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屍蝋洞~式神小次郎 第二帖  作者: みみつきうさぎ
3/4

第三(散)の言

◆ 登 場 人 物 ◆


吉村  明  埼玉県警捜査一課の青年刑事

司馬 良次  埼玉県警捜査一課のベテラン老刑事

鵠 小次郎  識神の社の禰宜

鵠 いかる  小次郎の妹 風太のことを気にかけている

雪代 風太  中学一年生の少年

川辺なずな  風太の同級生

平松 雅子  奥巻署の女性主任警部補

柳田課長   司馬、吉村の上司

奥巻 権平  奥巻村 村長




(九)


凶変を伝えられた司馬が、遺体発見現場まで向かう道は、昨日の雨で泥水が足首まで浸かるほどのぬかるみが到る所にできていた。

(虫が多い……)

 道路工事現場すぐ横の林の一角に警察関係者が既に大勢集まっている。この現場から不明になった洞穴までは、白い仮テントの周りの人や服装さえも簡単に識別できる本当にわずかな距離であった。

 草に覆われた斜面を登るごとに周囲に漂うすえた臭いが段々ときつくなっていく。

「ご苦労」

 広く張られた規制線前で警備する署員に自分の警察手帳を見せ、司馬は遺体の散乱する浅い窪みの前に立った。遺体は着衣のまま首が切断された状態で、苔むした土の上に無造作にうち捨てられている。

腐臭に誘われた蠅や地蜂が、黒ずんだ内臓や切断面にびっしりと隙間無くたかり忙しなく羽音をたてていた。

胴体の鋭利な切断面を見て凶器はマサカリか、斧のような物ではないかと司馬は推測したが、あくまでも想像の域である。

一番ひどく損傷しているのは柴山署員であった。四肢が欠損していて破れた服の間から覗く腹部は内臓が全て取り去られているように見えた。

また、暑さで腐敗が急激に進んでいるとはいえ、遺体の状況から昨晩に犯行が行われた可能性があると考えた。

(それまで彼らはどこに監禁されていたのか、男性作業員三人と警察官二名、この短い時間の間、実行、首無ボトケの遺棄……一人の犯行の可能性はとても低い、いや……薬物による可能性もあるか……しかし、この現場まで車は上がれない)

「司馬刑事、ご苦労様です、これより遺体発見の経緯についてご説明させていただきます」

 同僚とこのような無残な姿で再会するとは想定外であったのだろう。目を赤く腫らした平松主任は、気丈にふるまっているように見えても、限界に近いと司馬は思った。

「頼む」

「はい、畠山地区長を中心とした地元の消防団員四名が、近辺の捜索を今朝七時からここより南に下がった通称『梶原の沢』より開始したところ、昨日には何も異状が見られなかったこの現場通称『土肥の盆』と呼ばれる窪地にて確認、第一発見者は畠山兼義地区長です」

「地元住人だな、彼に話を聞くことが出来るか」

「今、他の発見者と共に向こうで現場調書をとっている最中です、あの帽子をかぶって、あっ、今、手にとった男です」

「ホトケさんの首は見つかっているのか」

「いえ、まだ……」

「ゲソ(足跡)や凶器の発見は」

「見つかっていません、犯人も近くに潜伏している可能性が大ですので、二時間後には中央から百八十三人の応援が合流し、合計二百五十名体制の捜査となると聞いています、既に近在の市町村には厳戒態勢を通知、一斉検問を敷いております」

 一通りの報告を終えた平松は司馬の前で無意識のうちに大きくため息をついた。

「俺は地元住民関係を洗わせてもらう、金筋(上司)さんの関係で何か支障があったら連絡してくれ」

「司馬刑事」

「ん?」

「司馬刑事は、犯人をどのようにお考えですか」

「平松主任、はやる気持ちはわかるが、この段階で推測は自分の心の内にだけとどめておけ、こういう時こそ髪の毛一本分の事実の積み重ねが我々にとって一番正しいことだ、それと、無理をすると感がにぶる、特に現場で上に立つ者にとっては気を付けた方がいいことだ」

 そう言い残し第一発見者の方へ向かう司馬の背中を見て、遠回しに自分の身体や心境をいたわってくれているのだと平松は思った。

 調書を取り終わるタイミングを見て、司馬は畠山地区長に話を聞こうとした。彼の側で調書をとっている捜査官に、司馬は自分の警察手帳を見せた。

「ああ、中央署の方」

 捜査官は一歩下がり、司馬を畠山地区長の正面へいざなった。

「お疲れのところ、すいませんが続けて少しだけ話を聞かせていただけませんか?」

 灰色がかった髪をし、棒のように痩せた身体に地元の消防団の法被を着た初老の男は、おどおどした様子で、司馬の顔を見た。

「今……ここで話したことが全部です、話は、この警察の人に聞いて下さい、私は見つけただけだったんだから、それは、他の連中も知っている、さっきはこれで終わりだと言ったじゃないですか」

「それは聞いています、お願いです質問は一つだけです」

 その場から一刻でも早く立ち去りたい様子を見せる男よりも聞き漏らしを確かめているのかといぶかる地元署員の表情に、司馬はあまり話を聞くことができないと感じた。

「一つだけなら……」

「この辺で一番大きな『マキクグリ』を持っている方をご存じですか?」

「そんなの村長に決まっている、物持ちいいのはこの村ではあの人しかおらん、いいだろ、帰らせてくれ」

 男は、そう言うと背中を丸め、後ろも見ず逃げるようにして捜査員と司馬のいる場所から離れていった。

「『マキクグリ』って何ですか?」

 若い捜査官は男とのやりとりに出てきた言葉を司馬に質問した。

「地元に伝わるヤッパ(刃物)だよ……」


司馬は現場からとって返し、村の一番川下にある長者屋敷と呼ばれる村長の家へ一人急いだ。

左側は大きく迫った山とやや広くなったごつごつとした岩が点在する河原、清い水をたたえた奥巻川が流れている。大抵、旧家の庄屋は村の中心街に近い場所に居を構えているものだが、村長の邸宅は、村をこれ以上、下流側に広げることを妨げる閉じ蓋の役目をしているように建っていた。

予定していた県道は、その邸宅よりもっと下流から山をまたぐようにして、惨状の起きた現場につながっていくルートである。


 鈴の音が聞こえる。

司馬がゆるい坂道を下る向こうから、何も荷物を持たない青年と少女が並んで歩いてきた。見た目十歳程の少女の左手に巻かれた羽と鈴の付いたアクセサリーから、チリチリと心地よい音色が響く。錆の目立つガードレールに沿い、司馬の左を歩く普段着姿の長髪の青年と少女は通り過ぎる際に小さく頭を下げていった。

(お主の安ずる吉村という男はまだ生きている)

 すれ違いざま、涼風にのった青年のささやき声が司馬の耳に触れた。

「何!」

 慌てて司馬が振り返った時、現場奥に伸びる県道上には、遠くに見える警察車両を除いて誰もおらず、蝉の音だけが天から降り注いでいるように聞こえていた。

(十)


 道路から御影石製の幅広い石段を数段上った所に村長屋敷の門がある。堂々たる構えをもつ瓦葺きの建物の前面には、白色の石灯籠が目立つ日本式の庭園が、狭いながらも豪勢な造りを表出していた。

