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神のくさめ  作者: paradsh
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大学生とその先輩の対話

 爾後じご一週間。

 三月程放置されてすっかり潰れた万年床に体の痛みを覚え、私の一日は半分眠った状態から始まった。酷く宜しくない寝覚ねざめである。とにかく居心地が悪いので起き上がった。壁掛け時計を見やると十時三十八分を指していた。しかしこの時計は十四分遅れているので、本当の時刻は五十二分である。朝食は万年床界隈に衛星の如く偏在する菓子パンで済ませる。

 しばらく万年床の上で胡座あぐらをかいていると、申し訳ばかりに立っている薄い壁の向こうから鈍い音が二つ聞こえた。何を隠そう私の部屋の隣には、サークルの先輩にあたる内野井うちのい棲息せいそくしているのである。この男はどうやら幼少期から自宅警備員にあやかりたいとほざいており、最終的には擬きの域にまで無事に至るのだが、無事に至った時点で無事でないのがこの職業柄である。ともあれそれ故に、自ら外へ出掛けることさえも潔しとせず、私は頻繁に買い出しを任される。その上代金が返ってくる可能性は極めて小さい。買いに行かされる度に来週払うからと先延ばしされ、私のお財布の中身達は窮屈だと言わんばかりに留まることを知らない。私の懐具合が常日頃不安定な理由はここにある。

 また彼が件の、彼女から鉄槌てっついを下されるべき人間なのであった。

 彼女の誕生日の三日前、私は内野井の使いとしてカップ麺を大量に購入し、財布の中身を費やした。放課後、彼女との約束があったので、待ち合わせ場所まで走って行き、夕陽に染まる街を二人で歩いた。『糸瓜へちまの世話をし、講義を受けて、恋人と逢い引きもするとなると、我が人生、多忙を極むるものなり』と、紅い彼女の髪を眺めながら私は高を括っていた。しかし別れ際、彼女は自分の誕生日が三日後であると、思わせ振りに告げたのである。その瞬間背筋が凍てついた。あろうことか、彼女に渡す贈り物の御銭おあしを、たかが糸瓜の肥やしのために使い果たしてしまったのである。我ながらなんて非計画的だったのだろうとも思ったが、当時は内野井に対してのいきどおりがそれをち破った。私はすかさず内野井を訪ねて、貸金の返済をうた。されど案の定、私の蒼惶そうこうとした心情は彼の詭弁に無理やり押し潰されたのである。その末路が彼女の平手打ちであった。

 先の衝撃音の正体は、彼が逆立ちをする際に生じる、壁と彼のかかとがぶつかる音である。この音は、知りたくもない彼の起床を律儀に毎日知らせてくれる。彼曰く『頭に血が昇ることで一日の活力が出る』そうで、彼の所謂いわゆるルーティンワークであるが、私にはむしろ寿命が縮みそうに思われるのでそのまま継続して戴きたい。そもそも積極的に運動する訳でも、学業に励む訳でもあるまいに、一体何に精を出すつもりなのか。実際のところ、彼の糸瓜野郎ぶりは本物の糸瓜と瓜二つのなので、大量の糸瓜の中から彼を見つけ出すのは至難の技であろうと思われた。

 私は彼の起床の合図を確認した後立ち上がった。部屋を出て、隣の部屋の扉の前に立ってノックした。

 「先輩、俺です」

 「入り給え」

 無用心なことに、鍵が閉まっていない。強盗や殺人鬼が忍び込んで来てしまうではないか、と考えていた時が私にもあった。しかし彼の部屋には彼自身を含む、盗んで得するものなどひとつもないのである。変な形の機械、無闇に本格的な実験器具、その他孫の手や剃刀かみそりなど日用品。後は汚い万年床と卓袱台ちゃぶだい唐櫃からびつのみである。

 更に言えば彼の様な人間が誘拐などされていなくなるのは一向に構わない。だが、返されるもの返されてないのでまだ消えて貰っては困る。その点彼は私の弱みを握っているとも言えるのがタチの悪いところである。

 「お邪魔します」

 「何用かね」

 「取り立てですよ。わかっているくせに」

 私は彼が座る場所の、卓袱台を挟んで向かい側にある汚い座布団に、堪らなく不本意であるが腰を据えた。何がそんなに楽しいのか知らないし知りたくもないが、彼はいつも顔に余裕の笑みを貼り付けている。その笑みからは、外交販売員のそれの様な上面だけがやけに人懐こいものを感じさせず、寧ろ上面にさえその胡散うさん臭さとかリアリスティックな臭さとか、要するに現実的に鼻で匂い立つのを感じるそれとかが、もはや本能で感じられるのである。

 無精髭ぶしょうひげ相俟あいまって、四方八方から不潔な空気、というより空気感が無用なちょっかい出してきて気分が悪くなって来る。勿論空気そのものも汚いのだろうが。

 彼はといえば、卓袱台の上に訳のわからない、恐らくは何の役廻やくまわりにも補填ほてんにもならぬ何物かに使用されると思しき機構をがたがた並べて、そのひとつを慣れた手捌てさばきでいじっていた。

 「懲りんなあ」

 「こちらの台詞です」

 「いやしかし残念だ。これは私としても極々不本意なのだよ? 今し方そこにあったのだが、ちょっと目を離した隙にすっかりなくなってしまった」

 「お金は逃げません」

 「貴君に譲る金はもはやないのだ」

 「言うなれば俺が借金をしている様な言い方をしないでください。逆です逆」

 「他に要件があるのだな」

 「それは肩透かしを喰わせてやろうという先輩の願望ですよ。いい加減俺が味わった憂き目とあんたの目を向き合わせやがれこの大便製造機が」

 「汚いよ君」

 そう言いながらも、あの笑みは健在である。

 「嬉しそうに言うな。閑話休題、即時還流を求める」

 「貴君、しかし貴君はまず、目の前の事柄についてじっくり考えねばならない。誕辰土産たんしんみやげを訳に平手打ちをかます様な器の足りん人間をわざわざ愛人たらしむ義理はなかろう。即刻別れなさい。彼女の器の大きさでは、君の様に寛大な心を受け止めることなどできんのだ」

 「思い者としての責務を貫徹できなかったのが貴方のせいだということは、私の判断力の鈍さ云々以前に揺るぎのない事実です。私になら未だしも、彼女に責任転嫁するのは止めてください。それから経済的危機の側面観を出すのも立派な目の前の事柄たるものだと思いますがね」

 「あれない。貴君、いいところに来た。魚肉ソーセージを買ってきてくれないか」

 彼は顎をじりじり撫でながら言った。腹立たしい笑みを貼り付けている。

 都合が悪くなると話題をすり替えるのは、彼が私の財布との戦いの末に身につけた稚拙な技であるものの、非常に厄介なのであった。私は彼が穏やかな口調の裏に秘めたる断固とした気概を感じ取った。こうなっては誰も彼を説得することはできまい。なんだかんだで彼と腐れ縁でくくられて今に至る私の勘はそう言っている。

 「御免|《蒙る》! もう二度と買い物には行きませんからね」

 愛想を尽かした私は立ち上がり、彼の返事を待たずに部屋を出た。このまま自室に戻っても腑に落ちない。本題解決の宛てを見つけられない以上、昼前の街へ宛てを見つけに出掛けることにした。

 もっとも、彼と私はいつもこんな調子であるが。

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