魔術師の選択 −学校風景・きみが気付くとき−
【序章】
小さな街だった。
人口規模としても大きくなく、ひっそりとしている街。県境に向かって歩けば子供の足でも数十分で、隣の県に入れてしまうところに居たのを覚えている。
少しずつ外出許可が下りるようになった頃だ。
覚えているのは、そんな小さな街並みと、その街並みに相応しい小さな一軒家だった。
廻りに建っている家の大きさを十としたら、樹達が住み着いたその借家は五ぐらいの大きさだった。間取りは2LDK。1階はリビングと台所だけがあり、居住区である個室は2階にしかなかった。こぢんまりとした庭がリビングの大きな窓から見られたが、そこには車をおけるスペースすらなかった。小さなパンジーの花が僅かに植えられていたことを覚えている。
その小さな家に似付かわしい小さなソファが、リビングの真ん中にひとつ。
大人2人が座れば、定員になってしまうそれに腰掛ける庇護者の姿があった。
彼は家の中に滞在している間、ほぼそこが定位置だった。
『いいかい、樹。これだけは忘れてはいけない』
記憶の中から懐かしい声を拾い上げる。
もういまは隣にはいない人の声だった。
覚えている限り、その音色は荒げられたことはない。老父が幼い孫にただただ言い聞かせるように、彼はしわくちゃの手を樹の頭に乗せながら言ったのだ。
『僕らは魔術師だ。生きるために、魔術に頼らざるを得ない罪人だ。人の幸せを考えなさい。自分の幸せを考えなさい。そうして、魔術師であることの悲しさを知りなさい』
歌うように、節をつけるように。
訥々と声は続ける。
『樹は大切なものを失った。だから、どこかの意地の悪い何かは、樹が魔術を使えるようにした。僕らだって、同じだった。大切なものを失って初めて、魔術師になった』
魔術師。
お話の中では、それは素敵な存在だった。パターンは幾つかある。邪悪な力に取り付かれ、わがままな方法を取る悪い役だとか、お姫様を救う旅に同行するエキスパートだとか。彼に読んで貰った絵本の中にも、似たような役割があった。
お姫様と旅をし、おとぎ話の平和を勝ち取る魔術師を指して、こうなれたら素敵だね、と言ったことを覚えている。
だが、そういった直後、彼の顔がひどく歪んだことも覚えていた。幼心に、それは伝えてはいけないことなんだと知ったのが2年ぐらい前の話である。
生きるためには、と彼は言う。
『魔術に頼るしかなかった。いまでこそコミュニティがあるけれど、それでも僕らは生きていく上で、とてつもなく脆弱だった。何も持たないで生き続けるには、現実は過酷だった。日常を生きている彼らとは異なるものに縋るしかないぐらいには』
老人は微笑む。
樹はその表情を見て、切なさを感じた。頼りなげに見上げる孫のような存在に、老人は、どう思っただろう。目を細め、だが、決して樹から眼光を逸らさなかった。
いま、途轍もなく大事なことが語られようとしている。
まだ十にも満たない樹にだって、それぐらいは理解できた。
『けれどね、樹。魔術は、魔術師を幸せには出来ない。ほんのいっとき、自分が大切だと思った人を幸せにすることは出来るだろう。僕も、そういう機会に恵まれた。樹だって、きっとこれから出逢う。もしかしたら魔術師であったことに感謝をするかもしれない』
あの絵本のように?
内心で問いかける。
その内側には決して気付くことはなく、老人は続ける。
『でもね、よく覚えておくんだ。魔術は、魔術師を幸せには出来ない。僕らは記憶という大切なものを失い魔術師となったけれど、魔術を使い続けるためには、さらに失い続けることになる。魔術に縋るしかなかったのに、縋れば縋るほど僕らは壊れていく』
老人は樹を抱き寄せた。
樹、と彼は呼びかける。
『最初は気付けない。魔術を使う時だけ気付き、すぐに忘れられる。──そして、魔術を使いすぎたという段になって、ようやく理解する。そうなったら、もはやほとんど手遅れだ。樹。自分が自分であるために、魔術に慣れてはいけない』
「ロウ……」樹は老人の名前を呼ぶ。「ロウも、そうして生きてきたの?」
『……そうとも言える。でもね』樹を離し、ロウは目尻を下げた。まぶたの奥に、普段は見えない潤みがあるのは気のせいだろうか。ロウの唇だけは笑みの形をとった。『僕は、悪い魔術師の生き方もしてきた。今でこそ、こんな風に言っているけれど、僕が樹よりも少し大きいぐらいの時には魔術に頼っていたよ』
老人の目尻から涙が溢れる。
泣いている。
樹は狼狽えた。
一緒に暮らし始めてから、老人の醜態をみるのは初めてだった。普段何があっても泰然としていて、朝から夜まで同じように微笑んでいたはずのロウは、どこにいったのだろう。
こぼれ落ちる滴が信じられなくて、樹は指先でそれをすくい上げた。
じんわりと水気が指先に付着する。
『そうして魔術に頼りすぎて、僕は取り返しのつかないものを失ったんだ』
「取り返しの、つかないもの……?」
『大切な人たちがいた。ずっと、この人たちと関わりあっていきたいと思った。けれどね、魔術はそんな僕の願いさえ奪ってしまった。僕はその人達の名前を忘れ、顔を忘れ、──さらには自分の名前さえ、忘れてしまった』
「忘れた……?」
『そのとおりだ。何もかも忘れてしまった。そうして、二度と会えなくなってしまった』
「名前、も……? ロウは、ロウじゃないの?」
言っていることの大半は難しく、理解することはできなかった。
だが、ひとつだけ反論の種を見つけていた。