 屋敷の横に並んで、蔵が三棟も建てられていて、この家に住む者たちが長年の間、村の権力と財力を握っていた事実について誰しもすぐに想像ができた。

 司馬が訪問した時、村長は役場からまだ戻ってきてはいなかったが、玄関先で応対した使用人に、村長と面会の約束時間を取り付けている旨を説明し、帰宅するまでの間、庭先で待たせてもらうこととした。

 黒色に塗られた木材と白壁の対比が屋敷全体を遠くからも目立たせ、一見重厚な城郭の様にも思わせる。門から眼下に臨む山の緑に抱かれた奥巻の集落は、とてもみじめなほど矮小に感じる印象を司馬はもった。

「司馬様、申し訳ございません、旦那様から急用ができて会えなくなったと連絡が入りまして……」

 先ほど応対に出た前掛け姿の中年女性が、サンダルの音をたてながら玄関からそう言って現れた。

「こちらも突然のことでしたからね、それ以外に村長は何か言っておられましたか」

「いえ、私どもには何も」

「お姉さんは、『マキクグリ』をご存じですか」

「これでもこの村の出ですから当然知っていますよ」

 司馬にお姉さんと言われた女性は少し照れながらも、そう答えた。

「村長の屋敷でしたら、さぞ立派な物もあるのでしょうね」

「どこかにはあるんだろうけども、私も見ていないし、屋敷の者は誰も使ってはいませんねぇ。あるとすれば、そこの蔵の中だけど、中は旦那様しか入ることはできません」

それ以上の『マキクグリ』についての話は彼女から出て来なかった。

「村長の奥方は何をされているのですか」

 使用人の女性は周囲を見回し、声を小さくした。

「当家の奥様はもう十年程前にお亡くなりになっております、当家は代々婿養子をとっておりまして、今の旦那様もご家来衆と言われている村の家から入っています」

「ご家来衆?」

「ええ、この奥巻は平家落人の言い伝えがありまして、奥巻家は元々、平姓でお殿様だったそうです、人目をはばかって、江戸時代の頃から今の奥巻姓を名乗っているそうですよ、で、そのご家来衆は使えた家来の末裔だそうです、今では十七件から四件に減ってしまいましたが、そのつながりは同じ村人の中でも特別な方たちです」

「そんなに力を持っているのですか」

「ええ、私にこの仕事を紹介して下さったのも、ご家来衆の梶原様です、今は役場の助役をしております」

「お姉さんの家もご家来衆とつながりが?」

「いえいえ、うちは全く、ただ、うちの亭主の姉の嫁ぎ先が梶原様の分家でした」

「それは、それは」

「ここの村民の誰かに対し、怨みをもっているなんていう話を耳にしたことはありますか」

「怨みなんてもたれるわけないでしょ、うちの村では私の知っている限り、盗み一つ起きたことはないくらいですよ」

「そうですか」

「まぁ、鬼が夜な夜な寝ない子をさらいに来る昔話くらいなもんですかねぇ、あぁ、それと……いえ何でもないです」

 女性は何か言いかけて止めた。

「何かありましたか」

「いえ、私の思い違いでした」

 引っかかるものを感じた司馬は何度も聞き出そうとしたが女性は話そうとせず、余計に態度を硬化させた。諦めた司馬は彼女と村長の家族構成について二、三の雑談をしてその場を辞去した。村長の奥巻家を中心とした親藩のような主従関係があるからこそ、長年の時にわたってこの僻村が閉鎖的なのだと、司馬は実感した。

 すぐその足で司馬は村役場へと向かったが、やはりそこでも村長と会うことは多用を理由にあっさりと断られた。

(奥巻署経由で直接時間をとってもらうしかないか……)

 その甘い願望も「独自による捜査活動は慎んでもらいたい」という奥巻署からの一本の電話連絡によって絶たれた。村長方から苦情が入ったのであろう。

 村社会の閉鎖性と地元に遠慮しなければならない組織体制が、司馬の捜査行動を大きく阻んでいる。彼の心中は歯がゆさでただただ一杯であった。








第二話「かくれ里」


(一)


「暑い……」

 どれだけ気を失っていたのだろうか。河原の大きな石を背に横たわる吉村の耳に瀬音、そして次第に蝉の騒々しい鳴き声が聞こえてきた。細く狭い岸辺にイタドリの大きな葉が重なりあうようにして強い陽光を浴びている。

「外に出られたのか……どうして……」

吉村は深山に囲まれた谷間にいる。身体の節々が痛んだが、青痣ができている程度で骨は折れてはいないようであった。

共に洞穴に潜った柴山署員と小田署員の姿は無かった。

 痛みのため少し震える指でヘルメットのあごひもを外しながら、吉村は大きく息をつき、自分の装備を確かめた。

 左手首の腕時計は洞穴内に入った頃の時刻で秒針が止まっていた。頼みの綱である胸ポケットの中に入っている携帯電話も電源が入らず、吉村は失意のまま同じところに戻した。腰のベルトに付いていたカラビナはそのままで、ザイルだけがその痕跡をきれいに消している。

 吉村は人のいる場所に一刻も早くたどり着きたいと考え、足の痛みをこらえながら河原沿いを下っていった。

「一体、どれだけ山奥なんだよ」

 吉村が愚痴をこぼしてしまうほど、緑の山は川沿いに続いている。

「おうぃ、そっちに逃げたぞ!」

「あっ、いたいた!」

 薄汚れた着物姿の少年たちが棒を手に、半分はだけたボロ布をひきずるようにして逃げる男児を追いかけている。

 吉村は山中でこのような子供たちに出会うとは思ってもいなかったが、本気になって男児を叩く少年たちを見て、すぐに止めに入った。

「君たち、やめなさい」

「わっ、何だぁ、変なの着てんぞ!山人だ!山人だ!」

「すぐ、ととに知らせぇ!」

 少年たちは、吉村の姿を一目見て非常に驚き、脱兎のごとく、その場から逃げ出した。彼らを追うこともなく、吉村は頭を抱えて丸まっている男児に声をかけた。

「大丈夫か?」

 男児の全身は垢で汚れていて、破れた着物の裾にはシラミが動いていた。そして大きい目で吉村を睨んでいる。

吉村が立たせてあげようと手を差し出すと、男児は座ったまま後ずさり、首をいやいやと横に振った。

「君はどこの町から来たんだい、というよりも、ここはどこか教えてくれないか?」

 男児は背を向け、一目散に河原から岸辺の藪の中に飛び込み姿を隠した。

「行っちまったか、おぅい、どうすりゃいいんだよ」

 再び、吉村は歩き出したが、少年たちがいるということは、人の住む地域が近いということでもある。吉村の心は急いた。

 二羽の野鳥が夏の青空を横切っていく。

 それから二十分もたたずに、川下から人の声が聞こえてきた。助けを求めようとした吉村は、見えてきた人々の姿に絶句した。

「映画の撮影……じゃなさそうだ」

 髷を結い、くすんだ着衣に身を包むクワや鎌を手に持った十人の男たちが、鬼のような形相で大声を上げながら、吉村の方に迫ってきていた。

「いたぞ、山人だ、たたき殺せ!」

「逃がしたら娘っ子やカカ喰われんぞ!」

「川上さ、のぼっていくぞ!」

 彼らの目に狂気が浮かんでいる。吉村は自分の目的を忘れ、彼らに捕縛されないよう上流へ逃げた。

(追われて逃げる……こんなこともあったような……)

