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第1話「風が泣いた日」

 最低限の仕事だけをこなし、昇進もせず暮らす、何処にでも居る平凡――よりちょっと下の社会人。

 二十四歳、独身男性。

 黒髪黒目、至って普通の日本人。


 唯一誇れるのは体格に恵まれた事か。

 身長はそれなりだが、がたいが良い。

 よくがっしりしていると言われるタイプだ。




 そんな平社員の俺だが、キーボードを叩いて書類を作って、既に半月近く残業続きだった。

 今日もまた残業に明け暮れて、スマホを見れば時刻は二十三時を回っていた。

 スーツ姿のまま街中を行く。


 終電に乗り遅れ、とぼとぼと歩く帰り道。

 街灯に照らされた道は夜も眠らぬという奴で、行き交う人々も多種多様。

 この現代社会において朝も夜も関係ない。


 職場の近くに引っ越せば移動の苦労も無くなる、何て思ってしまうが、金銭的な問題が大きい。

 車などは以ての外だ、維持費が掛かり過ぎる。

 手に持った黒革の鞄をぶらつかせて、視線を流すとコンビニが目に入る。


「寄るか」


 行儀が悪いが、歩きながら食べられるからあげちゃんを買う。

 紙のカップに入れられた唐揚げに爪楊枝が刺さっただけのお手軽ジャンクフードだ。

 帰宅後に食べる遅い夕飯も購入するが、のり弁くらいしか残っていなかった。


 後は甘い物だ。

 頭が糖分を欲している。


 もちもちで肌色の皮に包まれた天辺が桃色のアイス、乳見大福。

 先端が膨らんだ棒状のクッキーにチョコが掛かったスティック、ボッキー。

 ビタミン豊富な黄色が目印のペットボトル飲料、美少女黄金水。


 完璧だ。


 金銭的に裕福でもないのに、結局こうして散財しているのだから笑えない。

 自炊もするが、最近は残業続きで時間が取れずにいる。

 そうして外食やらで金を使い――完全に悪循環だ。


 だが仕事が最優先だから、どうしようもない。

 ここ半月はそれはもう仕事仕事で、何してんだかなあと思いつつ、残業する毎日だった。

 とても疲労が溜まっているのだろう。


 何故なら今も――。




「うええ……」




 こんな声が聞こえているのだから。


 何処から聞こえているのか、遠く、女性の泣き声だ。

 羞恥も何もない、本気で泣いている声。

 辺りを見渡すと、誰も反応していない。


「勘弁してくれよ……」


 これが幻聴という奴だろうか。

 軽くホラーだ。


 コンビニから出た途端、頬を撫でる微風と共に耳に入って来た声に俺は溜め息をついた。

 からあげちゃんをひとつ口に運び、もにゅもにゅと咀嚼しながら帰路へと戻る。

 歩行に合わせてビニール袋ががさりと鳴り、その合間に女性の泣き声が続く。


 泣き止まない。

 歩いても歩いても、まるで風に乗って届くかの様に声に泣き声が俺に纏わりつき、いつしかその声の下へ向かい歩き始めていた。

 さすがにこれは異常だ。


 幻聴なら幻聴で病院にでも行けば良いが、万が一の事があれば取り返しがつかない。

 最近は物騒だし、尚更だ。

 微風を浴びながら路地へと向かい、水路の脇を通り、橋を渡り――。




「眩しっ」


 河原へと辿り着いた時、強風に煽られて――目を開くと、晴れやかな草原に立っていた。


「からあげちゃんうめえな」


 俺はからあげちゃんを口に運びつつ呟く。

 どうにも見た事の無い草原だ。

 牧場か何処かだろうか。


 というか何で太陽が出ているんだ。


 まさかあの時気絶していつの間にか朝になっていただとか、いや、そもそも何であの声を追ってしまったのか。

 疲労困憊という奴か。

 いかんせんからあげちゃんに幸福な気分を覚える程なのだから仕方ない。


「立ったまま気絶とかいい笑い話になるな」


 自嘲しつつおもむろにスマホを取り出して、驚愕する。

 零時零分――真夜中だ。

 電波無し、オフラインで、此処は何処だ。


 ビニール袋からペットボトルを取り出して美少女黄金水を飲みつつ、しばし悩む事にする。

 美少女黄金水はその豊富なビタミンにより疲労回復の効果があるとかないとか言われているから、考えも纏まるだろう。

 うーん、甘酸っぱい。


 思えば女性の声が聞こえなくなっている。

 という事は幻聴だったのか。

