第一の言
奥巻谷の奧ん奧 怖い鬼共住んどった
ご家来衆と十七人 都の侍大将が
あつぱれ鬼共 成敗し
玉や黄金や 米俵
たんと お宝 お姫様
いつかは首をはねますぞ 泣いて隠れた鬼の子は
穴の奧からえんやらや 大きな刀のまきくぐり
ぬえなき鳥の あそぶ谷地
泣く子切ろうぞ 時雨る夜
寝ぬ子切ろうぞ 百七人
(奥巻村伝承歌より)
◆ 登 場 人 物 ◆
吉村 明 埼玉県警捜査一課の青年刑事
司馬 良次 埼玉県警捜査一課のベテラン老刑事
鵠 小次郎 識神の社の禰宜
鵠 いかる 小次郎の妹 風太のことを気にかけている
雪代 風太 中学一年生の少年
川辺なずな 風太の同級生
平松 雅子 奥巻署の女性主任警部補
柳田課長 司馬、吉村の上司
奥巻 権平 奥巻村 村長
夏の暑さを謳歌する蝉の声をかき消しながら、数台の工事用重機が山を削り、葉の密集した樹木が、遙か昔よりとどめ置かれた土の匂いを吐きだし、表土ごとなだれていく。冴え冴えとした陽光は、山深い工事現場で働く男たちの汗で濡れる肌を赤く焼いていった。
長年、奥巻村に住む人々の悲願であった県道工事が本格的に始まったのは、この年の春である。
東隣の村を通る国道までは、一本の細い旧道しかなく、台風や長雨などの天候となると土砂崩れがおき、村全体が孤立化してしまうことが、今になってもしばしば起きた。
西側にはそれほど標高はないが隣県にまたがる峻険な奥巻山地が広がり、山道とは名ばかりの杣道が山の中途まで付けられているにすぎなかった。
パワーショベルを操作していたオペレーターが、先端バケットから来る震動の異常に気付き、エンジンを止めたのは、昼休みが終わり作業を再開してすぐのことであった。途端に無数の蝉は今いる空間の支配を確信したように、ありったけの鳴き声で生命の饗宴を繰り広げた。
無線で連絡を受けた現場監督や工事の中断に気付いた周囲の作業員は、すぐさま、重機の刻んだ轍の上を足場に注意しながら、小走りに近付いた。
吐息に引き寄せられた顔の周りを飛ぶ藪蚊を払う作業員たちが目にしたのは、山の斜面が削られた所にぽかりと開いた、ほぼ垂直の縦穴であった。幅は有に直径三メートルはあり、彼らが立っている場所からは、地面がそのまま陥没したようにも見える。
暗い穴から吹き出してくる空気は、地上とは明らかに異なる冷たさを帯びていた。
「ライトないか、ライト」
現場監督の言葉を聞き、近くの作業員は重機の運転席の座席下から、金属製の懐中電灯を外し、すぐに手渡した。
皆は興味津々に現場監督を囲むようにして、懐中電灯の先に照らし出された物を見ようと身体を乗り出した。
「あぁっ!」
一人の作業員が、身体のバランスを崩し、前にいる監督を含めた数名の作業員と共に転げ落ちた。
「大丈夫か!」
残された作業員は顔を青ざめさせ、穴の縁から中に落ちた監督らに声をかけた。
「馬鹿野郎、お前がこけるからだ!」
「すいません!」
打ち身や擦り傷はあるものの、穴がやや傾斜していたことや下に土砂がたまっていたことが幸いし、落ちた作業員らの身体に負傷の兆候はみられなかった。
「こっちは大丈夫だ、すぐに引っ張り上げるロープ持ってこいや、社にも連絡をとっておけ、おお、こんな所から細い横穴になっているな」
地上からは壁面に大きな岩石がせり出しているため、監督の言う横穴まで確認することは難しかった。
安堵した外の作業員は、洞内の現場監督の指示通りにそれぞれ動き出した。
「ロープ持って来ました、今、降ろします!」
数分経って戻って来た若い作業員が洞内の現場監督に声をかけたが、何の反応もなかった。
「監督!ロープ!」
さっきまで開いていた横穴は、側壁から落下した大きな岩によって半分以上ふさがれていた。