 履き物の違いもあり、徐々に男たちとの距離がひらくと、吉村はさっきの男児のように藪に飛び込み身を潜めた。忘れていた足の痛みがまた戻ってきた。

「山に逃げ込んでいったか」

「見たこともねぇ、格好だったな」

「これだけ下りてきているんだったらオサに頼んで、また山狩りせねばなんねぇ」

「そうだ、前みたいに山人どもは全員殺さねばなんねぇ」

 昔、時代劇で見たままの農民姿の男たちが、息を切らしつつも自分の行方を捜していることに吉村は動転した。

(どうすりゃいいんだ……)

 困惑する吉村の背中にぽんと小石がぶつかった。吉村の振り向いた先に、先ほど助けた男児が樹の陰から顔をのぞかせた。男児は首を振って、こっちへ来いという仕草を吉村に見せた。

「わかった……」

 疑念を抱きたくても抱けず今は男児の言う通りにするしかない。そう考えた吉村は、男らに気付かれぬよう、静かに藪をこぎながら男児を先頭に吉村は山の斜面を登っていった。


(二)


 それほど急ではない尾根を二つ越えた大岩の下で、男児は山鳥の鳴き声のような指笛を吹いた。耳をすましていると、下り斜面のブナ林の向こうから同じような指笛の音が返ってきた。その返り音を確認した男児は、今までよりもさらに早足で道なき道を下っていく。

 笹藪が開けた先、山間の狭いくぼ地に、二十件ほどの竪穴式住居のような粗末な木屋がひしめき合うように軒を連ねている。

「ここは、君の村なのか……外国ってことはないだろうな」

村の入り口にはヤマブドウの蔓でしめられた木柱が建ち、基に碁石のような丸石が積まれていた。その問いに男児は答えず、吉村に指でここで待つような仕草をして、村の中に入っていった。人がいるような気配はしていたが、何か動く音さえもしない。不思議といえば、あれほどうるさかった蝉の鳴き声がこの山間の村では聞こえない。何もなかった青空に白い雲がいくつも浮かんでいた。清水の流れる音が聞こえてくる。

 背後でかさりと草のすれる音がした。

「誰だ?」

 吉村が振り向くと、自分に向かって棒を振り下ろす男の姿が見えた。その場で昏倒する吉村を見届けた半着姿の男が声を短く上げると、どこにそんなに隠れていたのかという程、藪の中から老若男女があらわれた。


 数日か数分か吉村にはどれだけ時が過ぎたのかわからない。目を開けると土を掘っただけの炉の炎が揺らいでいるのが見えた。動こうとすると吉村は後ろ手で縛られたまま転がっていることに気付いた。

 髷を結い土色の顔をした男ら四名を左右に従え、中心に変色した和装の白髪頭の老爺がいた。

「気が付いたか、我の問いに答えよ、答えたくなければ、このまま首を刎ねる」

「うっ……ちょっと待てよ、初対面にしちゃ礼儀の知らねぇ連中だな、お前らこそ何だ……あ、痛てて」

「お主はどこより参った」

 吉村は老人の質問を聞きながら、彼らの特徴を少しでも掴もうとした。

一人の男は疥癬のようなただれた箇所が顔一杯に広がっている。もう一人は、鼻骨が曲がり、少し横を向いていた。他の男たちも耳がなかったり、片目を負傷しているなど、大きな傷跡が目立つ。

「埼玉中央警察署、ああ、もう煮るなり焼くなり何とでもしてくれ」

「聞いたこともない地じゃ、それはみやこか、それとも陸奥か……」

「京都じゃねぇよ、埼玉だ、埼玉」

「なにゆえ、そのような物をまとっている」

「裸じゃ、捕まっちまうんだよ、俺の同僚に」

 男らは、顔を見合わせ、小声で何かを伝え合っている。

「お主の言は半ばもわからぬ、異国の者よ、何用でこの村に参った、我らを追うてきたのか」

「追うも何も、俺は連れてきてもらったんだよ、疑うんだったら、あの子供をここに連れてきてくれ」

「子供とは何ぞ」

「チャイルド、チルドレン、ガキんちょだ、馬鹿野郎が、いいから、この縄を解いてくれ、小便がしたくてたまらねぇよ」

 戸惑う男たちの言葉にかっかと頭に血がのぼってきた吉村であったが、老人の白髪を見て(いつも刑事は冷静であれ)と話す司馬の言葉を思い出した。

吉村が黙った時、入り口であろう所に垂れたムシロをめくり、別の老爺が杖をついて入って来た。

「捨の言ったことは真のようじゃ、この御仁の縄を解くべし」

「されど……」

「このように朽ちても、我らは侍ぞ、義の心に義をもって返さねばならぬ」

 時代劇のような彼らのやりとりに、吉村は頭を打ち過ぎて自分がおかしくなっているのではないかと思った。

 吉村の身の自由を奪っていた縄を解く間も、青年らはナタのような刃物を手から離していない。彼らのきつい体臭が鼻をついた。


(三)


 山の深さを感じさせる大木の多さに吉村は気付いた。

どの樹木も根回りが大人一人では抱え込めないような太さをしている。

 監視しておくように、大人に命じられたのであろう、ぼろぼろな着物を着た子供らが遠巻きに粗末な小屋の前に立つ吉村を目でさぐっていた。

 携帯電話をはじめ、道具類は着衣をのぞいて、全て盗られている吉村に解決策は見つからない。自分の疲れ切った顔を司馬が見たら何と言うだろう。そう思いながらも何もできない吉村であった。

 夕方になり、手に山鳥やイノシシを持つ男たちが次々に山から帰ってきた。皆、他の者から聞いているのか、吉村のいる場所から少し離れた所を目を合わせないように無言で通り過ぎていった。

「あ……う……」

 杖をついた老人と今日助けた男児が、二件先の小屋から出てきた。男児は吉村の顔を見ると嬉しそうに短く声をあげた。

「御仁、このすてを助けてくれたそうですな、見ての通り、こいつは口が聞けんやつでな、それが故、時が少々かかり申した」

 吉村へ話す老人の口調には、先のいぶかしげな様相が消えている。

「いいよ、そんなことは、爺さん、いつになったら帰してもらえるんですかね、それと俺から盗った物も返してもらいたい」

「全てシキ様にお伺い奉れねばわからぬ、それまでは、しきたりにより、この村にいていただくことになる、これより同道願おう」

「この村って……ちょっと待ってくれよ」

「ちょっととは……?」

「しばしか……いや、何でも良い、俺は警察署に戻らなければならないんだ」

 吉村が老人に詰め寄ろうとした時、家々から興奮した形相の男たちが刃物を手に姿を現した。

「保護観察継続中……って扱いか」

「お主のはやる気持ちもわからなくもない、許されよ、ここは、他に知られてはいけぬ地なのでな」

「知られてはいけない地?この日本で、そんな場所聞いたことないな」

 吉村は、両手を挙げて何も攻撃する意思がないようわざと周囲にアピールしながら、老人を見た。老人はその言葉に何も反応しない。吉村の頭に認めたくなかった一つの強い思いがわいた。