子供特有の論理で樹は尋ねる。
最初の自己紹介で、彼は半世紀以上生きた魔術師リチャード・ロウだと名乗ったではないか。それは己の名前ではないのか。
ロウは泣きながら笑った。
答えは、返してくれなかった。
その時、ロウは答えてはくれなかったけれど……
もっともっとずっと後になって、わかった。
純日本人としてあった彼が、何故に米国で使われるような偽名を使っていたのか。それは、日本太郎といった参考名と同じだったのだ。名乗るべき名詞がない。おそらく新たに作ることも、したくはなかったのだろう。名前とは個体を識別するキーワードだ。別の名前を改めて付ければ、それは上書きにも等しい。ありふれていて、邪魔にならないという基準で選んだに違いない。
『樹』
意識の奥に封じ込められた彼の声がする。
『大切な人が出来たなら、なおさらだ。魔術に頼ることは止めなさい。魔術に縋りたくなった時も、まずは大切だと思う人を頼りなさい』
泣きながら伝えたそれが、後生への教訓だと後から判った。
さらに後になって、樹は知った。
その簡単そうで難しいそれを達成できた魔術師が、ひとりもいないということに。
【一章】 大切な日常、とりとめもなく
区切りの鐘は、始まりと終わりが混ざるものだ。学校という場所は、それが授業と休み時間の合図になっているからこそ大事である。
特に休み時間の始まりであった場合、学生にとって重要視されるべきものだろう。
藤間樹も集中していた思考を分散させ、机の上に広げられていた教科書、ノート類を纏めて閉じる。その後、微かなため息を吐いた。記憶喪失となり、新たに生き始めて早7年。日々覚えることは沢山あるものの、英語の授業ともなると一瞬たりとも気が抜けなかった。
──廻りのことを覚えるのに精一杯なのに、ね。
自嘲と苦笑を込めて、内心で肩を竦める。
学生の身分を手に入れて5ヶ月。自分は、本当にこうした勉強方法で良いのだろうかと想う時もあった。
「とーま」
呼ばれて、視線をあげる。
すぐ傍には、同じクラスで一番仲の良い世話焼きの同級生がモップを手にして立っていた。どうやら授業終了の鐘が鳴って、すぐに樹の方にやってきたらしい。ちなみに、モップ自体は授業中、彼の机のすぐそばにあったものである。
「ゲームをしようぜ」
彼はモップを左手に持ちながら、右手を机についた。
自らが座る机に手を置かれた藤間樹は、首を傾げ、対面の彼──新城当麻を見上げる。新城は白い歯を見せながら、シニカルに笑っていた。
樹はしばしそれを眺め、頷く。
「気持ち悪い」
「ぐはっ」
率直に伝えると、新城は胸に手を当て大げさに崩れ落ちる。彼は舞台にまで凝り出したのだろうか。何から何まで戯けていた。もっとも、クラスメイトの大半からみれば、これが通常運転と言うだろう。
「いつもの三倍増しで変だよ」
「ふふ。今日の俺は赤くはないんだけどな」
足元から声に、ぷらぷらと自身の足を揺らしてみせる。
「意味が分からない」
「む、世間知らずな」崩れ落ちていた新城が、すくっと立ち上がる。「三倍と言ったら赤と相場が決まっているのだよ。そう言われている」
「決めごとって、めんどくさいね」
「そうでもないさ。パターンさえ覚えれば、応用効くんだし」
「応用効いたら良いことあるの?」
「会話のネタになるんじゃないか?」
質問に疑問系で答えられる。
しばらく考え──なるほど、と樹は頷く。机の上に置きっぱなしだった勉強道具を鞄の中に仕舞い込む。知ってるにしろ、知らないにしろ、多少の引き出しになるということで納得したのだった。
「それで、ゲームってどうしたの?」
「大したことじゃないさ。ちょっとみんなで遊ばないか、ってこと」
新城が教室の一角を指し示す。
そこには、十数人の男子生徒と数人の女子生徒が集まっていた。どのメンバも見覚えがある……もとより、このクラスに所属する殆どの男子生徒が、そこにいた。
普段よりも大がかりなメンバ構成を一瞥し、樹は問いかける。
「何をするの?」
問うと、にやり、と新城が笑った。
「鬼ごっこだよ。勝ったやつには、ご褒美付きのな」
その顔は、少年らしく勝ち気で楽しげであった。
「悪巧みの顔だね」樹は困ったような表情をする。5ヶ月も付き合えば、多少なりとも相手の性格も分かってくる。そして、樹もまたそれを遠慮しないようなやり方を覚えてきていた。「ご褒美って、なんなの?」
「そうでなくっちゃな」
言外の承諾を正確に汲み取り、新城は男子生徒が集まる一角へと歩を進める。
ついてこいと仕草が語っていた。座っていた椅子を戻すことも適当に、樹は新城の隣へと並んだ。机と机の間を抜けて、二人は集団へと合流する。
「ご褒美とはな……なんと、放課後の掃除当番免除だ!」
「はい?」
胸を張って言う新城に、樹は素っ頓狂な声を出した。
どこにでもある学校の掃除の時間。この学校では、放課後帰る間際が、それに割り当てられていた。終わったものから帰って良しの風潮があるものの、場所によって掃除の大変さが違うことから、どこを掃除するかで帰れる時間も変わってくる。
このクラスが受け持っているのは、教室内、渡り廊下、中庭、それから週替わりでトイレである。
ちなみに、適当に終わらせても大して変わり映えのしない中庭が、いちばん楽で早い人気スポットだった。
「免除って……決まり事はどうしようもないんじゃ?」
