第2話「風を抱いた少女」
「出るな! 頼むから出ないでくれよ」
言って伝わる訳ではないが、椅子から立ち上がったベルを手で制して立ち止まらせる。
俺の斜め後方には地面に皮と肉と、血と――原型も遺らぬ程に頭を叩き潰されて無残に散った男の死体がある。
今見せて、ベルが駆け寄ってしまって――そうして緑の化け物が襲い掛かってきたら、俺は守る事は出来ないだろう。
俺はただのサラリーマンだ。
運よく化け物を始末出来たが、不意打ちだからこその成果。
赤い剣閃が使える訳でも魔術が使える訳でもないから、専守防衛に努める。
叩かれる様な異常な胸の高鳴りを感じつつ、嫌に鋭敏になった感覚で村長宅の玄関前で周囲を警戒し続けた。
熱狂の雄叫びと、打撲音と炸裂音と、色々なものが耳に届いて、その度に剣を構えて――。
どれほど経ったかは知れない。
結局此処まで化け物が辿り着く事は無く、あの一体を除いて柵の向こう側で全てが処理されていた。
戦いが終わり、ベルは泣いていた。
戦闘に駆り出されていた男達が帰って来た事で安全が確保された。
そしてあの男の死体を見て、泣いたのだ。
俺は村長宅の壁に背を預けて、ぼうっとそれを眺めていた。
頭が砕けた男の胴体に縋り付いたベルは、泣き止む所を知らなかった。
あれはどうにも、恋人だとか、そういった存在だったのかもしれない。
泣き続けるベルを置いて、ビニール袋と鞄を回収した俺は村長宅へと戻る。
村の入り口を警備していた槍男達に囲まれ報告を受けていた様子の村長は、俺が右手にぶらりと構えた剣を見ておもむろにそれを手に取ると隣の部屋へと持って行った。
装飾の無い簡素な鉄の剣は、塗れた青い血にただ虚しく滴っていた。
村長が布でその血を拭い、鞘に納めて渡してくれた。
俺が使った、目前で討たれたあの男の剣だ。
あの男の無念を晴らしたから貰えたのかもしれない。
腰に剣を帯びて、とうとう本格的にサラリーマンではなくなってしまった。
「俺は、どうすればいいんだろうな」
その言葉に応える者は居ない。
電話を掛けようだとか、そんな馬鹿な事を考えていたのは浅はかだった。
そもそもあの平原に居た事自体がおかしいのだから。
俺は多分、これからもああいった化け物と戦いながら生きるしかない。
何故なら此処――この世界では俺に仕事は無い。
住む場所も無い。
食料も持って二日、三日といった所か。
ああ、いや、冷蔵庫も無いから、一日か。
絶望的だ。
だがどこか、すっきりとした気分でもある。
化け物を殺し、しがらみから解き放たれたと実感してしまったからだろうか。
驚くべきは、俺がこれほど現代社会に嫌気が差していた事か。
「村長さん、俺をこの村に住まわせてくれませんか」
ガリガリと家の絵を描いて、俺自身を指差してその絵を村長に見せた。
しばらく悩んで、村長は頷いた。
言葉は通じないが、多分了承してくれたのだろう。
それから村長は手を組んで、祈る真似をして見せた。
俺が首を傾げると、村長も、周囲の槍男達も呆れ顔で乾いた笑いを漏らした。
憐れんでいる様にすら感じられる。
報告が終了したのか、槍男達が村長宅から出て行くと、村長に手招きされて続いて俺達も外へ出る。
村長はベルが号泣している事に気付いてそちらの対処に向かってしまった。
話せないというのは不便だ。
しばらく眺めていると、ベルが泣き止まないと悟った村長は付近に居た老剣士に何やらを話し、その老剣士が俺の下に来た。
「アルバ」
「カザミ」
お互いに自身を指差して、酷く簡素な自己紹介を終えた。
老剣士、名をアルバというらしい。
白髪で皺の多い顔から相当歳が行っている事は推察出来るが、身長は俺よりも高くがたいも良い屈強な老人だ。