再び声をかけても返事はない。わずかに覗く洞穴の暗闇からの冷たい風は、作業用ヘルメットをかぶった男の耳にあたり老僧の読経のような幻聴を奏でた。
第一話「洞穴」
(一)
奥巻村から現場へと続く所々未舗装の県道は、警察車両や工事関係者、そしてマスコミの車が列をなしていた。
「このような静かな村でおきた事故で不明になった作業員は三名……」
工事現場に不釣り合いな濃い化粧をした女性レポーターが、事故となった工事現場を背景に状況を早口でまくしたてている。
「冷静なマスコミがそんなに興奮してどうすんだい、中継前はふざけ合って笑っていたくせに」
現場規制線のロープをくぐりながら、まだ年若い吉村刑事は吐き捨てるように悪態をついた。
「そういうお前もだ、外野のやっこさんに気がいくってのは、本来の目的を見失っているぞ、やっこさん方もそれで飯喰ってんだからな」
「司馬さん、人の命がかかっているニュースがワイドショーみたいに報じられるのが、どうも納得できないんすよ」
「だから、言ってんだろ、やっこさんの世界は面白くて危険な方が高い給料もらえるんだ、お前だって同じ穴の狢だ」
司馬刑事は吉村をたしなめ、年の割に多い白い頭髪を軽く掻きながら、現場となった洞穴の入り口へと急いでいる。
澄んだ空気の場所では生い茂る雑木の緑がより強調されて視界に入る。だが、司馬はそういった物に目をくれることもなく、額に浮き出た汗をハンカチで手早く拭き、悪路を歩き続けた。
炎天下にふさわしくないつなぎ姿の吉村は、現場近くの臨時の駐車場から抱えてきた重そうなバッグを時折地面に置き、手をぶらぶらとさせた。
「中央署の方ですね、こちらへどうぞ」
二人の来訪に気付いた警察官の案内された先に、木陰で細かく捜査員に指示している痩せた背広姿の男がいた。
「中央署の方がお見えになりました」
敬礼する警察官に気付いているはずなのだが、その男は、手持ちのファイルに何やら乱雑に報告事項を書き付けている。
「埼玉県警中央署捜査第一課の司馬と吉村です」
司馬の丁寧な一礼にも、その男は無視を続けた。尊大な男の態度に実直で短気な吉村の顔がみるみると変わっていった。その雰囲気を察した司馬は、自分の靴の右先を隣に立つ吉村の靴の側面に軽く当てた。
吉村はすぐに表情を戻し、自分の姿勢をもう一度正した。
「こっちは多忙だとはいえ、たいしたヤマ(事件)でもないのに中央署も余計なことをしてくれる、今まとめているのは後の捜査会議で話す、適当にその辺の奴をつかまえて話を聞け」
男はとうとう最後まで、顔を上げず木陰で報告されたことをまだ書き写している。
その場所から離れた吉村は開口一番、思っていた不満をあらわにした。
「何すか、あの態度、あれが捜査現場の金筋(上司)の態度ですか?」
「ムラ、他管轄の署員への対応はこれでも良くなった方だ、自分たちのプライドがそうさせているだけのどこにでもあることだ、それよりも言ってんだろ、この職で禄を得ている限り犯人の前でも遺族の前でも、てめぇの能面を外すんじゃねぇ」
淡々と話しながらも決してぶれない司馬の言葉に吉村はいつも頭が上がらない。
気温が徐々に上昇していく中、吉村は黙って先を歩く小さな司馬の背中を見ながら歩いた。
近年広がる重大犯罪に対し、県警は広域に捜査するという名目から、それまで管轄内だけで処理していた事件や事故をその内容によって、共同でスムーズに捜査が行えるよう体制を変化させてきている。
捜査情報の一元化という面では、効果を上げているものの、最大の保守組織でもある警察、特に現場にたずさわる周辺では、個々の考え方にもより、こういった小さな軋轢が到る所で生まれていた。
洞穴の縁に立った司馬の眼鏡が、地中から噴きあげてくる冷気で白く曇った。
「縦穴はそうでもないですが、先の横穴はザイルの張り具合から随分深そうですね」