 聞こえなくなったから正常、今の俺は正常だ。


 いや、しかしこれ、もしもスマホの時間がいつの間にかずれて朝になってましたとかだったら厳しいな。

 何故だかオフラインだし、此処ド田舎っぽいし。

 夢遊病という奴を患ってしまったのかもしれない。

 仕事首になったらどうしよう。




 見渡すと、柵に囲まれた集落の様な物が見えた。

 とりあえずそこに行く事にする。


 電柱なども見当たらないのが不安要素だが、他の町の場所でも聞けば問題無い。

 ド田舎でも固定電話くらいならあるだろう。

 電話を借りて、会社に報告しよう。


 集落へと近づくと、どうにも家の作りが粗い。

 窓はガラス張りではなく何やら板を引き上げて棒を挟んで固定するだけのガバガバ設計だし、今時こんな家があるのか。

 木造建築の様だが、屋根には藁の様な物が載っていて、隙間からは微かに煙が出ている。


 火事……ではないよな。

 今も集落入り口の左右に立っている二人の男が滅茶苦茶こちらを睨んでいるし、俺の方が緊急事態の様だ。

 問題なのは、この男達が槍の様な物を持っている事だ。


 槍男は金髪碧眼、長袖長ズボンに、革で出来ている胸当てをしている。

 コスプレにしては嫌にボロい。

 というか骨格が西洋人のそれだ。

 正直話し掛けたくないが、無断欠勤はまずいから、電話でも他の町の場所でも訊ねて連絡手段だけは確保しなければならない。


「すみませーん。道に迷ってしまいまして、お電話お借りしたいのですが」

「ウォンツ!?」

「え?」


 何か言った。

 何か言ったが全く聞き取れない。

 いつの間にか男二人に槍を向けられている。


 怖い。

 見ればこの槍、先端が完全に殺傷目的の尖り方をしている。

 遊びに使うには攻撃的過ぎる。


「ハ、ハロー?」

「チッ……」


 英語で話し掛けたら舌打ちされた。

 英語が下手だとか、そういうのはもはやどうでもいい。

 世界共通語とか言った奴誰だよ、言葉が通じていない。


 何処だ此処は、等と考えている内に、痩せたお爺さんが出て来た。

 シャツにズボンに、髪は薄いがこのお爺さんも金髪で碧眼だ。


 見ていると、何やらを話しかけて来た。

 何語だよ、訳がわからない。

 名刺でも出すか、言葉がわからずとも電話番号でも見せてジェスチャーすれば俺が電話を掛けたいという事くらいは伝わるだろう。


 からあげちゃんをビニール袋にしまい、黒革の鞄とビニール袋を地面に置いてから、ズボンのポケットから黒財布を取り出して名刺を一枚摘む。

 両手でもって差し出すと、今まで以上に警戒された。

 ジェスチャー何て出来る雰囲気じゃない。

 お爺さんが何やらを言うと、槍男の一人がそれを訝しげに見た後奪う様に取った。

 槍男が両面を確認した後、お爺さんに手渡された。


 一息ついて鞄とビニール袋を持ち直すと、お爺さんが変な唸り声を上げたのが聞こえた。

 そうして間も無くもう二人の槍持ちの男が出て来て、計四人の槍男に囲まれて連行された。

 特に取り押さえられるという訳でもないのは、あのお爺さんが取り計らってくれたのだろうか。

 お爺さんが先頭で、その後ろには槍男二人、場違い日本人、槍男二人というサンドイッチの構図だ。

 今更逃げる訳にも行かず、ついて行く。


 よく外国で日本人が狙われるのは、こういった有事の際に一目散に対処出来ないからなのだろうと痛感してしまう。

 事なかれ主義とは言わないが少し危機感が足りてないのかもなあと思いつつ、しかし他に出来る事も無いのも事実で、とぼとぼとついて歩いた。

 家々から出て来た住民にガン見されている。


 そのどれもが金髪碧眼。

 たまに茶髪や赤髪も居る。

 何だよ赤って、茶髪が光の加減で赤く見えるだとかではなく、眉毛まで真っ赤だ。

 さすがに瞳は青色だが。


 もはや日本とは思えないので、命の覚悟もしなければならないかもしれない。

 残業に身を粉にして、最後の晩餐がからあげちゃんとは。

 これがしがないサラリーマンの人生か。




「訳わからん」


 ぼそりと呟くと、眉を顰めた槍男が振り返って面倒くさそうに何やらを言っている。

 多分黙って歩けとかそういった類の言葉だろう。

 小屋の様な家が立ち並ぶ村の中央を突っ切って、辿り着いたのは石造りの家だった。


 お爺さんがにこやかに俺を見て、その家に入って行く。

