屍の言
◆ 登 場 人 物 ◆
吉村 明 埼玉県警捜査一課の青年刑事
司馬 良次 埼玉県警捜査一課のベテラン老刑事
鵠 小次郎 識神の社の禰宜
鵠 いかる 小次郎の妹 風太のことを気にかけている
雪代 風太 中学一年生の少年
川辺なずな 風太の同級生
平松 雅子 奥巻署の女性主任警部補
柳田課長 司馬、吉村の上司
奥巻 権平 奥巻村 村長
(一)
夏の陽が西へと傾き、空全体が青から朱、そして群青色へと変わる。
奥巻村は事件から七日目の夜を迎えようとしていた。
網戸に取り付いた無数の白色の蛾は、細かく羽を震わせ、後から飛び来る他の羽虫と共に始まったばかり夜の会合を楽しんでいた。
時計の針は午後九時を過ぎようとしている。
奥巻村役場の二階にある村長室では、村長、助役、出納長が神妙に顔を突き合わせていた。
「警察の馬鹿共が早く事故を解決していれば、ここまで騒ぎが大きくならなかったものを、家まで来て、なおかつ事情を聞かせてくれなんて、あつかましいにも程がある、こちらが聞かせてもらいたいくらいだ」
油で撫でつけ薄い髪の毛をかきながら、助役は吸っていた煙草の先を灰皿の底になすりつけた。灰皿上の潰れた吸い殻から煙が一筋だけ描かれた。
「こちらの消防長も忌み地の古い歌の噂を信じて、なかなか動かなかったのも騒ぎが大きくなった原因だな、しくじった、しかし、ただの言い伝えがここまで真実になってしまうとはね」
眼鏡をかけた痩せぎすの出納長が、横目に村長の言葉を待った。
「歌の噂話を信じて何もできなくなるなんて、今時ありえんよ、第一、たたりなんてあったとしても、我々のあずかり知らぬことだ、そんな先祖のやったことがなぜ今更……馬鹿らしい、使えない消防長と古い団員は明日にでも降格隠居だ」
二人よりも年若な村長の落ち着きのある態度と低音の声は、シルバーグレーの頭髪とあいまって、恐ろしいくらいの威厳を人に与えた。いくら田舎とはいえども、人の長として立つ者である風格を彼は生まれつきもっている。
村長の言葉に二人は頷いた。
「せっかくの『鬼の穴』を使った町おこし事業もこの馬鹿げた殺人事件でご破算になってしまったか」
そう言いながら助役は机の上の煙草のケースからまた一本取り出し、装飾が彫られた銀のオイルライターで火を付けた。
「村長、鬼のことを語ってはなりませんよ、不吉です」
「何、かまうものか、それよりお前たちに犯人の心当たりはないのか」
「村長、狂い人はこの村にも何人かいますからな、ええっと裏町のぉ……」
「適当に犯人にでっちあげておけばよかろう、ついでにこいつらのうるさい放送も止めたいものだ」
村長は憎たらしげに、この村の事件の報道が流されているニュース番組を眺めた。
(二)
聞き込みを終えた司馬の足取りはとても重かった。仮の宿舎になっている村の公民館へ向かうこのすがらでも聞き落としていることはないか、物証につながることはないかと自問自答を頭の中で繰り返していた。
この村はよそ者が入り込む隙間がほとんどない。特に村長や御家来衆にかかわることになると、余計ダルマのように押し黙ってしまう。証拠にあの後、村長の使用人の女性が飛んできて、顔色を変えて私が言ったことは誰にも言うなと念押しに来たことである。おおかた女性の親類か親しい友人にたしなめられたものに違いないと考えた。
山中の奥巻村は、この二、三日夜が非常に明るい。それは月明かりというものではなく、現場用のライトが山向こうでこうこうと照っているからである。
橋の上から見る奥巻川の清流は、光を随時飲み込みながら下流へと流れていく。
「ん?」
橋の向こうに三人の小さな人影が見えた。
司馬が足早に近付いていくと、ぼろぼろに破けた古めかしい着物をまとった子供らであった。
「こんな遅くまで危ないからすぐに家に帰りなさい」
司馬は事件の最中に夜、子供たちが出歩いていることに驚いた。
「そこの人、福の神なの?怖い者なの?」
子供たちの頭にはシラミがわき、皮膚はただれ、目やにでほとんど目がふさがっている。格好から男女の区別さえもわからないほど汚れていた。あきらかに児童虐待のケースに準ずるものであった。
「お父さんとお母さんは」
司馬は、保護者に追われているのではないかと、周囲に注意しながら子供たちを観察した。
「父さぁは穴の外、母さぁは穴の中……ねぇ、怖い者なの?」
「ちょっと待っていなさい……」
司馬は仲間に連絡しようと内ポケットから携帯を取り出した。
「怖いよぉ……やっぱり怖い者だよぉう」
「大丈夫、すぐに……」
振り向いた司馬の目の前に子供の姿はなく、時折点滅を繰り返す古い街路灯のあかりと清流の音だけが橋の上に存在した。
三つの人魂が蛍のような光を発しながら、水の流れに逆らって川の上流の方へゆらゆらと上っていく。司馬は気付くことなく、疲労による錯覚だと自身に言い聞かせ、公民館へ向かおうとした。
携帯電話が鳴った。
今日話を聞いた村の老人からであった。
「司馬さんかい、忙しいとは思っていたんだが、歌の二番を覚えていた人がいたんですよ、ご家来衆の家の婆さんなんですが、うちの奴に聞いてきてもらいました、ただ私もその内容を聞いて驚きまして、迷惑だと思いながらもこうして電話いたしました」
「ありがとうございます、それで一体どんな内容なんですか」
いつかは首をはねますぞ 泣いて隠れた鬼の子は
穴の奧からえんやらや 大きな刀のまきくぐり
ぬえなき鳥のあそぶ谷地
泣く子切ろうぞ 時雨る夜
寝ぬ子切ろうぞ 百七人
老人は特に節も付けずにそう説明した。
司馬はその歌詞を聞いて絶句した。
(百七人……鬼の復讐を騙る者……そうだとすれば被害者はまだ増える)
(三)
テント中で待機している警官は洞穴周りでくちゃくちゃと肉をなぶるような音が先ほどからしていることに気付いた。
「誰かいるのか」
自分たちの座っている場所からはライトの発する光線の加減でよく見えない。その中で一番若い警察官が面倒くさそうに立ち上がって、洞穴の方に歩いて行った。
快い秋の虫の声はまだなく、ライトにカンカンと軽い蛾のぶつかる音がその不快な音に混じって響く。
穴の周囲に落下防止用のロープが張られているが、その奇妙な音は穴の底から聞こえてきていた。
「今、誰も入っていないはずだけどな」
警察官が穴の中へ首を伸ばして覗き込むと、汚い身なりをした老人や子供らが底にかたまり、何かをむさぼり喰っていた。
「お前たち、いつそこに入った!」
老人らは若い警察官の言葉にも反応せず、餓鬼のように臓物からにじみ出る体液を夢中ですすっている。
「おい……」
その後に続く言葉はなかった。呼びかけようと口を開けたまま警察官の首と身体は穴の中に細い血の糸を引いて落ちていった。新しい肉に群がるゴキブリのような集団。
「うぉぉぉ!」
切れたロープの後ろには布を顔に巻いた筋骨逞しい男が、刃物を手に嬉しそうにその場で何回も飛び跳ねている。地面の震動はまるで土着の者の興奮した鼓動の高まりをそのまま表しているようであった。
「はい、中継まであと一分」
事件現場を仕切る規制線の前で、テレビ局のクルーが慌ただしく中継の準備をはじめていた。音声スタッフは、アナウンサーのシャツに付けられたマイクチェックを入念に行っている。
