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第一章


雨の音が微かに聞こえてきた。僕は枕に顔を沈ませ、寝ぼけながら近くに置いてある携帯電話を手探りで取り上げ、時間を見ようとした。液晶画面に表示されている文字が認識できるまで少し時間がかかった。


5月13日 11時30分


閉め切った真っ暗な部屋に携帯電話の画面の光だけが煌々と僕の顔を照らしていた。携帯を元の場所に置いて僕はしばらく寝起きの微睡みを楽しんでいた。いい加減起きようと葛藤する中、少しずつ思考が出来るようになり、ゆっくり身体を起こしながら蛍光灯の紐に手を伸ばし、一度引っ張った。

次の瞬間、人工的な眩しい光に目がくらんだ。急に明るくなった部屋を細目で見回すと現実が目に飛び込んできた。ベッドの近くにあるテーブルの上には空の缶ビールが数本と食べかけのスナック菓子が散乱していた。

僕はベッドの上であぐらをかいて考えていた。


(そろそろ掃除しないとマズイよな……すごい埃っぽいし……最後に窓開けたのいつだっけ……?)


頭を掻きながらこれからどうしようかと考えていると枕元にあった携帯電話が震えだした。

僕は携帯を取り、液晶画面を見るとメール一通受信と表示されていた。メールボタンを押すと逢沢亮介という名前と件名に[起きてるかー?]と書いてあった。僕はボタンをもう一度押してメールを開いた。


[今夜、家行っていいか?オーケーなら返事ちょうだい。それと何か買っていくけどリクエストあったらおしえて]


僕はすぐに返信メールを書いて送信した。


[別にいいけど、この前みたいに泥酔して泊まるのは勘弁してくれよ。リクエストはコンビニの大盛ペペロンチーノといつもの缶コーヒー。来る前にまたメールして]


このメールの送り主、逢沢亮介は僕の大学時代の友人で大学卒業後も連絡を取り合っている数少ない人間の一人だった。同じ学科だった僕らはたまたま講義で席が隣同士になり、それから一緒に過ごす事が多くなっていた。そして気がつくと親友という名の腐れ縁になっていた。

僕と逢沢は運良く大学在学中に就職が決まって一次期サラリーマンをやっていたのだが、新入社員研修での過酷な山登り、お寺での規則正しい生活、みんなの前で大声で自己紹介をするなどの謎の研修プログラムに当時の僕は全く理解できなかった。研修後、僕は会社と社会に対する不信感が日々大きくなり、深く考えずに早々と会社を辞めてしまった。逢沢も僕と似たようなもので、会社の空気が合わないと言って退職していた。それから僕と逢沢はフリーターになりお金は無いが忙しいサラリーマンよりは時間に縛られず自由にやっている。

社会人としての一歩目を躓いた僕らは同じ境遇の似た者同士、今でもよく会っている。

気がつけば最初の会社を辞めてから三年経っていた。今ではフリーター生活にどっぷり浸かり抜け出せなくなってしまっていた。世間的に言う真っ当な人間にはまだなれそうになかった。


僕は天井を見上げて少しの間、目を閉じた。

逢沢が来るまでに散らかった部屋を片付けようと思いベッドから立ち上がると何日かぶりに窓を開けた。

さっきまで雨音が聞こえていたが、どうやら雨は止んだみたいだ。自分の部屋の空気が澱んでいるためか、外の空気がとても澄んでいるのを感じた。僕の住んでるアパートは駅から少し離れた住宅地の中にあって、平日の昼間は本当に静かだった。僕はしばらく窓を開けたまま、いつも見慣れた雨上がりの景色をボーッと眺めていた。

僕がこうしてる間にも静かに時は流れている。あくせくと働く人、1日時間を持て余している人、色んな人がいる。

僕も気が付けば二十代半ばまで来てしまった。そしてまた気が付けば三十代、四十代になっている自分が容易に想像できた。

子供の頃から今まで普通に生きてきたつもりだった。でも二十五年の人生を振り返って、大切な節目にちゃんと考えて選択したかと言われたら皆無に等しかった。離れて暮らす両親とも、フリーターになってからはあまり連絡しなくなっていたし、地元の友達とも自分から連絡が取りづらくなっていた。これは自分の生き方に自信がない表れだった。


僕は一つ、深いため息をついてから後ろを振り返り、まずは近くの現実と向き合おうと部屋の掃除を始めた。

最初は溜め込んだゴミだけを処分しようと思ったのだが、やる気スイッチが入ってしまい、他の気になる場所も掃除しだしていた。気がつくと予定していた時間よりかなりオーバーしていた。

僕はゴミをまとめた大きな袋をキッチン脇のスペースに無理やり置いた。

冷蔵庫に貼ってあるゴミの日が書いてある用紙を確認すると燃やせるゴミは明日だった。カンとビンは明後日、今夜は空き缶が出そうなのでゴミ袋が入れてある引き出しを開けて、中を確認するとカンとビンのゴミ袋だけが無かった。

僕は少し考えて居間に置いてあるデジタル時計に目をやった。17時35分と表示されていた。


「逢沢にゴミ袋頼むのはなんか違うしな……自分で買いに行くか……」


逢沢はおそらく19時過ぎないと来ないだろうし、久しぶりに重労働したので気分転換に散歩したかった。

美しく生まれ変わった部屋を自画自賛しながら着ていたスウェットを脱いでジーンズとパーカーという散歩用の楽な格好に着替えてから戸締まりをして外に出た。


(あっ、そういえば掃除に夢中で昼ごはん食べてなかった。まあ、そんなにお腹空いてないし夕飯まで我慢しよう……)


太陽は西の方角に傾いていたが外は明るかった。アパートの前の通りを出て僕は駅の方向へ歩き出した。

駅前には大きな商店街があり、僕はいつもそこで食品や日用品の買い物をしている。子供の頃、母親に連れられて商店街へ買い物に行った記憶が残っていて僕は商店街に対して少なからず愛着を持っていた。

二十年くらい前はまだ小さい商店街にも活気があり、夕方くらいになれば買い物客で溢れていた。僕の記憶に残っているのが商店の店員が楽しそうに仕事をしているというのがとても印象的だった。大体、商店街の小さな商店は家族ぐるみで経営していたのも要因の一つかもしれない。買い物に来るお客さんもほとんどが常連客ばかりだったし、なんだか地域全体が家族か親戚のような感覚が子供ながらにしていた。

アパートから十五分ほど歩いた場所に商店街はあった。入り口の看板が見えたところでポケットに入れていた携帯が震えだした。僕は携帯を取り出して開くと逢沢からのメールだった。


[20時くらいになると思う。明日は朝からバイトだからそんなに長居はしないよ。あとリクエストは確かに承った]


僕は『了解』とだけ打って返信し、そして商店街に入って行った。

基本的に僕は人混みが好きではないが都会に暮らしている以上、人混みは避けては通れないと諦めている。でもまとまった買い物をする時は平日の午前中か、遅くても昼過ぎくらいの時間帯を選択するようにしている。今は夕方というのもあり、人が多かった。買い物客や会社帰りのサラリーマン、学生などで通りはまさにカオス状態だった。地方の小さな商店街は衰退していく一方だが、都会の大きな商店街はとても賑わっているように思えた。だが、人の数は多いけど、昔のような家族ぐるみ感は無い。都会は個人の集合体で隣人の名前すら知らない。

僕は通りを歩く人たちをかわしながら、目的地のスーパーへ向かった。このスーパーは食料品がとにかく安く、肉、魚、野菜、お惣菜など曜日ごとに毎日特売をやっていて常に経済的困窮状態にあるフリーターには救いの場所だった。そしてお店の前に着くと入り口で買物カゴを取り、中へ入って行った。商品の配置は熟知しているので他の買い物客を上手く避けながら最短ルートで商品をカゴの中に入れてレジへと向かった。

夕方なのもあってレジの前は長い列が出来ていた。僕は列の一番後ろに並んで持っている買物カゴに目を落とした。

今日はゴミ袋、インスタントコーヒー、チョコ菓子とお酒に合うスナック菓子がいくつか入っている。レジの順番が近づいてきたのでポケットから財布を出して中身を確認した。給料日前だったので財布には二千円と小銭が数百円しか入ってなかった。帰りに銀行に寄ってお金を下ろそうかと悩んでいたら自分の順番になっていた。レジ台の上に買物カゴを置くと店員が素早く、中の商品のバーコードをスキャンし合計1260円と言われたので僕はキャッシュトレイにちょうどの金額を置いた。レシートを受け取り、レジ袋に購入した商品を入れて店の外へ出た。

銀行に寄ろうかと思ったが、ATMが駅の向こう側にあるのを理由にやめて家に戻ろうと歩き始めた。

人混みを抜け、商店街から出ると夕陽が西の空に落ち始めていてオレンジ色に染まっていた。

僕は夕方の、この時間帯が特に好きだった。空が明と暗の狭間にあり、その中で街の街灯や信号機が輝きを放ち、暗くなるまでの短い時間だけ無機質な物に命が宿って神聖な物へと変化する様子が魔法のように思えた。

人通りの少ない道を歩いていると僕の前を親子が歩いていた。よく見ると二歳から三歳くらいの女の子と若い母親だった。商店街で買い物した帰りなのだろう。母親は買い物袋を右手で持ち、左手は子供の手をしっかりと握っていた。会話の内容はわからなかったが、たまに聞こえてくる笑い声が夕方の空に花を添えていた。僕は知らない親子の無事を祈り家路についた。

自宅に着いて居間の時計を見ると、18時45分になっていた。買ったゴミ袋は戸棚の引き出しに入れた。インスタントコーヒーは明日の朝に飲むので、とりあえずキッチンから見える場所に置いた。少し小腹が空いたので、さっき買ったチョコ菓子の袋を開けて口に放り込んだ。優しくて甘いチョコの味が口の中いっぱいに広がった。

逢沢が来るまでまだ時間があるので、僕はベッドの上に腰掛け、テーブルの上にあるテレビのリモコンを手に取り電源ボタンを押した。

すると、ちょうどNHKのニュースがやっていた。女性アナウンサーが全国で起きた事件、事故を読み上げていた。


「今日午後4時頃、神奈川県K市の市道で横断歩道を横断中の十五歳の女子中学生がワゴン車に撥ねられ病院に搬送されましたが一時間後に死亡しました。警察はワゴン車を運転していた二十五歳の会社員の男を過失運転致死の疑いで、その場で逮捕しました」


聞こえてくるニュースの内容に僕は深い憤りと怒りに似た感情が起こる。運転手のミスで誰かの運命がその一瞬で大きく変わってしまう。ただその時間、その道を歩いていただけなのに……。

こんな時、僕は頭の中で事故現場に着く時間が5秒遅かったら危険な車に気付いて立ち止まれたかもしれない。もし5秒早かったら横断歩道を早く渡りきって、この子は事故に遭遇せずに済んだかもしれない。理屈では無駄な考えなのはわかっているが、どうしても考えてしまう。そして僕はそのままゆっくり体をたおしてベッドの上に仰向けの状態になった。


「次のニュースです。2年前、新宿で起きた通り魔事件の裁判が行われ、検察側は被告に対し、死刑を求刑していましたが無期懲役の判決で刑が確定しました。この事件は2年前の6月、地下鉄新宿三丁目駅近くの路上で刃物を持った男が通行人を次々に斬りつけ、女性一人が死亡、他男女合わせて六人が重軽傷を負った凄惨な事件で無期懲役の判決に被害者のコメントは……」


僕は続きを聞かずに右手に持っていたリモコンの電源ボタンを押してテレビを消した。

部屋は無音になり、僕は天井を見つめたまましばらく動かなかった。

人が生きている以上、死は誰にでも訪れる結果のように思うが、こういった事件で家族や恋人、友人を失った人たちの事を考えると心をまるごと抉られる気持ちだろう。命を奪った者に対しての憎悪は計り知れないと思うし、残された人たちの喪失感や絶望感は一生かかっても癒される事はない。被害者遺族が納得するような罪の償い方なんてものは存在しないように思えた。

僕は頭を軽く左右に振り、考えを止めた。一旦、こういう思考になると、ずっと考えてしまう。僕は昔からそうだった。悲しいニュースを見たり、重いテーマの小説を読んだりすると一人でしばらく考え込んでしまう。なので僕は目を閉じた。


静かになった部屋のベッドで横になって目を閉じていると、眠くなくても睡魔は訪れるらしく、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。

そして突然のインターホンの音にビックリして上半身を瞬時に起こし、前のめりに歩きながら玄関のドアの鍵を外して開けた。するとドアの向こう側に逢沢が立っていた。 


「よお藤乃、その顔はいままで寝てたな」


逢沢は僕の寝ぼけた顔を見るなり苦笑しながら言った。


「ああ……悪い。寝るつもりなかったんだけど……入れよ」


僕はばつが悪そうに一歩下がって逢沢を部屋へ招き入れた。


「ほら、リクエストの物と俺のビールも入ってるから、ちょっと冷やしておいて」


逢沢は玄関に入ると同時にコンビニのビニール袋を僕に渡した。


「ありがとな。ビールのつまみ後で出すよ」


僕はビニール袋の中身を確認して缶ビールと缶コーヒーを冷蔵庫に入れてからパスタを電子レンジの中に置いて扉を閉め、あたためボタンを押した。


「気が利くねえって、あれ?部屋がめっちゃキレイじゃん」


逢沢はキッチンと居間の間で立ち止まり驚いていた。


「ああ、午後ずっと掃除してたんだよ。さすがにそろそろしないとヤバイと思って。ていうかお前は夕飯いらないの?」


僕はキッチンで食事の準備をしながら聞いた。


「ああ、バイト先でまかない食べてきたから」


逢沢は都内にあるイタリアンレストランでコックのバイトをやっていて、働き始めてからもう二年くらいになる。料理の腕前もかなりのもので、たまに逢沢の家に遊びに行くと得意料理を振る舞ってくれたりしてくれた。


「そっか、じゃあ座って待ってて。あと今日は部屋汚すの厳禁」


僕が言うと逢沢は笑いながら居間のテーブル近くに座った。それとほぼ同時に電子レンジがチンッと鳴った。僕はレンジの扉を開けてパスタを取り出し、ラップを剥がすとニンニクの何ともいえない香ばしい匂いが僕の食欲を刺激した。

フォークを上にのせて容器の両端を持ちながら居間のテーブルに置いた。僕のその一連の流れの一部始終を見ていた逢沢がおもむろに口を開いた。


「ペペロンチーノなんか俺が10分あれば作ってやるのに。それにペペロンチーノは材料自体が安いからパスタの中では単価が一番安いんだよ。買うならもっと高い単価のパスタにするべきだな」


「これでいいんだよ。作ったら洗い物が出るだろ、それにこれだって、そこまで悪くないよ。しかも単価が安くてそこそこ美味いのはポテンシャルが高い証拠だろ」


いかにも 素人っぽい反論をしてから僕はやっと夕飯を食べ始めた。

逢沢は携帯電話をいじりながら僕の食事が終わるのを待っている様子だった。10分くらいかけて、大盛パスタを食べ終えると僕はキッチンに移動してパスタの容器とフォークを流しに置いた。


「逢沢、ビール飲むか?」


「ああ、頼むわ」


僕は冷蔵庫を開けて缶ビールと缶コーヒーを取り出し、さっきスーパーで買ったスナック菓子と一緒に居間のテーブルの上に置いた。逢沢は缶ビールを手に取ると蓋を開けて一気に飲んだ。


「ぷはぁぁ、ウマい!何ものにも代え難い仕事のあとの一杯!」


幸せそうにビールを飲む逢沢を見ながら僕は目の前にあったスナック菓子の封を開けてテーブルに置くと僕も缶コーヒーの蓋を開けて一口ゴクリと飲むと甘いコーヒーの味が口の中に広がった。食後の至福な時間だ。


「なあ、藤乃」


逢沢は缶ビールをテーブルに置き、スナック菓子を食べながら言った。


「なに?」


僕が答えると逢沢は崩していた体を直して僕の正面に座り直した。


「実は今日、お前に話というか……相談があるんだよ」


逢沢の態度が急に変わったので反射的に僕も彼の正面に座り直していた。


「なんだよ。改まって気持ち悪いな、金なら無いぞ」


「金の無いフリーターから金を無心するかよ」


僕の冗談に逢沢はすかさずツッコミを入れた。


「藤乃お前さ、治験って知ってるか?」


「ああ、詳しくは知らないけど製薬会社が新薬の効果を調べるために患者を何日か入院させて薬を投与するやつだろ?」


逢沢からそんなワードが出てくると思わなかったが、僕は自分の知っている最低限の情報を教えた。


「まあ、一般的にはそうだな。実はさ……お前に治験バイトを頼みたいんだよ」


逢沢の思いがけない頼みに僕は少し不快な表情を見せた。


「随分いきなりだな。せめて詳細を教えてくれよ」


「そうだったな……悪かった。最初から話すよ……実は父方のいとこが医者やってて。その人に頼まれたんだよ。誰か知り合いで治験に参加できる人はいないかって、条件付きで……」


「条件?」


僕が反射的に言葉を返すと、一瞬、間をおいて逢沢は続けた。


「その条件は、まず健康である事、それと今回の治験の内容とその他の様々な情報を絶対に口外しない事、そういう人材を探してるらしい。しかも出来るだけ早く」


僕の反応を気にするこのなく逢沢はどんどん話を続けた。


「今回みたいな仕事は一般的な求人募集ができない。それが治験バイトが都市伝説的に世間から噂されてる理由なんだろうな。だから人材を探す方も苦労するらしい。俺もこの話をするのは本当に信頼できる人だけにしてくれって釘刺されたし」


僕はすっかりぬるくなった缶コーヒーを一口飲んで素朴な質問を逢沢にしてみた。


「なら逢沢、お前がその治験とやらに参加すればいいじゃないか?健康だし秘密だって守れるだろう?」


逢沢は僕の質問に2、3回軽く首を振った。


「俺もその質問はしたよ、でも関係者の身内は色んな意味でNGらしいんだよ。詳しくは言わなかったけど暗黙のルールみたいなものがあるって」


話を整理すると治験に参加できる人材は健康で口が堅くて病院関係者の身内以外。逢沢の中では僕が一番の適任者だったんだろう。


「で、その治験の内容は聞いてないのか?」


僕は少し姿勢が前のめりになっていた。


「詳しい話までは教えてくれなかったけど、どうやら薬を投与して入院するようなのとは全然違うらしい。だから薬の副作用で後遺症が残ったり最悪の場合、死亡したりとかは無いってそこは強調して言われたよ」


薬を投与しない?入院もしない?僕の頭の中に疑問が溢れてきた。


「じゃあ、一体なにをするんだよ?」


「新しく開発したシステムを体験してもらうって言ってた」


「システム?」


僕はまた反射的に言葉を返していた。


「なにやら大掛かりな装置を作ったから、それを治験者に体験してほしいらしい。でもこれ以上の詳しい話は守秘義務の関係で教えてくれなかった……というわけで話はここまで。詳細を知りたかったら治験に参加するしかない。どうする?」