 現代日本の基準ではあまり見られない建造ではないだろうか。

 此処が未開拓な――近代文明を全く取り入れていない地だと仮定するならば、やはり手作りなのだろう。

 この村では一番に大きく立派そうな建物であるから、さながら村長宅とでも言おうか。


 あのお爺さんが村長だとすれば、この村一番の権力者。

 槍男の様な乱暴者でもないし、最低限の学があると見える。

 名刺を見てピンと来たのかもしれない。

 とはいえあくまで想定でしかないから油断は禁物だが。




「お邪魔します」


 村長宅の玄関から入り、すぐの所が居間だった。

 巨大な木の机に、木の椅子。

 壁は石造りだが、床は木造だ。


 うーん、風情がある。

 こういう家でのんびりスローライフを送りたくなる。

 このまま会社を辞めて蒸発したくなる。


 いや、いかんいかん。

 机の一番奥手に座った村長、多分俺はこの入り口側に座れば良いのだろう。

 床に鞄とビニール袋を置き対面の椅子に座ると、女性がコップを運んでくれた。


「これはどうも」


 見ると十代中盤といった所か。

 例に漏れず金髪碧眼だが、結構美人。

 しかし飾り気のないシャツにズボンという出で立ちだ。

 小さな村だし、あまりお洒落をする文化もないのだろう。

 お爺さんの娘さんだろうか。


 その隣にはムスッとして俺を睨む男も立っている。

 こちらは肉体労働で培われたものだろう肥大化した筋肉の持ち主で、茶髪碧眼。

 年齢は娘さんと同程度か。

 服は筋肉で張っていて、少し窮屈そうにも見える。

 似ていないが、兄弟だったりするのだろうか。


 出されたこれはお茶だろうか。

 温かそうだが、飲んだ方が良いのか。

 いや、やめておこう。

 海外の水は日本の物と違ってあまり飲むと腹を壊すらしいし、俺にはまだ美少女黄金水がある。


 それで、俺はどうなってしまうのだろうか。


 思い悩む俺を見た娘さんがああと何か思い当たった様で、別のコップを出して、そこに手を差し出した。

 するとどうした事か、掌からじょびじょばと水が溢れて来たではないか。

 それがコップを満たした所で、こちらに差し出した。

 あんぐりである。

 手品か何かだろうか。


 呆然とする俺を見て、自慢するでもなく首を傾げた娘さん。

 傾げたいのは俺の方だ。

 手品師の一家だろうか。


「あの、これはどうやって……」


 といっても言葉も通じないのだった。

 聞きたい、滅茶苦茶聞きたい。


 俺の言葉は当然伝わらず、娘さんではなく村長が話し出す。

 勿論俺もその言葉がわからず、会話が成り立つ訳もなく右から左へ抜けて行くばかりであった。

 村長は俺の名刺を手に持って、それを指差して、何事かを必死に説明している。


「印刷物が珍しいって事か」


 この村ではそんな物はないだろうし、それはそうか。

 しかし会話にならないのでどんな物かも教えられないし、何より俺は町へ行きたい。

 ならばと鞄に入れてあるファイルケースの中、大量の用紙から白紙を一枚取り出して机に置く。

 スーツの胸元に差していたボールペンの内のひとつを手に、若干不安定な木机の上でガリガリと線を引く。


 娘さんが興味津々に寄って来て覗き込む中、描いたのは町っぽい絵だ。

 この村の物とは違う、近代的な家屋をいくつも描いて、人もわしゃわしゃと書き記す。

 それなりに上手く描けたと思う。


 歓声を上げる娘さんにそれを渡し、村長に手を向けてハンドジェスチャーすると、持って行ってくれた。


 村長はそれを見て、またもや唸って、そうして一時考え出す。

 おもむろに壁へ向かって指差して、頷いて見せた。

 あちらの方角に町があるという事だろうか。


「ありがとうございます」


 言葉と共に頭を下げると「頭を上げてください」みたいな反応をされた。

 言葉は通じなくとも意思疎通は出来るものだ、面白いな。

 とはいえ早く電話を掛けなければ。


 というか、此処が海外だとして、日本に電話が繋がるのだろうか。

 生憎海外旅行なんてした事が無いし、知識が無い。

 気付いたら海外に居ましたとか言い訳としても終わってるが、連絡だけはするべきだ。

 不安しかないが、とにかく目指すは町だ。


 壁から視線を戻すと、村長が俺の右手を凝視していた。

 ボールペンも珍しいのか。


「もう一本あるんで、要ります?」