カメラを覗いていたスタッフは、ふとアナウンサーの後ろに大きな影を見た。
「おい、そこ、人が入っている、よけさせてくれ」
ディレクターも現場にあてているライトの光がちらちらと遮られていることに気付いたが、もう中継時間の開始まで間に合いそうになかった。
「つながるぞ、三秒前……二……」
女性アナウンサーは原稿を手に、カメラを向いて一呼吸した。
「こちら、現場です、夜に入っても警察の捜索活動が続いています、ご覧のように辺りは暗く、被害者の手がかりにつながる物を見つけるのに非常に困難な……」
突然、女性アナウンサーは声を詰まらせた。
「どうしました?」
スタジオからキャスターが呼びかけた瞬間、首に赤い線が走り、目と口を開いたまま女性アナウンサーの頭が横に転がった。切られた頸動脈から血が大きく吹き上がり、カメラのレンズを真っ赤に染めた。
現場からの中継は突然途絶え、スタジオではキャスターがおろおろと視聴者に弁明を繰り返していた。
布を幾重にも顔に巻いた上半身裸の大男は、膝を高く上げ、切られた魚のような丸い目で息絶えた女の頭を思い切り踏みつけた。頭蓋骨が破壊された鈍い音と共に灰色の脳漿が飛び散った。そして、おののく他のスタッフを、手にした大きな刃物で次々となで切りにしていった。
哀れな獲物は叫び声を上げる暇もなく首を刎ねられていった。はじめはわなわなと震えていた被害者の指は、地面に深く食い込んだ状態で固まった。
「ツムジテレビさんの方はにぎやかだな、こっちももう少しで中継回ってくるぞ、準備大丈夫かぁ?」
少し離れた場所で放送準備をする他局のクルーは闇の中でのざわめきを耳にした。
「ケンちゃん、襟曲がってるぞ」
「あっ、すいません今直します」
「早くしてくれ、しっかり見ておけよな」
アシスタントディレクターが、偉ぶる男性アナウンサーの首元の襟を直そうとした時、自分の指の第二関節に痛みを感じた。
「痛っ」
両手をあわてて戻した時、自分の指が既に無くなっていることにアシスタントディレクターは気付いた。途端に熱い激痛が脳内に広がっていく。すまし顔をしていたアナウンサーは首がずれ、口から滝水のように血をあふれさせた。
ようやく中継車から飛び出してきた他のスタッフが、他局での惨状を伝えようとしたが、その時には既に、ここのクルー全員の首がマネキン人形の首をはずしただけのようにきれいに落とされていた。
(四)
目が覚めた吉村は病室のベッド上にいた。
天井から釣り下げられた点滴のパックがゆらゆらと動いているのが見える。点滴管の中で落ちる液を見ながら、自分は長い夢の中にいたのではないかと思った。
吉村は頭の中が半分まだ眠っているような感覚を振り払い、上半身を起こし、周囲を観察した。
病室と廊下を隔てている扉は開いていて、看護師の会話が小さく聞こえてくる。
「病院……ここは戻ったのか……」
ベッド横に自分の着替えや道具の入った現場に持ち込んでいたリュックが置いてあった。
病室の外を通りがかった看護師が、吉村が起き上がっているのを見て、すぐにあわてた声を上げた。
「吉村さん、まだ横になっていなくちゃだめです」
女性看護師は、病室のインターホンで吉村の様子をナースステーションに連絡した後、吉村をなだめながら、再びベッドに寝かせようとした。
「すいません、俺、何しているんですか」
「洞窟の中で倒れていたところを救助されたのよ、まだ検査結果でていないのもあるから、安静にしていなくちゃ」
「ここの病院は」
「前巻中央病院」
「前巻……奥巻村の隣の……?」
「そうですよ」
「署の人、誰かいませんか……」
「だめだめ、今は安静にしなければと、その署の人からも言われているの」
点滴の落ちるはやさを確認しながら看護師は、慣れた手つきで体温計を吉村の脇に差し入れた。すぐにもう一人の看護師が、カルテを手に吉村の様子を見に来た。
「あ、あの……すいませんがちょっと連絡を取りたいところが一件あるんですが」
吉村の頼みに、二人の看護師は同じように首を振って否定した。
「まだ、安静にしなければいけません、明日、署の人が必ず来ますから」
「奥巻村は、どうなっていますか……他のみんなは……」
吉村のその質問に二人は石のようにこわばった表情を見せた。
「大丈夫……大丈夫です」
何かあったに違いないと感付いた吉村であったが、ここでわがままを言ってもどうしようもないと考え、看護師に促されるまま横になった。
安心した看護師は、体温計で熱がないのを確認し終え、ナースステーションに戻っていった。
防音仕様の病室の窓から警察車両のサイレンの音がほんのかすかに聞こえてくる。
「休んでいる訳にはいかないんだよね、あんな表情されちゃうとな」
廊下の様子を気にしながら、吉村はベッドから起き上がり自分のリュックを確認した。穴に持ち込んではいなかったので、一通りの普段着は入っている。携帯電話と警察手帳は見当たらないが、カードの入った財布は横のポケットにそのまま残っていた。
「携帯は……」
山人に盗られたことを急に思い出した。ただ、それが夢であったか、現実であったかはまだ自分自身区別がつかない。
「シキ女……捨……忠能公……」
それでも名前と彼ら一人一人の表情がありありと脳裏に浮かんでは消えていく。
慎重に点滴針を抜きベッドから下りた吉村はすぐに着替えはじめた。
彼が病室を抜け出すまで数分とかかることはなかった。
(五)
「連続殺人事件発生」
一報はすぐに伝えられた。
真夜中を迎えようとしていたが、各部屋の電灯が灯る公民館駐車場には警察、消防、中継車の車両がエンジンのアイドリング音を響かせていた。
玄関前では事件の情報を知って待ち構えていたマスコミ関係者が、現場主任を取り囲んでいた。
「殺人犯の行方は!」
「警察の失態ではないですか!」
白いライトの中に映る平松は乱れた髪の下に困惑の表情を浮かべていた。事態が思わしくないのを察しているマスコミ関係者は一様に、警察の捜査をなじり続けた。平松の上司でもある現場主任は本部で発表が許されていることだけを何度も繰り返している。
その様子を目にした司馬は哀れだと思いつつも、できることが限られている今の自分のふがい無い気持ちの方が上回っていた。
再び携帯の着信音が鳴った。
「司馬か?何か進展はあったか?こっちに情報がまともに入ってこないぞ。」
司馬にかかってきた携帯の向こうの声は、埼玉中央警察署の上司、柳田からであった。
「ひどいの一言だ、現場がヤマに慣れていないのもあるが、犯人像はテレビに映ったそのまま、応援要請は上にちゃんと通っているのか?まだ、ガイシャ(被害者)が増える可能性は高いぞ」
「応援の追加もようやくだ、しかし、そっちの署の動きはあまりにもにぶすぎる」
「それは言うな、彼らも見ていて哀れなくらいだ、ところで、調べてもらっていたあの件はわかったのか?」
「工事にあたっての土地誘致の件か?地元の議員が裏で動いていたのは確実だな、ただ、関係調査書類のほとんどが行方不明だ、牧中央署にあったのまではわかっているがな、しかし、それもこのヤマで、調べるのもそこで手いっぱいだ、奥巻村関係は……」
