執事アドリアン・モローの選択 その1
「――あら、いつぶりかしら?」
少し皮肉めいた口調でそう言ったのは、エミリア・エマーソン。
この邸の女主人であり、リッキード・エマーソン元議員の奥様で、今や共和国の政治を動かすアリシア・エマーソン代表の母親でもある。
年はもう五十近いというのに、その美しさは衰えるどころか、妖艶さすら醸し出している。
まさに熟成しきったワインのようだ。
そんな彼女が、少しひねた顔つきで私を見てそう言ったのである。
相変わらずだな。
そんなことを思いつつ、私は頭を下げる。
「ご無沙汰しております、奥様」
するとエミリア様は扇子で口元を隠して、くすくすと笑う。
「本当にご無沙汰よね。あなたのお茶が飲めないのがこんなに苦痛だと知っていたら、娘のところになんて行かせなかったわよ」
拗ねたような表情は、妖艶でありながらかわいらしいと感じさせるものだ。
実に男心をくすぐる。
おかげで、共和国の社交界では「共和国の紅き薔薇姫」と呼ばれていたほどだった。
だが、彼女はただ美しいだけではない。
なぜなら、エマーソン家は共和国を陰から支配すると言われているほどの力を持つ。
エマーソン家を継ぐ者は、その資産と権限にふさわしい当主として徹底的に教育されてきた。
だからこそ、情に流されず、国のために冷徹に陰で動いてきた。
それゆえ、彼女を残虐で容赦ない人物だと思う者も多い。
それを知る者は、陰でこう呼んだ。
「共和国の鮮血の薔薇姫」と。
だが、それは彼女の一面でしかない。
彼女も女性なのだ。
そんなエマーソン家のことを知っていながらも、エミリア様に熱心に求婚してきた相手がいた。
今の夫、リッキード様である。
彼は、すべてを知ってなおエミリア様にベタ惚れし、何度も何度も求婚した。
その熱意は、とんでもなく熱く、甘く、そして陶酔させるものだった。
こうして二人は結婚し、リッキード様はエマーソン家の婿養子として迎えられた。
だが、リッキード様は裏方にはあまりにも不向きな性格であった。
だからこそ、エミリア様は決断した。
「あなたは表を行きなさい。わたしは裏を行くから」と。
二人はお互いのことを思いつつ、各々の道を歩み続けてきた。
ある時が来るまでは――。
そして、それが起こった。
娘であるアリシア様が父に代わってフソウ連合との講和を取り次いだ、あの出来事である。
あの出来事でアリシアお嬢様が表舞台に躍り出たのだ。
その結果、リッキード様は政界を引退した。
娘にすべてを託して。
そして、そのとき私は奥様から選べと言われた。
このままここに残るか、
それともアリシアお嬢様についていくか、と。
その選択の中、私は選んだ。
アリシアお嬢様についていく、と。
そして今に至る。
「今日は少しくらい余裕があるのかしら?」
「はい。そうですね、奥様のお茶のお相手くらいは……」
私がそう言うと、エミリア様は楽しげに笑う。
「そう。じゃあ、庭にお茶の用意をして」
「はい。奥様」
こうして、ぽかぽかとした陽気と穏やかな風が心地よい庭で、ささやかなお茶会が始まったのであった。
庭に用意されたテーブルと椅子。
その椅子に腰かけ、優雅にお茶の香りを楽しみつつ、紅茶を口にするエミリア様。
「ふふっ。いい香りね。バミリア産かしら」
「はい。その通りでございます」
エミリア様の斜め横に直立不動で給仕をしつつ、私は答える。
しばしの沈黙。
エミリア様は目を細めて、庭に咲き誇る色鮮やかな花を見ている。
その鮮やかな色合いは、まるで花の香りまで感じさせるようだった。
「どうやらうまくやっているようね、あの子は……」
ぽつりと出た言葉。
「ええ。さすがは奥様と旦那様の子ですな。実にうまくやっておられます」
その私の言葉に、エミリア様はますます目を細める。
何せ、アリシアお嬢様を鍛えたのはエミリア様なのだから。
その上、父親であるリッキード様の政治家としての素質も兼ね備えている。
まさに、今の迷走する共和国を何とかするために生まれてきたのではないかと思えるほどだ。
失礼を承知で言えば、リッキード様では、この国難を何とかできたとは思えない。
アリシアお嬢様だからこそ、成しうることなのだろう。
ふと、脳裏に幼いころのアリシアお嬢様の姿が浮かぶ。
よく、この庭で――エミリア様の厳しい教育に涙をこぼしていたな、と。