逢沢は質問を僕に質問を投げて、ようやく楽な姿勢に体を崩した。


「なんだよ、ここからが重要な部分じゃないか」


僕は中途半端な説明に戸惑いを覚え文句を言った。


「仕方ないだろ、俺だって結構食い下がったんだぞ。すごい気になったから、その大掛かりなシステムが。でも結局、教えてくれなかったけど」


逢沢は残念そうな表情を見せたが、すぐに僕の顔を見て笑みを浮かべた。


「でもな……こっちの方がめちゃ良いらしいぞ」


逢沢は親指と人差し指で丸を作って僕の目の前に出した。


「それってバイト代ってこと?」


「そうそう!これも守秘義務があるって言われたけど。普通にバイトするよりはるかに良いって。やっぱすごいな!治験バイトって」


金額は全く想像できないが僕はただ驚くだけだった。お金の無いフリーターにとって夢のようなバイトだった。


「で、藤乃どうするんだ?」


「報酬は魅力的だけど、いくら安全だと言われても多少の不安はある」


僕はこう言いながら六割くらいは、この治験バイトをやってもいいと思っていた。他でもない逢沢の頼みでもあるし、報酬も魅力的だ。だが心の中にモヤモヤしたものが残っていて即決でやると言う勇気はなかった。


「いつまでに答えを出さないといけないとかある?」


「まあ、遅くても明日中かな?本当に急いでる感じだったし、それに病院側は他の人にも間違いなく声はかけてると思う」


確かに逢沢の言うとおりだ。いくら秘密裏で探してるとはいえ、何人かには声をかけているはずだ。それを聞いて僕は少し胸が騒いでいた。


「身内じゃなかったらお前がこのバイトやりたかったんじゃないの?」


僕が訊くと逢沢は両足を伸ばしてバタつかせた。


「どうだろうな……報酬は魅力的だけど、俺の場合、酒呑んだ時とかにうっかり誰かにしゃべっちゃいそうだしな。あとバイト先のレストランがグルメ雑誌に特集されてから忙しくなってきたし、最近は厨房の仕切りとか任されるようになったんだ。二年前の俺じゃ考えられないよ」


「そっか、このまま順調にいけば正社員も夢じゃないかもな」


嬉しそうに語る逢沢を見ながら仕事が生きがいになりつつある彼が羨ましかった。僕の方は二年前と心境は大して変わっていなかった。今のバイトも、のらりくらりと時間がくれば仕事に行き、終われば帰るという生活をする為だけにただ働いている状況だった。だからこそ逢沢が持ってきてくれた治験バイトの話は僕にとって日常を少し変えてくれるエッセンスのような気がして若干高揚していた。


それから僕らは飲み食いをしながら談笑していた。


「あれ、今何時?」


突然、逢沢が思い出したように訊いた。


「ええっと……21時53分」


僕は手元にあった携帯電話で確認した。


「そろそろ帰るわ。明日、朝から材料の仕込みをしなくちゃいけないんだよ」


そう言うと逢沢は立ち上がり、忘れ物がないか周囲を見回して玄関に向かった。そして僕も逢沢の後を追った。彼は玄関で自分の靴を履こうとしていた。


「治験の話だけど明日までに頼むよ。俺にメールくれればいいから」


「ああ、わかった。じゃあまた」


僕は片手を上げて彼を見送った。ドアノブに手をかけて逢沢は一度、僕の方を見た。


「なんか変な事頼んで悪かったな。答えはどっちでもいいから……じゃあな」


『ガチャッ、バタン』とドアの閉まる音と逢沢が歩く音とアパートの階段を降りる音が続いて、やがてその音は小さくなって消えていった。

僕は軽くため息をついてドアの鍵を閉め、居間に戻ってテーブルの片付けをしながら考えていた。


(治験バイトなんてものが本当に存在していたのにビックリしたな。しかも僕に声がかかるなんてラッキーと思うべきなのかな?それに高い報酬……新しいシステムって何だろう?一体何をやらされるのかな?)


答えの出ない問いが頭を巡っていたのでシャワーでも浴びて気分を変えようと思った。

テーブルの片付けを終え、下着とTシャツ、スウェットの下、バスタオルをタンスから出してバスルームの扉の前に置き、居間で裸になってからユニットバスの空の浴槽に入りシャワーを出した。身体と髪を洗い、ついでに歯を磨いて今日の汚れを洗い流した。用意したバスタオルで身体を拭いたあと、壁やら浴槽に飛んだ水滴も拭いた。これをやっておくとカビが発生しにくくなるので掃除の手間が省ける。水滴をある程度、拭き終えると次に下着を穿いて髪をドライヤーで乾かしてから用意した服に着替えた。

シャワーから出ると僕はまず、冷蔵庫にあるミネラルウォーターを取って蓋を開けてゴクゴク飲んだ。そしてミネラルウォーターをしまい、居間に戻ってベッドの淵に座り手を伸ばしてテーブルに置いてあった携帯電話を取って時計を見た。

時間はもう23時を過ぎていた。僕は携帯を持ったままベッドに倒れ込んで天井を見つめた。


(今日は色々と驚かされる1日だった。逢沢の親戚が医者やってるなんて初めて聞いたし、急すぎる話にさっきはラッキーと思ったけど、なんだか面倒を丸投げされた感が否めない。でもおそらく明日、治験に参加する連絡を逢沢にするんだろうけど……なんか疲れたな。明日バイトだしもう寝よう)


僕は携帯の目覚まし機能をオンにして枕元に置いた。蛍光灯の紐を引っ張って常夜灯だけにし、ベッドに横になった。そして目を閉じると、いつの間にか寝たしまったようだった。






その夜、僕は夢を見た。












中学時代、野球部の大事な試合で簡単なフライをエラーして負けた夢だった。試合後、チームメイトや監督は『お前のせいじゃない』と言ってくれたが、僕は大泣きしながら必死に謝っていた。














今朝は携帯のアラーム音で起きた。液晶画面を見ると6時になっている。昨日みたいに今日はダラダラしていられないので自分の心に鞭を打って無理やり身体を起こした。

部屋の電気をつけて寝ぼけながら顔を洗いにユニットバスの小さな洗面台に向かった。蛇口から水を出して顔を洗い、ついでに少し伸びた髭を安全カミソリで丁寧に剃り、鏡で剃り残しがないかチェックしながら横に掛かっているフェイスタオルで顔を拭いた。そしてドライヤーとヘアブラシで髪をセットして洗面所を出た。フェイスタオルを洗濯カゴに入れて、僕は急いで朝食の準備を始める。

やかんに水を入れて火にかけ、冷凍庫に入っている食パンを一枚出しオーブントースターに入れてダイヤルを回した。パンが焼ける間、マグカップに昨日買ったインスタントコーヒーの粉を入れて冷蔵庫からジャムとスライスチーズを出した。

先にお湯が沸いたのでマグカップにお湯を注いだ。鼻にコーヒーの香りが漂ってきた。本物のコーヒーに比べたら香りも味も貧弱だが、お金の無い僕にとったらこれで十分だった。そしてコーヒーとジャムとチーズを居間のテーブルに置いた。その数秒後にパンが焼けたのを知らせるトースターの音が聞こえた。僕はキッチンに戻り、お皿に食パンをのせてテーブルで食事を始めた。

パンにジャムを塗りスライスチーズをのせて無心でかじった。そしてパンをコーヒーで流し込む。仕事の日の朝食はどうしても作業的になってしまう。さらにコーヒーはぬるくなると酸味が強くなり味が落ちてしまう。なので熱いうちに飲み干さないといけないが舌や口の中を火傷する危険性がある。コーヒーはラーメン同様、熱いうちじゃないとダメなのだ。

食事を終えると食べ終わった食器類は流しに置き、ジャムとチーズを冷蔵庫にしまって洗面所に行き、歯を磨く。そのあと居間で普段着に着替えて、財布、定期、家のカギをジーンズのポケットにしまい、腕時計を付け、メッセンジャーバッグを肩に掛けてバイトに行く準備は完了した。居間を一周見回して忘れ物なしと判断すると玄関へ向かった。

昨日キッチン脇に置いた大きいゴミ袋を両手に持ち、靴を履いてドアを開け、身体を横にしながらゆっくり外に出た。そしてドアを施錠してアパートの階段を降りて通りに出る。途中、近くのゴミ置き場にゴミ袋を置いた。

アパートの前の道はスーツ姿のサラリーマンやOL、見た目では何の仕事をしているのかわからないオジサンやら、駅に向かう人がちらほら歩いていた。僕もその流れに入り駅に向かう。

僕のバイト先は最寄り駅から電車で2駅の場所にあった。僕の働く会社は病院や薬局で処方される薬を専門に販売している会社で、倉庫の中にある大量の医薬品を各病院、各薬局が必要とする分をピックアップして集め配送担当者が病院、薬局へ届ける業務を主に行っていた。僕はその倉庫にある医薬品からリストを元に病院、薬局ごとに集める仕事、ピッキングだ。

もともと僕は人と接するのが苦手なので裏方の仕事の方が性に合っていた。

さらに8時15分から16時15分までの勤務時間と時給がそこそこ高いというのが、この仕事を選んだポイントだった。無理せずに生活できるくらいは稼げるし、交通費だって全額支給してくれる。いわゆるやる事だけをやっていれば問題は起きない当たり障りのない仕事なのだ。この緩い環境が僕をフリーターから抜け出せなくしている最大の原因のように思えた。


店が開く前の静かな商店街をみんなが無言で駅の方へ向かっている。なにか人智を超えた力が人々を駅へ誘っているのかと思わせるほど人は駅に殺到してくる。僕も人々の中に入り周りの歩く歩幅に合わせて歩いていた。

たまに我に返って、この光景がものすごく異様なものに見えてくる事がある。大学一年生の時、初めて東京で一人暮らしをしたのだが、当時の僕は都会の人の多さに驚愕した。

噂には聞いていたが、特に朝夕の駅の利用者の凄まじさ、大雨でも大雪でも関係なく人が殺到する。

僕の地元は毎年、夏のお盆の時期に駅から少し離れた港で花火大会をやっているのだが、駅に人が殺到するのは一年でその一日くらいだ。でもそんな田舎者の僕もすっかり都会の暮らしに染まっていた。

駅に入って改札を通り、自分が乗る電車のホームへ早歩きで向かう。ホームへの階段を昇ると同時に電車が到着するアナウンスが聞こえてきた。幸いな事に僕の職場は都心と逆方向なので朝の時間帯でも座れはしないが乗客は少ない電車だった。僕が階段を昇りきるとホームに入ってきた電車のドアが開き、僕は電車に乗り込んだ。すぐに発車の音楽とアナウンスがして扉が閉まり電車は動き出した。2駅先なので5分くらいで着く。僕はポケットから携帯を取り出し、逢沢へメールを打った。


[昨日の話だけど参加しようと思う。治験の日時がわかったら連絡して]

送信ボタンを押してメールを送った。僕は携帯を閉じポケットにしまった。


ふと、車窓から外の景色に目をやると運良く富士山がくっきり見えた。


(おっ……ラッキー。今日は良い事あるかな?)


僕はとっさに周りの乗客を見回したが美しい富士山に気がついている人はいなかった。この気持ちを誰とも共有できない事が少し寂しかった。

そして富士山は都会の高い建物に遮られて見えなくなった。

目的の駅に着くと昨日、買い物をして財布にお金があまり入っていない事を思い出した。駅を出てすぐのところに銀行のATMがあるので、そこで僕はお金を下ろした。

ATMから出て時計を見ると7時50分になっていた。会社はここから15分くらい歩いた場所にあるので僕は少し早歩きで向かった。

会社は住宅街の中にあり、歩いてると軒並みに突然、ビルと倉庫を合体させたような建物が現れる。僕はビルのドアを開けて中へ入った。まずは3階にある事務所に向かう。この建物はエレベーターが無く階段を上がらなければならない。それが朝からだと結構キツい。やっと階段を上がりきり、事務所のドアを開けるとワンフロアにデスクが並んでいて、フロアの左側にテレアポの女性職員たちのデスク、右側に営業や上役の人たちのデスクが置かれている。

僕はフロアの真ん中を突っ切る形で先に出勤している社員に挨拶しながら奥のロッカールームに向かう。自分のロッカーに荷物を置き、支給された黒いエプロンを身に着けて1階の倉庫に早足で向かった。

倉庫の前にある駐車場では物資を積載したトラックが荷おろしをしていた。

僕はそれを見ながら倉庫の奥へ向かう。倉庫の中は大きいスチールラックが所狭しと並べられていて、ラックの上には大量の医薬品が陳列されている。バイトを始めた頃は、どこになにがあるのか全くわからなかったけど、2年も続けていれば、陳列されている場所はもちろん、製薬会社や薬の名前も覚えてしまう。

倉庫内の狭い通路を通り、奧にはパーテーションで仕切られた簡易的な空間があり、朝は始業時間までここで待機する。

僕らはこの空間を『待合室』と呼んでいた。


「おはようございます」


先に待合室に来ていたパートさんに挨拶をした。


「あっ、おはよう。藤乃くん」


ここで一番長く働いている木村さんが笑顔で答えてくれた。彼女の他にも数人のパート山河待合室で雑談しながら待機していた。

この会社では僕のような若いバイトと近所に住む主婦がパートタイマーで働いている。

バイトとパートの混合チームで倉庫内にある医薬品の出庫入庫作業、搬入された医薬品の整理整頓などを主にやっている。


「ねえ藤乃くん。ちょっと聞いてよ。うちの息子がいま大学三年生なんだけど、将来やりたい事がないって言ってるのよ。こっちが色々言うと文句言ってくるし、せっかく高い学費払って大学に行かせてるのにもう少し親心ってものをわかってほしいわよ」


木村さんの言葉はまるで僕自身に言ってるかのように思えた。僕はあまり自分の事を話さないので、木村さんは僕が正社員を早々とリタイアした事はもちろん知らないし、ただ誰かに自分の置かれた状況を聞いてほしいだけなんだと表情で理解した。


「でもほとんどの大学生がそうだと思いますよ。ただなんとなく進学してるし、なんとなく周りが就活就活って言うから自分も動き出す。逆に将来やりたい事があって大学で勉強している人の方が珍しいですよ」


僕は自分への言い訳と会った事もない木村さんの息子のフォローをしていた。


「そんなもんなのかしらねぇ……でも自分の人生なんだからもう少し真剣に考えてほしいわ」


木村さんは何だか納得いかない表情をしていたが、そのとき始業のチャイムが鳴り、従業員全員が倉庫の中央に集まり、朝礼をするため僕らもそこへ向かった。

倉庫の中央スペースに30人ほどが集まり、部長が挨拶と業務連絡を行う。配送担当者には安全運転、倉庫担当には医薬品の間違いと重量物の扱いの注意を言い渡して朝礼は終了した。

そして従業員は散り散りになり、自分の業務を開始する。倉庫担当はまず、テレオペが受けた依頼内容が倉庫のプリンターにリストになって転送されてくるので、そのリストを元に倉庫の中にある医薬品を探し集めて配送担当者に渡すという作業をひたすらする。配送担当者は出発する時間が決まっているため朝は本当に忙しい。なので製品の間違いは時間的なロスになるのでしっかり確認しないといけない。

午前中はとにかく倉庫内を縦横無尽に動き回り、薬集めに奔走した。11時くらいから準備が出来た配送担当者が次々と社用車で病院や薬局へ出掛けて行くので、11時30分過ぎくらいには倉庫内の作業は落ち着く。

僕は一度、待合室に行きポケットに入れた携帯電話を取り出した。液晶画面を見るとメールが一通届いていた。中を確認すると逢沢からだった。


[さっき治験参加の事を話したら、今日藤乃に会えないかって言われたんだけど大丈夫? 対応してくれる人の名前は『三神玲奈』昨日話した俺の従姉妹だから病院の受付で名前を言えば大丈夫だって。夜遅くても病院にはいるみたいだから、その時はこの番号に電話してみて]


メールはこの内容と病院の名前、電話番号が記載されていた。場所は千代田区の有名な大学の付属病院だった。電話番号はおそらく三神玲奈って人の携帯の番号だろう。逢沢の親戚は勝手に男だと思ってたけど、女性なのは意外だった。

急な話だけど仕事終わりに向かえば夕方には病院に行けそうだった。

僕は昼休みに逢沢に返信しようと思い携帯をしまった。待合室を出てお昼前に残った雑務をしつつ、昼休みまでの時間を潰した。11時50分くらいになるとパートさん達は待合室に集まり雑談をしながらお昼を待つ。お昼になるとほとんどのパートさんは家が近所なため、自宅に帰って食事をとる。職場が近所にある人の特権みたいなものがすごく羨ましかった。僕は外で食べるか、買って食べるしか選択肢がないので油断すると食費が余計にかかったりしてしまう。

どうしようかと考えていると、ふと治験バイトの報酬の事を思い出した。


(そうだ……うまくいけば治験の報酬が入るんだ……)


僕はもう大金を手に入れた気分になってしまい、今日は外食にしようと決めた。

そしてお昼のチャイムが鳴り、僕はエプロンを外して待合室に置き、そのまま会社の外へ出た。

会社から徒歩5分くらいの場所に唯一、外食出来る定食屋があった。駅まで行けば飲食店は何軒かあるが、駅前まで行って食べて帰るとなると、時間ギリギリになってしまい、下手をすれば走らなければならないのでリスク回避のため却下。

この定食屋の料理が特別美味しいわけではない。おそらく昭和の頃から営業していて、店の外装も内装も昔のままお世辞にもキレイと呼べる代物ではなかった。何故、こういう店の経営が成り立っているのか本当に謎だ。

僕は定食屋の前に立ち、引き戸を開けて暖簾をくぐった。中に入ると、作業着を着たガテン系の人たちがテーブルを囲んで食事をしているのが目に入った。


「いらっしゃい」


店主の作業的な声が聞こえた。


「すいません、レバニラ炒め定食一つ」


僕は出口に近いカウンター席に座りながら店主に言った。


「はい、レバニラね」


僕の声に反応して店主は冷蔵庫から材料を取り出し、手際良く調理を始めた。僕はそれを見届けると携帯電話を出して逢沢へのメールを打ち始めた。


[バイト終わりに病院に行ってみるよ。治験の事は話せないけど近いうちにまた会おう]


メールを送信して携帯をしまい、店内を見回していると壁に何か書かれているのが目に留まった。


《新メニュー 豚キムチ定食850円》


(しまった!新メニューが出てる……)


よくメニューを確認しないで定番のレバニラを注文してしまったのが迂闊だった。しかもさっきのガテン系の三人全員が豚キムチ定食を食べてる。すごく美味しそうに……。


「はい、レバニラ」


僕が後悔していると店主が無愛想にレバニラ定食を僕の目の前に置いた。おそらく時間が経てばなんてことない後悔だけど、今はすごく自分が不幸だと感じてしまい、僕は近くにあった割り箸を取り黙ってレバニラ定食を食べ始めた。