吉村の言う通り、事故時にあった側面の大きな岩は、既に重機や削岩機でほとんどの部分が削られていたが、穴の外からは横穴の一部分がわずかに垣間見えるだけであった。
蛍光色のジャケットを着た捜査員や消防署員らが、縦穴の底でさらに奥に進んでいる捜査員に声をかけている。何重にも響いた声が洞内から漏れ聞こえてきたが、それだけでこの穴がとてつもなく深いものであると司馬と吉村は実感した。
「あ、縁は滑りやすいんで気を付けて下さい」
覗き込む二人の刑事を制するように、年若な女性警察官が声をかけた。
「おっ、そうだな」
注意されたことに気付いた司馬と吉村は、自分の足下に気を配り、ゆっくりと後ろへ下がった。
「失礼しました、広域捜査班の方でしたか、私は奥巻署の平松と申します」
きびきびとした女性警察官の敬礼に司馬と吉村は、答礼した。
「こちらの方こそ、不注意でした、私は中央署の司馬、そして吉村です、よろしくお願いします」
「あっ、吉村です」
女性の美しい容姿にほんの少しだけ動揺する吉村であった。既に彼女の階級章に気付いた司馬の方は愛用の革の手帳を即座に取り出し、情報を少しでも集めようと獲物を狙う鷹のように目を光らせている。
平松は洞穴横に設置された簡易テントに二人を案内した。平松の姿を見た若い署員はすぐに声をかけてきた。
「平松主任、署から行程についての確認の連絡がすぐに欲しいそうです」
「悪いけど大西君、連絡代わりに入れておいてくれる」
そう言って彼女は、署員に雑多なことを伝え終えると、すぐに司馬と吉村の前に戻ってきた。後ろに巻き上げた髪からこぼれた数本が首に張り付くのを、右手で直した彼女は捜査帽をもう一度深々とかぶり直した。
「お待たせ致しました」
司馬は行方不明になっている者の氏名や出自の確認を簡単にした後、洞穴の内部がどのようになっているかなど矢継ぎ早に用意していた質問を行った。
平松はすぐ、内部が入り口から四メートルほどまで井戸状に近い縦穴であること。横穴への入り口は大人が通り抜けできないほどの小さい穴であったこと。その穴をふさぐ大岩の除去にこれまで時間がかかったこと、壁や床の石質から石灰洞と呼ばれるいわゆる普通の鍾乳洞であることなど、簡潔な説明を二人にした。
特に司馬は時間の経過ごとの動き、内部の気温や湧き出ているであろう地下水のことをしつこいくらいに質問している。
「行方不明者が奥でまだ生存している可能性は高いな」
「ええ、私も同感です、岩の除去も完了し、つい先ほどようやく横穴へ入ることができました、ただ、土地柄、ケイビング(洞窟探検)のできる警察官が少なく、中央署からこうやって応援に来ていただいて感謝いたします」
「地元の消防署員は……?」
「他の現場にかかりきりのようで」
「他の現場とは?」
「農家の納屋のボヤ騒ぎが今日もあって、どれも事件性のないものですが」
司馬の問いに平松は言葉を濁した。
「司馬さん、それじゃ先に準備してます」
吉村は説明を聞いた後、簡易テントからバッグを持って出た。
テント横の茂みの前にバッグを置いた吉村は、取り出したヘッドランプの付いたヘルメットをかぶり、あご紐を締めた。
「兄さん、大丈夫かい?」
穴の縁にいた地元の消防団員の男は心配そうに吉村を見ている。
「あはは、ありがとうございます、自分はあんまり深く考えないタイプなんですよ、そこの第一ザイルそのまま、使わせてもらいます」
洞穴の縁まで来た吉村は消防団員の言葉に笑顔で返し、自分の腰についた鉄製のカラビナにシングルザイルを装着した。
「大学で何を勉強してきたんだか、だが、何でもこなす便利な奴には違いない」
そういう司馬は平松とテントから出てきて、吉村の前に立った。