「甘いな、とーま」ちちち、と新城は指を振る。樹はああ変な役に嵌り込んだんだなぁ、とどこか可哀想なものを見る目をした。女子生徒と男子生徒の何割かが同じような目を向けていた。新城がそれに、気付いた節はなかった。「どうせ見張っている訳じゃないんだからさ、負けたやつが二倍頑張れば良い訳だよ。やらないっていう選択肢はないんだから、誰かがやればいい」
「バレたら大目玉だね」
「そこら辺は負けたやつが口裏合わせるさ。勝ったやつは放課後の自由を謳歌する。これは、正当な権利だよ、きみぃ」
ぽん、と肩に手を掛け、にやりと笑った。
自分が負けることなど考えていない仕草である。
「いっこ、訊いてもいい?」
「なんだ?」
「それをみんなに持ちかけたのって──」
「もちろん、俺」
「なんでまた」
「今日はどうしても早く帰りたくてね。そこで思い付いたのが、これだった訳」
あー……と言葉だけを出して、納得する。
ちらりと廻りを見れば、何人かが微苦笑を零していた。樹以外にも、同じように考えたひとは居るらしいことに、少しだけ安心する。考え方はあながち外れていなかったようだ。
「もし負けたらって考えないの?」
「大丈夫だ」新城は断言する。「なんたって、今日の占いは一番だったからな」
きっと、これは前に教えて貰ったフラグというやつなんだろう、と樹は薄々理解した。
そんな思考は露知らず、新城はさてと声を出す。
「ってー訳で、全員準備は良いな!」
『おー!』
ノリの良い何人かが声をあげ、手をあげた。
新城も同じように手をあげる。
「オーストラリアに行きたいかー!」
『おーっ!』
同意の声が半数あがり、身体ごと傾いたのが約3名いた。
「俺たちの自由は、俺たちでつかみ取るぞー!」
『おー!』
「目指せ、羽ばたけ自由の放課後!」
『ごー!』
「それじゃ、ご褒美賭けて、第四次鬼ごっこの開始を宣言するッ!」
もはや、どこから突っ込んでいいのかわからなくなった樹は、先ほど身体ごと傾いた残りの2名を見遣る。
奇しくも、それらは同じ表情をして、同じ行動を取っていた。
視線が数瞬だけ絡み合い、三人は肩を竦めたのだった。
ついて行けない。
3人の心も一つになった瞬間だった。
*
ゲームの基本は、どこまでも鬼ごっこだった。最初に鬼を二人選び、残りは追われる子として逃げることは変わらない。但し、通常の鬼ごっことは異なり、鬼になった子は、ずっと鬼側となるルールになった。
子から鬼へはなれるが、鬼から子にはなれない。
増え鬼と呼ばれる鬼ごっこである。
「つまり、ゲームが進めば進むほど子は減って、鬼が増える仕組みなんだよね?」
樹が言うと、新城が頷く。
「その通りだ」
「それってゲームが進んだら、誰が鬼か分からなくなるような……」
「その点で言えば問題ない」新城はどこからともなく黄色のテープを取り出した。「鬼になったやつは、目印を付けることにしたからな。色は何でも良いんだけど、身体のどっかにこういうテープを結び付ける必要がある」
「子は鬼のそのテープを見付けたら、とりあえず逃げれば良いんだね」
「そうだな。もっとも、今回のルールでは鬼となったやつが負けで、放課後の掃除当番だから鬼は必死だけどな」
「ある意味で厳しいよね。上手くやれば、子は誰も捕まらないかもしれないんだし」
子のすべてが逃げ切れたら、掃除当番は最初に鬼となった二人だけである。何よりも、最初の二人には最初から最後まで解放の文字はなかった。
「そこはやり方次第だろ。みんな、納得して、参加しているはずさ」
「そうかなぁ」
そこまで深く考えているようには見えないけれど、という言葉は呑み込む。
誰もが談笑している。強制的に参加となったメンバは居ない為、当然といえば当然なのかもしれないが──果たして、自分だけが掃除当番となったとき、歪みが入らないだろうか。甚だ疑問であった。
「誰が鬼になるの?」
ふ、と新城はきざに笑う。指先は顎に添えられていた。
「これから、じゃんけんだ」
「それで自分が鬼になったら、目も当てられないよね」
「馬鹿いえ。さっきも言ったろ? 今日の占いは一番だったんだ。こーゆーところで躓いたりはしないさ」
「だと良いけど……」
そこまで上手く行くだろうか。
こういう場面でオチを踏むのがセオリー、という話は忘れていない。
「そいじゃ、はじめるぞー。じゃんけーん」
気の抜けた声をあげ、手を頭上に持って行く。
廻りに集まったそれぞれも同じような仕草をして。
ぽん、という声が重なった。
ぐー。ぐー。ぐー。ちょき。……。
「あっさりと決まったね」
がくり、と膝を落としたのは、そんなにも親しくないクラスメイトではあったが、見ているだけで哀愁を漂わせていた。その数、2名。決めた鬼の数とぴったりである。
「ふふ。悪く思うなよ!」
新城から威勢の良い言葉が飛んだ。
対する崩れ落ちた二人からは、「くそぅ、いまに見てろよ。全員捕まえてやる…」「ふたりだけの地獄にさせるもんか。なあ、そうだろう」などといった怨嗟の呟きが聞こえてきていた。
正直、学校の廊下であってもすれ違いたくない人たちになりました。二人の雰囲気だけを見れば、何も知らない人は喧嘩直前だと思うかもしれない。
「よしッ!」
不意に崩れ落ちた片方が再起動する。すたっと立ち上がり、目尻に小さな涙を浮かべた彼は、天井に向かって指さした。
「今から百数えるぞ! んでもって、捕まったやつは同類だぁぁぁっ!!」
「ちっ。相変わらず立ち直りの早いやつめ!」新城が乗った。「だが、俺は捕まらねぇ!……必ず逃げ延びてみせる。今日の放課後の為に!」
──今日の放課後、なにがあるんだろう?
