タルトをもとめて 後編
街から灯りが消え、住民が寝静まる時間になるまで、アルミンは宿屋の裏手で店内の様子をじっと伺っていた。
常にいる従業員は全部で四人。上の階が宿泊スペースであり、宿の表から向かって一階の左手に受付カウンターと上の階へ昇る階段がある。右側は食堂になっており、その奥が厨房のようだ。カウンターと厨房の間には扉があり、昼夜開かれている。厨房を通り過ぎた突き当たりには裏手の倉庫前に出る裏口の扉があった。裏口の扉を中心に通路が壁に沿って左右に一本通っていた。厨房とは反対側の左手には扉が2つある。
アルミンは通路の裏口扉のすぐ横にある窓ガラスに姿を消して張り付き、中の様子を伺っては従業員の一日の動きを把握していた。
食に対する執念というのが一番だが、昼間の青年と目が合った後に感じたスリル感が冒険心をくすぐった。半ば好奇心のほうが勝っていたのかもしれない。これ程までにチャレンジ精神旺盛に危険を冒すことはこれまでなかった。
一昼夜この宿屋の従業員を観察していたが、例の青年とも仲が良く、客からも評判高く人間性が豊かであった。手癖の悪い客に対しても怯むどころか懐の深さで丸め込む度胸もある。
万が一見つかったとしても差程酷い目には合わされないだろうと判断した。自身では気が付かない内に従業員に少しずつ感情移入し始めていた。この時既に、もう一度人間と関わりを持ちたいと心の奥底で思い始めていたのかもしれない。
月明かりが窓から差し、通路をほんのり照らしだすと、従業員3人が通路を左に進んだ二部屋に別れて入っていった。
あと1人はどこかと食堂の方へ見据えていると、女の従業員がゆっくりと歩いてきた。女が来る前に窓ガラスから身を剥がし壁沿いに隠れた。
女は通路の右手へ行くと、その姿は徐々に下へと消えていった。そこには地下へと降りる階段があった。
これで邪魔物はいなくなった。決行の時だ。
万全を期す為に、従業員達が眠りにつくだろう30分程度はこのまま堪えることにした。念には念をだ。アルミンは消灯して寝静まった宿屋の窓ガラスをそっと開けた。
窓の鍵は普段は閉まっているが、夕方に例の女の従業員がゴミ袋を持って裏口扉から出てきた隙を狙って忍び込み、あらかじめ鍵を開けておいたのだ。実はその時もあの魔力持ちの青年の時と同様に背筋の凍る思いをしたのだった。
昼間、窓ガラスに張り付いてその姿をじっと目で追っていたら、遠巻きに一瞬あの女の従業員と目が合ったのだ。女はきょとんとした顔つきのまま硬直していたが、アルミンは本能的にさっと身を窓ガラスから引いた。ドクドクと鼓動が早まった。
迂闊だった。あの女は僅かに魔力を隠し持っているようだった。こうして目が合って初めて魔力を感じた。それまでは確かに領民と一緒で魔力など微塵も感じなかった。しかもなぜだか普通の魔力にしては少し違和感がある。訳も分からず動悸が続いた。
人間に見つかったことなどここ数百年間一度もなかったアルミンは、たった一日で二人もの人間と目を合わせてしまい、肝を冷やした。
あの瞬間はかなり際どかったが、女の従業員はアルミンの姿形をはっきり見たわけではなかったのか、気にも止めず裏口に手を掛けた。きっと目が合ったと思ったのも気のせいだろう、そう考えた。
真夜中で従業員達は就寝中のはず。姿を見られる心配もない。アルミンは意気揚々とオーズにまたがり、その跳躍力で窓枠を飛び越し、なんなく音を立てずに着地し、見事窓から侵入を果たした。軽い足取りで、尚且つ目的地へと慎重に慎重を重ね、静かに進んだ。
例えこの宿屋の従業員が人が良さそうであっても、自分達が散々街中を掻き回してきた上、昨日から本格的にネズミの駆除隊が裏路地を捜索し始めている場面にも遭遇している。オーズの敏捷さならさほど捕獲される心配はないが、そんな危険地帯で万が一でもあったらと内心危惧していた。自分の危機感の薄さに理解し始めたところだ。
駆除隊は他でもない、冒険者達で組まれていた。魔獣を切りつける剣を振り回されたのではさすがのアルミンでも姿を消したぐらいでは太刀打ちできない。