「奥巻村関係は誰も話したがらない、調べない……か」
「そう、特にそっちの署は地元採用が多いだろ、地元の有力議員さん関係をあげるのは難しいな、証拠書類の少ない中でこのご時世、検察さんも冤罪が怖くて動かないだろう」
「ああ、でも感ははずれだ、はじめは工事利権にからむ者の犯行かと思ったが、そんな生やさしいものだけじゃねぇ」
「というと犯人の目星は……やはりマスコミを利用した快楽的殺人者か?」
「理由はまだわからん、ただ凶器から地元もしくは地元出身の人間と俺は見ている、この村の中で物証が隠されたら、確実に難しくなる、それと今から言う凶器について情報があったらすぐに教えて欲しい」
「お前の言うその凶器とは何なんだ」
「『マキクグリ』……この地方に伝わる伝統工芸品のナタだよ」
「わかった、こっちでもわかったことはすぐに伝える」
司馬は、こちらに駆けてくる人影を見た。
「司馬刑事!」
平松主任であった。
「すまん、また、かけ直す」
司馬はそう言って柳田との通話を切り、疲れ顔の平松を見た。
「病院から吉村刑事が失踪したそうです」
司馬はおやという顔を見せたが、小さく首をうなずかせて笑った。
「あの馬鹿には俺があとで説教してやる、心配するな、あいつはすぐにここへ顔を出す、それより犯人の足取りは?」
司馬の返答の内容に平松は驚いたが、すぐに状況を説明した。
「洞窟現場から足跡は県境の山の方へ向かっているようです、このまま県境の方へ逃走するのではないかということで手配をしています」
県境と聞いた司馬の顔は急に大きくゆがんだ。
「違う、県境になんか逃げない、犯人の狙いは、今ここにいる連中だ、中心地区の警備を最重点にしろ」
「なぜ、それを」
「この村の奴だったら、おおかた気付く、これは鬼の復讐を騙った事件だからな、最重要警護対象は人の集まっている役場とその周辺だ」
指摘された平松の表情は強ばったままであった。
(六)
河原の大きな石の上に座るいかるが一人、天の川を見上げている。
「天の海に雲の波立ち月の船、星の林に漕ぎ隠る見ゆ……」
一つの流れ星が渓谷の細く横にのびた空を横切っていった。
「風太、今頃何やってんのかなぁ……」
細く白いふくらはぎをぱたぱたと小さく動かしながら、今、惨劇がこの地で続いていることをいかるは少しも気にしていないようであった。
清流の中から、数人の腕や首の無い屍人が身体をもたげてくる。
「今日今日とわが待つ君は、石川の貝に交りてありといはずやも……」
いかるはそう言いながら大石の上に静かに立ち上がり、右手で黒い羽を投げた。
屍人は羽の刺さった箇所から蒼い燐光を放ちながら燃えていった。
「常世に戻ろう……もう、あなたたちの怨みを晴らすことのできる者は誰も生きていないの……」
それでも屍人は、無言でいかるの方へ徐々に迫ってくる。
「この河原の石の下であなたたちが怨みを抱きながら眠っていたのは知っている、怨みはまたもう一つの……ううん二つも三つも怨みを増やしていくんだよ……」
飛びかかる屍人を避け、いかるは大石の上から飛び上がり少し離れた川沿いに降り立った。
背後の川の水がふくれるように持ち上がり、乱れ髪の男の首が宙に浮いた。
いかるは指に挟んでいる黒い羽をその男の目に刺した。首の男は水鳥のような悲鳴をあげた。
「痛いかもしれないけど、痛くない……だって、もうみんな死んじゃっているから」
静かな空間で屍人と争いながら、いかるはそっと涙を流した。
「あっ!」
老婆の姿に集まる幼児の姿を清流の上に見た。両手を合わせ拝むような姿で、全員いかるの方を泣きながら見つめている。
「今、私が……」
いかるは動きを止め、その老婆たちの方へ手をさしのべながら飛んだ。
しかし、眼前にあらわれたのは、屍蝋に包まれた老人の集団であった。彼らは高い声を発し、いかるを水中へ引きずり込んだ。
「きゃっ!」
水に飲み込まれようとするいかるを中心に、人魂で成る渦が音を少しもたてずに巻いた。
何匹もの白い小動物を伴った風がその人魂を切り裂く。人魂は闇に燐光を次々と散らしていった。
「いかる、世話かけさせんなよ」
その声は星空から聞こえた。
疾風は川面を渡り、いかるを岸に引き上げた。飲み込んだ水をげぇげぇと吐きながらいかるは自分の前に立つ風太の姿に気付いた。
「風太!」
「いかる、小次郎はどこだ、黙って二人だけで行きやがって、小次郎の気をさがしてやっとの思いで来てみたら、こんな気持ちの悪いのしかいない」
「他の凶を追いかけているよ、でも、嬉しいよ、来てくれたんだ!」
いかるは後ろから風太の身体に抱きついた。
「やめろ、やめろってば、ほら、まだうようよといるんだぞ!」
風太は顔を赤らめながら、ひっつくいかるを離そうとしている。
「離れろってば」
マキクグリを手にした屍人に向けて、風太は風イタチを放った。鎌をもつ風の動物は屍人の身体を音もなく微塵に切り裂いていく。
子供と老人のしくしくと泣く声が聞こえてきた。
「ねぇ、福の神なの……」
髪を束ねただけの小さな髷を結った幼児が泣きながら、するすると前に出てきた。目に涙をいっぱいためた表情はいかるの胸を痛ませた。
「風太……」
「いかる、あの姿にだまされんなよ、あいつらは常世の亡者だ、俺たちはあいつらを……」
言葉が終わる前に、風太はその幼児の首をイタチの鎌で落とした。落とされた首はころころと老婆の足下に転がり、突然狂ったように笑い始めた。
「怖いもんだぁ、お婆ぁ、怖いもんがきだぁ……わしの腹に皆がしたように喰ってけれ!喰ってけれよぉ!」
風太の周囲が屍人の放つ光でぼんやりと闇に浮かび上がる。
「馬鹿野郎、勘違いするんじゃねぇぞ……俺はなぁ、福の神なんかじゃねぇ、凶神の天空だ、お前ら一人残らず常世に逝ってもらう……」
風太は、いかるの絡んだ腕をそっと外しながら口元に冷たい笑みを浮かべた。
河原にいる風太は屍人を軽々と倒しながらも、その数の多さに考えた。
「いかる……数が多すぎる」
「えっ?」
背中合わせに立ついかるは、風太の言葉に驚いた。
「この場所意外に怨みをもって多く死んでいる所……もしくは物……そこから気が流れ込んでいやがる」
普段の風太と違い、天空と化した風太はいかる以上に敏感である。
「なら……ここにいるのは……」
襲いかかる屍人を風で縦に切り裂きながら風太は言った。
「幻灯に映された影、屍人の怨みのほんの一部が体を成している偽もんだ」
「それなら、源霊はどこに……?」
「もう、あのだんまり野郎の小次郎が見付けているはずだ、いくぞ、いかる」
「ええっ、どこ?それとだんまり野郎って言ったら、小次郎絶対にふてくされるよ」
「いちいちうるさいぞ!」
風太は答えを聞くまでもなくいかるの手をとって、すぐに星空へ飛んだ。
(七)
(応援を村に回せ)
平松は司馬にそう頼まれていたが、一本の電話により彼との約束を反故にせざるをえなかった。
「雅子か、全く連絡をよこさないで、何のためにお前をそこに就職させたと思っているんだ、さっきの殺人ショーは本当にあったのか、どうなんだ?署の連中の動きが遅いために、ここまで事件が広がっている、村のイメージもがた落ちだ」
「本当に起きていることは間違いありません、早くその場から逃げて」
