第二の言
◆ 登 場 人 物 ◆
吉村 明 埼玉県警捜査一課の青年刑事
司馬 良次 埼玉県警捜査一課のベテラン老刑事
鵠 小次郎 識神の社の禰宜
鵠 いかる 小次郎の妹 風太のことを気にかけている
雪代 風太 中学一年生の少年
川辺なずな 風太の同級生
平松 雅子 奥巻署の女性主任警部補
柳田課長 司馬、吉村の上司
奥巻 権平 奥巻村 村長
(三)
なぜ、こんな暑い日にこんな問題を解かなければならないのかと、中学生の雪代風太は宿題で出された数学のテキストを前に苦しんでいる。
風太の部屋にはクーラーなどという文明の利器はなく、小さな扇風機が羽を回しているが、かえってそのおくられてくる熱風は止めどのない汗を呼んだ。
「あぁ、だめだ、頭に入らない」
「そんなの本人のやる気だよ、やる気」
勉強机でのびている風太の後ろのベッド上で、涼しい顔をしながら寝転んで漫画を読む、おかっぱ頭の少女がいた。
「いかる、お前こそ勉強しないでいいのかよ」
「平気、平気、そんなの簡単だし、すぐ終わるもん」
「だから、小学生は楽だよな」
社会人の兄と二人暮らしをしている『いかる』という名のこの少女は、近所の祖母宅の隣家に住む小学五年生で、この春に遠くの街から引っ越してきて以来の仲である。
両親のいない寂しさも手伝ってか、いつも風太宅に遊びに来ては、まるで昔から知り合いだったかのように漫画を読んだり、お菓子を食べながら自由気ままにくつろいでいた。
また、そんな明るい性格のいかるを風太の両親も優しい目で見守っている。
「暑くて難しすぎてわからない」
「そんなのなずなに聞いてみればいいじゃない。今日、なずな一日家にいるって言っていたし」
『なずな』は風太の同級生で、しっかり者で真面目な俗に言う優等生タイプの少女である。小学校の頃までは、よく一緒に遊んでいたのだが、中学校に入ると段々と会う機会が少なくなっていた。というよりも風太の方から何となく避けている。
「いいよ、別に……」
「なずな言っていたよ、この頃、風太が話してくれないって、何か気にしていることでもあるの?」
「お前に関係ないよ」
風太は、なずなのことを嫌いになっている訳ではなく、むしろいつも心のどこかで気にしていると言っても良い。ただ、それを言葉や態度に小学生だった頃みたいにうまくは表現できない自分がいた。
「思っていることがあったら正直に言えばいいのに」
むすっとした表情のまま風太は、強い夏の日差しで光る窓の外を見ていた。今まで気にしていなかったアブラゼミの鳴き声の輪郭がはっきりとしてくる。
「あれ、風太、怒ってる?ごめん、正直に言えたら誰も悩まないよね」
「別に怒ってなんかいないよ、俺、テレビ見てくる」
「それなら私も行く」
風太が椅子から立って隣の部屋に行くと、いかるも読んでいた漫画を本棚に戻し、子犬が跳ねるように彼の後を追った。
居間にあるテレビの画面に始めに映し出されたのは、県境の工事現場で作業員が行方不明になっている事故を報じているものであった。
「風太、ここどこ?」
「夕方とか朝に、西の方に山が見えるだろ、あっちの方」
「遠いとこだね」
「うん」
事故の詳細を伝えるレポーターが立つ位置からもっと奥まった場所に、ブルーシートで覆われた現場が見える。
「へぇ、こんな所に鍾乳洞があったんだ」
「鍾乳洞って?」
「地中にできている洞窟、自然にできた地下鉄のようなトンネルだよ」
風太は興味深そうに画面に釘付けになりながら、いかるの質問に答えた。
「地下のトンネル……気持ち悪いね……」
「ううん、本に載っていた写真でしか見たことないけど、きらきらしていて、とってもきれいなんだぜ」
「随分、見に来ているお年寄りの人がいるんだね、あっ、お姉さんに近付いている人がいるよ、お姉さん、気持ち悪くないのかな。」
「えっ?どこに?」
女性レポーターとその後ろに米粒のような姿に映る警察関係者しか風太には見えていない。
「あっ、ただの木だった……」
「いかるは慌て者だなぁ」
いかるは、その場をごまかしたが、彼女の目には、まだレポーターの身体に取り付くようにしがみつく老爺と老婆の姿が見えていた。
風太は初めこそ笑っていたが、そのうち瞬きを繰り返し、目をこすった。
「あれ、誰かいるように見える?」
透き通った複数の老人がレポーターの身体を揉みまさぐっているように見えたが、レポーターは気にもとめていない。
番組は現地からの中継が終わり、次の政治、経済を伝えるニュースへと切り替わった。
「いかる、俺にも何かそういう風に見えた、何か他の映像がかぶったんじゃないか?」
「そうなんだ」
明るく納得したように振る舞ういかるではあったが、目だけは暗く沈んでいた。
(闇……再び来たれり……)
風太はさほど気にしていないようであったが、いかるの心の中は、渦巻く黒い雷雲のように乱れている。