「爺さん……今、何年だ……いや何の年だ」

「災異改元されずば、安永十年の辛丑」

「誰がこの世を治めている……」

「仇敵源氏の末裔、徳川の御代である」

 老人の真剣な言葉に、吉村は腰が抜けるようにその場で膝をついた。

(俺、本当に生きているのかぁ……)

 吉村に動揺の暇を与えないように、男児は彼の背中をぐいぐいと押した。

「御仁、さぁシキ女様の所へ……」


 少し気落ちした吉村が連れてこられた場所は、村の中でも一番奥まった所にある簡素な社の前であった。

山の一部がえぐられたようになった崖を背後にする社の大きさは、三辺の長さが二メートルにも満たないような小さな社であったが、その下からは清水がさらさらと音をたて流れ出している。

 村に流れる小川の水は全てここから湧き出しているということに、吉村は気付いた。社の横には丁寧に作られた感のある木屋が寄り添うように建っている。

「ここにてしばし待たれよ」

 吉村は社の前で男児と待たされた。

「お前も俺、監視しているの?」

「あ……あ……う」

 男児は吉村の言葉を理解していなかったが、話しかけられたことに、嬉しそうな表情で答えた。

「お前、そんなかわいい笑顔できるのか、子供はふくれっつらより笑っている方が得なんだぞ」

「うう、ああ」

 男児は流れる水をさして、飲めというような仕草をした。吉村は言われるまま、両手を使って水をすくい上げ口に含ませた。

 冷たいながらも、豊かな水本来のもつ味わいが乾いたのどを潤わせた。

「うまいな、ここの水」

「うう、おお」

 男児がその反応を見て喜んでいる。

(この川、下っていきゃ、どっかの街につくかな、でも、ちょんまげ結った連中しかいなかったらまずいよな……)

 岩でできた河床を小さく飛沫を上げ流れ下る清水を見て、どうするあてもない吉村はぼんやりと考えた。

「御仁、こちらへ、捨よ、そこで待っておれ」

 木屋から出てきた老人が吉村に中に入るようすすめた。

 通された木屋の中は一つの大きなつづらの他に、何もない。また、三方の壁に窓もないので蝋燭の光だけが唯一の光源であった。

「そなたが、捨をお救い下さった迷い人か」

 徐々に暗さに目が慣れた吉村は声の主の姿に驚いた。

巫女装束を着た二十歳にも満たない女が、人形のように無表情のまま前に立つ吉村を見ている。化粧気は当然ないが、透き通るような白い肌と長い黒髪が彼女の美しさをより妖艶なものとしていた。

「御仁、答えよ」

 吉村の横でかしずく老人が、吉村に返答を促した。吉村は吸い込まれそうな瞳をもつその顔にどこか見覚えのある顔だと感じたが、名前はでてこない。

「あ、ああ……そうです、どうにか自分がいた所に戻りたいのですが」

「御仁、余計なことをシキ女様に語ってはならぬ」

 老人は強く、吉村の言動を押しとどめた。

「お主から、惹かれずの剛気を感じる」

「惹かれず?」

「悪霊を寄せ付けぬ力をもつ神代より伝わりし者、故にこの世へ地より湧いたのかもしれぬ、それは何かさだめありしことである、既に死の声を聞いたお主の生と行く末は天の導きにより決まる」

「それは帰ることができないということですか」

「お主が惹かれずとあらば、われにも決めかねる」

 私情が一切浮かばない顔のシキ女に似た女性を吉村は急に思い出した。

(平松主任……)

 平松には少しの時間しか会っていないので細部まで比較することはできないが、他人の顔を記憶することは司馬にいつもたたき込まれていることである。年は眼前の巫女の方が若いが、受ける印象は彼女そのものであった。

「シキ女様、ではこの御仁は村にいさせても……」

「それはこの者の心次第」

 いざ自分にその選択権を与えられるとこんなにも動揺してしまう自分に、吉村は腹立たしかった。

 答えを聞いてまもなく、老人に追い立てられるように吉村は社外へ出された。

アブラゼミからヒグラシに山の吟遊詩人は交代している。山間から見える紺色がかった狭い空に、宵の明星が光っていた。

ようやく老人が社から出てきた。

「御仁、いや惹かれずの君よ、この村に住むおつもりはないか」

「何だよ、いきなり、さっきまでの態度とはえらい違いだな」

 三人が社から帰るのを村の男たちは緊張した顔のまま戸外で待っていた。

(この村の秘密を聞いたら、選択する余地さえもなくなりそうだ)

神託の結果によって、男らの態度も急変するのであろうかと吉村は思った。


(四)


 あてがわれた狭い掘っ立て小屋のむしろの上で吉村はふて寝をしている。手の甲が蚤に喰われて赤く腫れていた。かゆみと暑苦しさで吉村は目を開けると、自分の背中辺りに違和感があった。

「ん?」

 吉村が月明かりを屋内に入れようとむしろをめくり上げると、自分の後ろに「捨」がすうすうと気持ちよさそうな寝息をたてていた。

「勘弁してほしいよな」

 老人からの命令を忠実に守っているこの男児を吉村は怒る気にもなれなかった。

 老人から吉村に魔除けの力があると聞いた村人は態度を一変させ、「病を治してほしい」とか「怪我の痛みをとってほしい」という、彼にとってはまるで無理な注文を哀れなくらい神妙な面持ちで訪れてきた。

 無理だと断っても、「触るだけでもいい」というように、赤子を押しつけてくる。しょうがなく吉村が撫でると、母親と父親は涙を流して感謝した。

(これって医療詐欺じゃないのか……)

 陽が落ちきるまで、老若男女がその御利益をさずかろうと、吉村の小屋の前に列をつくった。彼の家の前には干した川魚や干し肉、山菜などが山となって積まれた。

 それを物欲しそうにしている捨を見たので、吉村は「お前にやる」と手振りを加えて言った。捨は涙を流さんばかりに感激して、のどにつまらせるような勢いで、それらの食物を頬張っていた。

「この子の名は「捨」と申しまして、今夏、ととかかが里に行商で下った時の帰り、奥巻衆に殺されましてな、一人不憫な思いをしておったのじゃ、どうか御仁の下僕として奉公させてやってくれぬか」

 老人の言葉は吉村にとって重かったが、口にした中に気になる単語があった。

「今、奥巻って……」

「ここより二里ほど山向こうに流れてきた農民の体をしている国抜けの荒くれ者一族よ、御仁を追い立ててきたのもその輩だ、我らとて、山の中で手に入らぬ物がある、都参りと言って、山を下り、市で交換することもあったのじゃが、それをあ奴らは狙ったのよ、もう、春より十人は殺められておる、寿永の頃より続くこの村の地も秋風が吹く頃には捨てねばならぬと思っているところじゃ、我ら平家の末裔は末代までも流浪の民よ……ああ、情けなや」

