プロローグ
春の和やかな木漏れ日が人々の心を朗らかにする季節に、それは一陣の風のようにやってきた。
陽が沈みかけ、瑞々しい緑の葉が生い茂る田畑に淡い橙色の光が差しかかると、田畑を整備していた人々は収穫物や農具を背に抱え一斉に帰路に就く。田畑が完全に橙色に染まる頃には人の姿は見えなくなり、ゆるやかな風が吹く度に葉が擦れあう音だけがその場に残された。
すると辺りが静まり返ったのを見計らったかのように、どこからともなくガサガサと葉を掻き分ける音が鳴り響いた。その音に合わせ、田畑の中央が小さく揺れ動いた。それは葉を揺らしながら蛇行し、一定の距離を進むとピタリと止まった。そこからひょっこりと小さな生き物が顔を出した。
それは一匹の茶色い毛並みをした大柄なネズミだった。鼻をヒクヒクさせながら、ネズミにしてはあり得ないほどの跳躍力でひとっ飛びしては小道へ躍り出た。そのまま西に向かって軽快に走り出す。
よく見ればそれは、ネズミとは少々似つかわしい相貌であった。頭には馬のような黄金色に輝く鬣が背中まで生えており、細く短いしっぽは豚のようにくるりと上向きに渦を巻いている。ウサギのようにぽってりとした体躯でものともせず小道を敏捷に走り抜ける。
その背には突如、青い帽子をかぶった小さな男の子の姿がゆらりと蜃気楼のように現れ、ネズミの背に跨がっている。この世界で滅多に出会うことのできない稀少な妖精族の内の一つである『小人族』だ。大きくて体長50センチ足らず。見た目は人間の五歳児程度の幼い容姿で、千年近く生きる長寿である。
その頂点を統べるは大地の妖精王。彼らはその加護を受けており、木々の成長を促したり、大地に芽吹く植物に影響を与える。小人が住まう森は緑豊かで食物は美味しく育ち、豊作だと言われている。この小人は特に強大な大地の加護を持っていた。
大地の小人族には森に生きる小動物と心を通わせる能力があり、お互いが協力しあうことで森での生活を豊かにする。だがこの小人は地形をも操り、大型の動物とも意志疎通ができ、尚且つどんな生き物も使役することが可能であった。次代の大地の妖精王になるのではないかと小人族の間で真しやかに噂されていたが、この小人は誰にも縛られない自由奔放な性格をしていた。
本来小人族は生まれ育った土地から離れることは天変地異が起こらない限り滅多にないことだった。だがこの小人は、その食い意地のあまり世界中の美味たる食物や料理を総なめにしたいという壮大な夢があった。当の本人は美食家であると称している。里を飛び出し、美味しいものを求めて気の向くままに世界中を渡り歩いていた。
小人がここ数日間に渡り、この畑に潜り込んでいたのも、嵩張った緑の葉に実っている熟れた真っ赤な果実を頂戴する為だ。果実そのものは甘酸っぱく、主にデザートに使われ親しまれている。東の街ではワインの名産としても有名な『ブルーナ』である。
大陸西部のゆるやかな丘陵地帯。その大半を占める青々しい緑の葉が拡がる田畑。その東方に佇むは、強固な外壁に囲われた城塞都市ブルーノル。ここら一帯はブルーノル伯爵領の統治である。
田畑の半数以上がブルーナの畑だ。ブルーノルが一番力を入れ、名産品として端正込めて作り上げる自慢の果実である。町の名前の所以は勿論それだとされている。
また、ブルーナは遥か昔にこの地に実在したとされる聖女の好物であったことから代々大切に育てられてきた。
街から最西端まで続く広大な田畑の中央に整備された一本道を進むと、広大な海原が広がる崖の先端に石碑が一つ建てられている。石碑にはこう刻まれていた。
"聖女アゼリア、ここに眠る"
小人は手に持っていたブルーナを次々と口に運びながら満面な笑みを溢した。あろうことか領民が忙しく畑の世話をしている最中、葉陰に隠れてブルーナを盗み食いしていた。
ブルーナは今の時季が程よく熟して食べ頃とされており、あともう数日熟せばワインに最適になる。小人は目ざとくその時季を正確に把握し、文字通り“食べ歩き”をするべくこの田畑に忍び込んだのだ。
