第3話「異世界の日常」
体の痛みを感じて起きると壁の隙間から、それこそ木漏れ日の如く射し込んだ陽光ですぐさまに覚醒した。
手持ちには剣が一本、鞄と筆記用具に、美少女黄金水にボッキーがひと箱。
スマホは使い物にならないから電源を落として封印。
スーツの上着は脱いで、比較的綺麗な所に置いてある。
心もとない。
腐っていても仕方ない。
今の俺は零からのスタートだ。
この身一つ、失う物なんて何もない。
マイハウス納屋から出ると、暖かい陽ざしに当てられて無意識に大きく伸びをした。
美少女黄金水を飲み干して適当に体を解していると、老剣士アルバがやって来た。
朝からチェインメイルにマントとは、肩が凝りそうだ。
何やら言われたが、おそらく挨拶だろう。
それを覚えて、復唱する。
こうしてひとつずつ単語を覚えて行けば、最低限の会話は出来る様になるだろう。
納屋に戻って紙とペンを出し、今の単語とその意味、発音を書き記しておこうと考えた。
しかし机も無い。
どうしたものかと鞄を漁っていると、クリップ付きの下敷きを見つけ、紙を挟み込んで書き記す。
キーボードを叩く仕事ばかりとなっていたせいでめっきり使わなくなっていたが、これは有用だ。
アルバが入室して来て、部屋の隅から桶を二つ取り出して俺に持たせた。
そして壁に立て掛けて置いた剣を指差して、腰を叩く。
どうやら帯剣しておけという事らしい。
いざ剣を帯びると、すぐに手招きされて両手に桶を持って外に出る。
もう皆活動を開始している様で、注目というか、探る様な視線を浴びつつ村を出る。
そのままアルバについて行くと、村の脇にある森林地帯に踏み込む様だ。
森林を歩いて三十分程したか、若干くたびれた俺が辿り着いたのは大きな河原だった。
開けた先に見えた川は透き通り、産業廃棄物とは無縁に自然のままの水質は一目で美しいと思える。
上空には鳥が群れて飛んで行くのが見えた。
こうしていると、とても化け物が居る世界とは思えない。
それにしてもわざわざ川に連れて来られたという事は、この世界には水道はないのだろう。
朝にはこうして水を汲むのが日課になりそうだ。
飲んでみると、美味い。
いや、喉が渇いていたせいだろう。
本来煮沸消毒して飲むべきなのだろうが、この綺麗さなら大丈夫なのではないかと思ってしまう程だ。
しかし油断は禁物だ。
身一つという事は、体を壊せばそこでお終いだ。
まだこの世界に来て一日目。
温存された体力がある内は大丈夫だろうが、出来るだけ煮沸した水を利用するべきだろう。
二つの桶に水を汲み、アルバの先導で村へと戻る。
桶二つ分の水、それだけでかなり体力が持って行かれた。
汗だくだ。
これまでどれだけ楽な生活を送っていたかと痛感する。
そのままアルバについて歩き村長宅まで辿り着くと、突貫で直された扉を開けて入って行く。
俺も続いて行くと村長が出迎えてくれたが、ベルは居ない。
部屋で塞ぎ込んでいるのかもしれない。
アルバに指示されて桶の水を部屋の隅の瓶へと移すと、村長に何やら言われた。
突然の事で聞き取れなかったが、感謝の言葉だろうか。
それから汗まみれの俺を見て、隣の部屋からいくつかの衣類を持って来て手渡された。
もしかすればあの戦死した男が生前着ていた服かもしれないが、ありがたく貰っておこう。
それからアルバに誘われるまま神殿に向かう。
昨日と違い、それぞれの女神像には祈りを捧げる人が居る。
朝の日課だろうか、各々分散している為すし詰めという程ではないが、この村にもなかなか人が居る様だ。
そのどれもが良い体つきをしている。
どうにもがたいに多少の自信があった俺でも、この世界で男として生きるには足りていないと見える。
アルバもまた目を瞑った女神像に祈りを捧げ始めたので、観察しておく。
片足を立膝に手を組むのが正式スタイルの様だ。
観察といってもそれだけでやる事が無くなり、俺は所在無く仕方なしに神殿で唯一人気の無い一角――あの澄ました目つきの女神像へと向かう。
慣れない立膝をしようとしたらバランスを崩してこけそうになったので、あぐらをかいて手を合わせる。