そこまでして勝ち取りたい自由は、何だろうかと樹は意識の片隅で考えた。ゲームの発売日、稼働日、本の発売日、ただ単にカラオケに行きたい……どれもこれもロクな理由は浮かばなかったが。
「ってーわけで、俺は即刻逃げる!」
「逃げられる範囲は校舎内だから、それ忘れんなよ!」
「分かってるって!」
だだだっ、と廊下に向かって走る新城。
それを大半は呆然と見送り──
「さーん、よーん、ごー……」
鬼役の数えに我に返った。
「こうしちゃ居られねえ!」
「ああ!」
「俺も逃げる」
「じゃーな」
「おいていくなよっ」
我先にと、第二陣が駆けていく。ちなみにちょっと前に樹同様、ノリについて行けなかった残りの二人も、ここではちゃっかりと馴染んでいたりする。
元気だなぁ、とそれをしばらく眺めて、樹は鬼役を再び振り返った。
「はーち、きゅー、じゅうー……」
数を口に出しながら、目だけが爛々と輝いているかのようで、樹の視線に気付くとシニカルに笑った。
微妙に後ずさる。
──僕も、逃げなきゃ。
ゲームのスタートは切られたのだ。
参加したからには──わざと負けることなんてあり得ない。輝く放課後。自由な放課後。魅力的な提案は、乗るべきだった。
「僕も逃げるっ」
たたたっ、と廊下へ繋がるドアへと走り、ドアを開ける。
後ろで数えられている数は、まだ十数程度。百に行くまでには、まだまだ時間が掛かるはずだった。
しかし。
「にじゅう、よんじゅう、はちじゅう……」
「は?」
あり得ない数字に振り返った。鬼役の二人がにやりと笑った。口元が怖い。それどころか、一方は、なぜか徒競走を行うかのように、膝を曲げ、両手を床に付いていた。
「きゅうーじゅう……」
ひくり、と樹の頬が引きつる。
明らかに捕まえる気だ。それも、数を飛び越えて。
それ、ずるい。──という言葉はまったく出すことが出来ずに、鬼は百の数を言い切る。
瞬間。
クラウチングスタートを片割れが切った。
スピードに乗って、樹を捕捉せんと腕を伸ばす。
「それ、卑怯ぉっ!」
身体を翻し、廊下へと躍り出る。
渾身の叫び声は、鬼へとは届かなかった。
「手段は選ばねえっ!」
「待てぇぇぇぇっ!!!!」
「にゃああっ!!」
白熱のバトルが始まった。
【二章】校内模様、いつだって協力者は微笑む
こっちへおいで。
見知った顔に呼ばれて、樹は視聴覚室へと入り込む。すぐさま背後で扉が閉められ、その人はくるりと振り返った。ふわり、と短いスカートが舞い、瑞々しい肌色に少しだけ目を奪われる。
一瞬だけ焼き付いた情景を留め、樹はその人の顔に視線を合わせる。
困ったような、呆れたような優しい眼差しがそこにあった。
二塚あかり。
セミロングの髪がよく似合っている。彼女は、同じ委員会に所属し、樹を良く気に掛けてくれる友人だ。
「なにをしているのやら……」
言いつつ、声色に批難はない。
まるで歳の離れた弟の、微笑ましい悪戯を見たような感じだった。
「なにをって……」
樹は弁明の為に口を開き、だが背筋を震わせる。
──嫌な予感がする。
勘だった。でもきっと当たる。
ちらり、と閉められた扉を一瞥し、樹は教壇の間──机の脚と脚の小さな空間に、身体を押し込めた。
「えっ?」
困惑の声があかりから上がる。
樹は意識的に無視した。
刹那。がらっ、と勢いよく扉が開かれる。
「わっ……」
あかりが小さく驚く。
雄々しく扉を開いたのは、鬼の白羽が立った、先ほどまで樹を追いかけ回していた片割れの内のひとりであった。鬼の形相というには、やや可愛い太眉を眉間に寄せながら、彼は視聴覚室をざっくりと見渡し、次にあかりを見遣る。
「ここに藤間が来なかった?」
「樹くん?」あかりの視線が微妙に右上へと動く。「ううん、知らないけれど。そんなに慌てて、何かあったの?」
「そうか……ここら辺で見失ったから、近くに居ると思うんだけどな」
変わったことは何一つ見逃さないぞ、と彼は目を光らせる。
ぴり、とした雰囲気を感じながら樹は教壇の足を強めに掴んだ。追いかけられる距離から、なんとか差を開き、撒いたつもりだったのだが。どうやら甘かったらしい。
見付かっても鬼になるだけだが、どうせ参加しているのならばと思う。
見付かりたくはない。
「ここ、わたしが入っただけだよ……?」
雰囲気を察してくれたのか、あかりはおずおずと言った。
ついでに、とさりげなさを装い、あかりは教壇を背にするようなカタチで少し移動する。もし、彼があかりの方をしっかりと見ていたら、それはそれでアウトだったかもしれない。教壇の下を良く見れば、少年の手が見えていたはずだった。
「……この教室じゃなかったかなぁ」
肩を竦めて、彼は顔を手のひらで覆った。
「そういうことでしょ。で、なにしているの?」
「え?──あー……えと、な。新城発案の、まあ、ちょっとした遊びってところ」
「ふぅん。ねえ、無いとは思うけれど、その遊びって、いじめに近いとかないよね?」
逃げていた樹と、鬼気迫る風の彼。あんなに素直で良い子がもし虐められていたら、とあかりは密かに右手を握る。少しでも素振りがあれば、ぐーで殴るつもりだった。
「違う、違う」頬をひくつかせ、彼は手を振った。「本当にただのゲームだってば。なんて言うか、ちょっと力入っちゃってさ」
「その割には、なんていうか、真剣すぎたというか、顔が怖かったけれど」
「いや、まあ……真剣にもなるというか、ならざるを得ないというか」
「はっきりしないね?」
ぐーを、少し振ってみせる。
「待って待って。違うって」少年は慌てて両手を振り、後ずさる。「ってーか、二塚さん、藤間とそんなに親しかったっけ?」
ふふん、とあかりは笑った。
「わたしの質問が先。Are you OK?」
「う……放課後が掛かっているんだよ。鬼ごっこでさ、捕まったらそいつは掃除が2倍。逃げ切ったら掃除は免除の密約。先生には言わないでよ?」
「本当に呆れた。新城くんも、そういうこと、良く思い付くよね」