人間の目を盗んでは美味しそうにパクパクと頬張る小人は、自らの姿を見えないようにする小人特有の隠れ身の魔法によって身を隠しながら一日中堪能した。
ただ一つ難点があるとしたらそれは、姿を消す魔法は小人自身にしか掛けられないという点だった。小人が身に付けた装束類は共に消えるが、ネズミのような生き物は共に姿を消せないので、うっかり領民の目に留まっては、
「うわぁ、で、でっかい…、ネズミ?」
時折領民の驚愕した叫び声が上がっていた。
遭遇した領民はまずその大きさに目を疑う。なぜなら普段街で見かける通常のネズミより3倍近くの大きさだからだ。さらにはネズミにしては奇天烈な外見に惑わされた上、土と同化した茶色い毛並みに硬直し、何度か瞬きしてしまう。それが確実に得体の知れない生き物だと理解した時にはすでに遅く、体格に似合わない逃げ足の早さには頭を抱えた。行動を起こす前に大事な畑にその身を隠してしまうのだ。
そうして遭遇した領民達によって、くるりと丸まっている細い尻尾はおそらく切れてしまったか、生まれつき短い故に丸まったに違いない。あの黄金色の鬣は突然変異か新種だろうという結論の末、耳の形状から『ネズミ』と判断された。
古くから伝わる子供が読む童話には時折、蝶のような羽を持った妖精の下僕として、ネズミの姿をした妖精がその背後に描かれていることが多々あるのだが、大抵はただのネズミとしか記憶に残らない。現代の人間にとってそれだけ妖精とは現実と遠くかけ離れた存在であり、判断基準は身近な生き物でしかない。
どんなに見目が異色であろうとも、恐らく野ネズミがブルーナをたらふく食べて肥えたのだろう。あの黄金色の鬣は栄養豊富なブルーナの影響だろう。きっとそうに違いないと領民は考えた。
その日の夜にはあのすばしっこい大きなネズミをどう駆除するべきかと畑仲間達の間で討論になることは小人の知らぬところだ。大事に丹精込めて育て上げたブルーナをこれ以上荒らされては我慢がならない。ましてや一匹とは限らないため、そのうち繁殖されでもしたらみるみるうちに食べ尽くされてしまうかもしれない。
どこから紛れ込んできたのか知れないが、あの物珍しい鬣を見れば、粗方どこぞの貴族に飼育されていた珍種のネズミが逃げ出したのかもしれない。たとえ貴族の大事なペットであっても、あんなけったいなペットを逃がしたほうが悪いのだ。早急に駆除せねばならない。念のため捜索依頼が出ていないことも確認もとった。あとは対策を練るばかりである。
だが、すばしこい逃げ足で此度畑に身を潜められては痕跡を追えないばかりか、その頭数も確認できていない。一旦臨戦態勢を整えれば察したネズミは音を立てず息を殺し、テコとして動きを見せなくなる。思った以上に賢い個体のようだった。このまま野放しにしておけば今夜にも食い尽くされてしまうかもしれないという不安が日々つのり、何が何でも捕獲しようと、領民たちによる駆除対策が近々講じられることとなる。
人間の思うところなど微塵も気にかけない小人は、お構いなしにブルーナを食べては昼寝をして、有意義な数日を過ごしていた。
そうして思う存分堪能した小人は、騎乗したネズミに小道を真っ直ぐ走らせながら、満足そうに自身の腹をさすった。
「やっぱブルーナは最高だな!けど…まだ物足りないな~オーズちょっと止まって」
「ブブッ…」
小人がオーズと呼んだ、領民から害虫のように厄介者扱いされているネズミのような生き物もまた“ネブー”という妖精の一種だ。
その昔、とある小人が親友であったネズミを生き永らせるため、黒魔術でトカゲを始め複数の血肉を掛け合わせた結果、突然変異によって誕生したと言われている。鬣の色は個体によって様々。トカゲの血を色濃く継いでいるせいか好物は虫だ。主人がブルーナを頬張っている傍ら、葉や茎に付く害虫をトカゲのような長い舌で捕食していた。人間からしてみれば、害虫駆除として畑に是非ともいてほしいと願うほどの妖精である。
オーズは畑に近付いて止まり、その場で伏せた。小人は手を伸ばしてブルーナをもぎり取りパクりと一口。