(四)
野鳥が、葉の生い茂った木々の枝から枝に飛び移り、羽虫や太い毛虫をついばんでいる。普段はこのようなのどかな山奥なのだろう。
しかし、今は違っていた。
洞穴のそばに作られた現地本部のテント内は、縦穴内で待機している署員の報告により、一気にざわついた。
「もう一度、お願い」
平松主任の整った顔が緊張で固まり、表情の険しさが一段と増した。
「小田からの定時報告が上がってきません、何か物証を発見したとの報告が最後です、通信ケーブルが途中で切断されているようです」
二次遭難に陥る可能性が高いことを確信した現場の署員らの動きは、堰を切って流れ出た水のような慌ただしさとなった。
吉村に限って、死ぬようなことはない。今は全く保証のない自分の思い込みを信じるしかなかった司馬だが、平松主任からの報告を聞きながら、洞穴内で発見された物証のことがとても気になった。
司馬はテントから洞穴の縁まで延びている同型のケーブルを手で触り、短時間で切断するにはそれに対応するだけの鋭利な刃物が必要であると思った。岩の角で切れたものか誰の手による仕業か、自分が現場責任者であれば、すぐに穴の中に飛び込んでいきたかったが、そのようなことは今の状況下では不可能である。
「レスキューにも、早くこの状況を伝えてあげて」
平松は神経質そうな上司に叱責されながらも、署員に指示を与えている。
要請を受けていた消防署レスキュー隊の一行が、予定よりもだいぶ遅れてようやく現地に到着した。
「やけにここの消防の動きは遅いな」
「はい、専門装備の関係に手間取っていたそうです、ただ……救助にかかる指示がなかなか上から下りてこないという署員の噂も耳にしています」
司馬のつぶやきにも平松はしっかりとした口調で返答した。
大岩を除去するまでは手をこまねいているしかなく、また、洞窟内の救助作業となるとそれ相応の準備が必要である。そうは思いながらも司馬はどうも腑に落ちていない。
「司馬刑事」
平松の呼ぶ声で振り向く司馬の前に、作業服姿の中年の男がそわそわと落ち着きなく立っていた。
「この工事会社の部長です、さっきお渡しした書類の内容以外で何かお聞きしたいことがありましたらと思って、すいませんが、私はレスキュー隊との打ち合わせの為、この場を少しだけ離れます」
平松に紹介された男は、疲れと緊張のために目を見開き表情を強ばらせている。
儀礼的な紹介をし合った司馬は、今回の事故にかかわるいくつかの状況について質問をした。
「事前の地質調査での報告書には、こういった洞穴について把握していなかったと聞いていますが、その調査が行われたのは何年頃のことですか」
部長は事前に用意されていた手持ちの書類をめくりながら、あたりさわりのない返答を行った。
土木事業では、測量をはじめ、地質その他の調査を長期に渡って行うが、今回の工事については事業予算がつかない年が長く続いたため、作業の開始時期と調査の時期にだいぶ開きがあった。そのことについて追求する司馬の質問に、工事会社の部長は困惑した表情のまま黙る時間が長くなった。
彼の背後に、重機に削られた表土の端に根を半分あらわにしたまま、のあざみの花がうつむくようにしなびているのが見えた。
積乱雲がわき、炎天が少し和らいだもののテント内の空気はよどんだままでいる。
洞穴奥に進んだレスキュー隊の報告を聞き、全ての警察署員や関係者の目は憤りに満ちた。
それは三人の警察署員の行方不明を告げる内容であった。太いザイルは途中で切断され、洞穴の先は澄んだ水をたたえた地底湖で終わっていた。
「そんなことある訳ないでしょ、周辺をもっとよく捜索してほしいって連絡を入れて」
呆気にとられて立ち尽くしている上司とは対照的に、平松は困惑している部下に命じた後、険しい表情のまま司馬に状況の説明を行った。
「既にお聞きしているとおりです、洞穴内の吉村刑事及び本署員、三名の行方がいまだつかめません」
「現場の状況は」
「一本道の先が地底湖で行き止まりになっているとのことです」
「地底湖の周囲の地形は」
「足場も平らで、足を滑らすような可能性も低いとの連絡が入っているだけです、それと……通信ケーブルと同様にザイルも何かによって鋭利状なもので切断されているのが確認されています」
この状況下で素人の自分が入ることは迷惑をかけることになると分かっていても、司馬は一刻も早く自分が穴に潜って検証したかった。
「ザイルの残った長さの検証と地底湖までの距離の比較を急がせた方がいい、もし、犯人の協力者がこの中にいるとしたら、かく乱目的でそこに手を加えるはずだ」
司馬の短い言葉に、平松はすぐに反応し署員に命令を伝えた。
急に吹き始めた生温かい風が、テントの布を揺らす。関係者の切羽詰まった声の広がりとは逆にあれほど聞こえていた蝉の声が聞こえなくなった。司馬がテントに出て足を止めると、山塊の上の黒く変色した積乱雲と雷鳴が雨の来襲を告げていた。