 老人はおいおいと泣き出した。

「爺さん、泣くなよ」

 泣きたいのは俺の方だと吉村は言わなかった。

「爺さんさ、聞きたかったんだけど、あのシキ女様って何なんだ?」

「無礼な言葉は控えよ……あの御方は我ら一族の守り神じゃ、用無き時、気安く名を呼ぶと穢れるであろうが」

 彼女について尋ねた吉村に、老人は泣くのをやめ、強く叱責した。

「わかった、わかった、ところで、俺は爺さんの名前を聞いていなかったんだ」

「名前……我が名であるか、それは御仁が先に名乗るのが礼儀であろう」

「おおっと、それは失礼しました、姓は吉村、名は明、吉村明です」

「我が名は、遠く桓武帝に遡源し、高望王より出でたる伊勢平氏の流れを組む平教盛公が次男、平教経公の……」

 吉村は似たような名前の続く老人の話を、自分が先に切り出した手前、じっと我慢しながら聞いている。

「……の長子、平忠能たいらのただよしである」

「たいら……平氏?シキ女さんもその一族なんですか」

「軽々しく守り神の名を口にするなと言ったであろうが」

(守り神ねぇ……ただのちょっと美人顔の女なんだけどな)

 夕方の老人とやりとりした出来事を振り返る吉村は、小屋の前に座り、まだ夜空に浮かぶ満月を眺めている。

「ああ、うう」

 寝ていたはずの捨が、自分の後ろに心配顔で立っていた。

「おいおい驚かすな、逃げないよ、逃げたってまだどうにもならねぇってことはわかっているさ、それと頼むから寝小便だけはするなよ」

「おうおうおう」

新しい家族が出来たことを捨は心の底から喜んでいるように見える。

 トラツグミの口笛に似た寂しい鳴き声は、吉村の複雑な心境を代弁しているようであった。


(五)


 捨という男児は吉村によくなついていた。

子供らに追われた河原で出会った時の、殺気立つ野良犬のような表情がすっかりと消え、どこへ行くのにも嬉しそうに付いてきた。

村人たちへの治療のお礼は受け取らないことにしたため、今も食料を探すため、小さな沢伝いの河原道を二人で歩いている。

(詐欺まがいの行為はやっぱりできないよな……)

 一週間も経つと、吉村は彼らの話す昔言葉にも耳慣れ、もう村の一住人のように振る舞っていた。自分でも環境適応能力が高いことにあらためて驚いている。

(お前はどこででも寝ることの出来る男だな。長期間の張り込み向きだ)

 苦笑しながら珍しく自分をほめる司馬の顔をふと思い浮かべた。

(司馬さん……)

 彼らの日常生活は本当に質素であり、女たちは猫の額ほどの畑に豆を植え、男らは弓やナタを手に山へ狩りに出かけていく。子供らは季節の山菜や沢蟹を捕りに行くなど、病弱な者以外は皆、遊ぶ暇もない時を過ごしているようであった。

「捨、お前はどうして俺と会った時、あんな離れた川まで行っていたんだ?」

「うう、ちゃっ、ちゃん、さが……さが」

 捨は上手く話すことができないながらも身振りで、吉村に伝えようとしていた。

「とと、かかを探しに行ったのか、そして、奥巻衆の子供たちに見つかった……」

「ううぅ」

 捨は、そうだと大きく首を縦に何度も振った。捨の力強い目は両親の死を信じてはいないようであった。当然、村長の平忠能からは教え諭されているであろう。だが、その事実を受け止めたくない気持ちはよく理解できた。

「そうか、見つかるといいな」

「うう」

「おっ、そこの石の下に蟹がいたぞ!」

「うぉ」

食料を調達していたはずが、いつのまにか遊びはじめている吉村と捨はまるで年の離れた兄弟のようであった。

 岩でこすったのか捨の頬から血が流れ出ていた。

「おいおい、怪我してんぞ、まず水で洗え……布は、布は……いいや面倒くせぇ」

 吉村は自分の着物の袖を破き、沢に見ずに浸した布きれで捨の顔を拭いた。

「血は止まっているようだな」

 捨はふざけてその布を吉村からとると自分の顔に巻いた。

「ふざけんなよ」

 笑って逃げる捨を吉村は追った。

「うぅ、うぉ!」

 先を走る捨が、社の側の岩陰に来た時、急に腰を抜かして、吉村の腰に取りすがった。

「どうした!」

 吉村が身を隠しながら、岩の向こうに顔を出していくと、みそぎをしている一糸まとわぬ姿のシキ女がいた。濡れた黒髪と小ぶりの乳房に、真珠のような飛沫が散った。

「うぉっ!」

 吉村は顔を耳たぶまで真っ赤に染め、岩陰に大慌てで引き返した。

(ただの裸に何を反応しているんだ、俺は!)

 心の中で自制しているとはいえ、突然の予想していない光景に吉村の心臓の鼓動音は高まった。

「惹かれずの者、気にかけずともよい、捨と姿を見せよ」

「気にするなって言ってもなぁ」

 シキ女の命令に捨の反応は早い。すぐに岩陰から躍り出、河原に這いつくばるようにして伏した。吉村は頭を掻き掻き、視線を下に向けながらゆっくりとシキ女の前に進み出た。

「こっちへ来やれ」

 既に彼女は白い着物を羽織っていたが、濡れている濡れた布が彼女の柔肌に浮かぶ若草と櫻色の乳頭を輪郭あらわに透かしていた。

何とも例えようのない妖かしを帯びた艶気は動揺をおさえている吉村にとって、とても苦痛であった。

「惹かれずよ、この地にとどまることを迷うておるようじゃの」

 彼女の背は吉村よりもだいぶ低いが、そのつぶらな瞳から放たれる視線は見下ろされている感を人に与える。

「ま……まぁね、『惹かれず』ということについて、もっと俺は知りたい、そして、なぜ、俺はここにいるんだ」

「お主がここにいるのも天のさだめしこと、惹かれずは古より続きしもの」

 神がかった無表情のままシキ女は話を続けた。

「陽の力をもつ者は清浄さ故、黄泉よりその陽を頼りに漂い続けるヒトリムシのごとき陰を呼び込む、いわばお主が陰のものによって既に一度命を絶たれておるように」

「死んだ記憶なんてないけどな……」

 そう答えた吉村の脳裏に、死者の群れが押し寄せ、地面に倒れた自分の身体を引き裂いていく幻が浮かんだ。

「あるであろう、心閉ざさずともよい」

「なぜ、それがお前にはわかる」

「お主の顔は死相で成っておる」

「でも、こうやって生きているのはなぜだ」

「生きているとお思いか、であらばそれは何をもって言う」

 吉村は言葉に詰まった。

「惹かれずの力ある者は陰陽師に操られた式神によって守護されるとも聞く、お主の傍らにも気付かぬうちに控えておるはずじゃ」

「お前の正体は……」

「この谷の民を守りし御霊みたまの使いである、我の運命さだめは民と生を共し、民と滅すこと」

「うう……」

 吉村は河原のごつごつとした地面に額をすりつけて平伏したままの捨に気付いた。

「あっ、いけねぇ、こいつのこと忘れてたよ、すまん、こいつこのままの姿勢だとだいぶつらそうなんで、また今度話を聞かせてもらってもいいか」

「お主の望みとあらば、いつでも来るがよい」

 ようやくシキ女の美しい顔に人間らしい表情が浮かんだ。


(六)


 吉村や捨が食料探しの度に寄ることが多くなってから、シキ女の表情は暖かい春風によって溶けていくよう徐々に変容していた。

 はじめは平伏したままであった捨も、最近では山で採ってきた草花を渡したり、彼女の意味のわからない祝詞に興味深そうに耳を傾けたりと、本来子供が大人に見せる様子をあらわすようになってきた。

