或る大学生の不幸な黄昏
私が彼女の潔い平手打ちを食らったのは、秋の、丁度世の女性がそれはそれは様々な事情でおセンチになっている時期に徐々に冷たさが増してくる静かな校舎の廊下での出来事である。私は生まれてこの方初めてビンタというものに見舞われたのであるが、手が頰に触れた瞬間頭の中が硝子細工の様になる感覚が、私には痛快に感じられたのである。その趣は私のマゾヒスティックな部分によるものではなく、そもそもその様な不埒な部分など私には存在しないのであるが、少なくとも飽くまでまだ来たるべき痛みを感じていない今だからこそ言えることであろうと思われた。
しかし私はそれと同時に、それ以上に、憤怒に駆られていたのである。この様な運命になってしまったのは勿論、彼女が私を護摩の蝿的なものとして見ているからに相違はないのであるが、元より懲罰を科せられる立場にあるのは実のところ私ではない。薔薇色たる我が学生生活に泥を塗りたくる存在が、私の裏には潜んでいるのである。彼奴は私の行く道を冀求の随意にひん曲げ、私は私が彼女と共に行く道にだけはそういうものの影響が及ぶことを畏れていたのだが、遂に最悪の事態になってしまったということである。
痛みはぞわぞわ襲って来た。それは平手打ちの衝撃や季節の寒さの様な凛乎たるものではなく、身体並びに魂魄を徐々に蝕む様なタチの悪いものであった。
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下宿に辿り着いた頃には、既に空も雲も漆黒に塗り潰されて見分けがつかなかった。今年で廿回目の秋を迎えた訳だが、その昼夜の温度差には尚、相容れない。室内には屋外に引けを取らぬ滞留した冷気が満ちていた。間もなく、汗やその他諸々の分泌物が染み付いた六畳から、嘔気が身体の底から漲る臭いが鼻と喉の辺りの感覚を毀傷した。半ば朦朧とし、千鳥足でティーポットと買い溜めたカップ麺の城が聳える机に向かって回顧に耽る。
彼女とはこの春知り合った。
花粉症が理由で私が毎年通っている耳鼻科への道は広大な河川に沿っている。その日もその日とて鼻口をマスクで覆い、耳鼻科の御医者目指して土手を歩いていた。すると私は背後から女性に声をかけられた。
「毎週この道、通ってますよね」
左様、洟が詰まっていつでもどこでも啜っていたばっかりに洟水が耳に廻って溜まり、三半規管の骨の一部を溶かしつつある重症に私が陥っていると先生がいうものだから、いても立ってもいられずこうして毎週通っているのである。その通告には耳を疑った。洟水なんぞで骨が溶ける訳なかろうと。しかし、これ程怖い話を聞いた試しがなかったものだから一生懸命治す努力はしている。とはいえ鼻紙要らずのコンビニエント対策である鼻啜りが許されないのは辛いよなァ……と心中で呟いたところを再度呼ばれた。
「あれあれ、ロイド君、だよね? 聞いてますか」
その誰何にこそ耳を疑った。女性は疎か同級生と話す機会さえおおよそない私が街中で自分の名を呼ばれる訳がなかったからである。一寸の狐疑逡巡の末振り向いた先にいたその女性こそ、彼女である。対面を果たした後暫時会話した。初対面であったから私の本名を知っていることには些か警戒したが、同学年であると後に語られ愁眉が開けた。彼女は運動部所属で、自主トレの休憩を土手で取り、毎週マスクの私を目撃していたのだと語った。かくドラマティックな邂逅を迎えたことに私は運命を感じ、その後の語るに堪えない逢瀬を経て我々の交際はいつとはなく開始した。あの状況で私の様な凡人未満を相手に話し掛ける行為は、物好きな彼女にこそ可能な所業だと思われる。私を選んだ所以については流石に含羞が立ち塞がって聞く機会を損ね、不明のままである。
燃えるあの頃を懐古して頰が熱くなった。今更回顧に懐古を重ねて何になろう。不覚。
私は残りの冷めたアールグレイを一息に飲み干して万年床に潜り込む。
……今夜はどうやら長いらしい。
初投稿であります
些か緊張しております