「なぜ逃げる、その理由を言ってみろこの役立たず!そのいいかげんな態度が、村の災いを広げているのだ!」
平松の祖父からの電話である。
「作業員が行方不明になった時点で、道路建設に反対している連中を、適当な別件逮捕であげておけばここまで騒がれることはなかったんだ、マスコミのやらせもおさえられんで」
「おじいちゃん、やめて、今、そういうことを言っている場合じゃないの」
「犯人は県境に逃亡したそうじゃないか、裏通りの弥助んちの息子だろ、犯人は、あそこの家は昔から何かと逆らうからな、それとも、あの退職した教師の家か?」
「彼らにはしっかりしたアリバイもあります!でも今はそれどころじゃ」
「雅子、もう一つの緊急の用事だ、あの馬鹿署長にも連絡を入れておいたが、うろちょろとしている白髪の刑事がいただろう、あいつを戻せ、村のことを犬のように嗅ぎまわっている、現場にいるお前から苦情を上げれば署長も奴を戻しやすい、直接署長にすぐ言え、あいつとはそう段取りをつけてある」
「何てことを、今はそんなことをしている場合じゃないって……」
「お前は言われたまま動け、今までだってそうやってきただろう、あと、捜査内容は逐一、私に報告しろ、ああ、犯人のことだ、いいな」
一方的に平松の祖父からの電話は切れた。
村長室では、電話の終わった村長に助役の男が声をかけた。
「ありがとうございます、村長、うちの親戚からもついさっき苦情があがってきまして、頭を悩ましていたところです、警察にお孫さんがいるとは心強い」
「うちもでした、さすが村長は実行力がおありだ、どのような時でも動じない素晴らしいリーダーがいるということは、この村にとっても幸せなことですな、警察内にも村長のお味方がいるとは本当に頼もしい」
出納役の男も、もみ手をしながら、村長に見え透いたおべっかを使った。
「無能な連中だ、さっきの下らない殺人ショーは一体何なんだ」
村長は三階の窓のカーテンの隙間から駐車場に並ぶマスコミの車両群を憎々しげに見下ろし、椅子に深々と座り直した。あのテレビ放送から庁舎内はさらに混乱している。
その時、突然庁舎内の電灯が一斉に消えた。非常口を示す緑のランプと配電パネルから停電を示す警告音と赤いランプが動揺する人々の顔を照らした。
「このような時に停電か、危機管理がなっていない」
「村長、ご心配なく、今、すぐに配電室の方を見てきます」
助役と出納役は村長室から慌てて飛び出ていった。一人残った部屋で村長は狼の遠吠えのような声を耳にした。
一階のロビーでは、関係者が携帯で停電の様子についての報告をしている。残っていた役場職員は配電室の検査や電力会社への対応に追われていた。
(ひぃらいた……ひぃらいた…………)
暗闇の庁舎内に子供と年寄りの声がまじったわらべ歌が響いた。非常消火灯を示す赤ランプも、歌声に合わせて点滅をしはじめた。
(れんげのはぁなが ひぃらいた…………)
そこにいる者たちが声の主をさがしたはみたものの誰もいない。歌はまだ続いている。
(ひぃらいたとおもぉたら いつのまぁにか つぅぼぉんだ……)
「趣味の悪い悪質ないたずらだ。誰だ!この大変な時に!裏口だな!」
配電室に行った職員からの連絡は未だない。電話を切ったもう一人の男性職員は配電室のある廊下の奥へと向かった。
歌声は配電室の中から聞こえてくる。
暗い室内を懐中電灯で照らした瞬間、役場職員は身体を凍らせた。
ナタのような鋭い刃物を手にし、布を幾重にも顔に巻く裸身の大男が、壊された機械の前で直立していた。歌声はその男の身体から聞こえてきていた。
「どうした電気は!本当に使えない奴だ、裏口もマスコミに入られないように施錠しておけと言ったじゃないか」
駆けつけてきた助役が言うように、非常口と配電室の扉が開いたままになっていた。
助役と出納役は、代わる代わるに配電室前に立つ職員に罵声を浴びせた。
「おい、聞いているのか!」
首のない職員は二人の目の前で仰向けに倒れていった。
「げげっ!こりゃ、何……グェッ……」
正面から飛んできた大きな観葉植物の鉢が二人の頭骨をひしゃいだ。
助役ら二人は重なるような格好で血が広がっていく廊下に倒れ伏した。
「何だ今度は、何の音だ」
階下の異様な物音を聞き、村長は面倒くさそうに椅子から立ち上がった。
「お前たち、どこにいるんだ、何やっているんだ」
呼びかけに対しての返事はない。緊張の面持ちのまま、町長は部屋の入り口までおもむろに近付いていった。
大きな音を立てて町長室の扉が外から勢いよく開いた。懐中電灯の光が町長の顔を照らし出す。
入って来たのは司馬と二名の警察官であった。
「町長、この場は危険です、警護をしますので、すぐに避難を」
「避難、なぜ?」
「説明は後で、犯人は無差別に人を襲います」
司馬は追い立てるようにして、不満を口にする町長を部屋から出した。
「お前たちは町長の警護を、俺は音の正体を確かめてくる」
(八)
非常灯に巨大な影が浮かんだのを電話応対していた女子職員が気付いた。
「はい……あ……あっ……」
「あ、じゃないだろう!」
途切れがちになる女子職員の言葉に電話口の相手が文句を言っている。
ロビーに姿を現した大男は手にしていた職員の首をカウンターに投げ付けた。
女性職員の悲鳴を聞き、大男は横の清涼飲料水の自動販売機を左手の一突きで破壊した。
「ぐもぉぉぉお!」
全身を震わせ、大男は立ちすくむ女性職員へ向けて、飛び上がった。
闇の中に火花が散った。
大男の振り下ろしたナタの刃を小次郎の刀が受け止めていた。
「闇より出でし者……闇に帰すべし」
小次郎は大男の刃をその愛刀でいなしながら、顔に向かって脚を蹴り上げた。反動のあまり大男はよろめき、ロビーに飾られた観葉植物の植えられた鉢にぶつかった。
獲物の予想していない反抗に大男は闘争本能をより駆り立てられた。狩りの対象をだらりと持った刀を床に向けて垂らす小次郎に向けた。
「ふっ、それでよい、貴様の深き怨みごと今宵浄じてくれよう」
大男の振り回すナタは、ロビーのコンクリ製の柱を軽く割った。恐怖に震える人々は床にうずくまり、破片に身体をぶつけた。
小次郎は大男をロビーから外へと挑発するように誘っている。騒ぎを聞きつけた者たちがすぐに大男の側に集まってきた。
「おお、犯人じゃないか!あの白い男は何だ?」
「すげぇ、すげぇぞ!特ダネだ!」
携帯電話やカメラを手に集まった野次馬やマスコミは大男の振る舞いに興奮した。
「下がれ!自ずから黄泉の国へ行くか!」
小次郎の発した警告の言葉に耳を貸さない者たちは、ロビーから飛び出して来た大男の刃物に身体を両断された。
飛び散った腸が車のボンネットに跳ね乗った。はじめ何が起きたかわからないままの被害者らは、手と首を少し痙攣させ、絶命した。中には数秒意識があり、まばたきを続けている者もあったが、命を落とすことに変わりはなかった。
「ぎゃぉぉぉ!」
血塗られた刃を振りながら、山の斜面につくられた墓地の方へ走る小次郎を大男は追っていく。大男が突っ込んでいった場所の墓石は将棋倒しのように倒れていった。