テーブルの三人は食べ終えたらしく年長者っぽい男性が会計をして残りの若い二人はそのまま店を出た。会計を済ませた男性が店の外に出ると『ごちそうさまでした!』と外で待つ二人に言われているのが聞こえた。どうやら先輩に昼ご飯を奢ってもらったらしい。

客が僕だけになると店主は丸椅子に座って新聞を広げて読み出した。二人きりの空気に若干の気まずさを感じて僕は食べるスピードを上げた。店内は食事音と新聞のめくる音だけが静かに響いていた。そして最後の一口を食べるとすぐに立ち上がり会計をして店を出た。

外に出ると会社には戻らず缶コーヒーを飲むため自販機がある店まで歩いた。

僕は小川商店という雑貨屋の前に来た。お店の前に置いてある自販機に100円を入れてからボタンが光ったのを確認して押した。音を立てて落ちてきた缶コーヒーを拾うとフタを開けてすぐに飲んだ。食後のコーヒーはまた格別だ。

この小川商店は日用雑貨と駄菓子を主に販売していて、昭和のお店っぽさが僕に懐かしさを感じさせてくれた。店主のおばあさんと飼い猫2匹がまたノスタルジー感をさらにくすぐる。

仕事が終わる時間にくらいになると近所の小学生が駄菓子を買って外で食べているのをよく見かけた。いくら時代が進んでも子供は駄菓子屋に集まるらしい。

缶コーヒーを飲んでいると脚に何かが当たるのを感じて視線を落とすと店の猫が一匹、僕の膝あたりにカラダをこすりつけ、じゃれてきた。僕は中腰になり、猫の頭や顔を優しく撫でた。しばらくすると気が変わったのか猫は店の中に消えていった。僕は猫を見送って飲み終えた缶をゴミ箱に捨て、腕時計を見ると12時48分になっていた。僕は会社に戻ろうと歩き出した。


午後の仕事も忙しかったが午前中ほど追いつめられてる感はなかった。気がつくと16時近い時間になっていた。仕事中はこういう時間の過ぎ方が理想的だ。

今日の仕事はもう片付けくらいなので倉庫内を一周して棚の錠剤や軟膏の箱を次に取りやすい位置に移動させていった。棚の整理が終わると待合室で就業時間まで待機していた。パートさん達は待合室の椅子に座り、誰かが持ってきたお菓子を食べながら世間話をしている。

僕は携帯で病院の最寄り駅を調べた。駅から病院までの道はわからないが大きい病院だから何とかなるだろう。そして携帯をポケットに入れエプロンを外して小さく畳んだ。時計を見ると終業時間まで5分くらいだった。


「ねぇ、藤乃くん。これ食べる?」


僕に声を掛けてきたのはパートの橘さんだった。手の上には飴がのっていた。


「ありがとうございます。いただきます」


僕は飴をもらうと封を開けて口に入れた。


「すっぱいですね。何ですかこれ?」


「シークァーサー。わたしこのシリーズの飴が好きなの」


橘さんは袋ごと僕に見せた。


「ああ、知ってますよ。スーパーでパイナップル味を見たことあります」


橘さんと会話してると終業のチャイムが鳴った。


「おつかれさまでした」


「おつかれさま」


待合室にいるパートさんに声を掛けて僕は3階のロッカールームに早足で向かった。エプロンをロッカーに置き、バッグを肩に掛け、ロッカールームを出て事務所にいる人たちに声を掛けながら外へ向かう。外に出ると、まだ空は明るかった。

駅へ歩き出すと小川商店が見えた。小学生5、6人が店先で駄菓子を食べていた。お店の猫も外に出ていて小学生たちと戯れていた。

夕方は自転車に乗った親子やお年寄りとよくすれ違った。子供を迎えに行ったり買い物をしたりと忙しい時間帯なんだろう。

駅に着くと都心方面の電車に乗るためホームへ少し急いだ。電光掲示板を見て次の電車の時間を確認した。僕はホームへの階段を上り電車が来るのを待っていた。

しばらくすると、アナウンスが流れて電車がホームに到着した。ドアが開き、中に入ると乗客は少なく座席も空いていたので座った。目的の駅までは30分くらい。僕は座れて落ち着いたのか目を閉じて考え事を始めた。


(まさか今日いきなり治験やるわけじゃないよな……心の準備も出来てないのに。治験者は僕の他にもいるのかな……ていうか何をさせられるんだろう)


僕は不安だった。人生で病院にお世話になった記憶が風邪で寝込んだ時とインフルエンザの予防接種くらいしかなかった。しかも大学病院なんて入った事もない。逢沢は命の危険はないって言ってたけど、やはり得体の知れないものは怖い。逢沢の従姉妹からよく話を聞く以外に、この不安を軽くする方法はなさそうだ。


(話を聞いてやっぱりやめますって言ったら嫌な顔されるかな……)


車内アナウンスが流れた。それが目的の駅だったので僕は立ち上がった。考え事をしていて気がつかなかったが、いつの間にか乗客は増えていて僕は人を避けながら進みドアの前に立った。

電車がスピードを落としてホームに進入し、誰もよろける事なく絶妙なタイミングで停車した。

ドアが開いて最初に降りたものの、どっちに行っていいのかわからなかったので周りの人の邪魔にならない場所へ一時避難した。

上の案内板を見ると改札口が二つあるらしく北口と南口と書かれていた。

大きな地図のある場所へ行きたかったので勘を頼りに北口の改札を目指した。エスカレーターに乗り改札を出てすぐ大きな地図を見つけた。僕は地図を見ながら大学病院を探した。場所は北口で合っていたのでホッとした。

ここからだと徒歩15分弱くらいだろうか。腕時計を見ると17時20分になろうとしていた。病院までの道のりは思ったより単純そうだし迷わずに済みそうだ。僕は病院へと歩き出した。空はまだ明るいにもかかわらず、駅前の繁華街のネオンは煌々と光りとても賑わっていた。帰宅時間と重なるからなのか、駅の方へ歩いてくる人がとても多い。

僕はその流れに逆行して大通りを歩いた。通りを5分くらい歩いていると徐々に人の数は減っていった。駅前の騒々しさを越えると、その街の本来の顔みたいなものが見えてくる。僕は知らない街を歩くとき、そういう見え隠れする街の姿みたいなものを感じ取りながら歩く事が楽しくて仕方なかった。

全てのものには必ず過去と現在が混在している。形成されている時間の境目みたいなものが街の中にはあちこちあったりする。もしかしたら人間にも同じような事が言えるのかもしれない。ひとりひとり顔があって過去現在未来が形成されて個人が存在している。街と人はどこか類似している所がある。人が街を造る。街が人を創る。そして人と街が歴史を作っていく。そんな考えに思いを馳せていると、目的地の病院が見えてきた。遠くからでも一目で病院だとわかるほど存在感のある立派な建物だ。

距離的にはあと5分くらいかかりそうだった。何個かの信号を渡り小さな交差点を右に曲がってひたすら真っ直ぐ歩くと、やっと病院の敷地内にたどり着いた。僕は駐車場を突っ切るように斜めにショートカットして病院の入り口の前に立った。呼吸を整え、病院の大きさを再度確認した。見た感じでは100メートル以上の高さはありそうな円柱型のビルで建物はまだ新しく病院内の清潔感が外からでもわかる。まさに現在の医学の推移を結集したような医療施設であった。

正直、こんな建物を目の当たりにしたら誰でも萎縮してしまう。僕はもう一度、深呼吸をして入り口の自動ドアへ歩き出した。



自動ドアが開いて中に入ると広いロビーに出た。見渡すと目の前に外来患者が座る椅子がたくさん並んでいて、それを半分、取り囲むように受付があった。時計を見ると17時40分になっていた。外来の時間はもう終了したのか、ロビーに患者らしき人の姿はなかった。受付には何人か仕事をしているのが見えたので僕はゆっくり向かった。


「あの……すいません」


入り口から一番近くにいた女性におそるおそる声をかけた。女性は顔を上げて僕を確認した。


「本日の外来の時間は終了しました。入院患者さまの面会でしたら、こちらに患者さまの名前と連絡先をご記入ください」


女性は話しながら用紙とボールペンを出してきたので、僕は少し慌てた。


「いいえ、違うんです。この病院に三神玲奈ってお医者さんがいるって聞いて来たんですけどいますか?」


「三神という医師はいますが、お客様のお名前を伺ってもよろしいですか?」


「藤乃雅臣です」


僕の名前を聞くと女性は近くの電話の受話器を取り、どこかに電話をかけた。誰かと一言二言やり取りをして受話器を置いた。


「三神がこちらのロビーに来るので、あちらの椅子に掛けてお待ちください」


「わかりました。ありがとうございます」


僕は女性にお礼を言い、後ろの椅子に腰かけた。

椅子に座り改めて広くてキレイなロビーをキョロキョロと見回していた。

壁際にこの病院の案内図が見えた。細かい文字までは読めなかったが、どうやらこの施設はドーナツ型の建物みたいだ。

やっぱり患者の心理的には角張ったものより丸いものが落ち着くんだろうか。


(そういえば……最近ドーナツ食べてないな……)


そんな事を考えていると、後ろのエレベーターの開く音がして振り返った。白衣を着た女性が一人、こちらに歩いてきたので僕は思わず立ち上がった。女性は僕と目が合うとニコッと笑った。


「藤乃雅臣くんね。三神玲奈です」


すごい美人だった。長身でスタイルはモデル並み、見るからにインテリの風貌だ。逢沢にこんな美しい従姉妹がいたなんて本当に驚いた。


「はっ、はじめましてよろしくお願いします」


僕は突然の美女の登場にかなり動揺していた。


「会っていきなりで悪いけど私について来て。歩きながら話しましょう」


「あっ、はい」


彼女はそう僕に促すと踵を返した。僕は言われるまま彼女の後を追った。乗ってきたエレベーターに乗りこむと彼女は3のボタンを押した。そしてドアは閉まりエレベーターは上昇し始めた。


「今日はこちらの都合で突然呼び出してごめんなさい」


「いいえ、昨日逢沢くんから話を聞いての今日だったので……ビックリはしたんですけど別に気にしてません」


「亮介くんから少し話は聞いてると思うけど、これから治験を受ける前に藤乃くんが適任者かどうか検査しないといけないのよ。そのへんは大丈夫?」


三神さんはキリッとした眼差しで僕の目を見ながら言った。僕が口を開こうとしたとき、エレベーターは3階に到着してドアが開いた。三神さんは『開』のボタンを押しながら先に出るよう促した。僕は彼女に頭を少し下げながら先に出る。そして三神さんもエレベーターから出ると歩き出した。


「あの…具体的にどんな検査なんですか?」


「これから採血をして、その後に頭部のCTとMRIの検査よ」


先に歩き出した三神さんは仕事柄なのかわからないが歩くのが速かった。普段から運動不足の僕にとったら歩く速度を合わせるので精一杯だ。

そしてある部屋の前で立ち止まり、ドアを開けた。


「こちらへどうぞ」


僕は言われるままに部屋に入る。中に入るとそこは広めの診察室だった。


「どうぞ。そこの丸椅子に座って」


そう言うと三神さんは奥に消えていった。僕は目の前にある丸椅子に腰掛けた。


「これから採血するから腕を出しておいて」


奥で何か準備している三神さんの声が聞こえ僕はバッグを下に置き、シャツの袖のボタンを外して捲り上げ腕を出した。そして彼女は採血をするための器具を持って僕の前の椅子に座った。


「本来なら看護師の仕事なんだけど、今は入院患者の方で忙しいから私が採血するわね。机の上に腕をのせて」


僕は袖を捲った左腕を机の上にのせた。彼女は僕の腕をチューブで止めて血管を探している。


(こんな美人の女医さんに腕を触られてる……まずい……緊張がバレる……)


僕の身体の硬直がわかったのか、三神さんは腕から手を放して僕の顔を見た。


「緊張しなくても大丈夫よ。これでも研修医時代にさんざん採血はしてきたから。まあ医師になってからは滅多にやらなくなったけど」


そう言うと彼女は再び僕の血管を触り始めた。


「三神さんの専門はなんですか?」


「精神科よ。一瞬痛いけど我慢してね」


場所が決まり採血用の注射器を血管に近づけて針を刺した。チクッとした痛みの後、自分の血液が注射器の先の容器の中に入っていく。彼女は器用に容器を2個目、3個目と素早く入れ替えた。全ての容器に血液が入るとゆっくり針を抜いて止血のテープを貼り腕のチューブを外してくれた。


「はい、これでOK」


「もう服の袖なおしていいわよ」


三神さんは器具と採血した容器を持って立ち上がり、また奥へ消えていった。僕はシャツの袖を直して下に置いたバッグを肩に掛けた。


「あっ、もしもし。これからそっちに向かうからよろしく」


奥で誰かと電話をしている声が聞こえた。少しすると彼女が奥から出てきた。


「今からCT検査室とMRI検査室に行くからまたついて来て」


僕は立ち上がり彼女と診察室を出た。さっきは気づかなかったけど部屋の横に【精神科 診察室 三神玲奈医師】と書いたプレートがあった。


「CT検査室は2階にあるから階段で行きましょう」


「はいっ」


僕が返事をすると彼女は歩き出した。また早歩きについていくのかと思った時にはもう彼女との距離は離れていた。僕は急いで彼女の後を追った。階段を下りると何人かの病院スタッフとすれ違った。


「2階は人が多いですね」


僕は何となく彼女に言葉を投げかけた。すると僕の方をチラッと見て歩く速度を落として隣に並んでくれた。


「ここは外来患者専門のフロアだから必然的にスタッフの数は多いわね。それと私たちがさっきまでいた3階は精神科専門のフロアなのよ、精神科の患者は症状が様々だから基本的にスタッフの数も最小限なの。人が多いと不安になる患者も中にはいるしね」


三神さんは僕の言葉に的確に応えてくれた。そして50メートルくらい先にCT検査室と大きく書かれたプレートが見えてきた。検査室の前に着くと三神さんがドアを開けて中に入った。部屋の中にはCTスキャナーと呼ばれる大きな装置が置かれていた。


「長谷川くんいる?」


彼女が声をかけると奥からレントゲン技師の制服を着た男性が出てきた。見た目は若く、身長は175センチ弱で爽やかという形容詞が合っている青年だった。患者にも看護師にも人気がありそうだ。


「あっ、三神先生。もう準備は出来てますよ」


おそらくこの人はさっき三神さんが電話で話していた人だろう。


「ありがとう。じゃあ、あとはお願いね」


彼にそう言うと彼女は僕の方を向いた。


「これからさっき採血した血液を検査するから。私はしばらくここを離れます。あとは彼の指示に従って」


三神さんは僕と話しながらドアを開け、廊下側に出てドアが閉まるタイミングに合わせて僕らに手を振った。無駄のない動きだ……。


「じゃあね、あとよろしく」


彼女はとにかく行動が素早い、僕らは取り残された格好になってしまっていた。


「ええっと、放射線技師の長谷川です。さっそく検査を始めたいので荷物はこちらに置いてCT台に仰向けの状態になってください」


「はい、お願いします」


長谷川技師の指示に従い、僕はバッグを近くのテーブルに置いてCTの横に立って靴を脱ぎ仰向けになった。


「次の指示があるまでそのままでお願いします」

長谷川技師は部屋を移動して何か準備を始めた。僕の方はというと頭をのせている部分に若干の違和感はあったが静かに上を見ていた。


「おまたせしました。始めますので操作中は絶対に動かないでください」


「わかりました」


耳元にスピーカーがあるらしく、そこから長谷川技師の声が聞こえてきた。一瞬、視線を横にするとガラス越しに彼が何かを操作しているのが見えた。


「視線はまっすぐ上にして呼吸も深くゆっくりしてください」


僕は視線を戻し、じっとしていると機械の『ウィィィィーーン』という起動音とともに身体がCTの中に入っていき、ゆっくり視界が白くなった。しばらく僕の耳元では騒がしい機械音が続いた。そして機械が最初の位置に戻り僕は白い世界から解放された。


「おつかれさまでした。もう身体を起こしても大丈夫ですよ」


長谷川技師の声がスピーカーから聞こえて僕はゆっくり身体を起こし、靴を履いて立ち上がったが、ずっと仰向けだったので少しふらついてしまった。ガラス越しの部屋から長谷川技師が爽やかな顔つきで出てきた。


「では、次はMRIの検査室に移動します」


「はい……お願いします」


まるで人間ドックを受けている気分だった。タダで検査してもらえるのは嬉しいが複雑な気持ちだった。

そして残りのMRIの検査を終え、長谷川技師と別れたとき、時間は19時を過ぎていた。

僕はまた三神さんの診察室の前にやってきた。ドアをノックすると中から声が聞こえた。


「どうぞ」


ゆっくりドアを開けると三神さんが椅子に座っているのが見えた。


「おつかれさま。疲れたでしょ、さあ座って」


「はい、ありがとうございます」


僕が丸椅子に座ると彼女は机の上にある紙に目を落とした。


「血液検査の結果が出たから教えとくわね……異常なし!」


僕は特に健康不安はなかったが、なんとなくホッとしていた。


「数値もほとんどが正常、でも一つ注意点はコレステロールね……一人暮らしの食生活は特に気をつけないとダメよ」


「はい……気をつけます」


三神さんに言われると、何故か自分の生活が見透かされているような気になって恥ずかしくなる。


「CT、MRIの検査結果は脳外科の先生に判断してもらうから少し時間がかかると思うわ。藤乃くん時間は大丈夫?」


「まあ、終電に間に合えば大丈夫です」


「よかった……ところで藤乃くん、お腹空いてない?夕飯まだでしょ?」


「そういえば……ここに来てから色々あったので自分でも忘れてました」


僕は言われて空腹に気がついた。正直に言うと三神さんは笑顔になった。


「実はね。この病院はスタッフ専用の食堂があるのよ。そこは夜の11時までやってるから行きましょう。スタッフ以外の利用は原則ダメなんだけど今日は特別」


三神さんの言葉に僕も表情が緩んだ。そして二人はエレベーターでその食堂に向かった。


「あの……治験の詳しい話はまだ聞けないんですか?」


「検査が異常なしと確認されたら詳細は話せるわ。もちろん藤乃くんが治験を受ける事が前提だけど」


これで検査に何らかの異常があって治験の事も何もわからないまま帰されたら本当にただの人間ドックになってしまう。


「まあ、仮に不適任と判断されても治験の概要くらいなら話しても問題にならないか……でも不必要に他でしゃべらないと約束してね」


「はい、約束します」


三神さんの言葉に僕は安心した。そしてエレベーターは5階に到着し食堂の前まで来た。外見では食堂だとわからない造りになっているみたいだ。三神さんは入り口のドアに手を掛けて中に入った。僕もその後に続いた。

見ると食堂の中は20人から30人くらいが食事できるスペースはあった。今は僕らの他に利用している人の姿はなかった。入り口近くに自動の券売機があり、三神さんが券売機に近づき、持っていたカードをかざすとメニューのボタンが光った。