「まったくだ。それにクラスメートの半分が乗ったんだけれどな」
はあ、とあかりはため息を吐いた。
この学校の普通科は、クラス内40人だった。さらに言えば、男女比はどのクラスも変わらず、極端に偏ってもいない。40人居れば、通常は20人が男子、残りの20人が女子である。
「それって、クラス内の男子生徒全部ってこと?」
「いや。若干名の女子生徒が混ざってる。伊吹とか、吉野とか。男子生徒で混ざってないのも、ちょっと居る」
「元気ね」
──色んな意味で。言外に含ませると、彼もそれには気付いたようだった。微苦笑を零して、相槌を打つ。
「一応そんだけ平和ってこと。とは言え、鬼は既に放課後平和じゃないから、なるだけ一人でも多く捕まえたい訳だよ」
「なるほど」
「で、藤間知らない?」
「さっきも言ったよ。わたし、見てないもん」
「りょーかい。ま、見つけたら、教えてよ」
あかりは苦笑する。
「それは無理なお話かなー。どちらかと言うと、樹くんの味方になりたいし」
「愛されてんな、ホント」
「わたしが勝手に愛してるだけよ」
その台詞に、樹の胸が少し跳ねる。
舞台袖で盗み聞きをしている樹には気付かずに、鬼役の少年は呆然と言った。
「羨ましい話だことで」
彼は肩を竦めると、ふと何気ないように続けた。
「ところで、その『樹くん』とやらがそこに見えるんだけど、気のせいかな?」
びくり、と樹の肩が震える。
あかりは柔らかに笑んだまま、首を傾げる。
「何の話?」
「……」
「……」
「……」
「……」
彼は息を吐く。
「古典的な手は使えないか。みっけたら儲けた話だったのに」
「もう少し上手に演技しないとダメだね。25点」
「厳しい点数だこと。ま、俺はいくわ」
扉を閉めて、彼は遠ざかる。
しばらく間をおいて──あかりは言った。
「行ったみたいだよ」
ん、と樹は教壇の下から這い出る。
──わたしが勝手に愛しているだけよ。
その台詞が頭の中で再生された。
あかりの顔を真正面から見る勇気がなくて、樹はあかりの口元を見た。
「ありがと。なんかズルしているみたいになっちゃったけれど」
「まあ、ちょっとえこひいきしたかなー、とはわたしも思ったかな。放課後の掃除、そんなに嫌だったの?」
ううん、と樹は首を振る。
「あれはあれで楽しいと思うよ。新鮮だし」
「でもゲームには参加しているんだ?」
「なんとなく。本当はいけないことなんだって、分かってはいるんだけれど」
「いけなくはないよ。わたし達の年頃だと、たぶん普通になっちゃう」
あかりは微笑む。
「毎回そんなことをするんだったら、わたしが怒るけれど。たまになら、見逃してあげるし、こうしてささやかに手伝ったりもする」
「どうして?」
樹は問いかける。
「え?──うーん、そうだね。同じ図書員のよしみってことで、どう?」
「じゃあ、10月からは助けて貰えないかもしれないね」
この学校の委員会は半期制だった。4月から9月までを前期とし、10月から3月までを後期として、それぞれの役職が割り振られる。いまは9月である。来月にはお互い違う委員会に所属しているかもしれない。
大丈夫だよ、とあかりは言った。
「一度一緒になったんだもん。次も見つけたら、手を出すよ」
「そういうもの?」
「そういうもの。さ、また彼が戻ってきたら大変だから、今のうちに移動したら?」
ぽん、とあかりは樹の背を叩く。
それはとても優しかった。
向けられた仕草に後ろ髪を引かれつつ、うん、と樹は頷く。
「二塚さん、ありがとう」
樹は視聴覚室から出て行った。
*
さて、どこに行こうか。
樹は歩きながら思案する。
昼休みに入ってまだ間もなく、必然的に鬼ごっこの時間が有り余っていた。先ほどは、少しばかり卑怯な方法でやり過ごしたものの、何度も同じ手段を取れる訳ではない。
──見つからない場所へ行った方が良いだろうか。
校内を歩き回りながら、では、その場所はどこだろうと思考を巡らせる。
職員室がまず浮かぶ。
あそこなら走り回ることは出来ないはずだ。
「……」
いや、と首を振る。
職員室は、長時間居ることも難しい場所だった。
次に美術準備室が浮かぶ。
あの場所は模型やら粘土像やらが配置してあり、ひとりぐらい堂々と隠れていても見つからないかもしれない。
「……」
カーテンを袈裟懸けに羽織り、突っ立っている自分を想像して、樹はこれもないな、と思い直した。
ぐるぐる、と考えながら階段を降り、登り、降り。
とりとめもなく、どことなく廻り。
不意に先から歩いてきた男子生徒が足を止めた。
思考の海に沈んでいたところから、意識を現実へとあげる。
場所は新校舎1階。特別教室が並ぶ廊下であった。だがこちら側には非常用の出入り口しかなく、外に出歩くには旧校舎へと渡らなければならない。廊下の端と端には、それぞれ上り下りに使う階段が設置されており、特別教室を使わない限り用はないので、時折変な行動に使われるぐらいの使用度だった。
そんな校舎の中で。
見知った顔がそこにいた。
ハリネズミのような頭をした男子生徒。俯き加減で、表情は伺えないが、樹を鬼ごっこへと引き連れた新城だった。
「新城?」
「とーま、か。まだ逃げ続けていたんだな」
ああ、なるほど。
樹は起こるべくして起こった出来事を正確に拾い上げた。
「捕まったら、大変だしね」
「てっきり、すぐに捕まると思ってたんだけれどなー」
微苦笑を交えながら、新城は距離を少しずつ詰める。
その距離を意識しながら、樹はいつになく軽く言い返した。
「それは酷いね。まるで、掃除要員として入ったみたい」
「そこまでは言わないけれど、な」
歩数にして三歩の距離。
彼が近づけば、樹は下がる。
それに気付いたのだろう。
新城はそこでいったん止まった。
彼は、ゆっくりと面を上げた。