 もう一本は黒、赤、青、黄の四色が纏まったボールペンだ。

 玩具っぽいがこれが意外と優秀で、紙媒体でチェックが必要な際には大活躍だ。

 世話になったお礼がボールペン一本で済むなら安い物だ。

 後で買えば良いし。


 差し出して見せると村長は年甲斐もなく目を輝かせた。

 これまた娘さん経由で長い机の向こう側に座る村長の手に渡ると、大事そうに受け取った。




 礼も済んだしお暇しようかという時、娘さんが何やら話しかけて来た。

 何を言っているかわからない。

 俺の表情から読み取ったのか、ひとつの単語だけをゆっくりと繰り返し始めた。


「ベル」

「ベル?」


 自身を指差して思い切り頷いて見せた。

 なるほど、これが娘さんの名前らしい。

 そういえば、ごたごたで名乗り忘れていた。

 自己紹介しておこう。

 俺は自分を指差して、ゆっくりと発音した。


風見清カザミ キヨシ

「カジャミキョーシ?」


 発音しにくいらしい。

 名前より苗字の方が言いやすい様なので、カザミで通す事にしよう。


「カザミ」

「カジャミ」

「カ、ザ、ミ」

「カ……ザ……ミ」


 頷いて肯定すると、娘さん――ベルは嬉しそうに手を合わせた。

 反してその隣の男は更に不機嫌そうに俺を睨んだ。




 町の場所もわかったし、礼もしたし、男にも睨まれるし、いよいよ出ようと思った矢先だった。

 外が騒がしくなったかと思うと、玄関の扉が思い切り開け放たれて槍男達が上がり込んで来た。

 怒鳴る様に何事かを言ったかと思うと、ベルが顔面蒼白となり、村長は何やら叫ぶ様に槍男達へ発言する。

 槍男達はそれを聞き、飛び出していった。

 何やら指示を出した様だ。


 どうするか。

 正直気になるが、この小さな村だし、強盗とかだろうか。

 ベルの隣に居た男もいつの間にか動いており、隣の部屋から出て来た。

 その手には剣。

 持ち出して来たのだろう、それを手に、何やらをベルに叫んでから飛び出して行った。


 次第に喧騒は広まり、村のあちこちから怒号の様に聞こえる。

 ベルと村長は座り込んで手を組み、何やら祈る様に動かない。

 遂に気になって俺は玄関を少しだけ開けた。




 誰も居ない。




 しかし確かに声は聞こえる。


 何だか嫌な雰囲気だ、下手に動かない方が良いだろうか。

 いや、例えば強盗だったりしたら、このまま此処に居る方が危険なのではないだろうか。

 此処まで侵入されれば逃げ場がない。


 それに何より気になる、確認したい。

 本当に危険であればベルと村長だけでも連れて逃げるか。


 鞄とビニール袋を回収して、玄関を出る。

 ベルが何やら声を掛けて来たが無視し、扉を締める。

 しっかりと辺りを見渡して安全確認し――どうやら村の柵の外で何かが行われているらしい。


 家屋の影に隠れて移動し覗いてみると、そこでは想像を絶する光景が繰り広げられていた。

 屈強な男ばかり二十人以上は居るだろうか。

 剣に、槍に、斧に、それぞれに武器を持って、振って――そう、戦っているのだ。


 相手は緑色の汚らしい人型生物。

 鼻がやたらに大きく、尖った耳をもっていて、反して目はとても小さい。

 身長は男達の半分程度で、裸体だ。

 粗末な棍棒を持って、殺意を全開に殴り掛かっているのだ。

 それがおよそ五十体は居るのではないだろうか。


 対して男達も負けてはいない。

 筋骨隆々な男達は、それぞれの得物を振り回して迫り来るそれを斬り、突き、殴り殺していく。

 化け物から溢れる青い血と、男達の赤い血、血みどろの戦場が、そこにはあった。


「嘘だろ、おい……」


 呆気に取られて見ていると、非日常は更に深まる。


 火の玉が飛び、水の塊が落ち、土が隆起する。

 戦場はまるで天変地異の如き光景に包まれた。

 恐らく、信じ難いが、男達がそれを起こしている。


 何故ならそれらは全てあの緑の化け物を燃やし、押し潰し、進行を妨げる様にして起こっているのだから。


 俺にはそれが何となく理解出来てしまった。

 いわゆる所の、魔術という奴なのではないだろうか。

 いや、信じ難い。

 だが、そこには確かに起きていた。

 その非現実を、現実と認めるしかなかった。


 討たれた者は血を噴水の様に飛び散らせ、臓物が飛び出て――そこには種も仕掛けも無い。