大男は墓石の一つを手に取り、小次郎に向かって投げつけた。ぶんと風切り音をたてて、墓石は樹木をなぎ倒した。倒れてくる針葉樹木の枝に身を隠しながら、小次郎は大男に近付き、刀を地面から掬うように振り上げた。
大男の身体は、切られることなく軽々と宙を舞った。
(猿の化身か)
小次郎がそう感じたほど、大男の動きは機敏であった。
「ふぉぉ!」
大男は空中で腰に携えていたもう一本の刃を持ち、両手を翼のように広げ、小次郎の頭上に襲いかかった。小次郎は地面を転がりその一撃をようやく避けた。
大男の背後に老人や子供の睨み付ける顔が浮かんでいるのを小次郎は見た。
「やはり……貴様、一人だけの力ではあるまい、亡者の怨念をその身と刃にためておるな」
「くふぅ、くふぅ」
大男の息はまるで野獣の鼻息そのものである。血糊のこびりつく刃の先は再び妖しい燐光に包まれた。大男は小次郎と向き合いながら、蛇のように長い舌を袋の下から伸ばし、刃の側面をべろりと舐めた。刃の先から大量の唾液がこぼれ、青々とした草の上に落ちた。
「マキクグリというその刃……貴様の怨念の源はそこにある、人の血を吸い、また力とする、罪なき人を殺めしその具……それこそ邪なり」
大男のマキクグリの振り下ろす風で、辺りの墓石や木々は砕けていく。小次郎は紙一枚のところで刃を避けながら、さらに人気のない方へと大男を誘っていった。
(九)
「ここから先は検問中だよ、お兄さんも事件見に行くのかい、やめといた方が良いよ、まだ犯人つかまっていないみたいだし……」
「あの村に自分にとって大事な人がまだいるんで」
「彼女かい、それなら心配だよな」
「いや、小うるさいおっさんです、じゃ、どうも」
「兄さん、変わった趣味だね、気を付けてよ」
複雑な顔をしたタクシーの運転手から小銭の釣り銭をもらい、吉村は軽くなった財布をポケットに戻した。
「警察手帳なくした奴は検問を通過できない、簡単に再発行してもらえ……ねぇよな……また、始末書だ……」
赤色灯を回転させる警察車両が鎮座した検問を避け、吉村は藪の中へ足を踏み入れた。闇に包まれた藪の中のごつごつとした場所も今まで以上に簡単に進むことができることに、吉村は驚いている。
「山歩き……毎日のようにこの山をあいつと歩いていたっけ」
笑顔の捨が自分の先頭に立って山中に誘う幻影を闇の中に見た。
「夢……現実……」
救急車両のサイレンの音が絶え間なく響き渡る。
藪の間から垣間見える奥巻村の市街地は、すっぽりとあの洞穴が開いたように暗闇の海に沈んでいた。
(十)
平松は動揺する署員を気遣いながら、藪の中からいきなり現れるかも知れない闇のつくりだす恐怖を感じていた。司馬の言っていた通り、犯人は村の中心部の役場にその姿を見せ、犠牲者を増やした。
奥巻谷の奧ん奧 怖い鬼共住んどった
ご家来衆と十七人 都の侍大将が
あっぱれ鬼共 成敗し
玉や黄金や 米俵
たんと お宝 お姫様
幼い頃、母から寝物語のようによく聞かされていた「奥巻村の鬼退治」のわらべ歌。元は母の家に代々伝わっていたものであると聞いている。
平松は母の優しくも悲しく歌う声が頭をよぎった。
「鬼の復讐なんて……」
先祖の奥巻衆の勇ましい姿はどこにもなく、行き場を失った鼠のようにおろおろと動き回る自分の姿が、平松はただ恨めしかった。
「犯人は一人の男を追って西山方面へ逃走中とのことです、十八番から二十三番までの車両が追跡」
「上に林道があるわね、すぐにそっちへ回って、司馬刑事とは連絡がとれた?」
「いえ、まだ、携帯で通話ができなくなっています、近くの基地局の停電が続いているようです、山に囲まれているんで村のが一本駄目になったらアウトです」
悪路のため、乗っている車が大きく揺れ、砂利に床をこすった音が聞こえる。ヘッドライトに映る樹木が、黄泉への行進に赴く老人たちの後ろ姿に平松は見えた。
一方、司馬は犯人を追跡している。
「刃物を持つ者が二名……共犯者もいるのか」
平松に事態を確かめるべく携帯電話を取り出したが、基地局からの電波が不安定で使用できなくなっている。
「がぁああああ!」
司馬が来た道を引き返そうとした時、藪の方から獣のような悲鳴と、木々がバリバリと倒されていく音が近付いてきた。
「何の音だ……」
司馬は持っていた懐中電灯の明かりを消し、道を隔てた太いブナの幹の後ろへ身を潜めた。目が闇に段々と慣れていく中、大きな音に驚いた二羽の山鳥が鳴き声を上げて藪から飛び立った。木々が一本一本、左右に分かれながら倒れていくのを、司馬は眼鏡の奥の冷たく光った目で見ている。
「ぐぅおおおおお!」
葉や枝を巻き上げ、けたたましい声を上げた大男が藪の中から身を躍り出させた。
「あれは!」
司馬はその男が両手に持つ刃に目をやった途端、言葉を失った。
(マキクグリ!犯人か!)
本能的に司馬は幹の裏から山道へと飛び出した。
「待て!」
興奮する大男は、自分のさがす小次郎の代わりに、貧相な小男がこちらを睨んでいることに気付いた。大男は首を前に突き出し嬌声を上げ、両のマキクグリを振り上げた瞬間、司馬の身体は横から強い力に引っ張られた。
小次郎が司馬の身体を抱えている。地に降り立った小次郎は司馬の身体を後ろに隠しながら彼に聞いた。
「主も黄泉路へ急ぐか」
「誰だ、お前は……」
命を失いかけた自分の置かれた状況よりも、目の前の青年の華奢な身体にこれほどまでの運動神経があることの方が司馬にとって驚異であった。
殺す快感を邪魔され続ける大男の怒りは頂点に達した。小次郎は司馬の身体を横の藪の中へ突き飛ばし、大男の振り回す大刃を跳ね上げ、男の盛り上がった首筋へ自分の刀を突き立てた。
「遅いか!」
肩の筋肉に一筋の血の線を描かれただけでかわした大男は、飛び下がり自分の体勢を変えながらより背を一層かがめ大地を駆けた。大男の一本のマキクグリが回転しながら、小次郎の首めがけて飛んできた。
そのマキクグリを小次郎が刀で打ち落とした時、大男の身体は小次郎の頭上から大鷲のように急降下してきた。
「くぅっ!」
落下の力と男の振り下ろされたマキクグリの合わさった力、それはとてつもない威力であった。小次郎は渾身の力を込めた愛刀で何とかしのいだが、身体は紙切れのように飛ばされ道沿いに転がっていった。
小次郎が立ち上がろうとした時には、その男はもうすぐ側に迫っていて、小次郎はただ避けるだけで精一杯であった。
二人の戦いを間近で見ている司馬は何度も自分の目をこすった。
「こいつらは何なんだ……」
司馬は青年が逃げながらも大男と司馬との距離を徐々に離していることに気付いた。
「奴は俺を逃がそうとしているのか……」
何ももたない司馬が一人、あの凶暴な犯人を捕縛することは不可能である。そうすぐに判断した彼は応援を求めるべく警察官のいる洞穴の方へ駆け上っていった。
(十一)
林道を警察車両で走る平松は、洞窟方面に向かって走る一人の男の姿をライトの中にとらえた。
「司馬刑事!」
運転をしている署員へすぐ車を停めるように指示し、平松は外に走り出た。
「どうしたんですか!」
司馬の服は破れ、木々の葉で擦れた緑の線や土色で汚れている。その姿を見て平松は思わず声を上げた。
「犯人だ、この周辺に凶器をもった犯人がいる、至急本部へ応援を要請しろ」
「犯人が近くに!」