その表情は──悲哀と、慟哭と、やるせなさと、憤怒が入り交じったかのような色をしていて。片手には隠すように黄色いタグを握りしめていた。あの持ち方では、場合によっては見逃してしまうだろう。
内心で、樹を息を吐く。
「新城、──……」
樹が言いかけると、新城は笑った。
「察しが良いな! とーま、一緒に地獄へ落ちようぜ!!」
両手を広げ、新城は飛びかかった。
*
「ちっ。とーま、逃げ足は速いな! 普段の走りはどこいったっ」
「こういうのは、捕まらない方が良いんでしょ!」
後ろからの声に、振り返らずに言葉を返す。
文字通りの鬼ごっこ。階段から廊下へ。廊下から階段へ。教室の片方のドアから入ったと思ったら、同じドアから抜け出して、あちらこちらへと足を進める。
全力疾走とはまた違う、それでもそれなり真剣な駆け足だった。
廊下は走らないと書かれた紙を盛大に見ないことにして──そもそも、それが毎日守られていないことを樹は既に知っていた──人の間を縫いつつ、中庭へと出るルートへと走る。
「捕まってくれた方が、友情も育み易いんだぜっ」
「鬼ごっこ始まって、真っ先に逃げた新城の台詞だとは思えないね」
「あの時とは状況が違うさっ」
そうだろうなぁ、と樹は内心頷く。
鬼ごっこが始まった直後の状態であれば、新城は逃げるだけで良かった。逃げ続けて、放課後の掃除が免除されることで、彼の目指した理想的な放課後がやってくるはずだったのだ。しかし、いまは状況が変わり、掃除免除はなくなってしまった。このまま行けば、彼は普段よりも多い掃除義務を負うことになる。それを防ぐためには、出来る限り鬼を増やし──仲間を引き連れて、義務を全うする以外にない。
正直、樹としては掃除をすることに嫌はない。
掃除そのものも経験としては良かったし、それが嫌だと感じるほど、スレてもいなかった。
でも。
鬼ごっこに協力してくれたあかりの顔が、脳裏を掠める。二塚あかり。同じ、図書委員になっただけの少女。だが、少女のことが浮かぶたび、なんだかわざと捕まるのも違う気がしてきてならなかった。
だから、逃げる。
わざとは捕まってはやらなかった。
くるり、と九十度曲がって今度は階段コースから渡り廊下コースへと進める。
背後にはつかず離れずを保って新城がいた。
校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下に出る。
と、そこには見知った顔がふたつあった。
セミロングに髪を纏めた少女と、髪の長い少女。──いつか知り合った上総と流依だった。両者とも、眉根を寄せ、どことなく険悪な雰囲気を漂わせていた。
──あの人たちは、また。
樹のなかに、どことなく呆れが混じる。
仲が悪いと公言する割には、ふたり一緒に居る姿をよく見かける。本当はその逆ではないかと疑ってはいるのだが、聞けば同じタイミングで否定が入る娘たちだった。
どことなく放っておけない感じのするふたり。
樹は息を吸い込む。
「ちょうど良かった!」声をあげると、件の二人が振り向いた。かたや驚きに、かたや怪訝に瞳が動く。樹はにこりと笑った。「協力お願いっ」
二人の間を器用にすり抜ける。
「は?」「え?」
疑問符の声もやっぱり二つ。
「あと、よろしく」
軽やかに手を振って、さらに駆けた。
「ちょっ、とーまっ!」
背後から新城の慌てた声が掛かったが、樹は応えなかった。
少しだけ予感があった。
渡り廊下を駆け抜けて、最後にちらりと一瞥する。
とたん、頬が引きつった。
新城はなぜか仰向けになっており、頭と足側に上総と流依が立っていた。しかも、少女たちの表情は先ほどよりも、より怖く、よりきつめになってはいた。腰に手をあて、冷たく見据えた表情は新城でなくとも受けたくはないだろう。あの年代の少女たちには、腕力では勝てても、別種の恐ろしさが宿っている。
新城の恨みがましい目が樹を射貫く。
どこか涙目であった。それはそれは哀愁を漂わせていた。
「あはは……」
ちょっとやり過ぎたかもしれない。
微苦笑を零して。
ぱちん、と両の手をあわせた。
──ごめん、新城。
樹はそうすると、校舎の中に再び入り込む。
背後から聞こえる怨嗟の声は、とりあえず耳に入らなかった。
そういうことに、しておいた。
【三章】幸せの悪魔は微笑まない
あちらこちらに逃げ回り、もう一度特別教室のドアを乱暴に開け、閉めた。
息が荒い。最後の最後は全力疾走で、校舎から校舎へ、教室から教室へのスタンピードだった。誰が鬼なのか、もはや判別すら付かなかった。というか、鬼の数が開始時の人数よりも明らかに増えているのはどういうことなのだろうか。ゲームのルールがいまいち分からなくなってきた樹だった。
一息吐いたところで、ぐるり、と廻りを見渡す。
大きいTVと、椅子ひとつもない教室。TVの横には、教壇がおいてある。ここは、先ほどあかりに匿ってもらった視聴覚室だった。
──戻ってきた。
さすがに、もうあかりは居なかったが。
「いたかっ」「居ない」「また教室の中か!」「虱潰しに探せ、あいつで最後だ!」
ドアの隙間から、騒々しい声が響く。
視聴覚室という多少の防音が考えられている教室内にも聞こえてくる騒音性は、いったい、どういうことなのだろうと思う。
彼らは樹にその台詞をどれだけ聞かせたかったのだろうか。
とりあえず、鬼から逃げているのは、樹一人になったらしい。
有益な情報はそれだけだった。
──隠れようかな。
もはや走り逃げ切る体力は残っていなかった。隠れやり過ごし、見付かったならばゲームセットと相成ろうと樹は決めた。
視聴覚室の中をぼんやりと眺める。
一、教壇の下。
二、ロッカーの中。
三、カーテンに包まる。
椅子ひとつない教室では、隠れられる場所は限られていた。教室外から、がたん、ごとん、と音が聞こえる。どういう探し方をしているのか気になった。そうした音を聞き続けていると、先ほど浮かんだ一二三番とも、不適格な気がしてならなかった。
いっそのこと、窓を背にここで待ち受けるか?