それから三十分後、滝のような豪雨が現場に降り注いだ。洞穴内に流れ込む雨水を警戒し、洞穴内のレスキュー隊員は全て地上に戻ってきている。
「これが例の地底湖です、水深はわかりませんが、ライトの光はそうとう奥まで到達しています」
洞穴内の様子の写した画像が、急遽設置された大型モニターに映し出されている、そのな画面を見ようと関係者らが狭いテント内に集まっていた。
レスキュー隊員の説明によって、現場の様子が次々と明らかになっていった。
撮影順に映し出されていく画像の途中で、突然見ている者たちからどよめきが起こった。
「こいつらは誰なんだ?」
署員の質問に撮影した当人のレスキュー隊員自身も声がつまった。
「いえ、このような者は洞穴内では見ていません」
全体が赤色がかりゆがんでいた一枚の画像に、腰の曲がった数人の老人の後ろ姿が地底湖の水面に立っているように写っていた。
「多分、光の加減でこう写ったんだろ、くだらない」
上司の一言で他の署員や隊員は一応納得した。
(例え光の加減でも調べるのが仕事だろうに)
司馬の現在の立場はあくまでも捜査の応援要員である。単独の行動はおさえられ、地元警察署の管轄下で物事を進めていかなければならない。
司馬はモニターから目を外し、豪雨にけぶる洞穴の入り口を黙って見、全身濡れながら漆黒の洞穴内でさまよう吉村の姿を想像した。
(あいつは絶対に死なない)
通り雨と予想していた人々の期待を裏切り、天気は一向に回復の兆しを見せてはいない。まるで、雨雲がこの地に呼ばれているように不安定な大気の流れが続いている。
(五)
風太の同級生である川辺なずなは、夏期講習からの帰り、少し遠回りになっても神社の階段下の道を歩くのが日課であった。車の往来が国道沿いより少ないこともあるが、階段を上って境内から眺める街の風景がとても気に入っていた。
特にこの場所は、地元の人の憩いの場所ともなっていて、夕方になると犬に散歩をさせる人や近所の老人らが互いに名前も知らないのだが、短い言葉で挨拶をかわしていく。なずなは転校してきてから間もなく、風太に教えられたこの神社にいる時間とそこに集う人々が好きであった。
そして、もう一つ誰にも言えない秘密があった。
境内の中心に『識神櫻』という県内でも有数の古木が、太く立派な枝を伸ばし、夕方のほんの少しだけ涼しさを伴った風に葉を揺らしている。
その古木の根の周囲を保護するための木柵の傍らに髪の長い神職姿の青年が立っていた。肩にかかる黒髪が葉の揺れとあわせて、優しく踊っている。
(樹老人のおっしゃる通り、再び闇の宴が西方の地でおこりました……これより鎮めに参ります)
なずなのいる場所から厳しく大樹を見つめる青年の眼差しは見えなかった。
「あ、いかるちゃんのお兄さん」
青年の後ろ姿を目にしたなずなは、すぐに近付いて頭を下げた。
「なずな君か、今日も塾の帰りか」
白い宮司の衣装と笑顔がこれほどまでに似合う人はいないと誰もが思う程、青年の姿は堂に入っていた。先代の宮司が体調を悪くして以来、この青年は乞われてこの識神の社で働いている。
「はい」
「勉学に励むその姿勢、うちのいかるや風太にも学ばせたいものだな」
「いかるちゃんは?」
「今日も風太の家で、本来の目的を忘れたままに、だらけた生活のまま時を過ごしている」
「本来の目的?」
不思議そうな顔をするなずなに、青年は柔らかい笑みをもって応えた。
「この世に生きる者たちを平安にすることだ」
優しく冗談ともとれる彼の言葉になずなも微笑んだ。
「でも、私はいかるちゃんがうらやましい、私なんかいつも勉強をしていて何でこんなことしているのかなぁって思っています、特に私は塾に行っているのも、自分で行きたいと思っている訳じゃなく……」
「それを生かすも殺すもなずな君、自分自身の心だ、そして、それはある意味、私たちにとっては羨ましいことだよ」
挨拶をしながら通り過ぎていく人々に礼を返しながら、青年はゆっくりと「識神櫻」から離れた。
青年の動作一つとっても映画やドラマで目にした平安貴族のように優雅であった。なずなは彼に羨望の眼差しをおくった。
「いかるちゃんのお兄さん……じゃなかった、小次郎さん、また、明日も寄っていいですか」
「それは、自身が決めればいいこと、ただし、子供は陽が落ちる前には家に戻れ、逢う魔が時という言葉が昔からある」
小次郎はなずなに一礼をし、社務所の方に歩いていく。
「私、子供じゃありません」
なずなは少し頬を赤くしてそう言いながら小次郎の後ろ姿を目で追った。
「そうやって、子は誰もが言う、今が一番人生で美しく輝いていることも知らずにな、私といかるは今宵から他所での用事のため、ここをしばらく留守にする」
(どこに行くのですか?)