フード付きのマントを羽織っており、中にはチェインメイルというのだったか、鎖帷子を纏っている様だ。
手練れの剣士なのだろう。
アルバは俺に何やらを話すと、俺に確認する様に魔術を使い始めた。
言葉が通じないのは村長から聞いているのだろう。
アルバが魔術を使い、俺が反応する形だ。
アルバが指先から火を出し、俺は首を振る。
アルバが掌から水を出し、俺は首を振る。
アルバが土を隆起させ、俺は首を振る。
知らない。
恐らく俺にどの様な魔術が使えるかという確認なのだろう。
残念ながら全て使えない。
顎を擦ってアルバは俺に手を向けた。
何かされるのかと警戒した途端、微風が俺の顔を撫でて行った。
「知っている風だ」
俺をこの世界に呼び込んだ、あの風に似ている。
首を振らなかったからか、アルバは溜め息を漏らして俺の肩に手を置いた。
まるで残念な者に対した様に、軽くポンポンと叩かれて、俺は首を傾げた。
肩を竦めて見せると、アルバはついて来いという様に手を大袈裟に振って歩き出した。
どうしたものか、やはり簡単に家などを提供して貰える訳はないか。
そう思いながらついて行くと、村長宅のすぐ脇に在る白い石造りの建物に辿り着いた。
この村ではかなり浮いた建造物だ。
入り口には扉等は無く、開けたそこから入って行くと広い正方形の部屋。
大きさはかなりの物で、人が五十人は余裕で入れるのではないだろうか。
「俺の家?」
自分を指差して聞いてみると、アルバは困り顔で笑って見せた。
言葉は通じなくとも言わんとしている事は伝わったのか、どうやら俺は馬鹿な事を言っているらしい。
訳もわからず再三に首を傾げて見せると、アルバは頬を掻く。
本格的に悩んでしまった様だ。
といっても俺にもどうしようもないから、とりあえずこの部屋を見渡していた。
四方の隅に何やら小さな石像が建てられており、その前には供え物がされている。
日本で言うお地蔵様の様な物だろうか。
だとしたらこれに祈るのが普通なのかもしれない。
それを知らないから、常識が無い奴として扱いに困っているのだろうか。
石像はそれぞれに見た目が違うのだが、どれも女性を模した像だ。
布を羽織っているだけの成人女性といった感じで、この世界ではこういった偶像崇拝がされているのかもしれない。
神様に祈りを捧げるなんて、都合の良い時に冗談半分でした程度だし、米にも神様が宿っているから残さず食べないと罰が当たるぞ、みたいな躾の意味での考えしか知らない。
それにしてもこの女性の像――女神像とでも言おうか、見た目だけでなく供え物にも差がある。
力強い目つきの女神像と、優しげな目つきの女神像には多くの供え物がある。
食用であろう植物に始まり、芋の様な物や、動物の肉らしき物だったり、それはもう溢れんばかりだ。
穏やかに目を閉じた女神像にはそれなりの量の供え物。
積み重なる程ではなく、これが普通だろう。
澄ました目つきの女神像には供え物の欠片も無い。
あんまりではないだろうか。
ともするとその表情も必死に澄まして見せている様で泣ける。
異世界に来て女神の格差社会を垣間見る羽目になるとは思わなかった。
コンビニ袋から二つ程摘み食いしてしまったからあげちゃんを取り出して、ジェスチャーで供えて大丈夫かと確認してみると、アルバは頷いて答えてくれた。
やはりこの世界では偶像崇拝が普通らしい。
俺も慣れておいた方が良いだろう。
供え物が無いあの女神像に向かうとアルバが呟くように何事かを言い出したが、特別止められた訳でもないので、しゃがみ込んでからあげちゃんを紙パックごと置いた。
そのまま二回手を打ち鳴らして、目を瞑って願う。
ご利益よこせ、ご利益よこせ。
この女神像を選んだのは、他の充実した女神生活を送る像よりご利益が大きそうだからだ。
