある」
「本当ですか!?それは楽しみです」
想像するだけで貴重な体験をさせてもらえる事が嬉しく、アルテュール様に笑顔を向ければ、彼は眩しそうに目を細めると、膝に乗せた私をまたぎゅうっと抱き締められた。
農園の視察(アルテュール様曰く婚前旅行……)をお願いしてから早数日。
大公家の邸があるイリスの街からは、経由する街々で休憩を挟みつつのんびりと行けば、馬車で1日、2日かかるくらいの距離だという農園や果樹園、その周辺の村を視察する事が決まった。
お邸の皆がその準備に追われている中、オランジュ公爵邸から専属侍女のアンナと一緒に私の荷物も無事に届いていた。私が必要としている物は全て揃っていたから、流石はアンナだ。
私の調薬道具と素材も手元に戻ってきたから、これでようやくアルテュール様の為に解毒薬を作れる。媚薬は別に毒ではないのだから、解毒薬という言い方が合っているのかは微妙な所なのだけれど、アルテュール様のように性格にまで影響を与えてしまえば、毒薬と言ってしまっても間違いではない気もする。
この視察が終わったらそれの作成に取り掛かると決めたから、今回の旅はアルテュール様との最後の想い出になるだろう。だからこの旅の間だけは、セレスト王女への後ろめたさだとか、そういう気持ちは全部忘れて全力で想い出作りをする事に決めたのだ。
そう、だからこそ私はこの馬車に乗る時も、当然のように御自身の膝に座らせようとされるアルテュール様を素直に受け入れたのだから。
それにしても、いくら鍛え上げられた素晴らしい肉体をお持ちのアルテュール様でも、こんなに長時間私を膝に座らせていては疲れるのではないだろうか。
「あの、アルテュール様……ずっと私が乗っていては重くはありませんか?」
「いや、全く重くないぞ。むしろ軽すぎるくらいだ。ポーラはもう少し食べた方がいいのではないか?」
「えっ!?私、結構食べている方ですし、節制した方がいいかしらと考えていたのですけれど…」
それはたくさん召し上がられるアルテュール様に比べれば、私の食べる量など雀の涙程度にしか見えないだろう。それでも私は基本的に食べる事が好きだし、甘い物は特に好んで食べている。だから食事の時にはコルセットもかなり緩めてもらっているのだから。
怪訝な顔をしている私とは裏腹に、アルテュール様の表情はなんだか悲しげだ。
「節制だなんてそんな事は必要ない。君の体積がこの世界から減ってしまうだなんて、それこそ世の中の損失だ」
「えぇ?」
「果樹園では君にたくさん美味しい果物を食べさせなくてはならないな……」
アルテュール様はよく解らない理論を言われた後、私の体積を確かめるように、ぎゅうぎゅうと抱き締められるものだから少しだけ息苦しい。
「っ……アルテュール、さまっ……ちょっと苦し……」
僅かに声をあげた所で、馬車の扉がこつこつとノックされる。いつの間にか馬車は止まっていたみたいだ。
「……大公殿下、貴方様は妃殿下を抱き潰してしまうおつもりですか?」
ガチャリと扉が外から開けられたかと思えば、溜息混じりの声が聞こえる。顔を覗かせたのは大公家の執事長で、アルテュール様の補佐もしているレーニエだ。
ブロンドの髪をいつもきっちりと纏めていて、物腰も丁寧。仕事もかなり出来るし、とにかく指示が的確だとアンナから聞いている。
そんな彼はきつく抱き締められたままの私に優しく微笑むと、アルテュール様へと厳しい視線を向けた。
「大公殿下、聞いておられますか?妃殿下を離し難いというお気持ちはお察ししますが、貴方様はただでさえ人より力が強いのです。加減をなさいませんと、妃殿下に嫌われてしまいますよ」
その言葉にアルテュール様はぴくりと反応されると、私を抱き締めていた腕は少しずつ力が緩んでいく。
ようやく顔をあげられたアルテュール様は、こんなに逞しい体をされているというのに、まるで捨てられた子犬のような瞳で私を見られるものだから、私はまた小さく呻き声をあげてしまった。
この見た目でその表情はあまりにずるい。
「ポーラ、すまない……君の体積がこの世から減る事を想像したらあまりにつらくて、離し難くなってしまった。こんな俺に呆れただろうな」