 先程、ベルもまたその手から水を出して当然の様にしていた。

 だから恐らく、此処ではこれが普通なのだ。


 そして対するは俺の知らない化け物。

 あんな生物が存在するのなら、ネット社会の現代において知られていない訳がないのだ。

 例え此処が辺境の地でも、だ。




 危険過ぎる。

 此処は日本でも、ましてや地球でもないのかもしれない。

 俺は見つからない様、中腰で村長宅へと引き返した。


「うっ……!?」


 村長宅の前に、あの緑の化け物が一体だけ辿り着いていた。

 咄嗟に身を隠し、高鳴る鼓動を抑える。

 しかし、このまま隠れていればベルが殺される。


 あの男共が戦っている中、俺だけ逃げ隠れするのか。


 此処は地球じゃない、日本じゃない。

 あの化け物は敵で、殺して良い相手。

 ならばこれは犯罪ではない。

 そう、例えば虫。

 虫の様な物だ。


 自分を納得させて、立ち上がる。

 武器は何かあるか。

 ペンに食料に、鞄に――鞄、これだ。

 頑丈な物を買っておいて良かった、こいつなら角で打ち付ければ多少の威力になる。

 ビニール袋を置いて、鞄を抱える。


「フーッ……フーッ……」


 強引に息を吐きだし、呼吸して、飛び出した。

 武器は鞄、殴り殺す。

 敵は人型の虫だ、虫。

 緑の虫。


「うおおおおッ!」


 いざ駆けだそうという時、雄叫びと共に村長宅前に現れた男が居た。

 剣を持った――ベルの隣に居た男だ。

 あの筋肉だ、いけるんじゃないか。


 化け物に斬り掛かった男は、その剣で赤い軌跡を描いた。

 魔術だけでなくああいった剣術もあるのだろうか、強力そうな一撃。

 しかしそれは容易く避けられ反撃に腹に棍棒を叩き込まれると、頭が下がって顎から地面に落ちた。


 その無防備な頭を――叩き割られた。

 上部からの圧と地面に挟まれ逃げ場を失った威力は、かくも無残に頭蓋の形状を歪めた。

 倒れ伏した男はビクビクと痙攣し、追撃で何度も頭部を殴打されている。


 酷い音だ。

 恐らく壊された頭蓋の隙間からダメージが脳に直接届いているだろう。

 粘り気のある血が棍棒に付着して、化け物はようやく勝利を認識する。


 恐らく最初の一撃で勝負はついていた。

 脳震盪からの気絶、脱力状態での顎からの地面への激突。

 それは余すことなく脳へと衝撃を与えた事だろう。

 ほんの一撃で、一人が死んだのだ。


 吐き気に襲われて再び物陰に隠れた。


「オエッ……」


 吐きそうになったが、しかし何も出せなかった。

 まともに夕食を摂っていなくて良かった。

 それでも逆流した胃液を飲み込み、鞄を構える。


 あれは大振り過ぎたのだ。

 あの男の剣はあまりに雑で、攻撃的だった。

 防御を完全に捨てた様な一撃だった。


 しかし速度が足りていなかった。

 当たらなければ、意味が無い。

 ならば俺はコンパクトに、当てる事だけを主眼に速度を乗せる。




 化け物が棍棒で扉を叩き始めた。

 行かなければ。

 棍棒が叩き付けられる音に合わせて足音を殺して忍び寄り、脳髄をぶちまけた男の手から零れた剣を取る。


 何度目か、叩き付けられた棍棒で扉が破壊された瞬間、化け物はこちらへと振り返った。

 咄嗟に鞄を投げつけた。


「グギャッ!?」

「オラァッ!」


 化け物の頭部に鞄が当たり怯んだ瞬間、剣を叩き下ろした。

 威力よりも接触が優先の、小手先の一撃。

 一瞬の柔らかい感触の後、ゴツリと硬い物に貫通して――しかしここにきて筋肉を引き絞り、力を籠める。

 当ててから、押し込む。

 青い血が飛び散った。


 スーツが汚れ、鞄が汚れ、俺は表情を歪めた。

 この瞬間に、俺自身の常識も歪んだ。

 嫌な解放感と嘔吐感を覚えつつ、顔を上げると安堵の表情のベルが居た。


「肝っ玉が据わってるな……」


 この世界では、これが普通なのだ。

 目前で殺された化け物より、生き残った事の方が遥かに強いのだ。

 だから俺は、罪悪感を殺した。




 此処は俺の培った常識とは乖離した別世界。

 人が居る、言葉がある。

 剣がある、魔法がある。

 化け物が居て、殺傷が悪ではなくて――だから此処は、異世界だ。

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