「何が食べたい?なんでもいいわよ」


彼女は券売機から半歩下がってメニューを見やすくしてくれた。ぼくは何でもよかったので『A定食』のボタンを押した。


「私はパスタにしようかな」


三神さんは麺類のところにあるスパゲティのボタンを押した。2枚の食券が券売機の下の出口に落ちた。

彼女は券を取り、僕に一枚渡してきた。


「これをカウンターにいる人に渡して」


僕らはカウンターに移動して食堂のスタッフに券を渡すとわずか3分くらいでトレイに次々と料理が置かれていった。ご飯に味噌汁、小鉢の豆腐、メインのミックスフライ。料理がのったトレイを受け取って座席の方を向くと三神さんが食堂の端っこを指差した。


「あのへんがいいわ。先に座ってて」


「わかりました」


僕は彼女が指差した方のテーブルに腰を下ろした。三神さんもすぐこちらに来て僕の正面に座った。


「どうぞ召し上がれ、味の保障は出来ないけどね」


「いただきます」


僕は右手に箸を持ち左手に茶碗を持ってA定食を食べ始めた。そして僕に続いて三神さんもパスタを食べ始める。


「これ、普通に美味しいですよ。一人暮らしだと普段は粗雑なものばかりなので……」


僕の声に三神さんは食べる手を止めて軽くため息をついていた。


「藤乃くんはご飯作ってくれる彼女とかいないの?」


「いないです……今は……」


「まあ……私も人のことは強く言えないけど、アナタはまだ若いからピンとこないかもしれないけど食生活は改善させないとダメよ。人間にとって何が一番大事か……それは食事と睡眠よ。これこそが健全な肉体と精神を養い、人間を未知なる明日に突き動かす原動力になるのよ!」


三神さんは胸の辺りに拳をつくって力説していた。


「はい……なんかすいません……」


僕が小さくなっていると彼女は我に返って咳払いを一つした。


「医者をやってるといろんな人と出会うから、つい持論がでちゃうのよね」


三神さんは恥ずかしそうに言っているが人間にとって食事と睡眠が重要な事は僕にもわかっていた。精神が蝕まれると食欲や味覚さえも鈍くなると聞いた事がある。睡眠不足や不眠症も大きな原因の一つだろうし。最近よく聞く、うつ病や統合失調症は日本社会の歪みのように思えた。戦後、何もかもを失って再スタートした日本人が死ぬ気で働いて世界のトップになってもさらに走り続け、後ろの脱落者には全く目も向けずに。その脱落者たちのケアもろくにせずに現在に至っている。

僕自身はハッキリ言って資本主義社会のシステムみたいなものが好きではなかった。経済発展に競争が必要なのはわかるのだが、間違いなく人には向き不向きがある。生まれた瞬間から勝手にゴールのないレースに参加させられて躓いても転んでも他人からは置いてけぼりにされ、挙げ句の果てに自己責任だと言われる始末。この日本という国の異質な部分だと思う。


「ねえ、藤乃くん。突然へんな質問するけど去年の自殺者の数って知ってる?」


「詳しい数字まではわからないですけど3万人くらいですか?」


「そうね……正確には30247人。ここ10年で一番多いわ……」


三神さんは残念そうな顔で言った。どうやら彼女には思うところがあるみたいだ。


「この仕事をやってると本当に色んな症状の人に出会う。最近、特に目立って多くなってるのが鬱病と呼ばれるものね。この病気は一回発症すると完治はない。一生この病気と付き合っていかなければならないの。私たち医者や看護師は患者さんが1日でも早く社会復帰出来るように患者さんに寄り添って症状を緩和させてあげる事しかできないのよ」


三神さんは憤りみたいなものを顔に含ませながら言った。そしてコップの水を一口飲んだ。


「平和で豊かな国に見えるけど現実は違うんですね」


「経済発展が個人の幸せと比例するわけではないのよ。昔は社会がもっとこうコンパクトだった。地域があって家族があって個人がいる。今は核家族化が進んで地域との関わりも希薄になってるし、それに情報化社会で全く接点のない誰かに劣等感を抱いたり、自分より幸せそうに生きている誰かを妬んだり、常に強迫観念みたいなものに晒されて日々を生活ている人が多い」


うつむきながら三神さんの話を聞いていると、入り口のドアが開いて誰かが入ってきた。見ると4人組の病院スタッフらしき人が雑談しながら自動券売機の前に立った。


「藤乃くん、食べて場所をかえましょう。そろそろ脳外科の先生から検査結果の連絡があるかもしれないし」


僕は頷いて目の前のお皿に残っている物を食べ始めた。僕が食べ終わると、それを見計らって三神さんは立ち上がりトレイを厨房の流しに返却しに行った。僕もそのあとについてトレイを返して出口に向かった。


「もしもし……はい…はい……わかりました。ありがとうございます。はい、では…」


僕が食堂を出ると三神さんの携帯に着信があったらしく電話に出ていた。そして通話が終わると携帯を閉じて僕の方を振り返った。


「脳外科の先生からだったんだけど、CT、MRIの検査は異常なし。治験の適任者として合格よ」


「あっ、ありがとうございます」


合格と言われたが治験の詳細もまだわからないので態度をどう表したら良いのか困ったがとりあえずお礼を言った。


「これから治験の詳細の説明と同意書にサインをすれば契約終了だから。これから移動します。詳しい話はそこで」


エレベーターに向かう三神さんの後ろを歩いた。そして彼女はエレベーターの前で立ち止まり何やら考え事をしている様子だった。


「口頭で説明してもすぐに理解するのは難しいと思うから……今日は特別に治験で使うシステムの実物を見せてあげる。ついてきて」


「えっ?どこにあるんですか?」


「この病院の地下よ」


三神さんは開いたエレベーターに乗り込んで1階のボタンを押した。


「このエレベーターは直通じゃないんですか?」


「ええ、システムがある場所はセキュリティが厳重でね。1階に病院スタッフにもあまり知られていないエリアがあってそこにある専用エレベーターを使わないと行けないようになっているの」


エレベーターは1階に着き、三神さんはロビーと逆の方向へ歩き出したので僕もその後についていった。しばらく廊下を歩いていると彼女はあるドアの前で立ち止まった。そこは見るからにセキュリティが厳しい重たそうなドアだった。ドアの横にセキュリティ端末が備えられている。三神さんはその端末にカードを通してさらに人差し指を端末にのせた。最後に暗証番号を入力するとやっとドアのロックが解除された。


「この先よ」


彼女は重たいドアをゆっくり開けて中に入って行った。僕も三神さんに続いて中に入る。殺風景な長い廊下を二人並んで歩いていると広いフロアに出た。フロアの奥には大量のダンボールが積んである。


「さっきのドアからこちら側は別棟と呼ばれてるのよ。元々、病院が停電になった時の為の自家発電の施設と自然災害などで孤立した時の食料の備蓄や防災用品を保管してあるの。だから病院のスタッフは基本的にここには来ない」


僕らはフロアの真ん中を歩いてさらに奥へと向かった。


「この地下にシステムの装置があるんですか?」


「エレベーターを降りた地下3階にね。見たらビックリするわよ」


三神さんは笑顔で答えた。僕には全く検討もつかなかった。とにかく得体が知れないものだと言う事だけはわかった。大きなフロアから廊下を出ると、奥にエレベーターが一基ひっそりあった。しかもまたセキュリティ端末がある。三神さんはさっきと同じ方法でセキュリティを解除するとエレベーターの扉が開いた。


「ほんとっ、ここまで来るのに一苦労なのよね。さあ、乗って」


促されるまま僕はエレベーターに乗り込む。そして彼女はB3のボタンを押すと扉が閉まりエレベーターが下降を始めた。  


「三神さん……そのシステムって一体何なんですか?僕に何をさせようとしてるんですか?」


「過去をやり直せるシステム……」


僕は段々と怖くなり声に出した質問に彼女はつぶやくように言った。


「過去をやり直す?」


「順を追って話さないといけないわね。でも正直な話、私もこのシステムの事をすべて把握しているわけじゃないのよ」


彼女は壁にもたれかかり腕組みをしながら言った。僕は困惑しながら三神さんを見る事しかできなかった。そしてエレベーターは地下3階に到着して扉が開いた。エレベーターを出ると隣にあるフロアの様子が遠目だが見えた。何か大きな正方形の物体がフロア全体に整列するように並んでいる。そしてこのフロアは冷房が強く効いていて肌寒かった。



「これは……一体………?」


僕は自らフロアの入り口に立つと、その全貌が明らかになった。

コンピューターだ。縦横2メートルくらいはある正方形の箱のようなコンピューターがフロア全体に何十機も置かれていた。その異様なまでの無機質さは人間が立ち入る事が許されない聖域のようにも思えた。


「これがあなたに体験してもらうシステムのマザーコンピューター」


三神さんは僕の隣に立ち淡々と言った。僕は近未来にでもタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。


「このコンピューターを使って何を体験するんですか?さっき過去をやり直すとか言ってたけど……」


「その前にこのフロアはコンピューターの熱膨張を抑えるためにかなり室温を下げてるのよ。だから話は隣の部屋に移動してからにしましょう…ああ…寒い寒い」


三神さんは両腕で身体をこすりながら早足で隣の部屋に向かった。

ここは制御室らしく快適な室温だった。制御室内は数個のモニターと無数のスイッチやボタン。子供の頃にアニメや特撮で見た物ばかりで僕は若干高揚していた。そして三神さんと僕は部屋にあった椅子に座ってガラス越しに見えるマザーコンピューターを眺めていた。


「こんなものを開発するなんて天才……いや、ある意味……バケモノかもしれないわね……」


半分呆れながら呟く三神さんを見ていたが、すぐに僕の方を向いて話を始めた。


「では順番に話すわね。なんで病院の地下にこんなものがあるのか……これは国家プロジェクトの一環なの。さっき食堂で話したけど現在の国内の自殺者数、日本政府はかなり深刻な問題として捉えていた。それに関連してるんだけど、約10年前、ある科学者の兄弟があのシステムの理論を考案したのよ。しかし理論を具現化するためには莫大な資金が必要だった。普通ならこれを実現させるのは無理ね……でもちょうど時代とタイミングが合った……80年代後半にバブル景気が終わって企業や大手の銀行まで次々と倒産するような世の中になってしまった。そんな先も見えない不景気になってかなりの自殺者が出たのよ。日本政府は早急に景気の安定と自殺者を出さない為に色々な政策を盛り込んだ。でも、その後の10年は藤乃くんも知ってると思うけど景気不振が続いてさらに自殺者は増え続けた。そして政府は兄弟が考案したシステム理論に目をつけた。その結果、政府が莫大な予算を投入して開発させたのが…この装置」



【Mind Revive Network System】



「過去を追体験できる。このシステムの名称」


僕は壮大すぎる三神さんの話に頷いて聞くのがやっとだった。


「簡単に説明すると、被験者の脳内の記憶をバーチャルリアリティで体験する事ができる。それもかなり現実に近い完成度で」


僕はまだ話の半分も理解してはいなかったが、自分がこれから体験するのもあり、ある疑問が芽生えた。


「三神さん、すいません。このシステムの目的は何なんですか?被験者に過去を体験させて……一体どうなるんですか?」


「このシステムは鬱病や精神疾患の患者用に開発されたの。心に病を煩った人の多くは自分がダメな人間だと思い込んでいる所がある。そのほかに人生の失敗や挫折をずっと後悔している人が圧倒的に多い。でもこのシステムを使えば被験者自身の過去の失敗や後悔の手前に戻って失敗しないシナリオを擬似的に体験させる事が出来る。その疑似体験を通じて精神の緩和と生きる自信を与える可能性が期待されている」


三神さんの言葉を聞きながら僕にはある思いが浮かんだ。人間の人生において失敗や挫折は避けて通れない道だと僕も思う。後悔しても時間の無駄だと言う強い心の人も実際いるけど、全員がそんなに強いメンタルを持っているはずもない。僕自身も東京で一人暮らしを始めて7年近くになるが、ときどき言い切れない不安に苛まれる事がある。自分の現状と将来への不安、そして過去の後悔とネガティブな思考をミキサーで混ぜられたような感覚……自分とは一体何者なのかと哲学的で明確な答えが出ない問いに苦しめられたり、おそらく僕だけではなく、みんなそうなんだろう……。


「誰にもあるわよね……やり直したい過去が……」


「そうですね……人間生きていれば後悔は必ずあると思います。もしも過去に戻って失敗を成功に変える選択が出来れば少なからず違うきっかけみたいなものは掴めるかもしれませんね」


「きっかけ……そうね。このシステムの本来の目的がきっかけ作りなのよ。結局、過去は変えられないけどバーチャル世界で成功体験をする事によって何か生きられるきっかけを被験者が見つけてくれさえすれば最悪の事態は防げる気がするのよ………」


僕の意見に答えながらも何故か三神さんは寂しそうに視線を落としていた。


「私たち……医師の力不足ね……こんなシステムに頼らないといけないんだもの……言い訳じゃないけど鬱病を患ってしまった人の多くはかなり症状が進行してからやっと病院にカウンセリングに来る人がほとんどなの……初期段階だと自分が病気だと気がつけない人が多い。外見では症状もわかりにくいし、あと特に日本人に多いのは我慢して頑張る事が美徳みたいな風潮が未だにあること。ツライ時に我慢してしまう人が本当に多いのよ。病気が進行すれば治療にかなりの時間が必要になるし、それだけ社会復帰への道も遠くなってしまう……」


僕の頭の中にある考えが巡っていた。

それは心の病は実体の無い何かとの戦いのように思えたからだ。外科や内科なら手術をしたり薬を投与したりと目に見えて患者の効果がわかるが、精神の病はまるで暗闇の中で得体の知れない者と対峙している感覚なのかもしれない。それだけ人の心は弱く、傷つきやすく、壊れやすい……それを医師や看護師は、まるで薄氷を踏むように歩を進めながら患者の心に寄り添う。


「ちょっと愚痴っぽくなったわね。他には質問ある?」


「えっと、僕の他にも治験に参加する人はいるんですか?」


「いるわよ。実はこのシステムがある病院はここだけじゃないのよ」


「えっ、どういう事ですか?まだこんな設備がある病院が何個もあるんですか!?」


三神さんの答えに思わず声を荒げてしまった。


「全国に何ヶ所かサブコンピューターが存在してて、ネットワークで繋がってるのよ。各地のサブコンピューターの規模自体はここよりは小さい。そして違う場所で藤乃くんのように治験に参加する人がいる。今回初めて全国規模での実験をする予定」


僕の他にも治験者がいると聞いて少し気が楽になった。こんな大掛かりなシステムを一人で体験するのはさすがに気が重い。


「でも一緒にやると言っても直接関わるわけではないから。体験してもらうのはあくまで個人の過去の追体験。今まではマザーコンピューターのみで実験を主にしてたんだけど今回はサブコンピューターと連動させて本格的な運用に向けてのトライアルをするつもりよ」


「わかりました……システムを動かす日……いや、僕が体験する日はいつなんですか?」


「予定は明後日。昨日の今日で気持ちの整理が難しいと思うけど大丈夫?」


「こんなスゴイ物を見せられて今更やらないなんて言えないですよ」


僕の気持ち的には不安はもちろんあったが今は恐怖より好奇心の方が勝っていた。


「それもそうね。ごめんなさい……長々と付き合わせてしまって、そろそろ戻って同意書にサインしてもらわないと」


彼女は言いながら椅子から立ち上がろうとしてた。


「あっ、最後に一つだけ質問いいですか?」


僕の言葉に立ち上がるのをやめてまた椅子に座り直したので続けた。


「三神さんはどうして医者になろうと思ったんですか?」


思わぬ質問に彼女は一瞬、考えてから僕に視線を合わせた。


「藤乃くんって亮介くんが水がダメなの知ってる?」


三神さんの質問に僕は大学の頃、夏休みに友達と何人かで海に泳ぎに行った時の事を思い出していた。たしかにあの時、逢沢は海には入らず浜辺に座ってビールばかり飲んでたな……。


「はい。本人は泳ぐのが苦手だって言ってましたけど」


「そっか……実は亮介くんね…子供の頃に川で溺れて死にかけた事があったのよ。あれは確か……亮介くんがまだ5歳だったと思うわ。あの事故は私の家族と亮介くんの家族とで川辺でキャンプをしてた時に起きた。あの時はみんなでバーベキューをしてたり川遊びしたり。当時9歳だった私は川で泳いでて、亮介くんは川岸で母親と遊んでいた。でも母親がちょっと目を離している間にあやまって川に入って流されてしまった。気がついた大人たちがすぐに亮介くんを助けたんだけど水を大量に飲んでいたらしくて彼は意識がなかった。私たちがパニックになってると一台の車が私たちの近くに止まって車の中から一人の男性が出てくるなり亮介くんの応急処置を始めた。そして唖然としている私たちに『今から救急車を呼んでも間に合わないから私の車で病院まで連れて行く』と言って亮介くんを自分の車に乗せて病院まで連れて行ってくれたの。後で知ったんだけど、その男の人はお医者さんだった。釣りが趣味らしくて、その日はたまたま私たちがいた川の近くを通りかかったんだって……そんな光景を見た幼い私は男性がカッコイイ正義の味方のように映ったのかもしれないわね。そんな事があってから漠然と将来は医者になりたいと思ったのよ」


懐かしそうに話す三神さんの目はとても優しかった。


「すごいですね。それで本当に医者になって患者さんを助けてるなんてカッコイイですよ」


僕は素直な気持ちを言った。子供の頃に憧れていた職業に就く人って日本に何人くらいいるんだろうか……大体の人は憧れだけで終わってしまう。


「でも現実はそんなにカッコイイものじゃないわよ……この仕事を本気で辞めたいって思った事だってあるし……」


三神さんはまた視線を落として何か考えている様子だった。


「もう……5年前くらいになるかな……私が担当していた患者さんが自ら命を絶った事があったのよ。その時は本当に自分の無力さに心が折れそうになった。本気で辞めようと思った……でも医者を志して患者と向き合った瞬間から私だけの人生じゃないって事に気がついたの。患者さんの治療はもちろんだけど、その患者さんのすぐ後ろには家族がいて、恋人や友人、色んな人が一人の事を大切に想っている……だから私は何があっても患者さんと最後まで向き合おうって心に誓う事が出来たの」


三神さんの一言一言に医師としての芯の強さが見えた。日々、患者と向き合い葛藤している彼女に対して僕はただただ尊敬と称賛の気持ちしかなかった。


「はい、私の身の上話はここでおしまい。いい加減に戻らないとね」


僕らは制御室を出て地下から病院の本棟に戻ってきた。一階にある会議室で契約書と同意書にサインをした。三神さんから再三言われたのは守秘義務を守ってほしいと言う事だった。国家プロジェクトで治験段階だというのもあるし、何の責任もないフリーターの僕では想像も出来ない大人の事情ってやつが存在しているのだろう。