 村の者たちも薄々と吉村や捨の行動に気付いていたが、「惹かれずの者」という特別な力がる者として、その責を問うことは無かった。それはまた、吉村の明るい人柄とほんの少々の栄養学や治療をはじめとした医学による助言が村人の生活に大きく貢献していたからでもある。

「我もこの捨と同じようにととなし子よ、我のかかはこの村の者たちに拾われた」

 沢蟹を真剣に採っている捨を見ている吉村に、傍らにたたずむシキ女が話しを静かに切り出した。

「拾われた?」

「我の母は渡り巫女の一人で、様々な地を衆で渡り歩いておった……」

 渡り巫女とは、別名「歩き巫女」とも呼ばれ、特定の社を有せず、諸国を遍歴し、祈祷を行っていた者をさす言葉である。

「野盗の群れに襲われ、命からくも逃げ、山野を死人しびとの如く彷徨っていた時にこの村の平殿に拾われた、その時には我の母は身ごもっていた……そして生まれたのが我よ……平殿はそれを秘め事にし、村の者たちの心鎮める場として、母が天より舞い降りたと言い広め、この社を造り母を庇い住まわせた」

 吉村は黙って聞いている。

「母は亡くなるまで我に様々な祈祷を幼き頃より教えた……この村の人々の恩に報いよと、我の命は村に捧げよと……そうして我がいる……」

「でも、俺のことを『惹かれず』と言い、心の奥までを読むことができる……それはなぜなんだ」

「この山深き清浄の地で一人暮らしておると、霊や神の数多の声を感ずることができるようになる、それはさして珍しきことではない」

「俺でも見えるようになるのか?」

「既に惹かれずのお主は彼らの姿を見、彼らの言葉を聞いておる」

 捨が自分の採った沢蟹を高々と天に掲げ、自慢げに吉村とシキ女に見せた。

「この話、誰にも言うまいぞ……」

「あんたのそんな目で頼まれて断る奴なんていねぇよ」

「面白きことを言う」

 その時吉村に見せたシキ女の笑顔の美しさは、深山に咲く大輪の山百合の花そのものであった。


 吉村が捨と村に戻ってきた時、子供たちは吉村も聞き覚えのあるわらべ歌を歌いながら輪になって遊んでいた。

「ひぃらいた、ひいらいた……」

 子供の雀のような明るい声が、夕暮れの早い谷にこだましている。ヒグラシの鳴き声は聞こえなくなり、代わりに草場からキリギリスとコオロギが背中に付いた弦楽器の羽で夏を葬送する寂しい旋律を奏ではじめた。

 平和な子供たちの歌声とは真逆に、大人たちは杖をつく平忠能を中心にぐるりと集まり、真剣な表情で寄り合いを開いている。皆真剣そのものに話を聞いているので、吉村と捨が戻ってきたことを誰も気付くことはなかった。

「すると、奥巻衆は明日にでも攻めてくるというのか!」

「ああ、間違いねぇ、この耳で奴らが言っているのを聞いた、皆、刀をどっかから持ち出して、昼から宴を開いておった、いくさ前の祝いだと……」

 若い男は顔を青くしながら、自分の見てきたことを村人に繰り返し話している。

「忠能様、村を捨てるしかねぇ、もっと山奥に身を隠さにゃならん」

「我らはもとは武士ぞ、このような思いはもうたくさんじゃ、ここで戦わずしていかにするのだ、これ以上の山奥など獣の住めぬ岩山ばかりよ」

「一度じゃねぇ、たとえ討ち果たしても奴らは周りの野武士を雇って、また来るに決まっている、殺されちまうぞ」

「そうしたらまたあいまみえるだけよ!」

 村人の意見はこの二人の男を代表して二つに分かれた。

 忠能公は意見の出尽くしたところで、一度大きく天を仰いで決断した。

「おなご、わらし、老いた者はシキ女様のおられる厳島洞へ、傷を負うておる者たちもじゃ、残りし者は皆で奥巻衆との戦に臨まん、我ら平家一門追わるる積年の怨み今ここに果たそうぞ!」

 男たちからは大きな歓声があがった。最初は残された家族を気遣い反対していた者たちも、家族だけは逃す忠能公の英断に納得し、鬨の声をあげた。

 機敏に動き出した男たちに呼応して、女らは慌てることなく粛々と村から離れる準備を行いはじめた。このような日が必ず来ることを、昔より言い含められてきたのであろう。

 子供たちのわらべ歌はもう聞こえてこない。

「惹かれずの……いや、吉村殿、お主はお主の思いで動くがよい、この平家の村を出るのも、とどまるのもお主の勝手じゃ、今までのこと、かたじけのうござった」

 話を後ろで聞いていた吉村に忠能公は近付いてそう告げた。

「爺さん……じゃない、忠能さん、俺がそんなことできる訳ないじゃないの、もう、俺の帰るところはなさそうだしな」

 その言葉を聞いた忠能公は深い感謝の言葉と共に吉村へ頭を深く垂らした。

 吉村からシキ女の社に逃げるよう命令された捨は、その場で泣いてごねはじめた。

「泣くんじゃねぇよ、俺にもまだ意味がわかんないんだよ、何でここにいるのかって……とうとうわからなかった……でもよ、少しわかったことがあった……お前みたいな弱い連中を犯罪者から守らなきゃってな、それだけは時を越えても変わらないものだって、シキ女様や爺さん、婆さんを皆で守ってやれ、これは吉村公の命令である……ってな、小屋の中にある物は全部お前にやる、今までありがとよ」

 吉村は捨に短い別れを告げ、忠能公に武器となる物を借りに行った。彼から快く手渡された刃物は大きめのナタを軽く湾曲させた刃自体に厚みのある物であった。

「これは宋国より伝えきたる武具『マキクグリ』と言って、お主も村の者たちが手にしているのを幾度か目にしたことがあろう、清盛公以来、我が平家一門の命のような武具じゃ、これを手中におさめたということは我が一門に加わるという証である、それはもうお主の物じゃ、遠慮無く使うがよい」

 見た目は重そうであったが、実際に持ってみると、それほどでもなく吉村の手にとてもなじんだ。

「刀もある、好きな物を持って行かれるがよい」

 数本並んでいる中から吉村はそのうちのやや短めな刀を選択した。

柄糸の色はさめ、枯れた苔のようになっていたが、鞘から引き抜いた刃は今にも露がこぼれ落ちてきそうな高貴な輝きを見せた。

「爺さん、やっぱりあんたたちは本物の侍だよ」

「わかりきったことを申すな」


 沢の奥が女や子供らのあげる不安な声で満ちてきた。

 逃げてくる者に気付いたシキ女は、夜の祝詞を止め、清水が建物の下から湧き出る社の扉を開いた。鏡以外何も置かれていない社殿内の奥にもう一つの扉があった。

 シキ女がその扉を開くと、人が悠々と入れるほどの大きな洞穴が暗い世界をつくっていた。彼女は蝋燭に火をともし、逃げてくる者らを順に穴の中へ招き入れた。

 はじめは怖がっていた子供たちも鍾乳洞のつくる自然の造形美に泣くことをやめた。少し広がった所に大きな甕がいくつも並んでいる。

「お前たち、心配せずともよい、その甕の中には忠能公の遙か祖より、コメ、味噌、薪、たんと蓄えておる、戦が終わるまで、この穴で獣の如く息を潜めよ、いざとなった場合には家宝の刀も備えておる」

