藤原行成は見た! 平安京 疫病大流行
春だ、家だ、巣ごもりだ!
あぁ、花見に行きたい。
今も昔も、世の中に流行病が蔓延ると、社会全体が停滞するようです。
今回は、趣向を変えて歴史散歩的なものを書いてみました。
本当は、今こそ、静かな観光地に行きたいのですが、……まぁ、しょうがないので、ちまちまと書きます。
面白く仕上がっていればよいのですが。
テーマは、
「よく似てるよ現代と!……仕事ができなくなると、世の中、本当に変わっちゃうよね」
て感じかな?
あの、日本史でも有名な〝藤原道長″が平安京で徐々に頭角を顕そうとしていた時、彼を陰で支えた(一見、そう見えるかもしれないが、……実は、陰で動かしていたかもしれない)一人の優秀な公達がいました。
その人の名は、〝藤原行成″さんです。
この人は、藤原北家(藤原氏の中で一番栄えた家系)の血筋の人で、道長のお父さんの兄さん伊尹さんの孫にあたります。
ややこしいですが、もう、どっぷり親戚ですよね。
よく考えると、本当に藤原氏って子沢山で、いつでもスペアになる人材がいて、その中で椅子取りゲームでもするように、権勢を振るう人が出て来たって感じかもしれない。
ただ、椅子取りゲームに参加するためには、現役で宮仕えをしている身内が居なければならないようで、……そういう点では、行成さんは、苦労したようです。
お爺さんの伊尹さんは、摂政まで務めた人なのですが、行成さんが生まれるとすぐに亡くなってしまい。さらに酷いことに、お父さんの義孝さんにいたっては、お兄さん挙賢さんと同日に、二〇歳そこそこで、疱瘡(天然痘)で亡くなっているのです。
では、九九八年に流行ったのは天然痘だったのかというと、そうではなく、〝赤疱瘡″と呼ばれるものでした。
これは、麻疹のことで、当時のような医学の発達していなかった時代には、天然痘と同様に、高熱を発する恐ろしい病気で、致死率も相当高かったと思われます。
こんな感じで、当時は流行病の為に、政治、社会、経済の動きが滞ってしまうことが何度もありました。
そんな中、行成さんは母方の祖母や、外祖父の源保光さんのお世話になりながら成長し、二四歳にして一条天皇時代の蔵人頭兼侍従にまで出世します。
この職は天皇の秘書兼事務方のトップ的な存在という感じでしょうか……。
そんな訳で、一条天皇と言うと、あの、清少納言の話のネタにもなっているわけで、……
枕草子の中では、行成さんは〝頭の弁″という役職名で呼ばれていて、若い女性陣からは、他の男性たちと違って、和歌を詠ったり、あまり遊ぼうとしない真面目な人物として見られているのですが、清少納言には、ちょっとエキセントリックなぐらい面白い一面を見せており、それが、また刺激的で良いのです。
例えば、内裏の中で飼われていた〝翁丸″という犬の話では、三月三日に、犬の頭に柳や桃を飾ったり、腰に桜を付けさせて歩かせてみたり(ちょっと虐待かな……)、他にも、清少納言のすっぴん顔を覗こうとした話などが描かれています。
これは、ちょっと失礼な話だとも思うのですが、それでも、本来、信頼関係があったせいか、最後には、納言は、そういう行成のことを大笑いして済ませており、その後は、遠慮なく納言の部屋を訪ねるようになったと語られています。
どうやら清少納言は、中宮・定子や一条天皇のプライベートな時の伝言役にされていたのではないかと思われますが、それでも、当時の女性としては物おじせず、それでいて度胸があって機転が利く、……そういう清少納言が気に入っていたのかもしれませんね。
そして、そんな行成さんは、とても達筆な人としても有名でした。
また、当時の貴族の嗜みですが、優れた日記である〝権記″を書き残しています。
『権記』とは、権大納言行成の日記ということで、こう呼ばれているのです。
もともと、貴族(特に男性)の日記は、宮中の儀式や、その作法、手順を、後の子孫に参考になるようにと、書き記されたものなのですが、そこには今の日記に通じるような、私的な感想や、自らの生活をも描く人もいて、その興味深さゆえに研究されているものがあります。
『権記』は、その代表格であり、当時のことがよく判る作品なのです。
例えば、長徳四年(998年)の夏、平安京の貴族の間で麻疹が流行った時のことですが、この時は、下人(身分の低い人:庶民等)は死なず、身分では四位(三位以上の公卿の下の位階)以下の役人の妻が最も多かった。……と、伝えられています。
つまり,市井の人々より免疫力がない大内裏で働く貴族たちの間で、より強く伝染したのではないかと思われます。
そこで、行成さんの日記を紐解いてみると、……
長徳四年(998年) 七月二日 (今なら八月頃)
この日は、内大臣の藤原公季がやって来ますが、
「決め事があっても、休みを取っていて、人がそろわず困っている」……
と、奏上します。
また、既に東三条院(一条天皇の母)が病を罹っており、伝染する病気だから、天皇は絶対に
『見舞いに来ないように……』
と、釘を刺されたり……
もう、その頃には世間でも病気が盛んになっていたようで、
道長が、『赦免でも行われてはいかがですか』と奏上せよ……と言った。
等と、書かれています。
赦免(この場合は大赦)とは、獄の中で捕らえられている罪人等の罪を軽くしたり、まだ判決が出てない者の罪を免じたりするものですが、早速、検非違使庁に働きかけても、責任者として取り決めるべき左右の衛門権佐もおらず、ただ一人、左衛門尉である藤原忠親しかいなかった。……ということです。
つまりのところ、現場はフリーズしたのではないでしょうか?