昨夜、すでに出くわしていた。宿屋裏手で徘徊している途中、その数メートル先で普通サイズのネズミ一匹がその剣の餌食になっていた。
「ちっ、こいつぁただのネズミだろ。一体どんだけデカブツなんだ?」
冒険者達はなかなか姿を現さない大きなネズミに痺れを切らして少しでも大きなネズミを狩ろうとしていた。
ブルーナタルトの為だとはいえ、久方ぶりにかなり無茶なことをしでかしてしまったと漸く悟った。
数百年ぶりにライルに会ったことで、当時は人間と妖精や小人は近しい存在であったことを思い出し、目当てが聖女が大好きだったブルーナであったこともプラスし、さらには友好的な青年にも会った。少し気が強く出すぎていたのかもしれない。
今の世は危険だ。これまでにも、多くの種族が卑しい人間の手に落ちている。自分の目の前で、あのネズミのように人間の手に掛かった仲間も数多く見てきた。
だがそれとこれとは別問題だ。なぜなら待ちに待ったブルーナタルトが目先にあるのだ。美食家であるならば、多少の困難な道は避けては通れない。
アルミンは己の食い意地の前には、例えこの身に危機が迫ろうとも決して物怖じはしないのだった。
意を決し、オーズは精一杯忍び足で厨房へと向かった。オーズが飛び跳ねドアノブにぶら下がったアルミンは、いとも簡単に扉を開けて見せた。ゆっくりと開いた扉の先の真っ暗闇の中を進み、辿り着いた大きな冷蔵庫を前に仁王立ちした。
「ようやくここまで辿り着いたぞ。今開けてやるからな」
オーズはより一層高く飛び上がり、冷蔵庫の取っ手にアルミンはぶら下がった。コンビネーションは抜群である。しかしただぶら下がるだけでは気圧のせいでドアはなかなか開かず、一筋縄ではいかなかった。
ドアと本体の隙間に小さな両手を入れ、「フンっ!!」と気合を入れて足で本体を押さえながらドアを強く引っぱると、シュッと空気が抜ける音とともにドアが勢いよく開いた。その反動でアルミンの体は後方へ飛ばされてしまい、ドスンと床に強く尻を打ち付けられた。
「いってー!」
半泣き顔でお尻をなでながら立ち上がる。開け放った冷蔵庫内に備え付けられた魔石が発光し、厨房内を僅かに照らした。一瞬冷や汗をかいたが、すぐに冷気に乗って甘い香りが漂ってきたので、鼻をくんくんとさせた。そうなれば痛みを忘れて目を輝かせながら走り寄り、オーズを踏み台にして冷蔵庫に勢いよく飛び乗った。その瞬間、これまでの苦労が報われた。目の前に念願のブルーナタルトがいくつも目に飛び込んできたのだ。
「おっほぉー!」
歓喜のあまり妙な雄叫びを上げながら冷蔵庫の中にいることも忘れ、艷めくブルーナがびっしり詰め込まれたタルトの香りに酔いしれる。
あらかじめカットされていた一切れを軽々と両手で持ち上げ、大きく開けたその口で噛り付いた。
「んんっ!!!」
ブルーナの甘酸っぱさと、サクサクと香ばしい歯応えのあるタルトが絶妙だった。しばし時を忘れ堪能した。
「うまいっ!これは何口でもいけるぞぉ!」
一度味わってしまえばもう手を止める術はない。無我夢中で頬張り続けた。
だが、アルミンがタルトをもう一切れへと手を伸ばしているその背後で、それは訪れようとしていた。
開放された冷蔵庫の下で床に伏せてじっとしていたオーズがその気配に気付き、ムクリと立ち上がった。すると警報を鳴らすかのように賢明に主人に鳴き声を上げた。
「ブゥッ!ブフゥゥ!」
主人に何事か伝えようとしていたが、当の主人はタルトに夢中で気付かない。至福そうな顔つきで二切れ目に齧りついていた。主人の耳には珍しく泣き喚く声は届かず、オーズの姿は全く目に入っていない。オーズの耳がピクリと動く。緊張で黄金色の鬣がブワッと逆立った。迫りくる音がハッキリと聴こえる。わずかにギシギシと鳴る床が軋む音。オーズは口を閉ざし暗闇の通路を見据えた。前肢に力が入り、警戒を強めた。冷蔵庫内の灯りが僅かに漏れる通路に、ゆっくりと黒い影が差した。影は延びていき、大きな影になり、そして入口で立ち止まった。
人間だ。そう悟ると、オーズはいつでも飛びかかれるように全身に力を込めた。暗闇から忍び寄る人間の足音がすぐそこまで迫ってきていた。