とは聞けない、なずなの時間は今日もあっという間に過ぎていった。この辺りでは耳にすることの少なくなったヒグラシのもの悲しげな声が境内に響いた。
「小次郎、なずなは小次郎のことをどう思っているか知っている?」
小次郎が社務所に入ると同時に扉の影に立っているいかるが、腹立たしそうに強い口調でなじった。
「それにだらけた生活?私は風太を見守ってあげているの!」
「ものは言いようだ、私はなずなが何を思っているかなど、考えたこともない、彼女には彼女なりの思いがあるのだろう」
小次郎はいかるの小言を聞きながら、玄関前の土埃をほうきで掃き清めている。
「にぶい……にぶすぎるよ、なずなはね、小次郎のことが絶対に好きなんだよ、それを多分風太も薄々気が付いているんじゃないかな、だから風太も機嫌が悪いんだ」
「私には全く興味のないことだ、ましてや子供の戯れ言、いかる、そこにいると邪魔だ、掃き清めた後のハレの気が社殿に入らぬ、もう少し横に寄れ」
「んもう!馬鹿小次郎!」
「お前が私に言いたかったのは違うことであろう」
そう言われていかるは、はっと気付き、風太の家で見たことを身振りを交え早口で話した。
「識神の大樹も我に告げてくれた……黄泉の地より再び禍津日神の子が目覚めんとしていると、今宵出立する」
「えぇっ!何も準備できていないよ、お泊まりセットも何も用意していない」
「人間の暮らしに慣れるのも良いが……」
「はいはい、わかっていますよ、言ってみただけ、風太はどうするの?」
「風太の心の中の存在も薄々気付いているはずだ、この邪悪な気の流れを……凶神の奴には奴のやり方がある」
「風太……また、暗い世界に行くんだね」
「それが彼の者の運命よ」
社務所の奥から、年老いた宮司がゆっくりと廊下を進む足音が聞こえてきた。
「おお、いかるちゃんも来て、にぎやかで明るきことじゃの、神様も喜んでいるであろう」
「こんばんは、宮司様、お身体の具合はいかがですか」
「ああ、おかげさまで、毎日暑いが随分と良くなったよ、いかるちゃんも、暑気に気を付けなさいな」
「はい」
いかるの挨拶に宮司は目を細めた。宮司をはじめとして、この社に務めていた者は昨春から身体をどこかしら病んでいた。
あまりにも強い毒気がこの社全体を包んでしまっていたからであった。ただ、その毒気も小次郎の念により清められてきている。
「申し訳ありませんが、用事のため、今晩から暇をいただけませんでしょうか」
小次郎の急な申し出に、宮司ははじめ驚いたもののすぐに了承した。
「鵠さんの申し出なら、断ることなどできないよ、ただ、ずっとということはないだろう?」
「いえ、必ず数日のうちに戻って参ります」
宮司の不安げな表情は小次郎の否定により和らいだ。
「おかしなものでな、鵠さんにこの仕事をお願いした時から、ここの空気が変わったような気がするのです……それに、時々、鵠さんが消えてしまうような夢をしばしば見ることがあってな」
「宮司様、気のせい、気のせい!ちょっと旅行に連れてってもらおうと、お兄ちゃんにお願いしたんです、せっかくの夏休みだからどこかに連れてってほしいって、前から言っていたんです」
いかるの機転を利かせた言葉に、宮司も自分の取り越し苦労な思いを笑った。
「そうか、そうか、年をとるとつい余計な思いをはせてしまって、恥ずかしいやら、気を付けて行ってきなさい、ああ、もうここはいいですよ、鵠さん、早く行っておあげなさい」
「ありがとうございます」
小次郎といかるは、頭を下げ、社務所を後にした。
「宮司様におみやげ買ってこないとね、ねっ、お兄ちゃん」
茶目っ気のあるいかるの言葉に小次郎は苦虫ばしったまま軽く頷いた。
(六)
一人自分の部屋の布団の中で風太はとてもうなされていた。
神社の枯れた櫻の大樹の下で、目がなく、口があけびのように割れた幼子を短刀で斬り殺している夢を見ている。普段は虫を殺すことも苦手な自分が、両手を赤い血に染めながら、次から次へと地面から湧き、襲いくる奇怪な幼子を楽しそうに切り裂いている。そして、自分の周囲を風のように飛び回る動物を自在に操りながら、小さな身体を音もなく両断した。
枯れた大樹の幹にどこかで見たことのある青年と小学生の頃のなずなが血と傷だらけになって取りすがっているのが見えていた。
「天空よ」
自分を上から押さえつけるような強い声が、血の臭いでむせかえる境内に大鐘の音のようにこだまする。
風太が振り返ると、巫女姿のいかるが、何かを背中で守るよう両手を広げたまま泣いている。その悲痛な姿を全く気にもせず、風太は笑ったまま自分の手にした刃を彼女の胸に突きたてた。
夢から覚めるのは、いつもこの時であった。
「うわっ!」