「そ、そんな事は絶対にありません!それに今からたくさん果物を食べるつもりですから安心してください!」
「そうか、それは安心した」
ぐっと拳を握り締めてそう宣言すれば、彼は一瞬目を丸くした後、ふっと柔らかく破顔される。その笑顔を見た瞬間、私の心臓は煩いくらいに音を立ててしまうし、顔はぶわりと湯が沸いたように熱くなる。
慌てて顔を覆おうとするのだけれど、無情にも私の両手はアルテュール様に掴まれてしまった。
「また君は俺の前でその愛らしい顔を隠してしまうつもりか?俺は隠される程、暴きたくなる性質だと言った筈だが?」
「っ……!アルテュール様の意地悪……」
ぼそりと呟けば、今度は彼の方から低い呻き声があがる。どうされたのかと見やれば、強く唇を噛み締めすぎたのかその唇からは血が滲んでしまっていて、私はぎょっと目を見開く。
「アルテュール様……!血が出てしまっています……!」
「うん?あぁ……こんなもの、舐めれば治る」
「しっかり治療しなくては良くありませんよ!少しお待ちください」
ぺろりと口元を舌で舐める仕草は何とも目に毒なものだから、私はさっと視線を落とすと、自分用に持ってきていた自作の軟膏の入れ物を取り出した。
「私が趣味で自分の為に作っている傷薬ですから、大公家お抱えのお医者様には遠く及びませんけれど、応急処置をさせてくださいませ!」
「ポーラが俺に手ずから塗ってくれるのか?」
「はい!じっとしていてくださいね」
「あぁ」
指先で軟膏を少し掬いあげると、アルテュール様は私のお願い通りじっとしてくださってはいるものの、目を閉じられていると余計に御顔立ちの良さに目がいってしまって妙に緊張してしまう。
震えそうになる手を必死に抑えながら、唇にできた傷口に軟膏を塗り込めばいつも通り傷口はすうっと消えていた。
「よし、もう大丈夫ですよ。でも後で絶対にお医者様に診て頂いてくださいね」
ホッと胸を撫で下ろしながらそう言うのだけれど、アルテュール様は傷口があった所に触れ、何故かぽかんとした表情をされている。
私がこてんと小首を傾げていれば、彼はレーニエの方に顔を向ける。よく見ればレーニエも呆然とした様子だ。
「レーニエ、俺を斬ってみろ」
「えっ!?」
急に何を言い出されるのかと驚いているのは私だけで、レーニエはふるふると首を横に振ると懐から小剣を取り出していた。
「いえ、ここは私で試します」
そう言うや否や、彼は迷う事なく自分の腕に傷をつけるのだから、私は何が何だか解らず悲鳴をあげてしまう。どくどくと滴り落ちる真っ赤な血に、震えが止まらない。
目の前で起きている状況についていけていない私の手からアルテュール様は軟膏の入れ物を取られると、すぐさまそれをレーニエの傷口へと塗り付けられる。
と、今まで滴り落ちていた血は消えないものの、傷口は綺麗に塞がっていた。流石に目の前で斬られる所は初めて見たものだから、まだ冷や汗が溢れている。
必死に心を落ち着けようと深呼吸を繰り返す私とは違い、アルテュール様もレーニエも難しい顔だ。
「これは本当に妃殿下が作られた物ですか?どなたかに師事されたのでしょうか?」
「え?いえ……独学ですね。薬学自体はアカデミーで学んだだけです。私は、その……よく家を抜け出していましたから、その過程で擦り傷が出来る事が多くて、ずっと趣味で作っていたのです」
お忍び脱走の部分はつい後ろめたくて小声になってしまったのだけれど、2人は難しい顔で見合わせたままだ。
私の傷薬が、何かまずかったのだろうか。
「ポーラ、君はもしやオレオル神から薬関係のスキルを授かっているのだろうか?」
「はい、私は『調薬』スキルを授かっていますが……あの、それが何か……?」
2人の只事ではない雰囲気に、私はおずおずと尋ねる。効果はそれなりだと思っていたのだけれど、私以外には殆ど使った事がなかったから、問題があったのかもしれない。
そういう不安さが顔に出ていたのだろうか。アルテュール様は私の頬をその手で優しく包まれると、優しく微笑まれた。
「不安にさせたようですまない。君の薬があまりに即効性が高く、効果が優れているものだから驚いたのだ。これは今まで君以外には使った事がないのか?シモンにも?」