司馬は驚く平松を落ち着かせ、犯人の凶器の特徴や向かった方向を冷静に伝えた。
「すぐにこの道を行こう、拳銃は持っているか」
「はい、携帯しています」
平松は顔を緊張させながら頷いた。
事件の発端となった洞穴の周辺には、警察関係者が詰めていたが、殺人現場検証を続ける数名をのぞき、出没が報じられた役場周辺地域の応援へと向かっている。
残っていた警官は遠くにサイレンの音、近くの暗闇から野獣の遠吠えを耳にし、身を寄せ合うように集まりながら緊張の度合いを高めていった。
黒い雲が沸き立つ。怨霊と身をやつした者たちの悲しみが、星のきれいに瞬く空を黒一色で塗りたくるように隠していった。
「いかる、源が近いぞ」
「うん、空も泣いている」
藪の中を飛び進む風太といかるは、強い闇の念に惹かれていきながら、重苦しい気を身体中で感じていた。
運命という奇妙な糸は、蜘蛛が獲物をたぐり寄せていくかのように、人々をかの忌み地に集めている。
衝撃が車内に響いた。ボンネットがへこみ、司馬らが乗っていた車は横転した。
「大丈夫か」
運転していた警官は運転席で気絶している。
司馬は車から這い出し、同じように車内から脱出した腰に力の入らない平松の腕をしっかりと掴んだ。
異様な気配を二人は背中に感じた。
「ぐぅうふぉおおお」
「逃げろ!」
大男の凶器は車を両断した。
「違うな、お主の相手は我よ」
すぐに横から助けに入った小次郎の執拗な太刀をかわしながら大男は、逃げる二人を追うことに狩る楽しみを見付けている。
「ぎひゃぁ!」
大男の吠え声が山に渡っていく。
平松は震える手で、自分の帯革から特別に携帯を許可されていた拳銃を抜いた。だが、安全装置を外す間もなく、大男の襲撃を避けた拍子に彼女の手の中から、無情にもこぼれ落ちた。
「しまった!」
大男の振り上げた刃は司馬と平松の首を欲していた。
小次郎が二人を横からはね飛ばした。マキクグリは空を切り、深く地面をえぐった。
「司馬刑事!起きて!起きてください!」
痛みをこらえながら平松は気を失っている司馬を揺り起こしている。
「がはぁあああ」
大男はまだ逃げないでいる二人を見て吠え近付いていった。
歓喜に震える大男の刃をもった手の甲をめがけ、小次郎は太刀を投げた。太刀の先端を甲に食い込ませた大男は悲鳴を上げ右手のマキクグリを落とした。
小次郎は刺さった刀を素早く抜くと、顔に巻いていた男の布を大きく切り裂き、後ろに飛び下がった。
「がああああ!」
布を破られた大男の激しい怒りの声が地を震わせる。大男は自分の刃物を拾い上げた。
「動くな!」
横から飛び出してきた青年が、拾った拳銃を両手で構え、立ち上がる大男と向き合った。
吉村であった。
「一歩も動くんじゃねぇ!」
黒い雲から雨が落ちてくる。その雨は奥巻の山に生える葉の一枚一枚を濡らし、ぼつぼつと地面に円い跡を残していった。
身体をすくませた平松の前の吉村が引き下がることはなかった。
吉村の首を刎ねようと襲いかかった大男は自ら動きを止めた。
「おおおおおお!」
吉村とその後ろで怯える平松の姿を見て、地面に膝を崩して泣き声を上げはじめた。
「何なんだ……?」
突然動きを止めた男に、吉村は拳銃の引き金にかけている指の力を弱めた。
頭に頭髪はほとんど残ってなく、かさぶたのように全てが赤黒くただれ、片目の眼球がむき出しになっている。わずかに残った鼻の穴と、犬歯の伸びた口の周りにだけ皮膚の痕跡がへばりついていた。
「おお!おおぉ!」
吉村を見て四つん這いになる男の締め付けられる泣き声が雨の音にかぶる。
「!」
平松の顔はシキ女の顔に酷似している。
吉村の身体に激震が走った。
「お前は……捨……?」
「ぐぅおおおおおお!」
吉村のかけた言葉に涙のような粘りのある液を目の周りから男は滝のように流した。次第に男のうずくまる周囲に、緑の光を帯びた老人や子供の姿が浮かびはじめた。
男の涙に呼応するように雨は益々激しくなっていく。
平松は現実では起こりえない情景に言葉がでない。
老人や子供たちの霊は、うやうやしく泥の中に正座し、吉村と平松に頭を深く下げた。一番前に立つ杖を持った老人は間違いなく、忠能公の姿であった。
「惹かれずの君……我らに哀れみをおかけ下さるために御姿を表してくれた」
淡い蒼光となった忠能公も静かに声をつまらせた。
「捨……忠能公……お前たち……どうして……どうしてここに……」
吉村は拳銃を持った腕を下ろし、大男と変じた捨の側に近付いていった。
「小次郎!今だ!やっちまえ!」
小次郎と合流したばかりの風太の声が、時を越えた短い再会の時間を終わらせた。
小次郎の刀が捨の背中に深々と刺さり、風太が出した風のイタチが霊の姿を両断していった。緑色に発光する霊の表情はおだやかなものから、不動明王のような皺を眉間につくり、恨めしく小次郎や風太、いかるの方を睨んだ。
「がぁぁ!」
痛みに苦しみながらも大男は、呆然と立つ吉村の身体を愛おしそうに一度大きく抱きしめ終えた後、地に一度置いたマキクグリを再び手に取り、小次郎に襲いかかっていった。
「待て!捨!」
「わはぁ!」
「やめろ!捨!やめてくれぇ!」
吉村の呼び声に嬉しそうに答えながら捨は小次郎に迫る。
「まいるぞ、天空!いかる!」
小次郎と天空、いかるの三人は捨を挑発するように洞穴に向かって飛んだ。
「うわぁ、やめろ!捨!やめないか!」
吉村は司馬や平松をそのままに半狂乱になって捨の方へ走る。
「いかん……俺としたことが」
司馬はようやく意識を取り戻した。
「吉村……吉村刑事が……急がないと……」
平松は眼前であった出来事に唖然としながらも、声を上げて暗闇の中、憑かれたように走る吉村の後を追うよう司馬に震えながら伝えた。
(十二)
緊張する警察関係者が詰めた洞穴脇のテントの屋根を激しい雨音がびしびしと叩く。その横を樹木の葉をざわめかせながら一陣の暴風と光が走っていく。
「誰か来たぞ!」
一人の警察官は豪雨の中、ずぶ濡れになって走ってくる吉村の姿を見た。
「大男はどっちに行った?」
「誰だ?お前は」
答えを待つまでもなく穴の方に走る吉村を警察官がタックルして止めた。
「離せ、離してくれ!俺は埼玉中央署の吉村だ!」
「おとなしくしろ!」
泥の中で警官と吉村が組み合う中、司馬と平松がようやく追いついた。
「離してあげて、彼は中央署の吉村刑事です!」
平松と司馬の言葉に警察官らはあわてて暴れる吉村の身体から手を離した。
「すいませんでした!」
「大男はどっちに、どっちに行ったんだ!」
「いえ、こちらには誰も来ませんでした。」
「どこだ!どこに行っちまったんだよ!」
吉村が地面を叩いて泣く中、降り続ける雨水が濁流をつくり洞穴に音を立てて流れ込んでいった。
(十三)
地下水の流れる音が一段と大きくなっていく。
燐光がわずかに浮き立つ洞の広間に対峙する二組があった。
小次郎、風太、いかる、それに向き合う醜いこうべを持つ捨と亡霊の群れ。
「積もる怨みとはいえ、お主たちはこの世に生をえる罪なき人を殺め、その魂を常世に送っていった、その行い決して許さじ」
「人の形を似せた物の怪にそう言われる筋はなし」
忠能公は自分の杖を洞の床に一回、こつんと落とした。