「最近の大学は山に登ったり、穴遊びで忙しかったみたいだな」
「司馬さん、穴遊びって、表現に気を付けてもらわないと、変な遊びと勘違いされちゃうじゃないですか、そんじゃ、ちょっと見てきます」
敬礼をした吉村は軽々と縦穴を降りていった。
縦穴の底は削りとられた岩の破片で足の踏み場もないほどであった。
「中央署の吉村です。捜索命令によりこの穴の先まで行かせてもらいます」
縦穴底で待機する現場署員の気持ちを踏みにじらないように、司馬を真似し丁寧に相手と接しながら吉村は言葉を続けた。
「一名、降ります、いいですか」
「確認する、もう一名そっちに行くぞ、いいか」
壁に反響した署員の声が聞こえた。
「了解、このまま第一空洞で待ちます、あと地上本部からの無線の感度が弱くなっていますね、有線の準備も願います」
「了解」
待機している署員の一人が、所々蛍光テープの巻かれたコードの束を吉村に手渡した。
「すまんが、これも引っ張っていってくれるか」
「了解しました」
そう言って受け取った吉村は地上から、何か異様な視線を感じた。
「?」
何人もの杖を突いた背の曲がった老婆や老爺が恐ろしい形相で穴の縁から吉村をじっと見下ろしている。
吉村が目をしばたたかせて、もう一度顔を上げた時、その姿は消えていて、司馬と平松、消防団員の顔しか見えなかった。
「気のせいか……」
吉村は横穴から流れ出る空気が、地上にいるよりもはるかに冷たく感じた。
(二)
ヘッドランプに映し出される洞穴の壁面は石灰質特有のなめらかさが際だっており、大小の鍾乳石が垂れている。その先にたまった円い水滴が、光を反射させ、天の川の星粒のように輝いている。
滑り落ちてしまう程の傾斜ではないが、吉村は慎重に慎重を重ねて、コードを延ばしながら、暗闇奥へと続くザイルの軌跡をたどっていった。
「今、三十メートル地点通過」
「了解、あとここまで十七」
声をかけ合いながら進んでいくと、先に待機している署員のヘッドライトの光が側壁に沿って漏れてくるのが吉村の目に入った。
「ライト確認」
「ご苦労様です」
第一空洞と呼ばれる署員らがいた平らな場所は、八人用テントが楽々と張ることのできるくらいのスペースがあり、鍾乳石の垂れる天井までの高さが五メートルほどもあった。
吉村は一目見て不明者が仮に横穴を滑り落ちてきたとしてもここで止まることに間違いないと感じた。
「埼玉中央署から来ました吉村です、宜しくお願いします」
「奥巻署の柴山だ、こいつは小田よろしく、まぁ下っ端どうし遠慮無くやろうや」
運動能力の高そうな体つきをした青年署員は、もう一人の吉村と同じくらい年若な署員を紹介した。
「小田です」
小田は大柄の柴山とは違い、背はあまり高くはないが、人なつこそうな笑顔を浮かべる青年であった。心配していた管轄署の障壁は、ここにいる警察官の中には存在しなかった。
「不明者の痕跡は何かあったんですか?」
「まるでない、通報から短時間だし、もし、負傷して上っていけない場合でも、ここで救助を待つに違いないと思うのだが」
柴山の話を聞きながら小田は、吉村の引っ張ってきたケーブルの先端カバーを外し、もう一つの携帯通信機に接続している。
「ほい、接続完了」
小田は無線機のバッテリー残り値を確かめながらスイッチを入れた。
「こちら待機地点小田、本部聞こえますか」
「クリアに聞こえます、どうぞ」
「中央イチマル吉村と合流、これより先に進みます」
第一空洞からは垂直六メートルくらいの深さをした縦穴となっている。
「俺が底まで先に降りる、ライト当てておいてくれるか?」
投げ下ろされたザイルを持った柴山は、縦穴にしっかりと両足をつけながら、ゆっくりと降下していった。身体の動きに合わせ揺れるヘッドライトが、時々大きな影法師をつくっていく。