気がつくと、エミリア様がこちらを見て微笑んでいた。
「あなたがあの子を支えてくれたからこそだと思っているわ」
その言葉と視線、そして浮かぶ表情は、――ここで泣いているアリシアをあなたが慰め、励ましていたことを、ちゃんと知っているわ――と言わんばかりだ。
参ったな……。
思わず苦笑が漏れた。
「ご存じだったんですね」
「ええ。もちろん。だって、私もあなたに慰められていたからね」
くすくすと笑うエミリア様。
遠くを見るような表情で庭を眺めている。
もっとも、その目は花を見ていない。
おそらく遠くで執務に励むアリシアお嬢様の姿が、その目には浮かんでいるはずだ。
そして、つぶやく。
「本当に、無理しないといいのだけれど……」
そのつぶやきは、子を案じる親の思いがにじみ出ていた。
おそらく、お嬢様の激務についても把握しておられるのだろう。
だから、私は何気なく言い返す。
「何かありましたら、私が支えますので」
その言葉に、エミリア様は楽しげに笑った。
「ええ。期待しているわ」
少し苦笑して言葉を続ける。
「でも、たまにはこうして帰ってきなさい」
「わかりました」
私がそう答えると、エミリア様は満足げにうなずいた。
そして、思い出したことを伝える。
「そういえば、お嬢様から伝言がありました」
その言葉に、エミリア様は驚き、興味津々の面持ちで続きを促すような視線を向けた。
「『これで、お父様も時間ができたと思うから、お父様としっかりいちゃいちゃしてね』――と」
その言葉に、エミリア様は真っ赤になった。
実は、いまだに二人はラブラブで、人目のないところでは熱々なのである。
だが、それでもなるべく目立たないようにしてきたつもりだった。
もちろん、使用人の中には気づいている者もいたが、娘には気づかれていないつもりでいたようだ。
「あの子……いつから……」
思わず漏れた言葉。
その言葉に、私は微笑んで告げる。
「もう、かなり以前からです。『お父様はもっと時間を作って、お母様といちゃいちゃすべきだと思うのです』――そうお嬢様に言われたことがございますから」
ますます真っ赤になるエミリア様。
まるで乙女のように純真だ。
「もう……」
そう言いつつも、まんざらでもない様子だ。
実際、ここ最近は旦那様が毎晩家にお帰りになっており、かなりご機嫌だったと聞く。
しばらく顔を真っ赤にしていたエミリア様だったが、なんとか立て直し、尋ねてくる。
「そういえば、あの子にそんな話はあるのかしら?」
まあ、もしあったらそれをネタに何か言い返してやろうというつもりなのだろう。
たしか、以前、娘とそういった話をして盛り上がりたいともおっしゃっていた。
ともかく、期待されて問われたが、ご期待に沿えることはできない。
「残念ながら……」
短くそう告げると、エミリア様は深々とため息をついた。
「本当に、あの子はそういう話、ないわよねぇ。私に似て才色兼備の美女だというのに、世の男どもは何をしているのよ」
その言葉に同意しつつも、だからこそ近寄りがたい“高嶺の花”と思われ、諦められている節もあるのだろう――と、心の中でだけ付け加える。
思考を切り替えたのか、質問が飛んでくる。
「なら、最近、年がちょうどよくて、親しくしている男性って誰がいるのかしら?」
「そうですな――王国のアイリッシュ殿下や、フソウ連合のサダミチ・ナベシマ様でございましょうか……」
その言葉に、エミリア様は少し考えてつぶやく。
「うーん、国際結婚か……。でも、悪くはないかも……」
「すみません、奥様。お二人とも恋人か許嫁がいらっしゃいます」
その言葉に、エミリア様は拗ねた顔になる。
「もう。本当に世の女性は、目ざといんだからっ」
「奥様、きっとお嬢様にも、旦那様のような素敵な方が見つかりますよ」
「だといいんだけどねぇ……」
ため息とともにこぼれる言葉。
その様子からは、かつて「共和国の鮮血の薔薇姫」と呼ばれた面影は微塵もない。
それは、ほとんどの権限をアリシアお嬢様に譲ったがゆえでもある。
そう、私がお嬢様についていくと決断したときから。
そして、それはそれでよかったと思う。
こんな楽しげなエミリア様の顔を見られたのだから。
さわやかなそよ風が舞い、紅茶と花の香りに満ちた空間で。