寝汗で顔を濡らした風太は声を上げて、布団から上半身をはね起こした。
(夢……)
この悪夢は最近連日続いていた。いつも同じ場所で、同じ展開、聞こえてくる声も全くかわることはなかった。
はじめのうちは、その大きな声に驚いて母親が様子を見に来たが、何日も繰り返されるようになってからは、あまり来ることはなくなった。
両親からは、一度医者に診察してもらえとすすめられたが、風太は断っている。悪夢ははっきりしているから、心配してまた同じ夢を見てしまうんだと、自分自身の不安な気持ちを無理矢理ごまかしていたからであった。
「夢ではないよ……」
暗い部屋の本箱の前で、片膝を抱えて座っている半透明の自分がそこにいた。風太はぎくりとして、息を飲み込んだ。
「誰?」
「雪代風太……つまり僕……おかえり、僕が僕の姿に気が付いてくれることをずっと待っていたんだ」
風太はまだ夢の中にいる感覚であった。自分とうり二つの少年の声は心の中に直接響いてくるように聞こえた。
「雪代風太は僕だ……」
少年はそういって否定する風太に膝をとき、両手を突いて静かに歩み寄った。
「ここは僕の家であって、僕の家ではない、だって、僕はもうこの世にいないはずだったから、ここは再生された世界、そして僕はつくられた自分」
「何?何のことを言っているんだよ!」
「時がいじられ、また闇が訪れる……それも深い怨みでできた闇が……僕の幸せな時間は続かない、僕は人の幸せを守らなくてはいけないから、それが我が主との約束、でも、自分の幸せならまた新しくつくればいい……争いの後に……」
「何を言っているんだ、深い闇って……」
「僕が生まれたところ……そしていつか僕が還るところ、思い出して……」
「思い出すって……何を……」
「決まっているだろ」
風太は顔を近付けながら話す少年の言葉が、まるで自分が話しているかのように錯覚した。
「僕の……いや俺の『天空』としての運命を」
少年の唇と風太の唇が重なるようにして、二人の身体は一つに融けていった。
(七)
野外テントに十数名の署員を残し、各機関の主立った者は村役場の一室で、これからの特別捜索活動をどう進めていくかについての議論が続いていた。
村役場はこのような小さな村に不似合いなほど鉄筋コンクリート四階建ての公民館を併設した立派な建物であった。
広いロビーに設置されたテレビから、公共放送の番組が小さい音量のまま流され続けている。演歌を朗々と歌う女性歌手のコンサート中継が終わり、ニュースや天気予報が始まると地元の住人や幾人かの関係者が集まり、今、この村でおこっている遭難事故の内容について、見入った。
外様の司馬には声がかかっていない。
玄関のすぐ外で、司馬は煙草に火を付けた。防犯灯の光に集まっている羽虫や蛾が、時折、プラスチック製のカバーにぶつかって乾いた音をたてている。
「ご苦労なことですな」
玄関から、出てきた一人の品のよさげな老翁が、宙を見つめ考えにふける司馬に話しかけてきた。
「あっ、今、お帰りですか」
司馬は、年のためにおとろえてきた感を心の中で反省しつつ、老人の言葉に話を合わせた。
「つい最近まで、こんなたまげたことがおこったことのない静かな村でしたから、あれだけの大きな鍾乳洞があったなんて、喜んで良いのやら、不明になった人には申し訳ないやらで」
「静かな村……確かにそうですね」
大きなあごをもったミヤマクワガタが羽音をたてながら、ぼとりと司馬の足下に落ちた。
「静かすぎて、とうとう残っているのはわしらみたいなジジババばかりです、限界集落と最近はそう言われているようですが」
司馬は最近の単語を口にする老人に、地元の署員に気を遣わずに、堂々と話を聞くことができる大きな機会が訪れたと思った。
「色々、お詳しそうですね、今の世相にもたいへん通じておられる」
「詳しいというほどでもないが、昔この地域で教員をしていました、たまたま私の実家がこの村だったので、定年で妻と帰って来てみたら、不便で不便でぇ、でも夜はご覧の通り静かな所です」
老人も話し相手がほしかったのか、事故のことはさておき、自分の生い立ちや離れた街に住む孫のこと、ついには医療対策や交通対策など、村を取り巻く政治にまで熱弁を奮った。
司馬は、長々と続く老人の話に相槌を打ちながら、気になる単語を頭に刻み込んでいった。
「私の印象ではそれほど古い村ではないと思っていたのですが……」
「古いも古いもんです、今でこそ通じていない山道は昔、京都の僧侶が東国に布教に来た時に、何遍も使われていたくらいにぎやかだったそうですが、北の県境に大きな街道が通ってからは、一気にさびれてしまったようですな、それでも関所が設けられなかったんで、関所抜けの裏街道としては使われていたみたいですけど、まぁ公然の秘密だったということですな」
