甘美なユリ
求めよ
信じよ
されど
殺人が罪でないなら、なぜ人を殺してはいけないのだろう。
大切に育てた薔薇の花冠を引き千切りながら、ハンスは考える。殺されたくないから、という理由ならば、殺されてもいい人間には殺人が許されるのだろうか。
薔薇を籠に詰めながら、ハンスは考える。殺されることに恐怖はない。殺すことに罪悪感もない。美しいモノを王家に捧げているのだから、悪いことはしていない。神も美しきモノを早々に近くに置けて、お喜びになっているだろう。
薔薇を並べながら、ハンスは考える。けれど死ぬことは恐ろしい。死の痛み、墓という拘束、体を包む深き闇は何より恐ろしい。神の御許に行けるのだろうか、行ったとして果たして神に認められるのだろうか。死後どうなるか分からない、という無知への恐怖。死とは、かくも恐ろしい。
美しきモノを運びながら、ハンスは考える。自分にとって恐ろしいものが、他人にとって恐ろしいとは限らない。彼等は感謝さえしているかもしれないのだから。
薔薇の上に美しきモノを横たえて、それでもハンスは考える。なぜ誰も理解してくれないのだろうか。王家や神に、美しいモノを捧げているだけではないか。それなのになぜ誰も理解してくれないのか。
なぜ人を殺してはいけないのだ。
ハンスには、人に必要とされた記憶がない。
貴族の生まれだったが、父親が爵位を剥奪され、庶民に身を落とした。優秀だった兄は侯爵家に養子に取られ、美しい姉と妹は早々に他所へ嫁ぐことで特権を維持したが、ハンスを欲しがる者はいなかった。貴族としての教養はあったが、庶民として生活するのに役に立ちはせず、まともな仕事は見つからなかった。結局ハンスでなくてもできる、奴隷のような仕事に就き、日銭を稼ぐ日々だった。父親は蒸発し、母親はハンスを心配したまま、病死した。
父親に捨てられ、特権階級を追われ、庶民の世界にも居場所はなかった。兄弟達が手を差し伸べることはなく、母親もハンスを信頼してはいなかった。誰もハンスを必要としてはくれなかった。
孤独は人を狂わせる。ハンスの欲望はまともな形で表出することはなく、かといって昇華されることもなく、彼の細い体躯の中で、ただ形を歪めていた。彼の承認欲求は、自己顕示欲は、自尊心は、満たされることなく、器にひっそりと毒も盛っていた。
生きることに意味は見出せなかった。自分を必要としないこの世に、絶望し失望した。しかし、死ぬこともできなかった。薔薇の棘を心臓につき刺し、甘やかな香りで首を絞め、枝で頭を飾っても、ハンスは死ななかった。偏に、死が恐ろしかったから。
醜い欲望は、美しきものを造ることで水面に浮上した。王家と神に捧げることで、爪痕を遺し、あるいは周囲の認識を得ようとした。母親の墓の上で薔薇を育て、愛するべき子羊を捕らえ、贈り物を造った。
だが、ハンスの歪な美学を理解する者は、いない。
ステンドグラスから注ぐ月光が、床の木目を照らす。太陽の光とは違い、夜の光は冷たい。
横たわる贈り物の隣に跪き、蝋燭に火を灯す。森の奥の忘れ去られた教会。神への贄が、朧げに照らされる。
木板の隙間を抜けた風が、蝋燭の火を揺らす。寒いと淋しいは似ているね、誰かが言った言葉を唱える。
指を組み、頭を垂れ、神への祈りを謳う。虫の音にも負けそうな、小さな声が、隙間風と共に教会を去っていく。
そうして、懺悔にも似た口調で、彼は言うのだ。天を仰ぎ、贄の頭上、ステンドグラスの向こう、そこにいるだろう神を見つめ、渇望を目に湛えて、不幸の滲む擦れた声で、ハンスは
なぜ、人を殺してはいけないのですか
と口遊むのだ。