まぁ、どちらにせよ、当時は科学的な事は何もできず、御経を盛大にあげたり、疫神を追い出す為に、お祓いをするのがせいぜいだったようですが。
そうしている間にも、次々に重職の貴族が病に倒れ、死んでいく人まで出始めます。
あまりに出勤(参内)する者がいないので、いろんなことが決められない状態になってしまい、七月一〇日あたりから、行成さんのオーバーワークが始まるのでした。
七月十一日
この日は暁方から内裏に出勤し、巳刻(AM10時頃)に退出し、それから法興院に行って院から伝言を受け、午刻(正午頃)に帰宅し、戌刻(PM3時頃)また内裏に出勤。
源重光や、平文忠が亡くなったことを知ります。
七月十二日
いよいよ、行成も病気になってきました。
朝から体調が悪かったが、無理して内裏に行き、天皇からの伝言を伝える為に道長(左大臣)の家へ行くと、道長も体調が悪いので、お見舞いし、また返事を持ち帰った。
行き来の間、身体が暑くて、どんどんボォーっとしてき、苦しんだが、何回も天皇からお仕事を賜ったので、内裏から帰れなかった。
そこで、辛かったので、束帯(宮中での正装という感じの服)から宿衣(宿直用のカジュアルな服)に着替え、弓場殿(弓を射る場所だから、少しは風通しの良い、涼しい場所だったのか? )に行って涼むと、何人か居て、その人達と話をした。
そして、その日は内裏で宿直しています。
(もういいから、休んでちょうだい。……と、突っ込みたくなる! )
また、この日、行成の乳兄弟(乳母の子供)で従者である橘惟弘が来ています。
(ウーン! サポーターというところでしょうか )
七月十三日
いよいよ帰宅の時に、惟弘に、車の乗降りを助けてもらわなければならない程、心身が不覚になっております。
それでも、この日のスケジュール調整に気を配らなければならないようで……
・書類を書く者達が出勤しないので、仕事がはかどらない。
・改元(あまりに不吉なことが続くと、縁起が悪いと年号をかえること)や改銭、そして大赦が進まないこと。
・女房や侍臣が、病気を理由に天皇のところに参入しない。……陪膳(ご飯を作る人)さえ来ない。……いないなら、院の近辺にいて、まだ病気に罹ってない者を呼ぶべきだ。
他にも、進まない裁判の案件や、……あれやこれやと心配しています。
(おーい! もう、いい加減に休まんと倒れるよ……) 叫びたいとこですが、
七月十四日
とうとう、行成さんはブチ切れます。
右兵衛佐時方が来て、『内裏には今、来ているものがいません』と言うので、左大臣道長に相談し、急ではあるが、然るべき人物を昇殿させ、仕事をしてもらうことになりました。
とにかく、殿上間経験者(身分が高く、昇殿して仕事したことがある人)で、病気平癒者(もう治った人)、そして、誠実な性格の人(ここ大事、国司でお金ごまかしていたような人はアウト)を推挙していきます。
体調が悪かったとは思えないぐらいに、ガンガンと新人事案を出します。
その中には、あの清少納言の元夫橘則光の弟、つまり元義弟の橘則隆も入っていました。(この子は、納言が則光と別れてからもかわいがっていたのか、枕草子の中でも、部屋を覗いても構わない、親しい人物として出てきます)
行成さんにとっても、気心が知れていたのかもしれませんね。
「六位であっても、事情を知らない人よりは良い……」
そう言って、身分のあまり高くない則隆も引き上げてもらったようです。
(やはり、非常時にはいろんな事が起こるようですね。……たまに、ラッキーな人もいるようでGOOD! です)
七月十五日
とうとう、どうにも耐え難くなり、行成さんは〝官職を辞する″と、道長に手紙を書きますが、当然、拒否されます。
この時は、道長自身もピンチで、生き永らえるかな、……と、心配されていた程でした。
七月十六日
行成さん、いよいよダウンしました。
惟弘一人に看病してもらっていますが、惟弘も体調が悪いようです。
それでも、惟弘を引き寄せて、膝枕してもらって休んでいました。
(? ? ? ? ?……随分と、サービスの良いサポーターだ! ビックリしたぜ!!! )
夢の中で、何者かに腸を引きずり出され、悶絶します。しかし、そこで年少の時より信仰していた不動尊を念じ、事なきを得ます。
(これは、本当に『権記』の中の話ですから……、決して、ネタではありません。それにしても、日記って怖いですね、個人の情報が後々まで残るのですから……、結構、親近感が湧いて面白いけど)
この日から、病気が完治するまで、約一ヶ月程の間、行成さんはやっと仕事を休むのでした。
治療法はと言うと、高名な御坊様にお経を唱えてもらうとか、沐浴するとか……ほぼほぼ、自然治癒に任せている感じですが。
その後も、道長とは人事のことでいろいろあったみたいですが、……まぁ、とりあえず、復活を遂げ、行成さんも引続き朝廷を支えたようです。
結局、その二年後の長保二年にも疫病が流行し、さすがの行成さんも嫌気がさしたのか、……
世間の人は、時代が末法だから、災厄があっても当然だ。……などと言うが、私が思うには、悪人を罰せず、善人に親しまない(政治をしているなら)なら、災い事は災害を孕んでどっかに表れるのではないか。……と、そのようなことを大真面目に日記に書いています。
この言葉、当時の人の災害や病気の流行に対する思いが凝縮されている。……そんな感じではないでしょうか。
まぁ、現代もこんな風に病気が流行すると、いろいろと世の中がギクシャクしますが、今も昔も変わらないのは、
何とかなる……!!!
と、腹を括ることなのでしょうか、……皆さんも、ストレスを溜めないように、ボチボチやりましょう。
しょうがない、大事を取って寝るか……!
皆さんも、ご自愛ください。