この人気の無い女神像で練習して、後々慣れていけばいいのだ。
という事で今日も邪な祈りを捧げる。
朝飯寄越せ、朝飯寄越せ。
そんな祈りは届くはずもないのだが、代わりに頬を撫でる風が吹いた。
目を開けると緑の髪の――昨日の少女が居た。
先程までは居なかったはずだ、何処から湧いて来たんだ。
呆気に取られていると、また昨日と同じく腰に手を当てて説教するが如く何やらを言い始めた。
「もう弁当は残ってないぞ」
またビンタされてはたまったものではないので、それだけを言い残して立ち去る。
先に祈りを終えて神殿の入り口で待っていたアルバの下へ向かうが、どうにも神殿内の視線がこちらに向いている。
一様に俺を見て、続いてその遥か後方を見ており――振り返ってみると、少女が悲しげにこちらを見ていた。
今後神殿に来る度に捉まるのだろうか。
一度餌付けしてしまったものだから邪険にも出来ず、俺は手を振り、アルバは会釈をし、共に神殿を出た。
歩きながらアルバに何やら言われたが、恐らくあの少女関連の話だろう。
首を振って返しておいた。
村長宅へと引き返すと、ベルが居た。
吹っ切れたのだろうか――いや、この世界では落ち込んで引き籠るなんて出来ないのだろう。
何やら家事をしている様だ。
軽く会釈して、椅子に座ったアルバに手招かれ俺も座る。
ベルを眺めていると、どうやら調理中だったらしい。
台所も併設してあるので、炉に火を点けて何やらを鍋で作っている。
火は魔術で点けられたもので、やはりあれが使えなければ苦労しそうだ。
しばらくして出て来た料理は、野菜のスープと、何かごろっと大きな黒い――虫だった。
冗談だろうと見渡すと、全員当たり前の様に食べていた。
虫を食うのか、虫を。
イナゴとか、それに近い形状だが、拳ほどの大きさがある。
多分甲殻と羽は毟られているのだろう。
背面は剥き出しになっており、火がよく通っている。
木製のスプーンで塩っぽい味のスープを飲んで覚悟を決め、虫を手掴みにする。
頭部から噛み付くと、カリッとした触感の後、ぐにゃりと嫌なとろみが口いっぱいに広がった。
何だろう、青臭い。
辛い。
しかしここいらの男達があれほど逞しいという事は、栄養はあるのだろう。
倒れる訳にはいかないので、出された三匹の虫をスープで流し込んだ。
食後に林檎の様な果物が食べられたのが幸いだった。
熟していない物で酸っぱかったし、一つを四人で分けたから四分の一の量だったが、虫と比べればその見た目も味も天と地の差だ。
いくら偶像崇拝が盛んだからといって、神殿で山積みになった供物の肉なんかは女神像に捧げるより自分で食べた方が良いに決まっている。
だから祈りを捧げているのは例えば豊穣の神とか、狩猟の神とか、そういったものなのかもしれない。
それならば、今日より明日の為に供物を優先するのもおかしくはない。
無論それは神という存在を信じているならばの話だが。
神を信じていない俺にその心を推し量る事は出来ないのだろう。
その中で人気の無いあの澄ました女神像は、そういった生活とは関係無い部分を司る神なのかもしれない。
何にしても、今の俺にはあの女神像は良い練習相手だが。
朝食を終えると、アルバに連れられマイハウスこと納屋の前へと戻った。
アルバが土を隆起させて見せ、なるほど、俺に魔術を教えてくれるつもりらしい。
だとすれば、俺をこの村の戦力として鍛えてくれるという事ではないだろうか。
この世界では他に居場所は無いし、ありがたい。
とはいえいくら真似てみても土を隆起させるなんて出来ない訳で。
まず俺には魔術の知識が無い。
そしてその知識を得る為の言語能力も無い。
この世界で最低限の衣食住は整ったが、まだまだ問題は山積みだ。
日が天に昇るまで……つまり午前中は、アルバに火、水、土、風と一通り見せて貰いつつ何か出ろと念じて力んでいたが、結局無理だった。
午後になると剣の修行となり、木剣を手にアルバに付きっきりで教わる。
アルバは相当歳を取っているだろうが、これほど元気なのは凄い。
木剣とはいえ人へ向ける事に恐る恐るだったが、アルバが俺よりも格段に強い事がわかってからは本気で振っている。