「おつかれさま。これで終了」


三神さんはテーブルの上の書類をまとめながら言った。僕は疲れからか…深い深呼吸のようなため息がこぼれた。


「藤乃くん、疲れたでしょ?病院に入ってからはずっとこっちのペースで動いてたもんね」


「そうですね。色々な事を見たり聞いたりしたので、ここ最近で一番疲れました」


「でも明後日はあちこち連れ回す事はしないから」


疲れた顔で答えながら、再度病院を訪れないといけない事を思い出して若干憂鬱になった。


「あっ、そうだ……治験の検査要項とは関係ないんだけど、藤乃くんって過去にものすごい恐怖体験をした事はある?」


「……いいえ、ないですけど……どうしてですか?」


この質問に僕は間をおいて答えた。三神さんは一瞬、何かを懸念している様子だったがすぐに表情を戻していた。


「ううん、何でもないわ。気にしないで」


会議室を出ると二人はロビーに向かった。時計を見ると午後10時を過ぎていた。ロビーからは人が消え、灯りも最低限の照明が薄暗く照らすだけだった。ロビーの自動ドアは閉まっているらしく、ロビー隣の職員専用の出入り口へ案内された。


「じゃあ、明後日は朝の9時からだから遅刻しないで来てね」


「わかりました。今日はありがとうございました」


僕は三神さんに軽くお辞儀をしてから背を向けて駅の方向へ歩き出した。


五月の夜風はとても心地よく、帰宅する僕の肌を優しくかすめて通り過ぎていった。










治験当日。僕は朝から大学病院の最寄り駅に来ていた。今日は日曜日でバイトは休みだった。腕時計を見ると8時30分になっていた。

駅前は日曜の朝ということもあってか歩いている人は少なかった。昨日はバイト中ずっと今日の事を考えていた。過去をやり直せると言われたけど、これから自分の身に何が起こるのか全く検討もつかなかった。

あのシステムがうつ病や精神疾患の人たちの心を救う……。確かにあのマザーコンピューターを見て圧倒されたのは間違いないが僕はまだ半信半疑だった。

昨日からのモヤモヤが晴れないまま僕は病院に向かった。


病院に着くとロビーの自動ドアが開かなかった。自動ドアの前に大きな張り紙があり『患者様との面会の方はこちらへ』の文字のとなりに地図も書かれていた。

僕は携帯電話をポケットから取り出して逢沢に教えてもらった三神さんの携帯に電話をしてみた。


「もしもし、三神です」


「あっ、藤乃ですけど……」


「藤乃くん?どうしたの?」


「病院に着いたんですけど、ロビーが閉鎖されてて」


「今、ロビーの前にいるの?」


「はい」


「迎えに行くからそこで待ってて」


「わかりました」


僕は携帯を閉じてポケットに入れ、外で待っていた。しばらくすると白衣姿の三神さんが病院の裏手から歩いてくるのが見えた。

「ごめんなさい。この前言うの忘れてた。日曜は外来がないからロビーは閉鎖してるのよ。案内するからついてきて」


僕はおとといのデジャヴを感じながら三神さんの背中を追った。ドーナツ型の建物の外周を回り、病院スタッフ専用の出入り口から病院に入れた。


「すぐに別棟の地下に行きます。そこでまた説明するから」


彼女はそう言うと携帯を出して誰かに電話を掛け始めた。


「私だけど治験者が来たから準備を進めて。各地の施設にも連絡忘れないで、開始時間は1時間後」


会話が終わり携帯をしまうと相変わらずの早歩きで廊下を疾走していく。僕もすぐその後をついて歩いた。

セキュリティの厳しい重い扉を開けて廊下を通り、大きなフロアを出ると地下へ続くエレベーターが現れて三神さんが最後のセキュリティを解除すると僕らはエレベーターに乗り込んだ。


「今日の予定だけど1時間後に治験を開始します。システムの仮想世界に入ると治験者本人は眠っているのとほとんど変わらない状態になるから藤乃くんは何もしないでベッドに横になってくれればいいわ。次に目覚めた時には治験終了」


僕はそれを聞いてすごい楽な仕事だと安心した。多少は痛い思いをするのか内心ドキドキしていた。


「でも楽な仕事だとは思わないでね。システム世界は現実と大して変わらないから。一度、仮想世界に入るとあとは全て自分の判断で行動する事になる。私たちはシステム内の治験者に対して何のフォローも出来ないからその辺は理解しておいて」


自分の浅はかな考えを反省しているとエレベーターの扉が開き、ついに地下3階に到着した。

奥のフロアからは一昨日は聞こえなかった大きな機械音がした。しかも冷房が効き過ぎて寒いくらいだったのが今日は暑さを感じた。

マザーコンピューターのあるフロアに入るとそこは熱気と騒音が支配していてまるでそれはコンピューターが意思を持って自分の存在を誇示する為にやっている気さえしてきた。

そして三神さんは制御室のドアを開けて中に入った。僕もその後を追い、部屋の中に入る。

制御室内を見渡すとスーツ姿の男性二人が作業をしていた。


「準備の方は順調?」


「はい、今のところ特に問題はありません」


三神さんが一人の男性に声を掛けると男性はすぐに答えていた。


「二人がエンジニアの林と仲村。今回、治験のサポートとシステム操作を主に担当します」


「よっ、よろしくおねがいします」


僕は少しぎこちなく挨拶した。男性二人は僕に軽くお辞儀をした。


「じゃあ、藤乃くんこっちに来て」


三神さんのあとについて制御室の隣の部屋に向かった。

そこは防音室のような作りの部屋で外の音は全く聞こえなかった。

部屋の真ん中には特殊なベッドらしきものだけが置いてあった。

蓋の付いた箱の中に人が一人寝れるくらいのスペースがある。それはまるでSF映画などで登場する冷凍カプセルを彷彿とさせる代物だった。


「ここで治験を受けてもらう。これからシステムの中に入る前にいくつか言っておく事があるからよく聞いて」


三神さんはベッドの横に立ち僕に言った。彼女に促されて僕も近くまで移動した。


「まずはこれを被ってもらう」


そう言うと彼女は蓋の開いたベッドの中からヘッドギアらしき頭に被る物を持って僕に見せた。さらにヘッドギアからは束ねられた細いケーブルが延びていてベッドの頭の部分にある小さな機械に接続されていた。


「そしてここに寝てもらって、次に記憶を取り込んでからシステムをスタートさせます。システムの世界はあなたの記憶の断片を再構築して限りなく忠実に再現させる。過去のやり直したい事や後悔をいくつか抽出してあなたの脳波、脈拍、体温、その時の精神状態をコンピューターが読み取り、一番最良な過去のエピソードを体験させてくれる」


「ちょっと待ってください。さっきシステムの世界に入ったら全て自分で行動するって言ってたじゃないですか?それはどういう事ですか?」


淡々としゃべる三神さんを制止して自分の一番気になる疑問をぶつけた。彼女は一瞬止まり、再び話を続けた。


「体験してもらうのは抽出されたいくつかの過去のエピソード。そして一つ一つのエピソードをミッション形式でクリアしていく。さっき私がシステムに介入出来ないって言ったのは理由があって開発者の強いこだわりでシステムの世界をよりリアルに近づかせるためらしいのよ。藤乃くんは自分の過去の失敗や後悔を誰かに覗かれたり干渉されるのはどう?」


「失敗や後悔の種類にもよるんでしょうけどやっぱり嫌ですね」


他人に干渉されるまでもなく自分の過去は自分が一番良く知っている。だからこそ体験者本人が最良だと思う行動を取る。僕はやっと三神さんの説明を理解できた。


「別に私たちもシステム作動中に何もしないわけではなくて体験者の脳波、脈拍、体温は常にチェックするし、何か異常があればシステムを強制終了する事もできるから安心して」


「わかりました……あとシステム内では自分で行動してミッションをクリアしていくと言ってたじゃないですか?クリアの目安みたいなものはあるんですか?」


「システム内に入ると利き腕にリストバンドのような端末が装着されます。その端末はミッションの開始と終了を知らせてくれる。それとミッションクリアは体験者本人が納得するまで」


「納得するまで……?」


「ええ、やり直しが出来るって言ったのは何回も繰り返せるって意味も含まれている。このシステムの最大の特徴は過去の失敗体験を何度もやり直して自分の納得がいく答えを自ら導き出す事が出来るところなの」


彼女の話に僕は、このシステムの本当の意味が少し理解できたような気がした。人生は一度きり、予期せぬ事の連続、成功と失敗、反省と後悔の文字が死ぬまでつきまとう。失敗を未来の糧にして生きていける人もいれば、逆に一度の失敗や後悔をずっと引きずって生きている人もいる。

このシステムは後者の人たちに対して人生の再試験のような役割を担っているのかもしれない。これを体験する事で失敗や後悔というネガティブなワードにも真剣に向き合う事ができるんじゃないかという期待感は大いにある。


「三神さんの話を聞けば聞くほど楽な仕事じゃない事がわかりました。僕も出来るだけシステムを通して自分の過去と向き合いたいです」


「あまり気を張りすぎないでリラックスして。私たちがちゃんとサポートするから」


そして三神さんは僕にヘッドギアを手渡した。


「そろそろ開始の時間ね……これを被ってここに横になって。次の指示をするから」


僕は渡されたヘッドギアをさっそく被ってみた。見た目は被りづらそうだったが、意外と楽に被れた。

三神さんはヘッドギアを着けた僕を見届けると部屋を後にした。

一人になった僕は指示通り靴を脱いで箱型のベッドに入り横になった。しばらくすると箱の蓋がゆっくりと閉まり始めた。そして蓋が閉まると完全な無音状態になった。


「藤乃くん、聞こえる?」


突然、ベッド内から三神さんの声が聞こえた。


「はっ、はい。聞こえます」


どうやらヘッドギアにスピーカーとマイクが内蔵されているらしい。


「了解、これからあなたの脳内の記憶を抽出する作業に入ります。今から眠くなるガスを出すけど別に眠ってしまってもかまわないから」


「わかりました」


数秒後、ベッド全体から何かが噴き出しているのが微かに聞こえてきた。

しばらくすると僕は意識が少しずつ遠くなっていくのがわかった。


「ふじの…くん……この……ま…スタート……から……」


三神さんの声が遠くの方から聞こえて消えていく……。



なんだか……大の字になって海の中にゆっくり沈んでいくような感覚だ……。


海の底から何かの胎動が僕の全身を心地よく揺らす……。


もう過去や未来なんてどうでもいい……。


ただ今はこの海に全てを預けて……僕の細胞の一つ一つを母なる海に還そう……。
















ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ!


ハッとして目覚めると僕は職場近くの定食屋の前に立っていた。

自分の腕から音が鳴っているのに気づいて利き腕に視線を落とすと、いつも身に着けている腕時計とは違うものが見えた。


「なんだ……これは……」


黒いリストバンドのようなものから音が出ていたが、ボタンも何もないので試しに軽く触れてみると突然、目の前にハガキくらいのサイズの液晶画面が浮かび上がり[ミッションスタート]という文字が表示されたあと、音は消えて画面も消えた。

僕はここがシステムの中だとすぐにわかった。でもいつもと何か変わっている様子は特になかった。

周りの景色、太陽の暖かさ、風が肌に触れる感覚、現実世界と何も変わらない。僕は一歩下がり、定食屋の外観をもう一度確認した。


「おとといのお昼だよな……ここは……」


多少の不安を抱えながらも定食屋の引き戸を開けて中に入った。店内を見回すとガテン系の三人組が座って食事をしていた。そして壁に貼ってあるメニューに目をやると新メニューの豚キムチ定食があった。僕は出口に近いカウンター席に座った。


「いらっしゃい」


カウンターの中にいた店主の声が聞こえた。

確か僕はここでレバニラ炒め定食を頼んだ後に豚キムチ定食に気づいて後悔したんだった。テーブル席で三人組が美味しそうに豚キムチ定食を食べてるのが見える。


「すいません、豚キムチ定食一つ」


「はい、豚キムチね」


店主が冷蔵庫から材料を取り出して手際よく調理を始めた。

僕はそれを見て思わず含み笑いをしてしまった。それは僕自身がおとといの昼休みに起きた出来事をすっかり忘れていたからだ。しかし、僕の頭の中では後悔としてまだ鮮明に残っていた事が面白かった。


(そういえば…このあと逢沢にメール送ったんだっけ……)


僕は一応、携帯を出して同じ内容のメールを送った。


「はい、豚キムチ」


店主が無愛想に豚キムチ定食をカウンターに置いた。目の前に出来立ての料理がある。僕は顔を近づけて匂いを確かめた。料理からは美味しそうな匂いがしている。次に割り箸を取り、ゆっくり豚肉を一口食べてみた。


「す、すごい……」


僕は思わず小さく声を上げていた。味も食感も本物と同じだった。

僕は同時に色んな事に感動してガツガツ食べ始めていた。このシステムは本当にすごい。ちゃんと五感まで感じられるなんて一体どうなっているんだろう。

僕が食べているとテーブル席の三人が食べ終えて店を出るところだった。後輩二人が先に店を出て、先輩が会計をしたあと外で『ごちそうさまでした』と後輩二人が先輩に言う。僕はこの先の出来事を知っているので、彼らの行動を見ているのが面白かった。

会計を終わらせた先輩が出口に向かう時に豚キムチを食べている僕と目が合い、彼が一瞬笑ったように見えた。

そして引き戸を開けて外に出ると「ごちそうさまでした」という後輩の声がやはり聞こえた。

店主は調理場の丸椅子に座り新聞を広げて読み始めた。

現実だと、これで気まずくなってそそくさと食べて店を出た。でも今度は二回目なので落ち着いて定食を食べ続けた。店内には店主がめくる新聞の音だけが静かに響いた。

僕は豚キムチ定食を食べ終えたが何故か満腹感はなかった。そして会計しようと立ち上がり財布を出しながらレジがある場所へ向かった。店主も僕に気づいて新聞を畳んで立ち上がった。


「毎度どうもね。850円になります」

僕は千円札を財布から出して店主に渡した。そしておつりを受け取る。


「豚キムチ定食美味しかったです。ごちそうさま」


僕は現実でやっていない事を敢えて言ってみた。


「ああ、ありがとね。元々あれは裏メニューだったんだけどね。常連さんがたまたま漬けたてのキムチを持ってて、これで何か作ってくれって言われてね。その時に有り合わせで作ったら絶賛されたんだよ」


無愛想な店主と初めて会話をした。僕は軽く会釈をして出口に向かう。

引き戸を開けて外に出るとリストバンドから音が鳴った。リストバンドに触れてみると、液晶画面が浮かび上がり何か画面の上下に文字が表示されている。


ミッションコンプリート

[NEXT]

[RETRY]


僕は文字を見ながら考えていた。


(上を押せば次のミッションに自動的に行くのか……下を押せばおそらく食べる前に戻るって事だよな……)


一応、豚キムチ定食は食べれたし、店主とも会話出来たからミッションクリアで良いと思った。敢えてイレギュラーな事をしてみたがシステムはちゃんと対応していた。

僕は間違えないように上の文字を人差し指でタッチした。

そして次の瞬間、目の前が真っ白になってSF映画さながらの超高速ワープのような自分がどこかに転送されている感覚になっていった。










「藤乃くんの脳波と脈拍はどう?」


「異常ありません。システムも正常に作動しています」


私の質問に制御コンピューターを操作している仲村が答えた。


「次は各地のサブコンピューターと連動させて他の治験者の記憶を抽出。初めての試みだから手順には十分注意して」


「わかりました」


私は仲村に念を押した。そして彼は操作を始める。私は仲村の後ろに立ち、モニターを凝視していた。


「たった今、各地の施設から準備完了の連絡が入りました」


仲村の隣で違う作業をしていた林が私に言った。


「では……開始して。終わり次第、順次システム内に治験者を転送」


私は内心怯えていた。初めての事なのもあるが、この得体の知れない巨大システムが万が一暴走でもしたら何が起こるかさえ予測が出来ない。

ふと、私の脳裏にシステム開発者の兄弟の顔が浮かんだ。あれは確か8年前、私が医大の学生だった頃、精神科医の論文発表会に学部の教授と学生数人で傍聴しに行った時に壇上で挨拶する兄弟2人を見た記憶があった。精神科の未来を変えるかもしれない新システムの理論を30代そこそこで開発した天才兄弟と当時、医学会では騒ぎが起きていた。

私が見た二人の印象は兄の榊毅仁さかきたけひとのインパクトが圧倒的に強い。あの絶対的な自信に満ち満ちた目を。今でも忘れる事が出来ない。それに比べて弟の榊知仁さかきともひとは兄とは対照的で人柄の良さそうな笑顔の似合う青年という印象だった。

確かあの後、正式にシステムの運用が決まって開発が始まったと記憶している。だが、数年後、マザーコンピューター完成直後に兄弟は突然、行方不明になってしまう。当時警察も介入しての大捜索も行われたが行方は未だに不明のまま……。

そして2人が消えてすぐに私がこの病院への転院が決まり現在ではシステム運用の責任者の一人になっている。


私は祈る思いでマザーコンピューターと目の前のモニターを見つめた。


















ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ!