「浅はかな、お主たちが怨みを晴らすべく殺めている者共は全て縁なき者よ」
「我らの怒り収まるところなし!」
怒りに満ちた忠能公の声がわんわんと洞内に響いた。
「面倒くせぇ、このいかれた爺ぃごとまとめてやっちまおうぜ小次郎」
「常世に自ら去ね……あえて、我らと争うならば、全て切る」
はやる風太を静かに押しとどめ、刀を八相に構える小次郎が静かに言った。
「我ら公達に命ずるとは物の怪ふぜいが小癪なものよのう、捨!この物らをもとの人形に帰せ!」
亡霊が光となり、捨の身体とマキクグリに凝縮していく。
「小次郎は甘いんだよ、奴らなんて人を殺すことなんて何とも思っちゃいない」
風太は起こした風で地下水を巻き上げ、捨の周りに水柱を立てた。
「動きを封じさせてもらったぜ」
捨は強靱の体力で勢いづいた水の流れを厚い刃で止め、水柱を難なく切り裂いた。
「あれ?風太、全然封じられてないよ」
いかるはあっけなく水の輪から抜け出した捨の姿に笑った。
「うるせぇ、いかる、黙ってろよ」
風太の言った通り、捨の動きが止まる。足首にできた水の輪に取り巻いた他の水が猛烈な勢いで集まり、見事に動きを封じていた。
「切り刻んちまえ!」
右手の上でつくった白いカマイタチを風太は解き放った。白イタチが飛び回ると捨の身体に傷が瞬時に付いていく。
「ぐわぉ!」
捨の叫び声に呼応するかのように、ぱっくりと開いた傷から老人の腕がいくつも伸び、イタチを一匹一匹ひねり潰していった。
いくつもの伸びる腕は、千手観音のような神々しい姿に捨の身体を飾っていった。
小次郎の太刀は腕を大樹から枝を打ち落とすように次々と切り落としていったが、腕の間から子供の首が伸びて「福の神はもう来ぬのか」と寂しそうに言った瞬間だけは、その太刀を止めた。
子供の顔が崩れ鋭い爪を持った腕が躊躇した小次郎の首を掴んだ。
「小次郎、だから言ったろ!」
風太の放った風がその腕を他の子供の首ごと裁断した。
「すまない」
返り血を頭からかぶった小次郎は自分をとらえようとうごめく腕から一時逃れた。
伸びた腕は風太の風によって切られていく。
捨は小次郎が油断した瞬間を見逃してはいなかった。大岩のような身体が小次郎めがけて突進した。
「どうしたの小次郎!」
二人の間に飛び込んできたいかるが、小さな結界の壁をつくり、捨の攻撃をかろうじて受け止めた。
「きゃっ!」
捨のあり余る強大な力は、結界の壁を水晶の粒のように細かく砕き、小次郎といかるを洞の壁に吹き飛ばした。
小次郎は彼らのやり場のない強い怨みの念に長時間揉まれ続けている。彼は怨みの凝縮したこの地下空間の中で、自分の力が急激に怨霊に吸われていく感覚にとらわれていた。
屍鬼となった彼ら自身も何の咎もなく無残に殺されていった者たちであった。
出口を岩でふさがれた暗闇の中、食料や明かりを失い、絶望の淵に落とされた老人や子供。亡くなった者の身体をむさぼり喰わざるをえない状況。
まさに生き地獄の中で苦しみ、命を落としていった者たちの怨念である。
弔われることもなく死蝋と化していく人々。
最後に生き長らえた捨に行き場のなくなった霊が集まり、彼を闇の中で数百年と眠らせていた事実。今戦っているここが惨劇の場であるからこそ、小次郎の繊細な心に真の悲しみという鋭い爪がぎりぎりと食い込んでいた。
様々な怨みの念を浄化させることが主に課せられた式神である自分の存在する唯一の理由。しかし、罪なき者たちの怨みは晴らす術はないものと知っているゆえ、その強い決意も薄れつつある。
「くっ……我の力まだ未熟……」
「あぶねぇ、小次郎!」
片膝をつき、うなだれる小次郎の頭上に豪快に笑う捨のマキクグリが轟音をたてて振り下ろされた。
「やめろ!捨ぇ!」
洞内に悲鳴のような叫び声が響いた。
「やめろ……やめてくれ!捨、捨やめるんだ!」
懐中電灯を右手に吉村は洞内に下りてきていた。
途中岩にぶつけた為であろう拳銃を握った左腕が折れ、額と頭部から血を流している。それでも彼は捨の凶行を止めようと必死であった。
水に濡れた岩から足を滑らせ吉村は転倒した。拳銃は音をたてどこかへと転がっていく。
「あう……」
捨は小次郎への攻撃をすぐに止め、重傷を負う吉村の側に駆け寄っていく。老人や子供の霊も捨の身体から離れ、かしづいた。
「惹かれずの君よ、なぜ、そのように我らをお止めなさる、我らの積もった怨みをいかにせんとおっしゃられる」
忠能公はひれ伏しながらも、吉村に懇願した。
「だからって……」
意識が朦朧としかけている吉村には、捨と村人の姿しか目に入っていない。
「小次郎!惑わされるな!奴らの念を断ち切るのが俺たちの役目だろ!」
風太は背を向けた捨の身体に風の鎖を投げた。
「!」
捨の動きがほんの一瞬だけ風の鎖によって止められた時、小次郎は全身の力を込めて刀から白い蛇をほとばしらせた。絡み合った白蛇の光は無防備になった捨の身体を周りに取り巻く怨霊共々貫いた。
閃光が闇を照らす。
切られた捨の身体は宙に高く飛ばされ、地面にたたき落とされた。
「捨!」
「うう……」
ようやく立ち上がった瀕死の捨は、自分の状態をよそに怪我をしている吉村を気遣って、手をゆっくりと差し伸べた。
数発の銃声が洞内に響いた。
発砲したのは吉村の後を追ってきた平松であった。
「う…………」
捨の頭部や胸に銃弾が命中し、巨体が音を立てて地面に倒れ落ちた。薄れゆく視界の中で捨は自分のために泣く吉村と無表情に拳銃を構えるシキ女の姿を見た。
「ああ!何で、何でお前が!」
吉村は捨の動かなくなった身体を抱いて号泣した。
徐々に洞内に流れ込んできた水は、吉村の腰まで上がってきていた。
「吉村刑事!」
平松と警察署員が、吉村を大男から引き離し、洞外へと無理矢理連れ出していった。
捨の身体は地底湖の冷たい水の中に静かに消えていく。ただ、その醜く崩れた表情だけは微笑んでいるかのように岩陰に隠れる小次郎と風太、いかるには見えた。
「倒せたの……?」
いかるが心配そうに小次郎の顔を覗き見た。
「私が倒したのではない……倒したとすればあの惹かれずの男の優しき心……」
「あいつにはいつも助けられるな」
今にも倒れそうな小次郎を支える風太が言った。
「我らと同じ翻弄される運命の者であろう……」
「まっ、いいか、さぁ帰ろうぜ、こんなしけた所はごめんだ、悪いが俺はこの風太の中でまた眠らせてもらうが、今度から二人だけってのは無しだぜ」
「無論」
三人の姿は水が満ちていく洞内から光となって消えた。
「うつろひ」の言
(一)
『今回の被疑者(甲)は逃走中の潜伏先の洞穴で、埼玉県警奥巻署員により射殺、甲の遺体は犯行で使用された凶器と共に地底湖で現在も捜索中、また、洞穴内で江戸中期の屍蝋化した数多くの女性や子供の遺体を発見した、現段階で今回の事件との関連はないものと考える』
これが奥巻警察署から出されている現在のコメントである。村の人々は一応の決着が図られたと胸をなで下ろしたが、心中では、犯人の遺体が未だ見つからなく、素性について一切明らかになる物証や証言がないことについての不安が残った。
「犯人は鬼の子だ、忌み地の鬼共や鬼にさらわれて亡くなった者を供養しなかったので現れたのだ」