「第三地点到着、途中、不明者の痕跡未だ確認できず、不思議だな、壁にはしごのような岩の段差ができている、これだったらザイルを使わなくても上り下りが可能だ」
「次、俺行っていいですか?」
「ああ、いいぞ、柴山ぉ、吉村が二番手だ」
「了解」
吉村にとって、初めて入る穴であったが、何か他の自然洞とは違う印象を受けた。それが何であるか説明は出来ないが、柴山の言う通り、自然と溝が段となり壁にできているのを見ると既に人の手が太古の昔より入っているようにさえ思えた。
(どこかで感じたことがあるな、この雰囲気……)
吉村はいつか見た夢の記憶がよぎった。線路脇に散らばる血塗られた手首、皮のついたままの髪の毛の束、マニュキュアで光った一本の千切れた小指……。
(闇は我を誘う)
吉村は、その記憶を打ち消そうと首を二、三度振った。
三人が降り立った地点からさらに横穴が続いている。
「これだけの空洞だぞ、事前の地質調査で分からなかったのが不思議なくらいだ、天然記念物は確定のようだな」
柴山の冗談ともいえない驚きの言葉を誰も否定はしないであろう。横穴の先に小さな教会の礼拝堂がすっぽりと収まるくらいの空間が広がっている。
「あれ、通信機の故障か……」
小田が報告のために何回もスイッチを入れるが、エラーの文字が通信機の液晶画面に点滅している。
「おい、ありゃ何だ!」
先を進む柴山の太い声が驚きのあまり裏返っていた。
羽根の芯を折るような乾いた音を立て、靴底で細い石筍が折れていく。
(闇……再び来たれり……か……)
無意識につぶやく吉村の頬に一筋冷たい汗が流れた。
地上での喧噪と異なり、洞穴地下の吉村が居る場所は水がしたたり落ちる音と自分の呼吸音だけが聞こえている。
動揺の続く吉村ら三人は、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感に似た感情が支配している。
宮殿の一室のような空間の中央に積まれているのは不気味な遺体の山であった。表面に見えているだけで五十体はあり、山の上部の遺体には着衣の形跡はあったが、それが元はどのような色であったかはヘッドランプの明かりだけではわからない。ただ肌は黄白色に近い色をしていて、下層にあるものの一部は、汚れた蝋の塊から茶色く変色した大腿骨の太い一片が飛び出している。
「もう死蝋化してやがる、しかし、何でこんな所に……」
吉村と小田は息を呑んだまま柴山の言葉を聞いていた。
突然、三人のヘッドランプの明かりが消えた。
「どうしちまったんだよ!」
小田は、ランプの付いている自分のヘルメットを叩いたが、何の変化も起きない。三人の声が重苦しい空気と闇の広がる洞穴内部にこだました。
「ライターを誰か持っていませんか」
「俺も小田も煙草はやめているよ」
柴山のにべもない返答に、喫煙しない吉村は司馬から借りてくれば良かったと後悔した。
したたる水の音がより大きく聞こえてきた。
「何だ、この水の音は?後ろの方から聞こえないか」
(闇……再び来たれり……)
吉村は気を少しでも冷静になろうと、自分の頬を軽くつねった。
(ひぃらいた……)
子供の歌声が一寸先も見えない闇に響いた。
「柴山、歌ってふざけている場合じゃないぞ」
「何で、俺が歌うんだよ」
(ひぃらいた ひぃらいた なんのはぁなが ひぃらいた)
吉村の記憶の片隅で、猫が爪で壁を研ぐような音が聞こえ続けている。
「そう……あの時の識神社での出来事もわらべうただった……柴山さん、小田さん、すぐザイルをたどって戻りましょう、ここはやばすぎます」
「戻るったって、この暗闇だ、そんなに急げないぞ」
せき立てる興奮した吉村の言葉に納得しながらも、柴山や小田は戸惑った。
洞内の奥に弱々しい光が見えた。