何せこの女神像は人気が無い。
血涙を流しながら俺にご利益を与えるはずだ。
いや、女神が居るなんて信じてはいないが、満腹な相手より腹を空かした相手に渡した方が感謝も大きいだろうという至極単純な考えだ。
感謝ついでに魔術を使える様にしてほしい。
あと家と金と、色々くれ。
そうして手を合わせて片っ端から願い事を念じていると、何やらふわりと風に頬を撫でられて、目を開けた。
「女神……にしては小さいな」
目前に少女が立っていた。
緑の長髪に緑の瞳、白いワンピースを着た、澄ました目つきの少女だ。
しゃがみ込んでいた俺をその小さな背丈で見下ろして、腰に手を当て尊大な態度で何事かを語り掛けて来る。
見た目に反して落ち着いた声色で、透き通って聞こえて来る。
しかしだ――。
「可愛くねえ」
顔立ちは人形の様に整っていて将来別嬪さんに育つのだろうが、その鼻につく態度が気に食わない。
こういった子は、下手に美人なものだから甘やかされて酷い人格に育つと相場が決まっているのだ。
死んだ目で少女の言葉を右から左へ流していると、少女はからあげちゃんをチラチラと見始めた。
腹が減っているのか。
この村で暮らす上で、この少女が隣人となる可能性もある。
今の俺は会話という人類において最強のコミュニケーション手段が欠損しているから、こういった機会は逃さず仲良くなっておいても良いかもしれない。
小さな子を食べ物で釣って外堀から埋める作戦。
「アルバ」
しゃがみこんだまま振り返って見ると、アルバは口を半開きにして立っていた。
「アルバ!」
はっとして反応したアルバが何事かを言う前に、からあげちゃんを指差して、少女を指差す。
すると言わんとしている事がわかったのか、首を激しく縦に振った。
赤べこみたいだ。
女神像の前に供えたからあげちゃんを取ると、少女は悲しい表情をした。
貰えないと思ったのだろう、年相応に可愛い所もある様だ。
爪楊枝で一つ唐揚げを刺して、少女の前に出す。
「あーん」
食べさせようとしたのだが、意味が伝わらなかったのか少女は首を傾げた。
こういった文化は無いのかもしれない。
口を広げて見せつつ「あーん」と言うと、少女は表情をぱっと明るくして口を開けた。
今の俺は最高に馬鹿な顔をしていたと思うが、言葉が使えない以上無様でも伝われば勝ちだ。
口いっぱいに頬張って幸せそうに破顔した少女。
思わず俺も綻ばせると、突然キッと表情を戻して腰に手を当てると尊大な態度を取った。
その微かに染めて膨らませた頬では、全然締まらない。
どうやら俺に素の表情を見られて恥ずかしがっているらしい。
面倒くさい年頃の様だ。
もう一つ口元に運んでやると、ちらちらとそれを見て、次第に喋る速度が緩慢になっていき、とうとう頬張った。
相当に腹が減っているらしい。
実在するかも知れない女神より、この子に与えた方が余程有意義だろう。
そういえば俺もまともに食事をしていなかった。
気温はそこまで高くないが、腐る可能性のあるのり弁と、溶ける可能性のある乳見大福だけは早めに食べてしまいたい。
しかし此処は一応女神像が安置されている場所だし、本格的に食事をすると何かしらお咎めを受けそうだ。
外へ向かって指を差して退出を促すと、少女はゆっくりと首を振った。
どうやら出たくないらしい。
此処に住み着いたホームレス少女だろうか。
いやいや、アルバが引きずり出したりしないという事は、この少女も祈りに来ただけなのかもしれない。
何かしら出れない理由があるのだろうが、知る術はない。
「アルバ」
のり弁を取り出して指差し、少女を指差し、これを此処で食べて良い物かとアルバに問いかけると、再び赤べこの如く頭を縦振りした。