「シモンは私のスキルが何かは知っていますが、彼は私の前では怪我をした事がありませんから、使う機会はなかったです。あ、でも……」
記憶を手繰ってみても、シモンはお忍びの時でさえ、いつだって完璧な身嗜みだったから私の傷薬は全く必要がなかった。
ただ一度だけ、この傷薬を私以外に使った記憶がもう朧げではあるけれど脳裏に蘇る。
「あれは確か……私がスキルを授かったばかりなので、まだ10歳の時だったと思います。お忍びで王都の街に出た時、間違えて少し治安の悪い辺りに出てしまったのですけれど、そこで大怪我をした青年がいたんです」
「っ!?治安が悪いとは、まさかシャグラン地区か!?あそこは君のように愛らしい人が居ては危険な場所だぞ!?」
眉を顰めるアルテュール様は、どうやら本気で私の心配をしてくださっているみたいだ。
王都はかなり広く、地区ごとに住んでいる人々の階級が纏まっている傾向がある。私達貴族や平民でも裕福な人々が住む地区の他、一般的な平民が住む地区が王都では大多数を占めている。
それらは比較的安全で、治安も行き届いているのだけれど、そうではない場所が1箇所だけある。それが王都でも末端に位置し、平民よりも貧しい人々が多く住んでいるシャグラン地区だ。
犯罪の発生率も高く、排他的で、ここに貴族然とした者が足を踏み入れれば、まず間違いなく狙われて身包みは剥がされる。それが見目の良い女性ならば、酷い目に遭わされた後で売り飛ばされるのだとシモンにも散々口酸っぱく言われていたから近付いた事はなかったのだけれど、あの日は年に一度の建国祭だった。
出店に気を取られた私はシモンとはぐれ、気がついた時にはシャグラン地区まで来てしまっていたのだ。路地に横たわっている青年を見つけたのは、迷い込んだ事に気付いて引き返そうとした時だった。
顔は全く覚えていないけれど、腹部と足から血が溢れていてとても危ない状態だったのは確かだ。見つけてしまったからには放っておけず、持っていた傷薬を塗り込んで治療してあげたのだ。
「血がいっぱい出ていたから意識が朦朧としていたのでしょうね。傷口が塞がった後、私を見て女神様と呟いていましたから」
もう会う事もないだろうけれど、あの青年はあれから無事に生きているのだろうか。そんな事をぼんやりと考えていれば、アルテュール様は物凄く眉間に皺を寄せられていて何だか不機嫌な様子だ。
最近はこんな表情を見る事が殆ど無かったものの、この表情は以前のアルテュール様がよくされていたものだ。つい癖で身構えてしまえば、彼はハッとしてぐしゃぐしゃと髪を崩されると深い溜息を漏らされる。
「すまない……つまらない嫉妬だ。その男、どう考えてもポーラに惚れたとしか思えないだろう」
「えぇ?まさかそんな筈はありませんよ」
「死にかけている時に救ってくれたのが、女神のように美しい君だったんだぞ。惚れない方がどうかしている」
真顔で大真面目に仰るアルテュール様がなんだか可笑しくて、私はついくすりと笑みを漏らしてしまった。私に近付いてくるのは大概公爵家の権力目当ての人ばかりだ。その時は平民の服を着ていたし、そんなただの私相手に惚れる人もいないだろう。
そう思っていれば、アルテュール様は少し拗ねた様子で私をぎゅうっと抱き締められた。
「君はどうしてそんなに自分の事を知らないんだ。俺は心配で気が狂いそうだというのに」
「アルテュール様……」
私に顔を埋めてしまったアルテュール様の髪を、ここぞとばかりによしよしと撫でさせてもらっていた所で視線を感じる。
見ればレーニエが何とも言えない生温かい表情でこちらを見ているものだから、どうにも恥ずかしくなってしまった。
「……それで妃殿下の薬ですが、この視察が終わった後で作っている所を見せて頂く事は可能でしょうか?」
「え、えぇ……道具も素材も公爵家から届いているから大丈夫よ」
「それではこの話は視察が終わってから改めて致しましょう。さぁ、大公殿下。そろそろ行きませんと、皆が首を長くして待っていますよ」
レーニエがそう言うものの、アルテュール様は暫くの間、私を離される事は無かった。
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