僕はまたあの音で目が覚めた。今度は野球場のダッグアウトのベンチに座っていた。

すぐリストバンドに触れると、またミッションスタートの文字が浮かび上がった。

僕は自分が野球のユニフォームを着ているのに気づいた。そして周りを見ると、同じユニフォームを着た学生らしき人たちが何か準備をしている。


「まさおみ、どうしたんだよ。ボーッとして早く準備しろよ」


戸惑っている僕に声を掛けてきたのは中学時代の野球部のチームメイト宮田だった。


「あっ……みやっち……準備って?」


僕は突然、訳のわからない場所に転送されて状況を全く把握していなかった。


「守備に決まってるだろ!この回を守りきれば俺達の勝ちなんだぞ!」


宮田は僕を睨みながらグローブらしき物を無理やり僕の胸に押しつけながら語気を強く言った。

僕は宮田から強制的にグローブを受け取り、引っかかりを感じながら彼の後ろについてベンチから出ようとするとユニフォームを着た中年男性から集合の声がかかった。

近くに行ってみて、ようやくわかったのだが中年男性は僕の中学時代の野球部の監督だった。


「お前たち勝っているからと言って絶対に気を抜くんじゃないぞ!相手チームは必死に食らいついてくる。いつもの練習どおりやれば絶対に勝てる!いいな!」


「はい!!」


監督の言葉にチームメイトは気合いを入れ直している様子だった。そして9人はグラウンドに駆け足で出て行った。僕も宮田のあとを追って走った。観客席からはすごい歓声が聞こえる。

僕は走りながら、このミッションが何なのかようやく理解した。

中学時代の最大の後悔……全国中学校軟式野球大会、夏の地区予選準決勝。

9回の裏、ツーアウトの場面で僕が平凡なフライをエラーして逆転負けした試合。

この試合以来チームスポーツをするのが本気で怖くなって高校で野球は出来なかった。

僕の責任じゃないと監督とチームメイトは言ってくれたが、あれは完全に僕のミスだった。バッターが打った球が僕の方へ飛んできたとき『これで勝てる!』と思って気が緩んでしまった。練習では絶対に落とさないフライを落としてしまった。

当時の僕はボールを落としてからの数分間……頭が真っ白になり……気がついたらランナーがホームインして敵チームが全員で逆転勝ちを喜んでいた。

本当に有り得ない事が起こると人間はただただ呆然と立ち尽くして言葉も何も出なくなる。それを僕は中学三年で体験した。

あの時ほど時間が戻ってほしいと心から願った事はなかった。試合後は涙が止まらずチームメイトと監督にずっと謝っていた。



それを今からやり直す……。



当時の守備位置はライト。今度はちゃんと捕れるだろうか……。

内心は怖くてドキドキしていた。野球なんて中学以来やってないし、それにいきなり悪夢の9回裏からなんて……せめて5回くらいから始めたかった。

守備位置につくと10年前の光景が眼前に広がっていた。懐かしさ、悔しさ、虚しさ、様々な感情が入り混じっていた。僕自身もそうだったがチームメイトがみんな勝つ為にツライ練習に耐えてこの試合に挑んでいる。


僕自身が忘れかけていた思いが少しずつ蘇ってきているのがわかった。せっかくシステムの力でこの場面を用意してもらったのだから今度こそエラーせずにチームメイトと勝利を分かち合いたい。その願いを胸に9回の裏が始まろうとしていた。



「しまっていこうぜ!!」



キャッチャーのキャプテン木村が8人に向けて声を上げた。

僕の記憶では二回ヒットを打たれてランナーが2、3塁になり、その後ピッチャーの小林が続けて2人の打者から三振を取った後、次の打者が打ってライト方向にボールが飛んできて僕がエラーをした。

ボールの落下位置を必死に思い出していた。出来る事ならシステムをリトライせず一発でボールを捕りたい。

しかし、ここで成功しても僕の現実は何も変わらないだろう。それでもこのフライを捕る事が出来たら僕の気持ちは間違いなく変わる気がする。

そして試合は僕の記憶通り、最初にヒットを二本打たれてランナー2、3塁になった。

僕は守備につくチームメイト一人一人の表情を見た。かなりピンチの状況だが、みんなの顔はまだ諦めてはいなかった。あの時はみんなの表情を見れる余裕なんて全くなかった。試合をしている当事者が客観的に試合を見ている感覚が不思議で仕方なかった。そしてこの先、何が起こるのかも僕だけが知っている。

キャッチャーの木村が審判にタイムを要求して内野手と木村がマウンドに集まった。彼らがマウンド上で話している内容はこの位置からでは聞こえない。そして木村が小林の肩に手をのせて何かを言うと彼らは守備位置に戻り試合は再開された。

このあと小林は続けて二人の打者を三振に打ち取った。彼の気迫がここまで感じられる。そしてついに最後の打者がバッターボックスに立った。


時間がゆっくり流れていた。夏のジリジリした暑さ、遠くから微かに聞こえる蝉の声、観客も息をのみ全員が投手と打者の真剣勝負に注目した。

僕は動き出すタイミングを間違えないようバッターの動きを細心の注意をはらって見ていた。正直言うと、このバッターが何球目で打ったかまでは覚えていなかった。


小林がセットポジションにつき一球目を投げた。ど真ん中ストレート

バッターは急速が合わず空振りをした。キャッチャーが返球をして小林が受け取ると再びセットポジションから二球目を投げた。

バッターがおもいっきりバットを振るとボールに当たった。

僕はハッとして動き出したがボールはレフト方向に飛んでファールになった。


「ツーストライク……あと一球……」


僕が呟くと、小林はセットポジションにつきランナーを一瞬見ると最後の一球を投げ込んだ。

バッターが振ったバットがボールの芯を捉えたが少し詰まりぎみになった。そしてボールはライト方向へ飛んできた。

僕はバッターが打った瞬間に動き出してボールの落下位置に立ちグローブを構えた。

打球は弧を描いて僕のいる所に落ちてくる。そしてボールはグローブの中に吸い込まれるように入っていった。


「捕れた!捕れたんだ!!」


僕は嬉しさのあまりチームメイトの方へ走り出していた。みんなが歓喜して僕の方へ走ってくるのが見えた。


だが、その時……何か違和感を感じた。


チームメイトの動きが異様なほどスローなのに気づいた。そして次の瞬間には前が強く歪んで見え、さらに耳障りなノイズ音までしてきた。

僕は立ち止まり、周りの景色を見ると空がジグソーパズルの途中みたいに欠け始めていた。


「なんだ!?一体なにがどうしたっていうんだ……」


この言葉を最後に勝利の余韻に浸ることも出来ず、目の前が真っ白になる中で僕の意識だけがまた何処かへ転送されていった……。














「どうしたの?」


突然、目の前のモニターが赤く点滅した。


「システムエラーです。今、原因調べています」


仲村がモニターを凝視しながらキーボードを打ち出した。


「やはり……多人数の転送が原因かしらね…」


「これは……一体……?」


私の呟きに合わせるように仲村が小さく声を上げているのが聞こえた。その声に反応してモニター画面を見ると、ものすごい勢いで英数字が画面を無数に流れていくのが見えた。


「なんなの!?これ!」


「勝手にプログラムが書き換えられています!」


「林くん、サブコンピューターの状況は!?」


「サブの方もダメです」


「仲村くん!強制終了!急いで!」


私の声に仲村は強制終了の赤いボタンを叩くように押した。



しかし、システムは停止する事なく、プログラムは書き換えられ続けていた。


「何で…停止しないのよ……」


予期せぬ事が起きてしまった。強制終了ボタンが効かないのでは、手の打ちようがない。私は呆然としたまま制御室には不穏な空気が流れた。


「あの……三神先生、これはあくまで私の見解なんですが、このトラブルには二つの可能性が考えられます」


「ふたつ……?」


椅子を回して私の方を向いた仲村の言葉に私は立ったまま聞き返した。


「ええ、まず一つ目は外部からのハッキングです。何者かがマザーコンピューターのネットワークに侵入してプログラムを書き換えている可能性です」


「でもマザーコンピューターのセキュリティは簡単には破れないって話を聞いた事がある」


「その通りです。しかも、このマザーコンピューターとサブコンピューターを繋ぐ回線は一般的なものではなく、独自のネットワーク回線なのでハッキングの可能性はかなり低いです」


「わかったわ……それでもう一つは?」


「最初からこのマザーコンピューターにプログラムが仕込まれていたという可能性です」


「そんな事出来るの?」


「ええ、例えばの話ですが、ABCという3種類の道があるとして、いつもはAとBの道しか使わないのに偶然使ったCの道に地雷が仕掛けられている。実はコンピュータープログラムにも同じような事が出来るんですよ。意図はわかりませんがこっちの方が可能性としては高い」


私は仲村の言う二つの可能性について考えていた。


「林くんは今の話どう思う?」


「私も可能性で言うなら後者だと思います」


このシステムの運用に携わってきた二人の意見なら信用に値する。でもこれが誰が何の目的でやったのか……この自問に私の脳裏に榊兄弟の姿が浮かんだ。


「プログラムの修正にはどのくらいかかる?」


「正確な時間は確約できませんが今日中には必ず」


私の質問に仲村が答えた。その言葉と顔つきに私は少し安堵した。


「ですが一つ問題があります。プログラムを復旧している間、システム内はしばらく放置する事になります。このプログラム書き換えが何を意図しているのかも今は調べようがありません」


私は藤乃くんがいる部屋を見つめた。おそらくシステムが正常に終了しないと、彼が寝ているカプセルの扉は開かないだろう。


「治験者たちの脳波や脈拍の情報はわかるの?」


「それはわかります。今のところは正常値内です」


(まさか……こんな事になるなんて……今は一刻も早くプログラムを復旧させないと……藤乃くんたち治験者が危険だわ……もしこのプログラム書き換えが榊兄弟の仕業なら一体何が目的なの……)


システム内の状況がわからないのではどうしようもなかった。とにかく今は治験者の体調を見守ることしか出来ない。


「林くん、各施設の担当者に今の情報を開示して。あとこの計画の最高責任者にも」


私の言葉に林は頷き作業を始めた。これは始末書だけじゃ済まないかもしれない。



とにかく藤乃くん、無事でいて……。


















目の前が光に溢れ、そっと目を開けると僕はどこかに立っていた。ゆっくりと周りの景色を見渡すと、すべり台、ブランコ、ジャングルジム、鉄棒とベンチに水飲み場があり、どうやら僕は公園にいるみたいだ。

でもここは僕の記憶にある公園ではなかった。公園から外の景色を見ても何も思い出せない。

前回、野球場で起きた不具合が気になったが今のところ視覚と聴覚に問題はなかった。

利き腕にあるリストバンドは何の反応もしていない。いつもなら音が鳴ってミッションスタートの文字が出るのに今回は何も起こらなかった。やはりさっきの不具合が関係しているんだろうか……。

僕は誰もいない公園のベンチに座り、おもむろに周りの民家を眺めた。見ると建物のデザインが何となく古く感じる。民家に駐車している車も僕が子供の頃によく街で見かけた車種が多かった。

もしかしたら僕は80年代のどこかに転送されたのかもしれない。しかし、自分の姿を確認すると現在の25才のままだった。

もしシステムのミッションで80年代に転送されれば僕の体は乳幼児から小学生でなくてはならない。やはり何かがおかしい。

でもこれがシステムのトラブルであったとして僕は何をすればいいんだろうか。三神さんとも連絡も取れないし、全く土地勘の無い場所で途方に暮れるしかなかった。


しばらくベンチでボーッとしていると公園の外を急いで歩いている女性を見つけた。それに女性は異様に辺りをキョロキョロしながら歩いている。

その女性の動向を何となく眺めてるとベンチに座っている僕と目が合った。すると女性は紛失した大切な物を見つけ出した時の顔になり、僕のいるベンチに早歩きで近づいてきた。


「あの……すいません。今って時間ありますか?」


若い女性だった。チェック柄のスカートに白いセーター、髪はセミロングのストレートヘアー、見た目は大学生くらいだろうか……今時の可愛らしい子だった。


「まあ、ありますけど……」


「えっと……変な質問するけど驚かないで聞いて下さい。決して怪しい者じゃないので」


「はぁ……僕に答えられるかな……」


「ここはどこですか?それと今は何年の何月何日ですか?」


何を言われるか内心ドキドキしていたが、自分と全く同じ疑問だったので一瞬、思考が止まってしまった。


「あっ……ええっと……今は1980年代で……ここがどこか……実は僕も知らないんです……」


「えっ、あなたもわからないんですか?」


僕の曖昧な答えに女性は唖然としていた。質問者と回答者が同じ状況なのに対して驚きを隠せない様子だった。


「あの……もしかして……あなたもこの世界の人じゃないって事ですか?」


女性は僕の方を見ながら意味深な質問をした。回答に困って視線を落とすと女性の右腕に見覚えのあるリストバンドが見えた。


「そのリストバンド……あなたも治験者なんですか?」


「はい……ハァ…よかったぁ。全然知らない場所だから本当に困ってて……」


「僕もあなたと全く同じです。気がついたらここに転送されてて。全く見覚えない場所だし、この端末も反応しなくて途方に暮れてたんですよ」


僕の状況と彼女の状況が同じである事に対してさっき考えていた可能性を思い出した。


「何かのシステムトラブルかもしれませんね。僕が今、治験を受けている病院の医師の話だと治験者同士が同じ世界を共有する事はないって言っていたし、ここに転送される直前からおかしな現象が起きていたので」


「私もここに来る前、ミッションの最中だったんですけど強制的に終わってしまって……気がついたらこの世界にいたんです」


彼女の説明にやはりコンピューターの不具合だと確信したが、不具合だとわかっていても僕らは自分の意思で現実世界に戻れるわけではない。


「ここにずっといてもしょうがないので、まずは人がいる場所に行って情報を集めましょう。もしかしたら僕らの他にも治験者がいるかもしれない」


「そっ、そうですよね!私たち以外の誰かのミッションかもしれないですよね」


僕らは公園から出ようと歩き出した。そして出口付近で僕は何かを思い出して立ち止まり振り返った。


「そういえば自己紹介してませんでしたね。藤乃雅臣ふじのまさおみです」


「私は織音遥香おりねはるかです。藤乃さん、改めてよろしくお願いします!」


彼女は僕にお辞儀しながら言った。それを見て若いのに礼儀正しくて元気な子だと感心していた。僕も若いけど彼女のような元気さはなかった……。

公園を出ると、とりあえず人が多くいそうな場所へ適当に歩き出した。この辺は住宅街らしいが僕らの前に人の姿はなかった。

歩きながらたまに横を見ると織音さんがキョロキョロと周りの景色を珍しそうに観察していた。


「おそらく時代的に家のデザインと車を見る限りだと、1980年代前半から半ばくらいだと思うんだけど織音さんは何か記憶はありますか?」


「ええっと……私は1982年生まれだから記憶はほとんどないですね」


(織音さんは僕より2才下なのか。物心つく前の失敗や後悔って覚えているものなんだろうか……彼女のミッションの可能性は低いか……)


僕の心配とは関係なく彼女は街並みを見ながら楽しそうに歩いている。


「このシステムは本当にスゴイですよね!昔の風景がこんなにリアルに見れるんだもの。知らない街のはずなのに何故か懐かしさを感じてしまう……とっても不思議な感覚ですね!」


僕は彼女が本心で言ってるのが表情でわかったのでとても好感が持てた。

僕も4、5才くらいの頃の記憶は断片的だが覚えている。このシステムでこういう体験が出来れば忘れかけていた記憶があぶり出しのように少しずつでも思い出せそうな気さえする。


「あの……藤乃さん。差し支えなければ、どんな過去を体験したのか教えてもらえないですか?」


彼女の質問に話そうか迷ったが同じ治験者であるのと、会って間もないが織音さんの人柄が良かったのもあったので答えようと思った。


「別に大した過去じゃないんですけど……最初は職場近くの定食屋で『レバニラ炒め定食』を頼んだあとに新メニューの『豚キムチ定食』の存在に気づいて……それにすごい後悔したのでシステムの力で豚キムチ定食を食べました……」


僕は話しながら絶対に笑われると思い彼女の表情をおそるおそる見ると笑うどころか何故か目をキラキラさせて感動していた。


「そういう後悔ってありますよね!私も小学生の頃、父とレストランに行った時にハンバーグかオムライスか決められなくて泣き出した事があったんですよ。今思えば大した事じゃないんですけど当時の自分にはとっても大事な事だったんですよね。ちなみに私、その過去をやり直してハンバーグとオムライス両方食べました!」


彼女の思わぬエピソードに僕ら二人、道の真ん中で一緒になって笑っていた。


「みんな小さい後悔をたくさん持ってるのかもしれないね。きっと他人が聞いたらどうでもいいような事だけど」


「そうですよ。小さな失敗は成長のための神様からのお裾分けです。ありがたく頂かないとバチが当たります」


(神様のお裾分けか……ネガティブ思考の僕には無い発想だな……)


「織音さんは他にどんな過去を体験したの?」


僕の質問に彼女の表情が少し変わった。一瞬の沈黙のあとに彼女は口を開いた。


「わたし……小学三年生の時に仲良しだった友達と大喧嘩して……仲直りしないまま、その友達が転校しちゃって……」


さっきまでの彼女とは違い、急に悲しそうな表情になったので僕は慌てた。


「いや、無理に言わなくていいよ。生きてれば言いたくない事だっていっぱいあるし……」


「あっ、ごめんなさい。私って感情がすぐ顔に出ちゃうんです。でも気にしないで聞いて下さい」


その時、急に大きな音が鳴り僕らは我に返った。道の真ん中で話していたため車の通行の邪魔をしていたらしくクラクションが鳴った音だった。

二人はすぐに道の端に避けて車を通した。古い日産のスカイラインが僕らの目の前を通り過ぎて行った。ふと、車の去り際にナンバーが目に入り『静岡』の文字が見えた。

そして改めて周りを見ると集合住宅が多く建ち並ぶ場所、いわゆる団地の近くに立っているのに気がついた。


「団地か……なんだか懐かしいな……」


小学生の頃、クラスの何人かは団地に住んでいた。同じ色、形の建物が敷地内に何棟もあって急な階段と無機質な鉄の扉、そして団地特有のコンクリートの臭い。団地に住んでいた友達の家によくテレビゲームをやりに遊びに行っていた。テレビゲームに飽きても外に出れば団地には必ず子供がいたので遊ぶ事に苦労はしなかった。

そんな事を思い出しながらまた歩き出そうとすると100メートル先に団地に併設されている小さな公園を見つけた。


「あそこのベンチで少し休もうか?」


「そうですね」


僕らは誰もいない公園のベンチに座った。


「さっきの話の続きなんですけど、友達と喧嘩になった原因が私の母親の事なんです。実は私の母は私が幼い頃に事故で亡くなったんです」


「そうなんだ……」


まさかこういう話が彼女の口から語られると想定していなかったので僕はかなり動揺していた。


「そっ、それで……友達の喧嘩とお母さんの事とどういう関係があるの?」


「始めは些細な言い合いだったと思います……それが段々とエスカレートして取り返しのつかないところまでいってしまった。子供は言葉を選んだり出来ないので、その時の熱に任せて友達は私に言ってはいけない言葉を言ってしまったんだと思います。冷静になればわかる事なのに……子供だった私はどうしてもその子を許せなかった。だから謝るタイミングが見つからなくて、しばらくしたらその友達、家の都合で転校しちゃったんです。結局、それっきり会えてないんです」


寂しそうに話す彼女にどういう言葉をかけてあげればいいのかわからなくて僕は視線を落として聞くしかできなかった。


「でも……この世界にくる前のミッションがその子に謝る事だったんですよ!」


今まで前を向いて話していた彼女が急に僕の目を見てきたので思わずドキッとしてしまった。


「そっ、それでちゃんと謝れたの?」


「私の気持ちは伝えました。でもその後すぐここに転送されたので、ちゃんと話はできていません……」


「自分の気持ちを伝えられたなら、それでいいと思うよ。このシステムの目的は体験者の過去をやり直す事だから……織音さんが友達に謝れたのなら少なからず体験する前よりは前進したと思う。この世界では相手がどうこうじゃなくて、自分が何を感じてどう気持ちを受け止めるかが重要だと僕は思う」


「藤乃さん……ありがとうございます。そうですよね、自分が行動した事に意味があるんですよね」


僕の言葉に何かを感じ取ったのか、彼女の顔つきが明るくなっていた。


「そろそろ移動して人がいる場所に行って情報を集めようか?」


「はい」


僕らはベンチから立ち上がり団地の公園を出て歩き始めた。しばらくすると街のメインストリートらしき道が目の前に現れた。

大通りは車の往来が増え、歩道にも人が歩いているのが見えた。


「藤乃さん!あれ見てください。あの案内標識……静岡って書いてあります」


織音さんは道路の上にある青い案内表示を指差しながら言った。


「やっぱり静岡か……織音さんは静岡に住んでた事ある?」


「私はないんですけど、両親が結婚する前まで静岡に住んでたって父が言っていました」


僕は静岡には縁がなく、学生時代に京都へ修学旅行で新幹線に乗った際、静岡県内の停車駅に数分間、停まったくらいだった。

しかも目の前に広がる街は自分が幼かった頃景色。例え来たことがあっても知らないに等しかった。


僕ら二人で通りを注視しながら歩いていると突然、人の多い通りが見えてきた。


「ここは商店街なのかな……ちょっと入ってみようか?」


「すごい賑わってますね。どのくらい先まで続いてるんだろう?」


僕らは商店街の入り口に立ち、通りを眺めた。隣で織音さんは背伸びして通りの先を見ている。

商店街は軒並みに小売店が建ち並び、買い物客で溢れていた。僕が昔、母親に連れられて行った昭和の商店街が眼前に広がっていた。

客と店員が世間話をしたり値切り交渉をしたり、通りで近所の人と立ち話をしたり、その空気は活気に満ちていて人を引き寄せるパワーみたいなものを強く感じた。


「本当にすごいね……僕の住んでる所にも大きい商店街はあるけど……ここまで賑わってないよ……ここでは何もかもが活き活きしている。何もしてなくても楽しくなってくる……」