「んーうまいっ!」
途中何度も立ち止まりながらその都度口をモグモグさせ、最西端に見える石碑へと辿り着く。石碑は夕日がその背を照らしており、神々しくさえ見えた。
小人はオーズからさっと降りて石碑に向かって叫ぶ。
「おーいライル、見舞いに来てやったぞー!」
呼応するかのように石碑がわずかに光り、その背後から別の声が聞こえてきた。
「まったく君は。ほんと食い意地がはってるねぇ。普通挨拶が先じゃないかな?」
小さな淡白い光がフヨフヨと石碑から浮かび上がってきた。小人は勢いよく光の前に左手を差し出した。その手にはまだブルーナがしっかり握られていた。
「おいらはブルーナのためにここまで来たんだぞ?挨拶はついでだ」
「あいかわらずだねぇ、アルミンは」
光がクスクスと笑い声を立てながら小刻みに震えた。
「挨拶ついでに、すんげー気になってるだろうこいつを見せてやろうと思ってさ」
アルミンと呼ばれた小人は肩から斜め掛けしていた鞄に右手を突っ込み、皮の紐を通した大きなペンダントを取り出した。丸い金色の台座に、光沢を帯びた漆黒の石が嵌め込まれている。
小人の手のひらよりも一回り大きいそれは、人間の胸元に丁度ぴったりくるであろうサイズだ。
「よかった、黒いままだね。君に託したあと、今日まで全く音沙汰がないもんだから心配だったんだ。まさか、なくしたりはしてないだろうなって。とりあえず安心したよ」
「おいらにとってもこいつは大事なんだから、なくすわけないだろ。この先もずっとおいらにまかせとけばなーんも心配ないさ」
アルミンは頭を横に傾げながら目を細め、ニカッと茶化す。
「僕としては複雑だけどね。それは僕自身でもあるわけだから。僕自身が持てればいーんだけど、この通り実体がないし。まぁ、力を取り戻そうとはこれっぽっちも思ってないけどさ。魔力が戻れば僕はここから離れないとだし」
光が若干弱々しく点滅した。
「もう少しこの地を静かに見守っていたいし、何よりアゼリアのソバにいたいんだ」
石碑に刻まれた文字に寄り添い、光がなおも大切であるかのように愛おしそうに温かく石碑を照らす。
「僕はここを離れるつもりはないよ」
アルミンは頷きながらペンダントをカバンに無造作に突っ込んでは、まだ手に持っていたブルーナを思い出したかのように頬張りだした。
「ほんなことより(モグモグ)、もうふぐ(モグモグ)、ほーへいあはいが(ごっくん)あるって聞いてさ」
「…アゼリア祭のことかい?まったく忙しないなぁ。食べるかしゃべるかどっちかにしてくんないかなぁ」
ため息をついているかのように光がわずかにぶれた。
「畑にいた人間達がさ、ここの宿屋のブルーナタルトってのがめちゃめちゃうまいって話してるの聞いてな!うまいもんは食べずにはいられないだろ!」
興奮しきったアルミンは両手を天高く振り上げ、満面の笑みで空を仰いだ。
「君は変わらないな」
そう言い終わる前にアルミンはオーズに飛び乗って石碑を背にし、手を後背に振る。
「ほんじゃ、真っ暗になる前に街に行くよ。人間の夕飯前には行かないと分けてもらえなくなっちゃうからな。またな」
「君の場合は盗み食いだろ?程々にね」
光は石碑へと吸い込まれるかのように消えていき、アルミンとオーズは来た道を戻っていった。
夕暮れの薄暗くなった街の出入口である西門。今まさに二人の大柄で筋肉質な門番によって頑丈な門が閉められようとしていた。
アルミンは顔を引き締め自らの姿を魔法で消した。端から見れば小太りのネズミ一匹にしか見えない。
「オーズ行け、最速だ!」
「ブブッッ!」
まさに閉まる直前、突風のように走り抜け、間一髪で街へと潜り込んだ。予想だにしない強風が門番の足元を直撃し、驚いた一人がよろけながら困惑する。
「うわっなんだ?いきなり強風が吹きやがった」
「さあな、つむじ風でも吹いたんじゃないか?」
アルミンはなんなく街へ侵入し、意気揚々と裏路地へ入っていった。
聖女の名前を都合により変更しました。