「怖いもん来るの?」

「次に来るのは福の神かも知れぬ、そう心配致すな」

 シキ女は幼き頃から教えられていたように、逃げてきた村人へ優しく伝えた。老人や女性はその場に座り、シキ女に両の手を合わせ、念仏を唱えた。

「我は下界にて、皆の者を守護いたさん、必ず良き時が来る、それまでしばしの間、辛抱するのじゃ」

 吉村と同じようにシキ女も自分の前からいなくなると察した捨は大声を上げて泣いて止めた。

「泣くではない、捨、この穴の平穏破りし者から、守るのはお主たち童の役じゃ、捨と惹かれずの君と過ごし時、それは我にとっても忘れがたきものじゃ」

 シキ女は最後に村人へ祝詞を上げ、穴の外へ出て行くと、すぐに扉を外し入れ替えた。外から入ってきた者は、誰が見てもその先に隠し扉があるとはわからない社の造りとなっている。さらにシキ女は寝居のある小屋から小さな神棚や掛け軸を運び入れた。全ての作業を終えた時にはもう真夜中であった。

村では、予想以上に奥巻衆の動きが早いことがわかった。

「申し上げます、奥巻衆は戦を未明よりはじめしつもりあり、して、金で雇い入れたる野武士の衆、あわせてその数二百」

 斥候より戻ってきた男が息も絶え絶えに忠能公へ伝えた。

妹尾せのおの兵は前山に、後山には忠恒の兵を備え、夜討ちで応じよ」

「えい!」

「おう!」

 閧の声が黒曜石のような山塊に沁みていく。

 奥巻衆の多勢に対し、こちらの人数はわずか三十一人である。戦にしてはあまりにも分の悪い類のものであった。


(七)


 日頃、山深き土地で生を営む平忠能公の率いた山人の動きはまさしく野猿であった。体力には自信のあった吉村でも、あっという間に彼らの一団から大きく引き離された。

 奥巻衆の先陣は、蔓に足をとられたり、苔むした石に足を滑らしながら、道なき藪を進むのに苦心していた。夜襲を計画したは良いが、かえって辺りを包む暗闇が彼らの侵略を阻むこととなっていた。また、金を目当てに集まった寄せ集めの者たちである。闇への恐怖心から鍋、釜で音を鳴らしながら移動しているため、自らの位置を相手に知らせる状態となっていることは、少数の平軍にとって好都合であった。

 山人たちは闇に紛れ、それらの者を一人一人巧妙に殺害していった。吉村がようやく後山に着いた時は既に野盗の者共の首と離れた胴体が笹藪の中、何体も草藪の中に転がっていた。

「惹かれず様はお手が穢れる、我らの戦を後ろでゆるりとご覧あれ」

 精悍なひげ面の男は、『マキクグリ』を持ったまま、その光景に目を見張っている吉村に声をかけた。

「頼む、俺も行かせてくれ、俺にも何かやらせてくれ」

 吉村も覚悟はできていた。人質が犯罪者の心に同調してしまうストックホルム症候群のような自己欺瞞的なものではない。守るべき者を守るという純粋な気持ちのあらわれであった。

「忠能公から、きつく我らも言いつけられておる、惹かれず様は、我らのためにもここにおわしていただき、夜明けと共にシキ女様の社までお一人下ってくだされ、そこで、我ら老父母や子らを末永くお見守り下さることお頼み申す、忠能公のお言葉しっかとお伝えしましたぞ」

 忠能は吉村を一族として認めていながらも、彼の手を血で染めさせないように一族の者たちへ密かに下知していた。あのまま、村にとどめおこうとしても吉村であれば、皆の面前で断る性格だと知っているうえでの配慮である。

「頼む、俺も!」

「我ら忠能公の命には逆らえぬ、そして、これは我らからの願いでもあるのだ。お許し下され」

 必死の思いで心情を訴える吉村に感謝しつつ、山人らはマキクグリを手に再び闇へと潜っていった。かたや奥巻衆は不慣れな地形の不利に気付き、先を争って山を逃げ下っていった。

「山人は少数ぞ!山人の鬼共を討ち果たすべし!」

醜い様相をした村長むらおさに檄を飛ばされた奥巻衆は、夜明けを待たず一斉攻撃を再度しかけてきた。闇の中では自由に動けた山人らも白々と明けはじめた地では、多勢に無勢である。時が過ぎていくと共に、一人、また一人と命を虫けらの如く奪われていった。

「惹かれず様、わが死に所が見つかり申した、わがいもの病、治していただいたご恩、一生忘れませぬぞ、シキ女様や妹をお頼み申した、ではこれにて」

「お……おい」

 最後まで吉村の側で彼を押しとどめていた青年も吉村に礼の口上を一通り述べ、奥巻衆のざわめきのする方向の藪へ姿を消していった。

「もう、我慢なんてできねぇ!」

 増えていく奥巻衆のざわめきも次第に山裾を周り、忠能のこもる村の方へと流れていく。

「畜生!村に入られちまう!」

吉村は、シキ女の社には向かわず村へと直接走り下りていった。

 吉村が村に入ったと同時に沢の下流から、刀や槍をもった男共が鬼のような形相で大挙して押し寄せてくる。吉村には夢で見ていた自分のことを喰い殺しに来る死鬼の群れのように感じた。

(夢……)

 櫻の樹にお札を貼ろうとする一人の少女を守っていたあの時の自分。

(いや……あれは多分現実だったんだな……)

 ただ一人、村の入り口で床几に座り、古びた甲冑に身を包んだ忠能は、吉村がまた自分の目の前に姿を見せたことをたいへん驚いた。この老人も自分の命を村の運命と共に捧げるつもりであったのだろう。