普段は人混み嫌いな僕も、この懐かしさに我慢出来ず、一歩踏み出そうとすると誰かに腕を引っ張られた。


「ちょっと待ってください。この人混みの中に私たちと同じ治験者がいる可能性はないですか?それにはぐれないようにしてください!」


僕は織音さんに腕を引っ張られながら怒られていた。


「ああ、ゴメン。治験者なら僕らと同じリストバンドしているはずだから大変だけど二人でチェックしていこう」


改めて二人は商店街の中に入った。

正確な時間はわからないがおそらく午後3時から4時くらいだろう。今の時間帯が買い物客が一番多いかもしれない。

人を避けながら歩いていると、八百屋の店先から大声が聞こえた。見ると店員同士が口喧嘩をしていた。

どうやら家族ぐるみで経営しているらしく、周りの客たちもあまり気にしている様子はなかった。こういうのが日常茶飯事なところも昔の商店街ならではかもしれない。


システムの中だというのを忘れてしまいそうなくらい日常的な光景だった。八百屋、魚屋、精肉店、米屋、パン屋、お茶屋、和菓子屋、本屋、薬局、眼鏡屋、床屋、自転車屋、おもちゃ屋、電気屋。ここを通れば買いたい物が全て揃う。

商店街がまだ地域の重要な動脈だった時代を感じれているのが嬉しかった。

バブル崩壊後の80年代後半から90年代は大型スーパーに人は流れて商店街で経営していた個人商店の多くは閉店を余儀なくされニュースやドキュメンタリーなどで『シャッター街、シャッター通り』というワードが生まれ地方の街は衰退し、東京や大阪といった主要都市だけが活性化していく大都市一極集中の時代に変化してしまう……。


「藤乃さん……すいません」


「えっ、どうしたの?」


後ろから声を掛けてきた織音さんの顔つきが何かに戸惑っている様子だった。


「わたし……この場所知ってるんです……理由はわからないけど……この風景だけは何故か覚えてるんです……」


「確かにここなの?何か違う記憶が混在してる事はない?」


「確証はありません……でもこの店の並びと店員さんの顔に覚えがあるんです」


もしかしたらシステムトラブルの影響が出ているのかもしれないと僕は思った。でもそれを確かめる術が今の僕らにはなかった。


「とりあえず治験者探しは中断して織音さんの記憶が合ってるか商店街の出口まで行って確かめよう」


「はい……突然、変な事を言い出してごめんなさい……」


「気にしなくていいよ。実は幼い頃にここと似た商店街で親と買い物によく来てたんだ……だから何だか懐かしくてね」


「そうなんですね。じゃあ、ゆっくり見て周りましょう」


二人は顔を見合って笑った。そして僕らは店を一軒一軒確認しながら歩いた。店頭に並んでいる商品を見て懐かしんだり、商店街に暮らす野良猫と戯れたり、ある店では店員さんにカップルに間違えられたり普通にこの状況を織音さんと楽しんでいた。女性とデートっぽい事をしているのが何年ぶりかわからなかった。懐かしい風景と隣にいる織音さんの笑顔で僕の心は充分すぎるほど満たされていた。

そして楽しい時間はあっという間に終わり二人は商店街の出口付近まで来ていた。太陽は西の空に傾いて綺麗な夕陽が僕らを照らしている。


「ほかに何か思い出した?」


「うーん……覚えてるのは八百屋さんと魚屋さん、それに精肉店の店の並びと八百屋さんの店員の顔だけでした。やっぱり私の勘違いなのかな……」


「システム異常で不確定な事が多すぎるから何とも言えないね。商店街はここで終わりだけど、まだ先に何軒かお店があるよ。もしかしたらまた何か思い出すかもしれない」


僕は夕陽の方向にある道を指しながら言った。


「ごめんなさい……私の曖昧な記憶に付き合わせてしまって……」


「気にしなくていいよ。他にやる事もないし、僕らは運良く治験者同士出会えたけど、これから他の治験者を自力で探すのはかなり難しい。だから今出来る事をやるだけだよ」


ハッキリ言ってこのミッション終わらせ方がわからない以上、僕らはこの80年代の静岡の街に足止めのままだ。また突然、どこか違う世界に転送させられる可能性もある。だからこそ今やれる事を優先しておいた方がいい。


「そうですね。じゃあ、暗くなる前に行きましょう」


僕は無言で頷き商店街を出て先へ向かった。

商店街を出て200メートルくらい歩いた所に『サブマリン』という名前の喫茶店があるのが見えた。お洒落な純喫茶風の外観で店内も凝った造りになっているに違いない。

時間の余裕があれば入ってコーヒーでも飲みたかった。

更に先に行くと、クリーニング店、歯医者などの看板があり、この辺になると車通りが急に増えだした。車幅は狭くはないが歩行者用の歩道の横を道なりにブロック塀が続いていて視覚的に道幅を狭く感じさせた。

夕陽に向かって歩いていると100メートル先くらいに親子連れが歩いているのが見えた。逆光でシルエットしか見えなかったが母親と娘だろう。

おそらく商店街で買い物をした帰りなのかもしれない。母親が買い物袋を右手で持って左手は子供と手を繋いでいる。


「なんかいいですね。あの親子……」


織音さんが隣でつぶやいた。僕も前の親子を見て自然と笑みがこぼれた。


「これから帰って夕飯作ってお父さんの帰りを待つのかな?」


「そうかもしれないね」


親子が小さな交差点近くをゆっくり歩いていると突然、けたたましいクラクションの音が僕の耳を刺した。見ると交差点を右折しようとした2トントラックが曲がりきれず歩道に突っ込んできた。




あっという間の出来事だった……。




トラックは歩いていた親子に向かっていた。次の瞬間、母親がとっさに娘を横に突き飛ばしたのが見えた。


「キャーーーーーァァッ!!!!」


隣で織音さんの叫び声が聞こえたが僕は目の前の事故現場に走り出していた。


トラックがブロック塀を破壊してフロント部分が大破している。母親が持っていた買い物袋が路上に散乱していた。

僕は歩道に倒れている女性に駆け寄った。

体中血だらけで骨が何カ所も折れているのが素人目にもわかった。

女性は必死に口をモゴモゴさせて小さな声で何かを言っていた。僕は身体を震わせながら女性の口元に耳を近づけて声を聞き取ろうとした。



「こ……こど…も…は……?」



僕は身体を起こしてすぐに周囲を確認した。よく見ると激突したトラックの下に倒れて泣いている女の子が見えた。



「お子さんは無事です!しっかりして!」


女性は僕の声に安心したのか、ゆっくり目を閉じた。僕は周囲に人がいないか探した。


「誰か!早く救急車を呼んで下さい!」


僕の声に近くを歩いていた人や車で通りかかった人たちが僕のところに急いで集まってきた。


「救急車と警察を呼んだからすぐに来る!それまで負傷者の手当てを!」


中年の男性が集まった人たちに指示を出して女性の心臓マッサージと負傷しているトラックの運転手を運転席から出そうとしていた。

僕は向こう側で倒れている女の子を助けようとすぐに移動した。


「藤乃さん……私……怖くては見てるだけしか出来なかった……」


怯えた表情をした織音さんが僕に近づいてきた。


「大丈夫だよ。それよりトラックの向こう側に女の子がいるから来て!」


僕は急いでトラックの後ろをまわって女の子がいる場所へ向かった。

倒れている女の子に近づいて優しく抱き上げて立たせた。女の子は服は汚れていたが見た目ではほとんど無傷だった。


「大丈夫かい?痛いところはない?」


「ママ……ママ………」


女の子は泣き出しそうな顔で僕に小さな声で言った。

母親が事故に遭い……その事をまだ知らないこの子を思うと胸が痛かった……。














「なんで………どうなってるの………」


僕の後ろで織音さんの声が聞こえ、ゆっくり振り向いて彼女の表情を見ると顔面蒼白になっていた。


「織音さん!一体どうしたんだ!?」


僕は訳が分からずに声を荒げていた。茫然と立ち尽くす彼女がゆっくり口を開いた。









「この女の子………わたしなの………」








僕は彼女の言葉の意味がわからなかった。

そして遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてきた。


「なら……向こう側で……倒れてる人は……お母さんなの………?」


織音さんは一歩ずつ後ずさった。目の焦点も合っていない。さらに救急車のサイレンが大きくなっていく。



「イヤッ!!!私は知らなかったのよ!!やめて!!!イヤッァァァーーー!!!」



彼女は突然叫び出して、その場に座り込んだ。僕はすぐ彼女の元に駆け寄った。


「織音さん!落ち着いて!ここは仮想世界なんだ!システムの中なんだよ!」


彼女の肩を揺すったが、完全に怯えきってるうえに憔悴していた。


(ここにいてはダメだ……どこか落ち着ける場所に連れて行かないと……)


周りを見ると事故を聞きつけた野次馬が集まり始めていた。救急車も到着して救急隊が車からちょうど降りてくる所だった。交差点の先からパトカーの姿も見える。


僕は織音さんを無理やりおぶって商店街の方へ走り戻った。

しばらく走ってから立ち止まり振り返ると救急車が病院に向かって走り出すのが見えた。僕は織音さんのさっきの言葉が頭の中をずっと反芻していた。

事故現場の先を見ると夕陽は落ちて西の空に薄いオレンジ色と暗い青色を残していた。それはまるでオレンジと青が黒い闇の訪れを小さく抵抗しているようにも見えた。

僕はまた前を向いてゆっくり歩き出すと喫茶店『サブマリン』の灯りを見つけ、織音さんをおぶったまま店のドアを開けて中に入っていった。












「三神先生!治験者の脳波と脈拍に異常です!」


「どこの治験者なの?」


私は治験者のチェックしていた仲村の真横に身を乗り出してモニターを見た。


「現在、長野県で治験に参加している『織音遥香』23才です」


確かにモニター内の脳波形がかなり乱れている。さらに脈拍も正常ではなかった。


「システム内で一体、何が起きているのでしょうか?」


私の後ろに移動してきた林がモニターを見ながら訊いた。私は乗り出した体勢を直した。


「これはあくまで私の憶測だけど……治験者は過去のトラウマや恐怖体験を強制的にミッションとして体験しているかもしれない。この脳波と脈拍の乱れがそれを証明している。このシステムは体験者のコンディションを読み取って最良のミッションを選んで体験させる。もし書き換えられたプログラムで制御されていたものが解除されていたら治験者は再度、恐怖体験をさせられて最悪の場合、重度のPTSD『心的外傷後ストレス障害』になってしまう可能性がある……」


これは私が考えた最悪のシナリオだった。

強制終了も出来ない状況でミッションが続けば治験者の精神的なダメージはかなり大きい。またトラウマを何度も体験すれば辛いフラッシュバックさえ起こりかねない。


(藤乃くんは過去に恐怖体験はないって言ってたけど、やっぱり適任者の条件に入れておけばよかった……この織音遥香って子が心配ね……辛い体験をしていなければいいんだけど……)


「とにかく今はプログラムの復旧をいそぎましょう」













お店のドアを開けると、同時に『カランッカラン』と客の入店を知らせるベルの音が上から聞こえた。

目の前にカウンターがあり、その中に店主らしき初老の男性が立っていた。


「いらっしゃい」


店内を見回すと、他にお客さんはいないようだった。僕が女性をおぶっている姿を見て男性はカウンターから慌てて出てきた。


「一体どうしたの?後ろの娘、顔色が真っ青じゃない」


「すいません、この先で起きた交通事故を目撃してしまって……気分が悪くなったみたいなんです。少し休ませてもらえませんか?」


「あぁ、奥に座敷があるからそこで横になるといいよ。さあ、こっちこっち」


男性が店の奥にある4.5畳ほどの畳の部屋に案内してくれた。そこは資材置き場らしくお店で使う材料や器具がちゃんと整理整頓されて置かれていた。僕はそこに織音さんを下ろして横に寝かせた。


「少し休んで気持ちを落ち着けるんだ。いいね」


彼女の肩に軽く触れると無言で頷いた。

僕は男性と一緒に部屋を出て店内に戻った。


「君はコーヒー飲める?」


「あ……はい」


「淹れてあげるから、そこに座りなさい」


「あっ、ありがとうございます。ここまでして頂いて」


男性の優しい言葉に僕は慌ててお礼を言った。そしてカウンターの椅子に座った。


「気にしないでいいよ。人間は助け合いだから……君も困っている人がいたら助けてあげなさい。それでお代はチャラだよ」


男性は朗らかな笑顔で言うと、カウンターに戻ってコーヒーを淹れる準備を始めた。

店内を改めて見ると、テーブル、椅子、カウンターなどが全て木目調のデザインでかなり味わい深かった。店の所々に飾ってある小物もヨーロッパのアンティークショップにありそうな物ばかりでとてもお洒落だった。


「実はね……店の前の道は交通事故が多いんだよ。長い直線の道だから車の方もスピードを出しちゃうんだろうね。しかも、この先の交差点は信号機が無いから横断歩道を渡る時は歩行者側が車に気をつけて渡らないといけなくて本当に困ってるんだよ。自治体と警察には再三お願いはしてるんだけどね……」


男性は慣れた手つきでコーヒーを淹れながら言った。


「事故があったのが……この先の交差点なんです……親子がトラックに……」


「ハァ……そうか……はい、出来たよ」


男性は深いため息こぼしながら淹れたてのコーヒーを僕の目の前に出した。


「ありがとうございます。いただきます」


カップを持ち鼻を近付けるとコーヒーのなんともいえない香ばしい匂いがした。さらに一口飲むと口の中にコーヒーの深い味が広がった。


「美味しいです。とても落ち着きます」


僕の感想を聞いて男性は笑顔になった。そしてまたコーヒーを淹れる準備を始めた。


僕は織音さんの事が心配になり彼女がいる奥の部屋の方を見つめた。

どうしてこんな事になってしまったのか……商店街を出るまではあんなに笑っていたのに……これが事実ならあまりにも残酷だ。本人さえ忘れていた記憶を呼び起こしてさらにミッションとして体験させるなんて。

僕は奥の部屋にいる彼女の気持ちを考えると深い憤りを覚えた。


そしてもう一つ、コーヒーが入ったカップが僕の前に置かれた。


「あの子にも飲ませてあげなさい。カフェオレだから気持ちが落ち着くはずだよ」


「本当にありがとうございます」


僕は男性の心遣いに感謝してカフェオレの入ったカップを持ち、織音さんがいる部屋に向かった。


「織音さん、入るよ」


部屋に入ると、横になっていた彼女が正座をしたまま下を向いていた。


「これ、ここのご主人が淹れてくれたカフェオレ。美味しいから飲みな」


僕の言葉に反応して彼女はゆっくり顔を上げた。見ると、目の周りが真っ赤になっていた。おそらくずっと泣いていたんだろう。


「藤乃さん……ごめんなさい……ごめんなさい……わたし……」


「謝らなくていいから、これを飲んで」


彼女の前にカップを差し出した。僕に言われるまま、カップを受け取ると彼女は一口飲んだ。


自分の親の死の瞬間を見てしまってすぐに気持ちの整理なんて出来るわけがないけど、とにかく今は彼女の気持ちを少しでも落ち着かせてあげたかった。


「お……おいしいです……」


彼女の表情が少しだけ緩んだ。そしてゆっくり時間をかけてカフェオレを飲み終わると床にカップを置いた。


「わたし……本当に知らなかったんです……お母さんの事故現場に自分が一緒にいたこと……でも……あの商店街の微かな記憶は間違いなく私が母と一緒に買い物に来ていた事を証明していると思います……おそらく事故の後……父は幼い私を連れてすぐ静岡から引っ越したけど私にはずっと長野に住んでるって嘘をついていたんです……」


「嘘を言ったお父さんの事を怒っているの?」


下を向いたまま力のない声で話す彼女に僕は敢えて質問をした。


「いいえ……私が父の立場だったら嘘を言うと思います。お前も事故現場に一緒にいたなんて絶対に言えるはずがない……」


僕が彼女の父親でも同じ選択をしたと思う。覚えていない記憶を思い出させる事はしないだろう。でもシステムはこの記憶を抽出して実際にミッションとして体験させた。幼い頃の僅かな記憶からこの世界を創り出してしまった。


「このミッション自体、システムが勝手に作り出したのかもしれない。事故現場に君がお母さんと一緒にいた証明は出来ないはずだよ」


この過去の世界全てがでっち上げであってほしいかった。こんな残酷な世界はあってはならないんだ……。


「昔……母の命日に父が夜中に独りでお酒を呑んで泥酔していた時があったんです……元々、お酒は弱かったので普段は呑まないんですけど……私はその日、何故か夜中に起きてしまってリビングに行ったら酔った父が私の顔を見るなり泣いて抱きついてきて言った事があるんです……」



「『お前は生きていてくれてよかった……遥香まで……いなくなったら……俺は……』って……当時の私は酔っ払ってる人が言う事だから気にも留めてなかったんですけど……」


寂しそうに話す彼女を見ているのが本当に辛かった。彼女の記憶のパズルみたいな物が組み合わさって一つの形になっていく。やはりこの記憶に間違いはないんだろうか……でも、それではあまりにも酷すぎる。


(このシステムは心の病を緩和させるためにあるんじゃないのか……)

僕の心に怒りに似た感情が芽生えていた。


「きっと……母も無念だったと思います……幼い私を残して……あの事故の瞬間、母が私を横に突き飛ばして助けてくれたのが見えたんです……それを思い出すだけで……わたし…」


彼女の目から涙が一粒こぼれた。そして堰を切ったように目から涙が溢れ、顔を両手で覆って泣き出した。

僕は自然と彼女の肩を抱き寄せて抱きしめていた。しばらくすると突然、泣き腫らした目で僕を見つめた。


「藤乃さん……こんな事に巻き込んでしまって本当にごめんなさい。でも私一人だったら……きっとダメになっていたと思う……藤乃さんがいてくれたから……」


何かを言いかけた彼女の腕を見るとリストバンドが光っていた。


「織音さん……腕を見て。リストバンドが……」


彼女は僕の言葉に自分のリストバンドが光っているのに気づき左手で触れた。


次の瞬間、液晶画面が浮かび上がり『リトライ』の文字が浮かんだ。


「これは………」


「リトライ………そうだ!やり直せる!」


突然の僕の大声に彼女は驚いていたが僕は無視して続けた。


「事故の前に戻ってお母さんを救えるんだよ!」


彼女はやっと僕の言葉の意味を理解したが不安と戸惑いの表情は消えなかった。


「………でも……怖い……また同じ結果になってしまうんじゃないかと思うと……どうしてもリトライする勇気が出ない……藤乃さん…お願い……あなたがお母さんを助けてあげて……」


彼女の不安も恐怖も痛いほどよく分かる。もしリトライしてまた同じ結果になってしまったら今度こそ彼女の精神は崩壊しかねない。


「君の言いたい事はよくわかる……逃げ出したい気持ちも……でも今は敢えて言おうと思う……」


「織音さん……ここは君の過去なんだ。僕はシステムのトラブルで偶然ここにいるだけなんだよ……前にも言ったけど…この世界は相手がどうこうじゃなくて、自分で考えて自分で行動して自分で答えを出さなければいけないんだ……」


「だからお母さんを事故から助けるのは君じゃないとダメなんだ!!この仮想現実の世界で行動した事が現実に反映する事は決してない………それでも君が自分の意志で行動する事が出来れば間違いなく君の心は変わる!」


僕の熱意に圧倒されてはいたが、彼女の目はさっきまでとは違い、生気が宿っていた。


「わかりました……勇気を出して過去の自分と向き合います……でも藤乃さん……私の近くにいてください……何もしなくてもいいから近くにいてほしい……」


「約束したいけど……100%は出来ない…」


「……どうして?」


「理由はこのシステムトラブルだよ。僕は偶然、織音さんの過去の世界にいる。今からリトライして僕がまた同じミッションに存在してる保障がないんだ。また別の世界に転送されるかもしれないし、自分の過去の世界かもしれない。だから約束はできないんだ。もし同じ世界でやり直せたら必ず君のところへ行くから商店街の入り口で会おう。タイムリミットは夕陽が傾き始めるまで。夕方までに僕が来なかったら自分の力だけで行動するんだ。いいね?」


「わかりました……商店街の入口で待ってます。藤乃さんのこと……」


彼女は深呼吸してから改めてリストバンドの液晶画面を再確認した。


「ここのご主人にコーヒーのお礼を言いたかったけど……今は急ごう」


何が起こるかわからない状況なので今はリトライするしかない。そして僕はできるだけ彼女の近くに寄り添った。


「ええっと……これならまた一緒になる確率が上がるかもしれないから……」


僕がドキドキしながら恥ずかしそうに言うと織音さんは優しく微笑んでいた。


「藤乃さん、ありがとう。それじゃあ……押します……」


彼女がリトライボタンに触れると、また目の前が真っ白に光りだした。僕は織音さんにもう一度会いたいと強く祈りながら目を閉じた。
















ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ!