「おい、灯りだ……誰かいるぞ」
「だめです、違います、すぐに下がりましょう」
柴山の期待があっさりと裏切られることを吉村はわかっていた。闇に浮かび近付いてくる夜光虫のような光は人工のものなどではない。
それはわらべうたを嬉々として歌う子供の首であった。
顔だけが妖しく光る子供は歌っていたわらべうたをやめ
「おうぃ、福の神かぁ、怖いもんかぁ?」
と何度も同じ言葉を繰り返した。
「だめだ、かかわっちゃいけない、だめなんですよ!」
吉村は、柴山と小田の腕を掴み、元来た穴の中の道を戻ろうとしたが、柴山はそれを振り払い、怒鳴りながら向かっていった。
「お前、そこで何やっているんだ、この村の者か!そこを動くな!」
「やっぱり怖いもんだ、怖いもんがきだぁ!」
子供は憎々しげな表情で柴山を見て叫んだ。青ざめた顔の小田は、その様子をとまどいながら見ている。
「だめだ、柴山さん!」
吉村は止めて引き戻そうと、子供に歩み寄る柴山の腰に自分の腕を伸ばした。その途端、横から強い力で洞窟の石壁に思い切り叩き付けられた。吉村のヘッドライトが破損し、洞窟内を照らす明るさがまた一つ弱くなった。床に倒れ、全身に痛みが走っている吉村はそれでも、立ち尽くしたままの小田にすぐに叫んだ。
「小田さん、逃げて……」
「ひっ!」
吉村の言葉に正気に戻った小田は、その場の恐怖に耐えかね、自分たちが戻ってきた道を一人這いずるように逃げていった。
「こら、逃げるな!そこにいる奴もでてこい」
柴山の相手を威嚇するような声は、洞穴の奥からまだ聞こえている。暗闇の中に取り残された吉村はよろめきながら立ち上がり、柴山の声の聞こえる方へ歩いていこうと、壁に手をかけた。
目は開けているのだが、上下左右が全くつかめない異様な感覚が吉村を襲った。
(大丈夫、足は地についている……右手は壁に触っている……落ち着け、落ち着けよ)
自分に言い聞かせる吉村の耳に聞こえてきたのは、柴山署員の悲鳴であった。その後に、老人たちのにぎやかな笑い声が暗闇の中に拡がった。
「柴山さん!柴山さん!」
声を上げ続ける吉村が濡れて冷たい壁をたどって数十歩ほど進んだ時、突然壁が直角に曲がっていた。
「!」
床が急に傾斜していたため、足をとられた吉村は、全身いたる部位を石にぶつけながら、深い闇の中に転がり落ちていった。
ぼんやりとした燐光に照らし出された地底湖の水面が急に泡だった。
小さな波となった湖水が石灰岩の岸辺にひたひたと打ち寄せる。
見る間に湖水が膨れあがり、ほぼ半裸で布を顔に巻き付けた身の丈二メートル近くはある大男があらわれた。黄ばんだ下帯からのびる剛毛に包まれた脚はまるでカモシカのようなたくましさを誇っている。岸に上がった男は奇妙な嬌声を上げ、手に持っていた大型のナタでぶんと一つ風切り音を立てて振った。
「家宝との禊ぎは終いじゃ、夕餉の物をいくらでも喰らうがよい」
洞穴内にいるのは動物のような男だけではなかった。背を曲げ杖をつく老人がその男の傍らに立ち、男の腰を右手で優しく撫でている。
足下に気を失って地面に倒れているのは、柴山署員であった。
大男は、柴山のヘルメットをはぎ取り、頭髪を餅左手で宙に引っ張り上げると、太い首にナタを振り下ろした。男は柴山の首を頭上に掲げ、したたる血を、顔に巻く布にかけた。血や体液が流れなくなるまで、時折首を上下に振りながら、男は日本猿の嬌声のような快楽の笑い声をあげた。
「我らの仇を今ここに示すのじゃ、捕らえた獲物は褒美として、首は剛の印として、またお前に授ける」
近くの岩棚には行方不明になっていた作業員と警察官の首が四つ整然と並べられている。
老人の口調に煽られ雄叫びを上げた男は首が落とされた柴山の身体に飛びつく。洞穴内に骨を砕き、肉をしゃぶる音が充満した。