村人らは口々にそう噂した。
村にとって事件の影響は大きかったが、映像に映し出された水深を変化させる不思議な地底湖や美しい洞穴内の様子に観光地化を望む声が各方面から既に上がり、中には世界自然遺産に登録しようというあまりに気の早い声さえも出てきた。それを証明するかの如く興味本位の観光客も日、一日とその数を増やしている。
「鬼が詫びに宝を持ってきたのだ、早く、洞穴内の全ての捜査を終わらせろ」
惨劇の生存者で、この事件の顛末を知る村長は、この機会を逃すまいと必死であった。
ただ、洞穴の周囲に慰霊碑を建てたいという村人の陳情については反対の意見を述べることもなく、むしろその事業を積極的に推し進めている。
「司馬よ、吉村は本当に大丈夫なのか?」
「ああ、俺が保証する、間違っても奴を病院送りにするなよ……俺たちのような馬鹿の後を継ぐのは奴しかいねぇよ」
「ふふ、それならわかった、こっちに任せておけ、職場復帰審査の時、あいつに余計なことしゃべらせるなよ」
「頼むぞ」
「それと司馬よ、心残りにさせてすまん」
「しょうがない、俺はこういった性格だからな、どこでも嫌われもんだ」
司馬は役場庁舎の建物横で携帯の電源を切った。
電話の相手は上司の柳田である。
「司馬刑事、どうぞこちらへ」
平松主任が自分の車へと司馬を導いた。
警察署長の突然の命令で、司馬と吉村は今回の事件の捜査から外されることが正式に決まった。だが、司馬はそのことについて何も不平を口にしなかった。
平松の運転する車窓から奥巻の緑の山が後ろに流れていくのを司馬は静かに見ていた。
「本当にすいません……」
司馬を近くの駅まで送るための車の中で、平松主任は小さく言葉にした。ルームミラーで見える彼女の目から涙が流れている。
「俺が捜査を外されることか?気にしないでもいい、俺たちはただの駒だ、差し手の言う通り動いて飯喰わせてもらうのが仕事だよ」
「実は私が祖父に……」
「祖父のことは悪く言うな、彼にも首長としての体裁があったのだろう、昔の村社会ではよく見られたことだ、組織には組織のやり方がある、この年になっても俺は認めたくないがな」
「知っていたのですか……?」
「そのための捜査だろう、だがな、あんたは間違っても辞職なんか考えたりするなよ」
しばらくの沈黙の後、平松はようやく口を開いた。
「教えて下さい……本当に吉村刑事は過去に行っていたのでしょうか……そしてあの老人の幽霊は……」
「それは俺と二人の言わない約束だ……あんたが、あいつの将来のことを思っていてくれるのならな、犯人とあいつの接点は現実にありえないだろ?」
頭部への強い強打による記憶障害、これが吉村の病気休暇の理由である。
吉村の証言と過去の屍蝋化した遺体の状況は、偶然だとはいえ、あまりにも一致していると司馬は思っていた。また、日本刀を持つ青年が自分の命を助けてくれたことも忘れてはいない。
正体を確かめるべく、すぐに役場内の防犯カメラや他の機器を綿密に調べたが、映像には光の線が映り込んでいるだけであった。
迷宮入りになりそうな事件にこれ以上深く関わることのできない自分を、司馬は今この時も恥じている。
「小次郎……」
司馬は記憶の片隅から急に湧き出た名前を口にした。しかし、その名前が何を意味しているのか彼自身にも分からない。
「何か……?」
急に黙った司馬を見て、平松は問いかけた。
「あ、いや……捜査が一段落したら、あの馬鹿を見舞ってやってくれないか……」
山の緑が陽光に輝き、清流は水面を輝かせる
野鳥が鳴き、虫の羽音が短い生命を謳歌する交響曲を奏でる
この山間の地が怨みに満ちた所であったことを誰が知ろう
怨みの対象となった者の子孫を誰がとがめることができよう
奥巻川の流れが答えることはない
複雑な思いを胸に、司馬を乗せた平松の車はくねる道の向こうに消えていった
(二)
風太は山のようにたまっている夏休みの宿題に朝から追われていた。
開いたプリントには英語の単語や熟語の問題がびっしりと書き込まれている。
「うわぁ、何でこんなにいっぱい覚えられないよ」
「風太ぁ!」
部屋の扉を開けていかるが嬉しそうに飛び込んできた。
「だめ、今日は遊べないよ」
「えっどうして?」
「この問題を見てみろよ、全くわからないんだ全部やらないとだめなんだぜ」
「どれどれ……これ、何ていう文字?」
「そこからか!」
「それより、なずなとプールに行く約束したんだ、風太も誘ってって頼まれたよ!」
風太は持っていた鉛筆を手からぽろりと落とした。
「くぅっ……いかる……悪魔のささやきというんだ……それは……」
「どうして?ねぇ行くの?行かないの?行かなかったら二人だけで行っちゃうもんね、ばいばい!」
いかるは返事も待たず部屋から出ていこうとした。
「あっ待て!行く、やっぱり行くって!」
風太の慌てた返事にいかるはその場で跳ねて喜んだ。
(三)
あの賑やかだった蝉の声は、いつの間にかそこかしこから消えている。
識神の社に頭に包帯を巻き、左手をギプスで固めた吉村が櫻の大樹の側にいた。
(俺は生きているのか……死んでいるのか……何だよ『惹かれず』って……)
ようやく外出許可の下りた病院から、吉村は誰に導かれることなくこの神域に足を踏み入れていた。
「どうしましたか?」
声をかけたのは竹箒を手にした小次郎であった。吉村はこの青年とどこかで出会ったことがある印象を受けたが、今は深く考えなかった。
「あ、いやね……この櫻の樹は不思議だね、見ていてなぜか心が安まる……」
そう言って吉村は葉のおい茂る大樹を見上げた。
「この樹に惹かれる方たちは多い……同じくあなたのような清き者に惹かれる方はこの世の中の過去にも未来にもいます」
小次郎の答えに吉村は笑った。
「過去も未来もか……俺は清くなんかないよ……大切な奴を誰一人救えなかった大馬鹿野郎だ……」
「一人の者ができることには限りがあります、でも、あなたのお陰で心が安らかになった者がいることは事実でしょう、後悔は誰もがもつ悲しくも高貴な感情です、多かれ少なかれ、多くの者皆、その負い目を抱きながら毎日を懸命に生きています、今、私の目の前にいるあなたのように……」
「……」
「この葉が全て散っても、次の御代に生きる人のため、櫻は明くる春には花を咲かせ、新たな葉を芽吹かせます、あなたはその一本の櫻の樹なのです、あなたの過去の行いはいつの日か必ず、平安を望む心の花を咲かせ、そこに暮らす人々という葉を生い茂らせていくことでしょう、少なくとも櫻と共に在る私はそう思います」
櫻の葉のつくる影の中に、捨とシキ女、山人たちが笑っているような幻を吉村は見た。
「花を咲かせる……」
吉村は、どこかで自分が求めていた答えを優しく告げる小次郎を見て微笑んだ。
「ありがとう……また、ここに寄らせてもらっても良いかな、今はまだ暇なもんでね」
「あなたが来ずとも、この識神櫻があなたを再び呼ぶと思います」
「嬉しいね……」
静かに礼をする小次郎に、吉村も丁寧な礼を返し、葉の影を揺らめかす参道の石畳を戻っていく。二人の青年の間を通り過ぎていく風は、涼しげな秋の気配をほのかに香らせていた。
式神小次郎 第二帖
「屍蝋洞」おわり