私はその音に目が覚めた。そしてリストバンドに触れてすぐに音を消し、周りを見回した。風景はリトライ前と同じ住宅街の中のようだった。


「藤乃さん……?」


周囲に彼の姿はなく、私一人だけだった。


(たしか、この場所は藤乃さんに初めて会った公園が近くにあったはず)


空を見上げると、太陽はまだ高い位置にあった。事故の時間まで十分ある。


今は1984年の10月8日、お母さんの命日……。


とても不思議な感覚だった。これからほとんど記憶の無い母親を事故から助けるなんて、私は母の顔も写真でしか見た事がないし、母ぬくもりも知らないまま育った。


でもこの1984年の世界には生きて存在している。たしか私を21才で産んだから今は私と同い年のはずだ。


(お母さん……こんなに若くして亡くなったんだ……)


母親の享年と現在の自分の年齢が同じである事に何かの因縁を感じざるを得なかった。


『ここは君の過去なんだ。だから君がお母さんを助けないとダメなんだ!!自分の意志で行動すれば、君の心は変わる』

さっき藤乃さんに言われた言葉が強く胸に響いていた。

私はきっと自分の過去と真剣に向き合う事をいつの間にかしなくなっていた。

物心がついた時にはお父さんしかいなかったし、お母さんがいない事で周囲から心無い言葉を言われた事もあった。

私にとって母親の存在は記憶の無い、かつていたっていうだけの存在だった。

でも記憶が無いと思っていたのは単なる私の思い込みだった事に気づいた。このシステムは私の潜在意識の中の記憶を呼び起こしてお母さんと一緒に過ごした大切な記憶、一番大事にしなくちゃいけない思い出を甦らせてくれた。


だから私はお母さんに会わなくてはいけない。たとえ、それがシステムが創り出した幻だとしても……。


改めて私は決意を固くして自分が生まれ育った街を歩き始めた。5分ほど歩くと藤乃さんと出会った公園を訪れた。でも公園内に彼の姿はなかった。


(やっぱり……藤乃さんはこの世界にいないのかな……)


寂しくなり公園の外からもう一度、見回したがすぐに私は首を左右に振った。


私はもう一つ決意した事がある。それはネガティブな考えはやめる事だ。

リトライ前にいっぱい泣いた、弱音もたくさん吐いた、だからもう余計な考えはしない。

ここにいなければ私たちが通った商店街に行くまでの道を歩いて探せばいい。

私は公園を後にして藤乃さんと一緒に歩いた道へ向かった。しばらく歩くと鉄筋コンクリートの集合住宅が見えてきた。


(たしかこの団地の公園のベンチで休んだんだった。もしかしたら藤乃さんがいるかもしれない)


私は期待を胸に足早で公園まで急いだ。でもここにも彼はいなかったが、リトライ前にはいなかった親子がブランコ遊びをしているのが見えた。どうやら母親と幼い男の子みたいだ。

男の子がブランコに乗り、母親が男の子の背中を優しく押してあげている。そして男の子は無邪気に笑いながら、たまに振り返ってお母さんの表情を確認している。母親の方も穏やかな顔で楽しそうな息子を見てとても幸せそうだった。

私はその光景を少しの間、眺めていたが母親と目が合ってしまい気まずくなってそこから立ち去った。


母が事故に遭った後、父は幼い私を連れて静岡から長野に引っ越した。そこからしばらくは父方の祖父母と一緒に暮らしていた。母を失った私に寂しい思いはさせまいと、おじいちゃんとおばあちゃんはずっと私のそばにいて優しくしてくれた。

たまにおばあちゃんと二人で近所のスーパーに買い物に出掛けると親子で買い物に来ている人たちをつい見てしまう自分がいた。母親に叱られている子供を見て、どこか羨ましいと思っていた。

私は小さい頃から聞き分けが良いと周りから褒められてきた。でもそれは自分の感情をどこかで抑えていた部分があったのかもしれない。今思えば、当時の私はあまり子供っぽくなかったと思う。


『お母さんがいない分、しっかりしなくちゃね』という言葉が人から言われて一番辛かった。なぜ母親がいない子供は他の子よりしっかりしてなくちゃいけないんだろうとずっと思っていた。好きで片親になったわけじゃないのに……。


昨日まで忘れてしまい込んでいた母親に対する思いが次から次へと出てくる。システムを通して母親の存在が私の中で大きくなっていた。


団地を抜けて街のメインストリートに出ると太陽は西へ傾き始めていた。


「あれ……?さっきはてっぺん近くにあったのに……」


自分の時間の感覚がおかしくなったと思い、歩幅を少し大きくして商店街の入口へ急ぎ向かった。


(あの道を右に曲がれば入口だ……藤乃さんはいるかな……)


私はドキドキしながら右の道に入る。そして目の前にはリトライ前と同じ光景が広がっていた。

何かのお祭りかと思うくらいの人がいる。ここからでも通りの活気が伝わってきた。

私は入口付近を見回したが藤乃さんの姿はなかった。私は次第に心細くなっていた。空を見ると太陽はさらに西に傾いていて、それも私の気持ちを焦らせた。


(あと……少しだけ待ってみよう……)


私は道の端に立って通り過ぎていく人たちを一人一人確認していった。

こうしている間にも事故の時間は刻々と迫っている。

私は平常心を保とうと必死に呼吸を整えていた。



でも……リトライ前の光景が脳裏に浮かんでくる……。


血だらけで倒れた母と一人ぼっちになった幼い私……。


何も出来なかった……ただ見ている事しか……。


気がつくと発作のように呼吸が荒くなっていた。


(誰か助けて……誰か……)


私は耐えられなくなり胸を両手でおさえて前屈みに座り込もうとした。私の目の前を歩いている人たちは私に気づかず通り過ぎていく。


そのとき、座り込もうとした私を誰かが横から優しく抱きかかえ支えていた。


「大丈夫?」


聞き覚えのある声に私は安堵して体を預けていた。すぐ横に藤乃さんが心配そうにずっと私を見つめていた。


「織音さん、ごめん。ずっと一人にしてしまって」


「ううん……必ず来てくれるって信じてたから……」


嬉しくて泣きそうだった。私は預けていた体を起こして自分で立ち上がった。


「会ってすぐで申し訳ないけど、どうやらここはリトライ前より時間の進みが早いみたいだ。急いで先の交差点に行こう。今ならまだ間に合う」


「交差点の手前で私が母を呼び止めます。藤乃さんは後ろで待っていて下さい」


藤乃さんはさらに何かを言いかけたが、私は前に出て歩き出していた。


(あとは自分の行動で全てがきまるんだ……)


私は人混みをうまく避けながら商店街の出口へ急いだ。すぐ後ろに藤乃さんがいると思うと心強かった。

お母さんとの唯一残っている思い出の商店街を出て、さっきお世話になった喫茶店『サブマリン』の前を過ぎて、しばらく行くと夕陽に照らされて手をつないで歩く親子が遠くに見えた。


「僕はここで待ってるから」


振り向くと藤乃さんは私を見て優しく頷いた。私もそれに答えるようにゆっくり頷いて再び前を向いて走り出した。


交差点に近づく前に呼び止めないと、また同じ事になってしまう。私は親子の影に向かって全速力で走った。途中、躓いて転びそうになったが、何とか体勢を立て直して走り続けた。



お願い!! 間に合って!!



その時、交差点に一台のトラックがスピードを落とさず右折をしようとして、そのまま歩道に突っ込んでくるのが見えた。


「危ない!!」


私はとっさに母の腕を掴んで動きを止めた。そして親子を無理やり低い姿勢にさせて母と幼い私の頭をかばった。


次の瞬間、トラックは私たちがいる歩道のブロック塀スレスレまで迫っていた。

運転手が慌てて左にハンドルを切り、右のサイドミラーを破損させてトラックは私たちの真横ギリギリを通り過ぎて行ってしまった。私は恐怖の中で必死に親子を守っていた。


「大丈夫ですか!?」


私はかばっていた腕をどけて叫んだ。


「ええ……大丈夫……」


母は何が起きたのか、まだ理解していなかったようだった。そして傷ついたブロック塀と目の前に落ちていたサイドミラーの一部を見て青ざめた表情に変わった。


「遥香!大丈夫なの!?」


母は私の横で屈んでいた幼い私を呼んだ。その幼い私は平気な顔で不思議そうに母と私を見ていた。娘の無事を確認すると母はゆっくりと立ち上がった。


「よかった……あっ、ありがとうございます!あなたがここで私たちを止めてくれなかったら……」


私も立ち上がり、母と向き合った。


(この声……微かだけどやっぱり覚えてる……)


今、目の前にいるのは間違いなく私のお母さんだ。写真で見た人そのものだった。かつていた存在が、今現在ここにいる……。


「お礼なんて……私は当たり前の事をしただけです。あなたもお子さんも無事で本当によかった」


私はなんとか平常心を保って言葉に出来た。助けたい一心で……リトライしてここまで来た。ただそれだけを願って……。


「本当にありがとうございます。とにかく娘が無事でよかった……娘さえ無事なら私はどうなっても………」


おそらく本心で言ったんだとわかったが、その母の一言に私の心は大きくざわついた。


そして母を失ってからの日々が一気に私の中に流れ込んできた。



「何で………そんなこと………言うのよ………」



「え?………あの………」


私が下を向きながら小さく言葉にすると、母は戸惑いながら聞き返した。



「アナタが死んでしまったら……この娘はどうなるのよ……母親がいなかったら……誰がこの娘の髪を結ってあげるのよ……誰に料理の仕方を教えてもらえばいいの………将来…本当に結婚したい相手が出来た時……誰に相談すればいいのよ……お願いだから……自分はどうなってもいいなんて言わないでよ……」


気がつくと口から言葉が溢れていた。


「私は……ずっと周りの大人から聞き分けが良いって言われ続けた。でもそれは母親がいなかったから自分がちゃんとしなくちゃいけないって思い込ませたの。それでも母親に叱られてる子供が羨ましかった。私もお母さんに叱られたかった。なんで私にはお母さんがいないんだろうって幼稚園の頃からずっとずっと思ってた。『お母さんがいない分、しっかりしなくちゃね』って大人に言われるたびに本当は大声で言い返したかった。『なんでお母さんがいない子供はちゃんとしなくちゃいけないのって!』って」


私は涙声になりながら目の前の母親に今までの思いの丈をぶつけていた。

母は下を向いて私の言葉をじっと聞いていた。


そして沈黙の後、母が口を開いた。


「……助けてもらったのに私はどうなってもいいなんて……あまりに酷い言葉よね……本当にごめんなさい……もしかして…アナタ……お母さんが……」


「私が2才の時に交通事故で亡くなったんです。だからどうしても二人を助けたかった。この娘には私と同じ思いをしてほしくなかったから……」


申し訳なさげに言う母に私は本当の事を言った。自分の気持ちを吐き出して気持ちが楽になっているのがわかった。心の奥底に眠っていた重たい物が徐々に軽くなっていく感覚だった。


母に言葉を掛けようとした時、私のスカートの裾が引っ張られたのを感じて下を見ると、幼い私が何かを差し出していた。


「しゃーびす、しゃーびす」


「え……?これをわたしに……?」


よく見ると小さな掌に小さいミカンがのせられていた。私はそのミカンを取ると幼い私は無邪気に笑った。


「いつも買い物する八百屋さんがサービスでくれるんです。だからサービスって言葉が最近、お気に入りらしくて……」


母は私を見ながら少し困った顔をして言った。


「はるかちゃん、ありがとうね」


私がお礼を言うと幼い私は母の後ろに隠れた。


「実は……私の名前も遥香って言うんですよ」


「えっ?それはスゴイ!何か運命を感じちゃうわね。ねぇ、はるか?」


母は驚きながら後ろに隠れた私の頭を優しく撫でていた。そして親子はまた手を繋ぎ合った。


「今日は本当にありがとうございました。助けてくれた恩は一生忘れません。それと、この娘のために1日でも長く生きようと思います。おこがましいかもしれないけどあなたのお母さんの分もこの娘に愛情を注ぐつもりです」


母の子を想う気持ちに私は胸がいっぱいになっていた。


「私も早く結婚して子供がほしくなっちゃった。おこがましいかもしれないけど、あなたのようなお母さんになりたい」


私と母は笑い合っていた。目に見えない何かで私たちが繋がれた事がただただ嬉しかった。


「好きな人いるの?」


「気になる人はいる。私が助けて欲しい時、いつもそばにいてくれる優しい人」


「うまくいくといいわね。がんばって」


そして母は私に何度もお礼を言って幼い私の手を引き、かつて事故があった交差点へと歩き出した。

空は夕陽もすっかり落ちて通りは暗くなっていた。歩道の街灯が静かに親子を照らしていた。




(これで……よかったのかな……)




この世界では親子三人がずっと幸せに暮らしてほしいと心から願った。


しばらく親子を見ていると、後ろに気配を感じて振り向くと藤乃さんが立っていた。


「織音さん!大丈夫?君がトラックに轢かれそあになったとき心臓が止まるかと思ったよ……」


「でもちゃんと見守っててくれたんですね。ご心配おかけしました」


心配そうな表情で言う彼に私はお辞儀しながら言った。


「藤乃さん……私……リトライして良かった。母と別れ際に思った事があるんです……きっと私は子供の頃から、いない母親の幻影を探していた。でもさっきまでここにいた人は間違いなく母なんです。心から我が子を愛していた私の母親だった。だから今はもう過去の存在じゃなくて現在の私の中にいる人。そして母が命懸けで守ろうとした命……それが私なんだと思えるようになれた」


私は藤乃さんの言う通り、自分の意志で行動して何かが変わった。現実世界はおそらく何も変わっていない……けど、私の中では確実に光るモノを掴んでいた。


「君があの時、勇気を出してリトライしたからこそお母さんを助ける事が出来たんだよ。本当に無事でよかった。おつかれさま」


彼の労いの言葉を聞いて緊張していた私の体の力が抜けていくのがわかった。


「寿命が縮みそうな体験をたくさんして疲れちゃった……あっ、私にもらったミカン……」


私はさっきもらったミカンを手のひらにのせた。


「織音さん、そのミカンどうしたの?」


「幼い私がくれたの。商店街の八百屋さんがいつもサービスでくれるんだって。だから店員さんの顔を覚えてたのね。やっと謎が解けた」


私はミカンは食べずにポケットに入れた。するとポケットに入れた利き腕のリストバンドが再び光り出した。

私はリストバンドに触れ、液晶画面を出すと[ミッションコンプリート NEXT]の文字が浮かび上がった。


「このミッションは終わりって事だね。これで僕らはお別れかもしれない」


「え……藤乃さんにはもう会えないの……どうして……藤乃さんがいてくれたから私は自分を取り戻す事が出来たの……リトライしてお母さんにだって会えた……」


彼の言葉に急に現実を突きつけられた私はだんだんと涙声になっていた。彼は真剣な顔で私を見ながら続けた。


「もうこのシステムの中は予測出来ない事が起きてるんだ。僕らが一緒にいることだってイレギュラーな事なんだよ。僕だって織音さんと離れるのは寂しいよ……でも次に行かないと現実世界に帰れないかもしれない」


彼の言っている事はわかる。わかってるけど、どこか納得できない自分がいた。


「ここで約束しよう。もし無事に現実世界に戻る事が出来たら必ず君に会いに行く。だから次のミッションで何が起きても絶対にクリアしよう」


彼は小指を立てて私の前に出していた。私は涙で彼の指が歪んで見えていた。


「本当?信じていいの?」


彼が力強く頷くのが見えた。私は彼の言葉を信じ小指を出して指切りをした。


「藤乃さん……私……自分で行動して自分なりの答えを出す。ここに来て、藤乃さんに教えてもらった事決して忘れません……」


「僕は君が思っているような立派な人間じゃないんだ。普段は自分の事もまともに決められないダメな男なんだよ……でも織音さんに出会って、過去を一緒に体験して隣で君を励ます事で自分の存在意義を見出す事ができたんだ。僕の方こそ君に感謝しなくちゃいけない。織音さん、ありがとう」


私たちはお互いの顔を忘れないように見つめ合った。


そして私はリストバンドに触れて改めて液晶画面を出した。そして『NEXT』の文字にゆっくりと触れた。


次の瞬間、視界が徐々に白くなり、また私たちは何処かへ転送されていった………。






次は誰の過去なのか……何もわからないまま……治験者たちはシステムの中を彷徨い続ける。


彼らは現実世界に帰れるのか……現段階では誰にもわからなかった………。















































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