「ほう、関所抜けですか」
「平家の落人伝説も残っているくらいですから」
老人は自村の歴史について誇らしげに語りを続けた。
「その辺についての話や、あと最近の村のことなんかについて、どこを調べたらわかりますかね」
「村の図書館に村史があると思いますが、もっと話が聞きたければ明日にでもうちに来れば良いです」
「それはたいへんありがたい」
司馬はズボンのポケットから取り出した名刺を老翁に差し出した。老人は名刺を受け取ると、自分の目にぎりぎりまで近付け、印刷されている文字を追った。
「あんた、刑事さんだったのか、私はてっきり道路会社の部長さんか何かと、刑事さんなら会議室でやっている寄り合いに出なくていいのかい」
「定員オーバーではじきだされたんでね、でも、よかった、会議よりもこういう貴重な話を聞くのが昔から好きな性分なもんで、厚かましいとは思いますが、ぜひお話を聞かせてください」
司馬は静かにそう言って、火の消えた煙草を携帯用の灰皿にねじこんだ。
定時連絡で今の状況を本署に報告し終えた司馬は、村人の集まりから少し離れ、喫煙所からテレビを観る村の青年会員という男に話を聞こうとした。
青年会員とは言いながらも、すでに齢は五十歳を越えている。さっきから、この男がぶつぶつとつぶやいているのを、司馬は聞き逃していなかった。
「たいへんな事故ですね」
「あんたのところも災難だな、これで工事はまた中断だろ」
男もさっきの老人のように司馬のことを警察関係者だと思っていないようである。
「中断か、どうかはまだはっきりしていないがね」
司馬が自分の煙草をすすめると、男は嬉しそうに一本もらいライターで火を付けた。
「結局、いつまでたってもこの道路はできねぇ、こんな風にどん詰まりな村なもんだから、人がいなくなっていくんだよ、これで、県からの命令で工事中断でもしてみろ、俺が生きているうちに道なんか通んねぇぞ」
白い煙を口と鼻から出しながら男はぼやき続けた。
「この道路だって、はじめから計画通りにまっすぐ造ればよかったんだよ、それを今の村長が余計なことをしたから」
「余計なことか……ああ、あのことだな」
自分の知らないことを、司馬はとぼけながら男から話を聞き出そうとしている。
「そうだよ、あんたんところも大変だったんだろ、計画が変わって」
「計画が変わった、そうだな」
「村長ん家の入っちゃいけない谷地まで無理矢理ひん曲げたから、こんなことになったんだ。あんたも実は聞いているんだろ」
「ただの藪原でも道がつくと結構な金がおちるからな、あの辺の山谷は全部村長の持ち物だったのか?」
「全てよ、山から谷から自分さえ金もってりゃいいって、昔から強欲な一族よ」
「入っちゃいけない谷地とは何のことだ、これは初耳だ」
「そりゃよ……おっ」
部屋から村の関係者が出てくると、男は急におし黙った。村長とそれを取り巻く人が側を通っていくと、男は立ち上がり、へらへらとした表情でおべっかを使いながら犬のように彼らの後を付いていった。
今、男から聞いたことを司馬が手帳に書き終えた時、平松主任やその上司らが会議室から出てきた。
「あっ、司馬刑事、すぐに内容を報告いたしますので、ここで少しだけお待ち下さい」
平松は、上層部への報告のため、先を急ごうとする上司といくつか確認をし、また司馬の所へ戻ってきた。
「疲れた顔をしている、ただ、今は平松主任、君が頼りだ」
司馬の一言に勇気付けられながら平松は、今、会議の中で話されていたことを簡潔に伝えた。しかし、その内容は事故への司馬の思いとは大きく違っていた。
警察署内ではレスキュー隊の初動の動きが遅かったことについて、司馬の言っていた通り、やり玉に挙げられていた。
どちらも人々の生活の安全を担う大切な組織である反面、特に体面を重んじる組織でもある。今回の二次遭難の原因と責任がどこにあるかで、もういがみ合う構図ができあがりつつあった。
また、村としては洞窟による観光誘致の話が持ち上がり、いかに早くこの事故を収束させるかが話題の中心であった。
「捜査は捜査としてやるもんだろうよ」
彼女からの話を聞き終えた時、司馬は大きくため息をついた。
(八)
夏の夜の蒸し暑さも、雨上がりの次の日の朝だけは少しだけ和らぐ。
だが、それはほんの一時である。ためらいがちに鳴き声を上げていた蝉たちも午前八時を過ぎる頃になると、昼間の時と変わらぬ歓喜の合唱をはじめた。
事件現場となった洞穴内ではさらに中央から応援動員された捜査員が、髪の毛一本でも見落とすまいと緊張の汗を流していた。
司馬は、二人で行動を前提とする署の捜査規則に反し、昨夜出会った元教師だったという老人宅へ一人で向かっている。
