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神のくさめ  作者: paradsh
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平臥神の災難

 憶えた熱を振り払う様にして予は起き上がった。この熱気は勿論古来より受け継がれているものに相違ないが、その理由が些か気に入らない。最近では眺望を売りにしている様であるが、昔日せきじつ程の繁忙はんぼうを望むことはないにしろ、お陰で予は毎日が手持ち無沙汰である。

 予は所謂いわゆる、神と呼ばれるものである。冨路光ふろみつという所の者だ。予は神社の神徳を大方担っているが、必要とする人間が今やいないのである。それは「志湯成仙」という。無論「湯を志し仙と成る」の意味である。故に予は風呂が大好きだ。というか風呂の神だ。俗人には、風呂に入るという行為を神聖なるものにして貰いたい訳ではない。風呂と共にある暮らしを幸せに送って欲しく、もし余裕があればこの私に信仰をくれれば良い。しかしそれはどうやら叶わぬ願いらしいことを悟り、空振り続きの高望みはいつしかあまり持たなくなった。時々自己が人々を統べる存在であることを忘れてしまいそうになる。信仰が希薄になるとことによっては消滅してしまう神というのもいると噂に聞くが、この通り手八丁口八丁てはっちょうくちはっちょう活溌溌地かっぱつぱっちである。大方参拝客の数が減少していないからであろう。予はこのアイデンティティクライシスと贋作信仰がんさくしんこうとを天秤に掛け、即ち矜持きょうじ身命しんみょうを比べて畢竟ひっきょうは神もやはり自分の命が何より大切なのだと悟った。

 さて、神たるものそれらしいことをせねばならなかろう。予が住まうのは古風な四畳半のアパートである。冨路光の本殿はいわばショートカットの様なものだ。要するに予の四畳半に本殿が通じているということである。予は四畳半から世界を一望千里に見渡すために、部屋内のあらゆる壁と呼称されるものに大小の窓を取り付けてある。どこへともなく首を突っ込んでは俗世の様子を窺うのである。

 人間観察を玩味して早宵はやよいとなった。予は風呂に入ることにした。この部屋に付いている風呂である。風呂を嗜むとて、温泉や銭湯へ毎度出掛ける訳ではない。風呂を嗜むというのは、森羅万象の風呂を愛すということだ。とはいえ大浴場で汗を流したい気分に対応できる様、風呂桶を幾分大きくしてある。神通力という奴である。

 既に熱々の湯が十分張られている。流石にこれだけ大きな風呂桶を毎日入れ替えていたらガス水道料金が馬鹿にならぬので追い炊きをしている。大家さんには内密に、風呂釜を殺菌・浄化可能に改造した。殊更浄化機能の方は優越しており、嗜んだ入浴剤に濁った水が、翌朝には綺麗さっぱり真水に変貌する。

 予はその純水に、否、純湯に金色の粉末を振り撒いた。これは厄介になっている骨董屋の御主人から頂戴している入浴剤であるが、高が知れている健康用品や見栄え重視一辺倒の味気ない食料雑貨の様に空疎な代物と一緒くたにしてははなはだ不本意である。何、一度その湯へ入って戴ければ宜しいことだ。然らば蓄積した疲労はたちまち吹っ飛び、夜の街をブリーフ一丁で駆け巡る元気が瞬く間に湧き上がるのを実感されることであろう。

 我が下宿のハイスペックバスに羽を伸ばせられるのは良いことであるが、入湯するにあたって気掛かりな箇所があった。近頃肝心の釜が不調なのである。昨晩は水を張っていない時に怪奇作動を起こして黒煙を吹き、天井を真っ黒に塗り潰した。仮に修理をしたつもりであるが些か心配である。

 しかし結局は何のことなしに首まで浸かることができたのでとうとう落ち着いた。先までおっかなびっくりしていたのが俄かに阿呆らしくなった。

 濃い湯気の中で熱いお湯に全身を浸けてじっとしている時に限っては漏れなく、何だか極楽浄土に身を尽くしているかの様な心地で、一日中平臥偏重へいがへんちょうの予にさえもここに存在していることを幸甚こうじんに感じられるものである。そこへあの金粉を投入することでこれはもう最強である。疲労物質が全部、湯船に溶け出している感じだとでも言おうか。予の身体から疲れと呼ばれるものは悉く、段階的且つ円滑に抜けて行くのがわかる。ツーマンセルが揺らす幽玄ゆうげん揺籃ようらんに、予はしばしうとうとした。

 湯船に身体を任せ、跳梁ちょうりょうする疲労を沈めているその時のことである。風呂釜が殴打の様に鈍重な衝撃を咄嗟とっさに起こし、おまけに凄まじい勢いで泡を吹いた。何事かと思う暇なく金色こんじきの湯はみるみる輝かしさを薄らげ、水温は瞬く間に下がって、遂にはただの冷水となってしまった。予が寝ている只中ただなかの不意を衝いた出来事であるので、意識がまばらで直ちに起き上がることさえままならなかった。更にはその腹の冷えることと言ったらない。風呂桶の縁から彼方かなたへやっとの思いで這い出た時には既に、予は身体の芯まで冷え切っていた。

 ここで予は窮地に追い込まれていた。それは寒くて凍えそうだとか、風邪を引いてしまいそうだとかとは全然、方向性の異なる窮地である。風呂釜が再び壊れたということともまた違う。少なくとも、正に今何が起きてこの身がどういう状況なのか、どう行動すべきかを考えるいとまが予には舐める程も残っていないことは断言できよう。即ちそれが危険な状態であることを、予は神として生理的に、本能的に感じ取ったのである。それとは如何にも、我にもあらずくしゃみをしそうだということである。

 神々がくしゃみを起こすと俗世に何らかの誘発効果を及ぼすことから、「日本国大明神議會にほんこくだいみょうじんぎかい」においてかね御法度ごはっとである。万が一懲罰を受けるということである。しかし神々というものは普通くしゃみをしない。神たる威厳があればくしゃみなどしなくて済み、くしゃみなどしない事実が神たる威厳をかたどるのだと三柱みはしらの神達は仰っていたが、斯許かくばかり何の工夫もない循環論をハナから信じた阿呆神などいる訳がなかろうし、例え予が一層権威を持っていたとしても流石にこんなにも身体が冷えてはくしゃみのひとつ位出るだろうと思った。

 言い訳を枚挙する他取り付く島もない予は、遂に大きなくしゃみを浴室一杯に鳴り響かせた。

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