「一緒に食べるか?」
壁際にあぐらで座り込んでのり弁を開封すると、少女は目を輝かせて隣に座った。
箸を取り出し、白身魚のフライを半分に分けて少女の口に運んでやると、箸を不思議そうに見てから頬張った。
箸は珍しいのだろうか。
この世界ではフォークやスプーンといった西洋食器が普及しているのかもしれない。
海苔の乗った米を食べさせようと思ったが、そういえば海外では人によっては海苔が分解出来ないとか聞いた事がある。
海苔を剥がして食べさせてやると、微妙な反応だった。
米は好きじゃないらしい。
それからおかずを半分ずつ食べさせたがまだまだ食べられる様で、俺が残りを食べている際も目を離さない。
「これも食べる?」
乳見大福の蓋を開けると、先端が桃色に染まるふたつの大福が入っている。
餅の様な生地の中にアイスが包まれており、未だ微かにひんやりと冷気を放っている。
それでも溶けかけには違いないから、早めに食べてしまおう。
少女の口に運んでやると、半分だけ齧り、その生地の弾力に驚愕しつつ溶け出たアイスで口元が汚れてしまった。
残った半分を箱に戻し口元をハンカチで拭いてやると、左方から突風が吹いて突然視界が明滅し、直後に左頬に痛みを覚えた。
この少女に高速でビンタを食らわされたらしい。
その振り切った右手は緑色の光を仄かに纏っており、どうやら先に見た赤い剣閃の様な技なのかもしれない。
だとすれば風を操る魔術のビンタだろうか、全然見えなかった。
「いってーな、何すんだよ」
理不尽だ。
顔を真っ赤にして何事かを言っているが、ひとつも聞き取れないので死んだ目で見ながら聞き流す。
よくわからないが、この世界では男女での触れ合いはご法度なのかもしれない。
相手が子供で良かった。
面倒くさいので放っておいて自分の分を食べていると、次第に声が小さくなり、すり寄って来た。
残っていた半分を食べさせてやると、満足そうに味わっている。
子供は現金だ。
「はい、終わり。ばいばい」
箱をコンビニ袋にしまい手を振ると、それを無視して俺の服やら鞄やら、色々な所を観察し始めた。
どうやら今まで俺が普通ではない事に気付いていなかったらしい。
よほど空腹だったのだろう。
「アルバ、この子どうすればいいんだ」
俺の困惑の表情を見て、アルバは溜め息をつく。
溜め息をつきたいのはこちらなのだが、俺は立ち上がって、もう一度少女に手を振って建物入り口のアルバの下へと向かった。
アルバが頭を下げて礼をしたのでその視線を辿って振り返ると、少女がまだ俺を見ていた。
よく動物に無責任に餌を与えちゃいけないと言われるが、その意味がわかった気がする。
もう一度手を振って、寂しげな表情をした少女を置いてアルバと共に外へ出た。
その後村長宅に向かい、アルバが何やらを熱心に村長へと話し、俺はひとつの納屋の様な家を割り当てられた。
村長宅の隣、調度あの女神像が在る――神殿とでも言おうか、村長宅を挟んで神殿の反対側だ。
納屋の様な、と言ったが、これは納屋だ。
木の板で簡素に作られた壁と、土が剥き出しの床と――中には農具がいくつか置かれており、鍬や桶など、完全に倉庫だ。
それらをアルバと共に隅へと片付け、どうにか生活スペースを作り出した。
食は不明だが、少なくとも服はあるし、住み家も確保した。
これで雨ざらしに誰とも知れず死んでいく事態は回避出来ただろう。
俺はこの世界で生きて行く。
決心したのは緑の化け物を殺した瞬間だった。
此処では残業に苦しむ事は無いが、生活自体は決して豊かではないだろう。
それでも、この歳になって初めて生きている実感が湧いた。
だから剣を取り、この世界で生きて行く。
明日からの不安を期待に変えて、硬い床で眠りについた。