道すがら確かに老人の言っていたように苔むした石仏や小さな石塔が、道の傍らに鎮座し、この村の長い歴史を物語っていた。
この辺りの住居は、狭まった渓谷沿いに身を寄せ合うようにして建っている。オニヤンマが司馬の歩く先を先導するように、鮮やかな飛翔を見せていた。
(先祖霊の誘いか……)
「待っていましたよ」
畑から一仕事終えて帰ってきたばかりなのであろう、麦わら帽子に、ランニング姿の昨日の老人が青いトタン屋根の家の前で立っていた。みずみずしさのただようトマトとピーマンが盛られたかごを両手に持ったまま老人は笑顔を見せた。
よしずのかけられた縁側に司馬が老人と座ると、老人の妻はすぐに差し出された冷えた茶を出してくれた。
「ほう、一風変わった香りですな」
色は緑茶よりも、少し茶色がかっていたが、匂いはとても香ばしかった。
「この辺の地域に伝わる製法で作られる茶でして、その葉も山茶といって、自生の物なんですよ」
「自生ですか、この山間地で」
「平家の落人が持ち込んだ物とも言われています」
二人が会話している場所から川向かいの県道では警察車両が、対向車の行き過ぎるのを待っていた。
「新しくできる予定の道は、山一つ超えた向こうと聞きましたが、集落から結構離れるんですね」
「ああ、本当はその向かいの道を拡張する予定だったのですが、色々と村の事情がありましてな」
「事情ですか、口で言えないことはよくあることですからね、例えば村の有力者の土地の利権がからんでいるとかかね」
司馬は自分の言葉にどう老人が反応するかを見ていた。場合によっては、聞き込みの仕方や内容が変わってくるからである。
ようやく警察車両を先頭に車列が山の現場へと流れた。
「さすが、警察さんだね、もう聞いているんだね、これは私が言ったとは絶対に言わないでおくれよ」
「村長……ですね」
「ああ、あのごうつくばりの一族だと言ったら言葉が悪いかも知れませんがね、私なぞは、教員で県から俸給をもらっていたからそうでもないですが、あの村長に頭の上がらない者がこの村ではほとんです」
老人は切ったトマトを持ってきた妻をすぐに退くように言った後、辺りをはばかるような声で言った。
「それはいつ頃からのことなんですか」
老人は司馬の疑問を待っていたかのように答えた。
「嘘のようだが、鎌倉時代からだそうです」
「ほぉう!」
昨晩も同じようなことを聞いていた司馬であったが、わざとおどろいたような声を上げて、老人の小さな期待に応えた。
「まぁ、ほら話ではないですが、この辺の地域は表街道の道とは違い、大きな戦火に巻き込まれることはありませんでした……」
老人はそこで一息ついた。
「その分、戦火を逃れたよそ者や落ち武者がきまってこの道を山から下ってきたそうで、落ち武者狩りが盛んだった時のその頭領があの村長の先祖です、恥ずかしい話、うちの先祖も同じようなことをしていたのかもしれませんなぁ」
「そんなことはないでしょう」
「まぁ、わしの爺さんは養子だったから血のつながりはないと言えるけども、あの家だけは脈々とその血を受け継いでいます、ただ、その血も今の村長で終わりです」
「と言いますと?」
「あそこの村長には娘が二人いて、上の娘に婿入りが決まった途端、病気で死んでしまいまして、それはかわいそうだったのですが、下の娘はもう嫁いでいて……隣街の……何て言ったっけな、ああ、忘れてしまったなぁ」
「そうですか……」
司馬は出されたトマトの一切れを口の中に入れた。徹夜明けで少し荒れた口内に甘酸っぱい味が広がった。
「うまいですな」
「それは嬉しい、警察さんのみんなの分も用意させてもらったから、後で持って行ってください」
「そのようなことをしてもらったら申し訳ない」
「何も遠慮しなくても」
「ここでいただいているだけで本当に十分です……それにしてもこんな事故がおきなかったら、本当に良い村ですね」
「そうでしょう、私もこの代わり映えのない毎日が嫌で外に飛び出したが、結局戻ってきてしまいましたからな」
「帰る故郷がまだある……それは幸せなことかもしれませんね」
ふと、司馬は老人の腰につけたままの打刃物に目がいった。
「お腰に付けた物は、ナタのようですが」
カバーが付いていて見えないところが多いが、普通のナタよりも小ぶりで柄の先に付く刃は、普通のサイズよりもやや大きめであった。
「おお、これもこの辺では『マキクグリ』と言って、昔から伝わるナタですよ、名前の通り大きな物で薪を割ったり、こういう小さな物は何でも切るのに使える重宝な物です、この辺の者は山に入る時は、必ず護身用に持つ癖がありまして、熊や猪と戦ったなどという笑い話もありますな」
「あまり聞いたことないですね、ちょっと見せてもらってもいいですか」