「吉村殿……これは……」

「爺さん、ありがとよ、でも余計な抜け駆けはいけないぜ、覚悟決めたら一緒にやらなきゃな」

 吉村はそう言って、男泣きに泣く忠能の前に彼を背中でかばうように立った。

「これを捨てたら負けるって言うけど、やっぱ邪魔だよな」

 刀を抜いた鞘を吉村は地面に投げ捨てた。

 がむしゃらに突っ込んでくる先駆けの男をいなし、吉村は日本刀を彼の背中に振り下ろした。男はうめいて地面に勢いをつけたまま転がった。

「峰打ちでござる……って、言ってみたかったんだが、手元狂ったら切っちまうわな」

「お見事!」

 忠能は扇を上げて快哉の声を上げた。

「なっ、爺さん、逃げ場の無くなった鼠は怖いってことをこの馬鹿共に教えてやらねぇとな」

 それでも男共はじりじりと吉村らをかこむ輪を詰めていく。吉村の構える刀は朝日の光を浴びてきらめきを増していく。

 斬りかかってくる二人目の男を吉村は落ち着いてかわし、振り返りざま後頭部を叩いた。悲鳴を上げて男は倒れ込んだ。取り囲む男共は、吉村に対する警戒の度をさらに高めた。

「面倒くせぇ警察の剣道練習も役に立つもんだ、ただ、もっとしっかりやってりゃ、良かったかもな」

 男はその場でもんどりうって昏倒した。

「いかん!」

 山から下ってきた奥巻衆の別働隊がシキ女の社のある上流へ上っていった。

「奥の社にゃ、女がいるぞぉい!」

「げっへへへ!」

「お宝!お宝は向こうじゃあ!」

事前に相手の斥候も小ぎれいな社に目を付けていたのであろう、獣のように奇声を上げながら男が駆けていった。

「吉村殿!すぐに行かれよ!」

「って言ってもよ!」

「我が身のことなど放っておけ!」

「ええい!」

 吉村は一点に突入し、野盗のつくる包囲の輪を切り崩しながら、シキ女の社に走った。彼の小さくなる姿を見届けた忠能は、刀を手に床几から立ち上がった。

「我らの静寂を妨げおった罪、許しまじ!」

「爺ぃがぁ!」

 老人だと舐めて飛びかかった若い男を忠能は一刀のもとに切り捨てた。男らは少しひるんだものの、後から横の山より駆け下りてきた増援の姿を見て余計増長をはじめた。そのうちの何人かは矢をつがえ、雨のように忠能に射かけてきた。そのうちの一本は鎧を貫き彼の左胸を貫いた。

「殺せ!」

よろめき膝をつく忠能の身体は、野盗の男共によって無数の刀を突き立てられた。

「無念……無念なり……我、祟り神となり……百の怨みで貴様らの一族郎党根絶やしにしてくれようぞ」

 口から泡となった血とうらみの言葉を吐きながら忠能公は地に伏した。狂喜する集団は先を争って、彼の耳や鼻をそぎ落としていった。


「な、何だあの女は……」

 飢えた奥巻衆の者たちは、社の前の地で正座し、静かに自分たちを見据える巫女装束のシキ女の姿に驚いた。普通であれば泣き叫ぶ女たちを手当たり次第に陵辱し殺害していく鬼のような者であったが、シキ女の美しさと偉容には誰もが息を呑んだ。

 緑深い山の中だからこそ、白く光る衣装に包まれたシキ女は、白面金毛九尾の狐が化けた玉藻の前のように奥巻衆の男には見えていた。

「首ばとってしまうか……」

「待て……村長むらおさが来るまで手をつけるな……」

 全く動じていない彼女の様子が、男らをより警戒させた。

「シキ女ぇぇ!」

 シキ女の目に吉村が刀を両手で持って河原の石に蹴つまずきながら、走って来る姿が飛び込んできた。

「あの者、逃げずにおったのか……おろかな……」

 今まで無表情な顔であった彼女の目から涙がひとしずくこぼれ落ちた。

「てめぇらぁ、シキ女に指一本触れたらただじゃおかねぇぞ!この野郎!」

 吉村がたった一人で、奥巻衆や野盗の群れに飛び込んでいく。

振り上げた刀で男らを切ろうとした吉村であったが、刀身の重みでただ空を切っただけで、河原の石へ鈍い金属音をあげながら当たった。

「ちっ!」

 背中から飛び込んできた男の気配に気付いた吉村は、腰を落としながら右足を出し、相手を地面に転ばせた。

「次、近付く者は殺すからな!」

 目に怒りの色を表す吉村は刀を大きく構え直したが、次々と繰り出される男たちの刀撃に腕や足を深い傷を負っていった。

 血は傷から流れ出しているが不思議に痛みはあまり感じなかった。

「おおっ!」

 戦いのさなか、奥巻の男らは空を見て奇声をあげた。

 もう村が焼かれていることは明白であった。黒々とした煙が美しすぎるほどの青空に幾筋もたちのぼっていた。遠くから勝ち鬨の声も清かな風にのって聞こえてくる。

 他の仲間がこの場所に追ってたどり着くことも時間の問題であった。

 吉村が刀を目一杯振り回し、油断している男らのつくる身体の壁を破り抜けようとしたその時、突然地鳴りと山鳴りが起きた。

「何だ……」

 地面が立っていられない程の揺れがこの地を襲った。

 吉村はよろよろ歩きながら正座するシキ女の前にようやくたどり着いた。

「早く逃げろ……」

そう言って吉村はその場で膝を崩した。血が大量に流れ出しているため、吉村の意識は薄く遠くなっていく。

「このような我のために……」

 シキ女は倒れた彼の頭を自分の膝にのせ、愛おしそうに頬をなでた。気丈な顔がこの時ばかりは普通の女の泣き顔に変わっていた。

「はは……お前も泣くんだな……でも、俺は死なない……絶対に……だって惹かれずって奴なんだろ」

「惹かれずの君……もう……十分じゃ……現世に戻りや」

 力無く微笑む吉村の身体が透明になり消えていく。

その時をずっと待っていたかのように、轟音と共に大きな山崩れが起きた。一人涙を流すシキ女の後ろで崖の上の大岩や大量の土砂が、社を飲み込んでいった。


(八)


「霊魂は常世とこよから戻ったようだな」

「うん、ちょっとした傷なら治せたけど、血が随分減っている、そんなに怪我もしてないのに」

「魂と現世の身体はつながっているゆえ、この者の念がそうさせている」

 暗い洞内の中、ほとんど原形をとどめていない石仏の前に、不明時のままの衣服を着た吉村が倒れている。その傍らで彼を見下ろすように小次郎といかるが立っていた。既に二人の格好は狩衣と巫女装束に変わっている。

「小次郎、他にもいそう?」

「いや、時の狭間に落ちた者はこの惹かれずの男だけのようだ、後は既に命を闇に捧げられている」

「ふぅん」

 小次郎の立つ位置の周囲ははじめ、大量の水で囲まれていたが、段々と潮がひいていくように少なくなっていった。

「水がひいていくよ、海につながってもいないのにどうして……」

「水脈がここより一里先の堰き止めの湖水へと達している、本来、泉に湧き出すべき水が封じ込められていただけのこと、この者の魂と身体のあり様によく似ている」

「ふぅん、小次郎なら何でも知ってるんだねぇ」

 水がなくなっていく不思議な光景をいかるはしゃがんで見ていた。

「来たぞ……」

小次郎は暗い洞内に今まで止まっていた空気が対流をはじめたのを感じた。

「えっ?」

 小次郎の声を聞き、いかるが自分の足下を見ると、細く白い手が地面から伸びて今にも足首に掴みかかろうとしていた。

「きゃっ!」

 いかるは驚きの声を上げて空に飛んだ。掴み損ねた手は五指をくねくねとみみずのように動かしていたが、変色をはじめ、地から突き出た一本の石筍と化した。

「小次郎、こんなとこ早く出ようよ」

「うむ」

 小次郎は吉村の身体を抱え、闇の中に消えた。



「地底湖の水がひきました!」

 洞穴内で捜査中の署員からの一報は平松主任を心から驚かせた。レスキュー隊の面々は、捜索場所にいつ浸水してきてももいいように潜水装備を調え、穴の奥へと慎重に下っていった。

五分とせず、地上の仮本部のテントに彼らを喜ばせる朗報が届いた。

普段ポーカーフェイスの司馬もその内容の電話連絡が入った時は、思わず笑みをこぼした程であった。

吉村が命に別状無く洞穴内で発見されたことは、悲惨な事件の起きたほんの一時の間、現場の者たたちを喜ばせた。


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