──考慮して、ううん、と首を振る。
窓の縁に足をかけてカーテンに包まれば。
見付かり難いかもしれなかった。
物音が近付く。
樹は動いた。
カーテンを掴み、少しだけ勢いを付けて、窓枠へと乗り上げる。きしり、とカーテンレールが鳴った。同じ頃の少年たちよりも軽い体重とはいえ、カーテンレールに想定された重さではない。当然だった。ゆっくりとカーテンを身体に巻き付け──
「うわっ」
足が滑る。
カーテンを強く握った。
ぴん、と引っ張られたカーテンからカーテンレールに加重が掛かる。
瞬間、ぱき、と音が鳴った。
樹の顔が強ばる。
まずい、と思った。
腕を振るようにして、窓側に寄る。
思った以上に勢いがあった。
そして。
重々しい音と少しだけ耳障りな響きがあった。
真っ白になるというのは、こういうことなのだろう。
ごくりと唾を飲み込んで、窓に目を向ける。そこには、思った通りの事象があった。ひび割れた、ばらばらになる直前の窓ガラス。まだ割れてはない。だが、蜘蛛の巣のようにある場所から波状に亀裂が入っているそれは、修復は不可能だろう。素人目にも、それだけは理解が出来た。
切なげに目を細める。
最初に浮かんだのは、怒られるということだった。
次に浮かんだのは、あかりの顔で。
その次に浮かんだのは、上総と流依の姿だった。
胸が締め付けられるように痛む。
昼休みの時間帯のちょっとした遊びの結果がこれ。悪ふざけも過ぎたかもしれない。後悔が押し寄せて、樹はどうすべきか迷っていた。
どうすれば良い。
選択肢が頭に浮かぶ。
素直に言うか。
それとも、知らぬ存ぜぬを押し通すか。
だが、それで別の人に迷惑が掛かれば、どうだろうか。
ぐるぐる、と可能性が浮かび上がり、足が震えた。
あかり。
少女は、この場所にいた。
少女に疑いが掛からないだろうか。
──わたしが勝手に愛しているだけよ。
この場所で言われた台詞がリフレインする。
あかりは聡いところがあった。世話を焼きすぎる傾向があることも知っている。もし、樹の仕業と分かればどうだろうか。あかりは、どうするだろうか。
──わたしが勝手に愛しているだけよ。
穿ち過ぎかもしれない。
まさかしてもいない無実の罪を自らは被らないだろう。
手のひらを握り込む。
目尻に涙の滴が浮かぶのが、自分自身でわかった。
いや。
泣いている場合ではない。
ぐい、と瞼を擦り、樹は割れかけのガラスを睨み付ける。
──僕は、魔術師だから。
唇の端を噛んだ。普通ではない選択肢。他ならぬ、魔術師だけが持てる『無かったこと』に出来る技術。自分の記憶を代償に、世界へと干渉する悪魔の技術。強い干渉ならば大きな代償が選ばれるとはいえ、この程度ならば、どうだろう。
樹は頭の中ではじき出し、代償は大きくならないと踏んだ。
息を整え、樹は割れかけガラスに手をあてる。
大事なのは、イメージだ。
蜘蛛の巣みたいに描かれたガラス窓。亀裂に光が走り、己自身を磨き、さらに補完する。イメージ。そう、このガラスは割れそうになったけれど、修復されたという形を意識する。修復後については、他よりも割れやすいという特性だけを描いて。
本当にそうであるかは、関係がない。
ただ、魔術を行使するにはイメージが必要だった。
正しくなくても良い。魔術師自身が、こうあるべきと願い、あるいは想定した強さによってそれは具現する。推定・仮定と、できあがりの結果を想定出来ることが最初の一歩だ。
押し当てた手から、10cmの光が現れる。
灯火。
樹は、そう呼んでいる。
暖かいようなぬるいような光球は、樹の手からひび割れたガラス窓に波及し、一枚のガラスに白が広がる。一瞬だけ浮かび上がる幾何学模様。見慣れぬ円と見知らぬ文字の羅列、それらがガラスひびに沿うように走り。
脳裏に、新城の顔が浮かんだ。
呆然と口を開く。
脳天気で、常に樹を気にかけ、憎めない少年。椅子に座り、他の少年少女たちと同様に樹を眺めている。頬杖を付いて、どことなく面白そうに笑っていた。暗転。樹が座っている場所に少年がやって来て、ぽんぽん、と頭を叩く。八重歯を覗かせ、『とーま』と少年は呼んだ。
ああ。ああ。
樹は、何が代償に選ばれたのか、把握する。
転校した時のシーン。出逢い。ガラス一枚元通りにするだけで、これだけ大きな代償が払われるか。驚愕するような思いとは裏腹に、脳裏に描かれていた風景にひびが入る。新城の顔を中心として、ガラスと同じ、蜘蛛の巣状に傷が入った。
甲高い金属の擦れる音。
これは自分の頭からか、それとも目の前のガラスから放たれているのか。
どちらとも判断が出来ず、それは10秒は鳴り続け。
唐突に止んだ。
「……」
不利な体勢で傾きつつある自身を意識して、持ち直す。
樹は、窓の縁から教室の床へと飛び移った。
再度、割れかけていたガラスを見上げる。
音はなく。
光輝く訳でもなく。
ただ向こう側を映すはずだったガラスは白くなっており、やがて、白さが透明さに変わる。白から無色へ。そして、再び向こう側を映す一枚のそれとなる。ひびはなく、汚れもなく、最初からそうであったように。いや。研磨されたばかりの製品のような、リニューアルされた雰囲気がそこにあった。
目を細め、肩で息を吐く。
──上手くいった。
息を吐く。
「見付けたぞ、とーまっ」
背後のドアが乱暴に開けられる。
疲れた顔で振り返れば、そこにはわざとらしく頬に絆創膏を貼った新城が居た。ついでに何故かドアを開けた右手には包帯が巻かれている。ふふふ、と怪しく笑いつつ、新城は一歩を踏み出す。
「あっちのドアも仲間が固めた。もう逃げ場はないぞ?」
樹は耳たぶを掻く。
つい先程までの全力疾走と魔術行使の影響で、動く気にもならなかった。