「ああ、いいですよ、ただ、この刃物をうつ鍛冶屋さんもいなくなりまして、昔の物を自分で研いで使っています、これも、もう歴史の中に消えていく産物ですな」
老人から見せてもらった刃物は、軽く湾曲し見た目よりも厚みがあった。司馬は刃の形状を目に焼き付けるように何度も繰り返し見ている。
「トマトのようにお分けしたいところですが、うちにはもうそれ一本しかなくて」
「いえいえ、とんでもない話です、商売柄、こういう物に昔から興味があるのですよ、おっ、そうだ、村長の家はここよりももっと下流の場所ですよね、それがあの川上の所まで村長の山なのですか」
話の話題をすぐに変えながら、司馬は老人に丁重に『マキクグリ』を返した。
「あの一族にとっての山向こうは忌み地だったから、早く手放したかったんでしょう、だから、無理に売ろうとした気持ちもわからなくはないが、それを無理矢理高く売ろうとするから、こうやって妬まれるんですな」
「忌み地ですか」
「お話しましょうか?」
「それはぜひ」
「あそこ一帯に鬼共の住む城があったいう言い伝えがありましてな……」
咳払いを一つした後の老人の話は壇ノ浦の合戦から始まった。段々と気温が上がる中、よしずに囲まれた縁側はとても涼しく、川に沿って流れる涼風が風鈴を弱く揺らして澄んだ音色を奏でている。
現役の教師だった頃もこうやって授業の中で生徒を楽しませていたのだろう、老人は見事な講談師のような語り口調で話の花を咲かせた。
司馬も聞き上手である。話の途中の質問がまるで餅つきの返し手のように、老人の言葉が流れていく。特に今から三百年ほど遡った昔、奥巻衆と呼ばれる平家の血を引いた村長率いる十七家の勇敢なご家来衆が鬼の集う城を攻め滅ぼし、とらわれた美しい姫君を救い多くの宝を貧村に持ち帰ってくる話は、まるで戦国絵巻を直に見ているようであった。
「そのような鬼が住んでいたのですか」
「面白いのはここからでしたな、実はこの後にまだ続きがあって、村長はとらわれていた美しい姫を助け出したはいい、普通であれば親元の殿様の元へかえし、めでたしめでたしとなるのですが、あろうことか村長はその美貌の誘惑に負けて手込めにしてしまい、子を身ごもらせてしまった、しかし、それは鬼の残した罠だったんです、実は姫というのは、鬼の一族でしてな、美しい娘を一人残し、どこぞへと消えてしまった、一説には村長の一族が密かに成敗して忌み地に埋めたとも言われてましてな、それからというもの、この家系には女しか生まれんようになってしまったと伝わっています、いわば裏の昔話ですな、その後の鬼のことは語ってはならぬと言い伝えられていたようですが、こんな小さな村社会なので誰もが知っていることです」
老人はそう言って、この地に古くから伝わる童歌を口ずさんだ。
奥巻谷の奧ん奧 怖い鬼共住んどった
ご家来衆と十七人 都の侍大将が
あっぱれ鬼共 成敗し
玉や黄金や 米俵
たんと お宝 お姫様
「私の子供の頃は寝なかったり、悪さしたりした子は忌み地の鬼が刀を持ってさらいに来るなんて言われましてな、この歌の続きもあったようですが、侍の子は聞いてはなんねぇと、おなごにだけ伝えられたので、私のような洟垂れ坊主が耳にすることはありませんでした、この村もご覧のように過疎で人はいなくなりますなぁ、三百年かかってようやく鬼の祟りが成就されるんだから鬼共もまぁ気の長い話です」
「忌み地というのは当然……」
「そう鬼の城跡があった場所、ちょうどあの道路工事が進んでいる辺りです」
「村長の一族にとっては、今回の事故も含め因縁のある土地……ですな」
「明治の世になるまであの地に足を踏み入れた村人は神隠しに遭い、中には五体ばらばらになった遺体が空から降ってきたなどという薄気味悪い言い伝えも残っておりました、わしが生まれてからはそんなことも聞きませんけど、恐ろしい場所だということだけは、この村の者たちの心にしっかりと刻み込まれています」
司馬の携帯の呼び出し音が二人を話の世界から引き戻した。平松主任からの電話であった。
「司馬さん、大変な事態となりました」
平松主任の声は努めて冷静に装うように聞こえる。
「何だ」
「不明となっていた、本署の柴山、小田、作業員三名の惨殺された遺体が発見されました」
川向こうの道をまた警察車両がサイレンを鳴らし走り過ぎていった。
奥巻谷の奧ん奧 怖い鬼共住んどった
ご家来衆と十七人 都の侍大将が
あつぱれ鬼共 成敗し
玉や黄金や 米俵
たんと お宝 お姫様
いつかは首をはねますぞ 泣いて隠れた鬼の子は
穴の奧からえんやらや 大きな刀のまきくぐり
ぬえなき鳥の あそぶ谷地
泣く子切ろうぞ 時雨る夜
寝ぬ子切ろうぞ 百七人
(奥巻村伝承歌より)