それでも簡単にいなされてしまうのだ。
あの緑の化け物を斬った時の様にコンパクトに纏めているつもりだが、それでも簡単に受けられてしまう。
これまで剣なんて握った事の無い俺だから、これは技量の差なのだろう。
しかしカウンターで腹に一撃を貰ったりすると、それで数分ぶっ倒れる。
アルバはかなり手加減している様なのだが、威力がおかしい。
根本的に何かが違う様に感じられる。
それにしても、この世界での太陽が地球と同様の動きだったのは幸運だった。
昨日夜が来た時点で気付けたはずだったが、いくら冷静に周囲を見ているつもりでも、やはりどこかで気が動転していたらしい。
生活習慣としては、朝に水汲み、朝食を食べそれから延々夕暮れまで修行、夕食を食べ一日が終わるといった感じだ。
そう、昼食が無い。
腹が減るのも問題だが、もっと問題なのは俺が日本人だという事だ。
日本人は基本的に筋肉の肥大には向いていない民族だ。
これは遺伝子レベルの問題なので仕方が無い。
筋肉の肥大化には栄養が必要だが、この食事量ではその栄養が足りていない。
俺はどちらかと言えば筋肉質で体格も恵まれているが、それでもこの世界基準で見れば子供の様なものである。
そもそもとしてデスクワークばかりしていたのだから、筋肉も劣化していたのだ。
体格は絶対の力だ。
勿論最低限の技術が無ければ緑の化け物に殺されたあの男の様に何も出来ずに殺されてしまうが、逆にどれだけ技術があっても、真っ向から打ち合う事態になれば明確な力の差が勝敗を分ける。
だからもしものリスクを潰す為にも筋肉を付ける必要がある。
筋肉の肥大に際し重要なのは良質なタンパク質だと聞いた事がある。
摂取するならやはり肉だ。
鳥が飛んでいた様に化け物ではない生物も存在する様だが、今の俺にはそれを狩るだけの力が無い。
それでも手に入れようというのなら神殿で女神像に捧げられた供物を頂くというのが手っ取り早いが、さすがに犯罪行為に手を染めるのは――といってもこの世界ではどうだか知れないが――気が咎める。
であれば魔術での狩りが最速だと思う。
弓矢でもあればまた違うのだろうが、そもそも使えないし、狩りを行えるだけの肉体作りと技術を磨くには時間が掛かり過ぎるからだ。
魔術での遠隔攻撃が出来る様になれば、知能の低い生物は簡単に狩れるだろう。
日も沈み、この世界の服へと着替える。
だぼっとした俺には大き過ぎるシャツとズボン。
パンツはブリーフタイプで何とかずり下がらないが、ズボンごとベルトで押さえておく。
この大きさは、やはりあの男が着ていた物なのだろう。
あの男には悪いが、あんな死に方はしたくない。
だから今後の計画を建てて行動していく。
まず衣食住は揃った、僥倖だ。
次に剣術を磨きつつ、それよりも優先して魔術の習得に力を入れる。
剣術訓練により体は引き締まるだろうが、肉を得られならなければ体格を大きくする事は出来ないと思った方が良い。
またいつ緑の化け物が襲って来るとも知れないから、とにかく早めに自己防衛が出来るだけの力を付ける必要がある。
今もまた、壁の隙間から射し込む月明かりだけが微かな光源の納屋で、魔術の復習をしている。
復習といっても、どういった物だったかと俺なりに分析し、解明しようと足掻いているだけだ。
いくら力を籠めても無駄なのは今朝の訓練で理解した。
だから根本的に発想が間違っている可能性がある。
手練れな雰囲気のアルバは元より、戦士ではないベルでさえ簡単に魔術を行使しているのだから、何かもっと、自然に使える物のはずだ。
あの男が使った赤い剣閃も気になる。
剣と魔術の合わせ技だとしたらどうだろう。
例えば、そう、人が当たり前に筋肉を使う様に、ごく自然に――。
血流の流れなんかはどうだろうか。
元の世界でも気だとかいう体内を廻る謎の力を表現した発想があったくらいだし、考えとしては遠くないのではないかと思う。
久々にハードな運動をした一日だったが、心地良い疲労に体から力を抜いて魔術を考えていると、いつの間にか眠りに落ちていた。