「大人しいな?」
「そりゃあ、ね」
「捕まえるぞ?」
「逃げる気はないよ」
とことことこ、と新城は樹の前まで進む。
首を傾げて、少年は樹の肩に触れた。
「どうした?」
肩を竦める。
「全力疾走して、疲れたんだ」
「左様で」にこり、と少年は笑った。「だが、これで全員掃除になった」
*
「と言うわけで、みんな放課後の掃除は有りだ。いやぁ、残念だった」
ぬけぬけとした台詞は、教室内に空しく響いた。
「いや、そもそも新城が言い出した訳だし」
「と言うか、あいつ捕まった途端にズルかったぞ。鬼ごっこに参加してなかったやつも仲間にしてたし」
「それを言うなら最初から鬼役だった俺らが、一番割食ってる。勝ってもうま味が無いじゃないか」
冷たい視線に晒されて、新城は明後日の方向を向いた。
幾人かは鬼が増えていた理由に納得する。それでも、冷たい視線は変わらなかったが。
「あー、なんだ。今回の反省点は次回に活かすってことで」
「次回は新城が鬼役な」
「えー、そりゃないだろ」
「鬼のマーク隠して近付いたりするからだろ。あれも卑怯だ」
「いやいやいやちょっと待てって。それ言うなら、とーまも中々卑怯だった」
「え、僕?」
予想外の方向から話がやってきて、樹は慌てた。
「どうして」
「碧海さん、四条さんを味方に付けるとか卑怯以外の何者でもないだろ」腰に手を当て、新城は言った。「見ろ、この絆創膏と包帯を。あのふたり、容赦ねーな」
「それ、大げさに張っただけでしょ」
「まあ、そうだけどな」
新城は頷く。
「ただとーま、あのふたりから相当気に入られているだろ。何したんだ? 前に教室来た時にはけんもほろろって感じだったのにさ」
「ちょっと話しただけだよ」
「ちょっと、であのふたりが結託するわけか。おまえ、見た目以上に凶悪だな」
「どういう意味」
「いや、黙ってれば、それはそれは構ってやりたくなるような感じなんだけど」やや屈み、新城は樹の表情を見上げた。「それが影響してんのかねえ」
「そんなの知らないよ」
ふい、と顔を背ける。
そういえば、と合いの手が隣からあがった。
「二塚さんとも仲良いだろ。今日だって、結局匿ってもらってただろ?」
「なに、そうなのか?!」
新城が食いつくと、合いの手をあげた少年が重々しそうに頷いた。
「間違いない。鬼ごっこの時はとぼけられたけど、状況的にそれしかなかった」
「映画行った時も二人で楽しそうだったもんなー」
ちらり、と見られ、樹は動きを止めた。
それは樹の中で記憶にないことだった。
「映画?」
「そ。この前の時、二塚さんと二人で映画を見た後、どこ行ったんだ?」
悪戯っぽく言われて、樹はしどろもどろに言葉を繋ぎ合わせる。
どこにも行っていないとは、言えなかった。新城の言葉に何人か肯定していることもあった。性質の悪いひっかけではない。樹としては記憶されていないが、きっと、その出来事は現実にあったことなのだろう。
それは何時の話か。
二塚あかりと図書館で出逢い、自己紹介をしたことは覚えている。それから以降、樹はあかりとプライベートで出掛けたりはしなかった。しなかった、はずだ。
だが────……
『次は、忘れないで、ね』
自己紹介をしたとき、あかりがぽそりと漏らしたその言葉。
ちくり、と胸を刺された小さな棘。
樹は眉根を寄せた。
「おや、樹くん。どうやら、触れられて欲しくはなさそうだねぇ」
新城は笑って、肩を竦めた。
「ま、良いや。それはおいおい聞くとして、放課後の掃除は手早く終わらせて、みんなでゲーセン行こうぜ」
追求を諦め、三々五々におー、という投げやりな声が複数からあがる。
樹は、俯き、応えなかった。
【断章】
──映画?
あかりと。
──仲良いだろ。二人で楽しそうだった。
あかり、と?
少女は図書委員で一緒となり、一緒に仕事をこなそうとした時に自己紹介をした。そして、校内以外では会った記憶はない。
その、はずだった。
いや。
ひとり、樹は震える足を押さえ込む。
思い浮かぶ可能性がひとつだけあった。
まさか。まさか。
内心呟きながら、自分の不明確な記憶だけを辿る。
胸の内に焦燥が走る。
あり得ない。
いや、あり得るかもしれない。
黄昏の色が教室内を支配する。夕焼けが、赤く、眩しく、教室内を染めていた。放課後の喧噪は、この室内にも微かに届く。グラウンドから聞こえる部活の元気な声。隣室より聞こえる囁き。音。思い出したようになる校内放送。
すべてが遠く感じる。
教室内で、ひとり、樹は肩を抱き、俯く。
喉がからからだった。
でも、動く気力はなかった。
──騙す為に口裏を合わせたのだろうか。
そんなことをふと考えて、自嘲する。
そんな必要は、どこにもない。
そうであるのならば、少年少女たちが言った、映画も、その後の二人で出掛けたことも真実なんだろう。
覚えていない。
知らない。
樹は恐ろしくなった。
自分が覚えていないこと、しかしそれでも現実としてあったことなのであれば──それは。その意味は。
『現在』の記憶さえ忘れ始めている。
唇を噛む。
遠くから声が聞こえる。
段々と室内が暗くなる。
恐る恐る息を吐き出した。
──自分の知っていることと、廻りの知っていることで齟齬が出ている。
その意味を樹は知っている。
泣き笑いの表情が生まれた。
──このまま過ごせば、藤間樹は居なくなる。
それが嫌なのであれば。
幼い頃、ロウより聞かされた、あの言葉が蘇る。
『最初は気付けない。魔術を使う時だけ気付き、すぐに忘れられる。──そして、魔術を使いすぎたという段になって、ようやく理解する。そうなったら、もはやほとんど手遅れだ。樹。自分が自分であるために、魔術に慣れてはいけない』
樹は、しばらく立ち上がれなかった。