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9曲目『ゴタゴタの前触れを感じよう』


     ☆     


 家に帰ると両親が喧嘩をしていた。

 まあ、喧嘩といっても母親からの一方的な攻撃だ。模型雑誌を読んでいる父親に向けて、母親はうだうだうだうだうだうだうだうだと文句を言い続ける。父親はそれを徹底してスルーする。

 母親の文句は幕の内弁当のように色鮮やかで多種多様なのが特徴だ。

 経営している洋菓子屋の収支状況から、近隣の一家の一人息子、スーパーで売られているティッシュの値段、住みにくい我が家の間取り、ゴキブリの出現記録、父親の体臭、模型部屋の問題、果ては阪神タイガースのふがいない成績に至るまで――まるでこの世の全てが母親の『まな板』の上に置かれているかのようだった。

 何より一番多いのが私に関する文句だ。

 別に直接いじわるを言われることはない。母親は私をちゃんと抱きしめてくれる。

 そうではなくて、この場合は私をダシに使った文句のことをいう。

「あなた、そういえば遠山さんのところの一人娘は学内テストでトップを取ったそうですよ」

「………………」

「全く優秀な娘さんで羨ましいですね。もちろんウチの祥子も負けてないですけど、やっぱり向こうは家庭環境が整っているからか、聞くところによればかなり良い娘に育っているみたいですよ。あなた、聞いてますの?」

 こんな毎日が、子供の頃から続いていた。

 別に母親は私自身に文句があるわけじゃない。それは私が一番知っている。

 きっと彼女は、ただひたすらに父親が憎いのだ。

 自分の理想を叶えられない父親に対して、堪えがたい苛立ちを感じているのだ。

 だから父親と結ばれるプロセスで生まれた『私』について文句を言う。

 ……以前、親戚の大叔父さんにこのような話を聞いたことがある。

『ふふふふふー。知ってるかい祥子。お前の母ちゃんは昔、遠山のおじさんとデキていたんだ』

『そうなの!?』

『ところがお前の父ちゃんが絶対に幸せにするって言って、母ちゃんを我が物にしちゃったのさ。それで祥子が生まれた!』

『へー!』

 つまりはそういうこと。

 私の母親は、父親の『絶対に幸せにする』を信じて結婚した。

 しかし彼女はいくら父親が頑張っても満足できなかった。父親が独立して洋菓子屋を建てても、その店が数年かけて人気店に成長しても、さらにはテレビで特集されたりしても、彼女は全く満足できなかった。

 理由なんてわからない。知りたくもない。

 専業主婦で暇だから? あまりにも何もないから? ストレス?

 知ったこっちゃない。暇なら父ちゃんの店を手伝えよ。レジ打ち手伝えよ!

 ただ一つわかるのは、きっと彼女の心の奥には今でも「遠山のおじさんと一緒になっていれば」という気持ちがあるということ。

 その気持ちがなくならない限り、私の母親の『悪癖』は治らないだろう。


 そうして私は小さな頃からいつもいつも遠山家の一人娘と比べられてきた。

 遠山早苗は自ずから私の目標になった。

 母親から伝えられる断片的な情報を元に、彼女のやったことを越えられるように、ずっと追いつけ追い越せで頑張ってきた。そうしないと大好きなお母ちゃんから本当に嫌われてしまいそうな気がしたからだ。

 でも追いつけなかった。

 彼女は狂ったように何もかもに手を出していた。何を目的にしているのかわからなくなるくらいチャレンジし、称賛を得て、また他の分野に手を伸ばそうとしていた。

 例を挙げるならスポーツ。中学時代の彼女は超人だった。

 昨日「陸上の大会で三位になったそうよー」という話を聞いたかと思えば、その次の週には「テニスの校内大会で準優勝したそうよ」という話を聞かされた。

 たとえ一位でなくても、それらが物凄い成績なのは私にもわかった。助っ人のつもりなのか知らないけど、それぞれ専門に取り組んでいる人たちに謝れとさえ思った。

 残念ながら私はスポーツが苦手だったので、中学二年生からは勉強で立ち向かうことにした。

 しかし私はこっちでも彼女に敵わなかった。

 母親の期待を一身に受けていながら、全力を尽くした高校受験に失敗してしまった私が、親戚の集まりで四條畷学院の制服を着た遠山早苗の姿を見た時の――あの気持ちを理解できる人は早々いないだろう。

 向こうは内部入試とはいえ府内有数の難関校なのだから相当の修羅場を潜り抜けてきたはずだった。加えて彼女は学費免除の特待生になったと聞いた。私はせいぜい江袋高の英数特進クラスに滑り込めた程度だというのに、向こうは特待生!

 母親からは、二年間、塾に通ったり、居間のテーブルで計算ドリルと格闘したりした、私の積み重ねは褒めてもらえた。彼女は結果より経緯だとも言ってくれた。たしかにそれはそうだと思う。あの日々が無駄になったとは到底考えられない。

 でも――その日からお母ちゃんの文句のレパートリーは確実に増えていった。


     ☆     


 五月某日。快晴の金曜日。

 いよいよ一週間後にBコン予選大会を控えたこの日、伊藤ちゃんのデビュー戦が行われた。

『れ……れんらくします!』

 昼休みの教室にこだまする彼女のハスキーな声。

『い、一年六組の荒木くんは至急押本先生の所まで行ってください。繰り返します……うっ』

 カチンコチンに固まりきった口調はとても初々しいもので、教室では時折失笑が起きていた。

 懐かしいなあ。俺も一年前はあんな感じで声が震えて死んでしまいそうだったなあ。

 体操服から制服に着替え終えた俺は、初仕事をやってのけた伊藤ちゃんがどんな様子なのか気になり、別段シフトが入っていたわけでもないのに急いで放送室に向かう。

 部室のドアを開けた時、ちょうど『ピンポンパンポン』と終わりの鉄琴が鳴った。

「ああ……死んでしまいそうッス……」

 パイプ椅子にダラリともたれかかり、組んだ両腕に顔を埋めてヒィヒィと泣き言を漏らす伊藤ちゃん。

 その様子がよっぽど面白いのか、隣でミキサーを操る松岡は彼女をわき見しながらニヤニヤしていた。

 全く悪趣味な奴だ。

「初めてにしてはよくできてたんじゃないかな。ちゃんと伝わったよ」

 加地前先輩が伊藤ちゃんを慰める。

 彼女の言った『伝わる』という概念は校内放送において非常に重要なことだ。

 俺たちはいつも「伝えたいこと」を「伝えたい人」に「伝えて」いる。昼休みの連絡放送は先生と生徒の仲立ちのために。DJ放送は一般の生徒の娯楽のために。こうした大義名分のために、俺たちはスピーカーとマイクを操り、生徒たちの耳元を少しだけ占拠させてもらっている。決して虚無空間に向けて音声を発しているわけじゃない。

 これがやっつけ仕事になってしまえば、たちまち俺たちは放送室を追い出されることになるだろう。ただの部活動でありながら学校行事の中枢に関わっている放送部はそれだけ責任重大なのだ。

「そのわりに全く旨味はないけどな……」

「古城、何をぶつぶつ言ってるの」

 電話番の葛西さんから文句を言われた。我ながら少し口に出ていたらしい。

「葛西は伊藤ちゃんのインフォ、どう思った?」

「聞き取れないことはない。それだけよ」

 愛弟子にも辛辣な評価を浴びせる葛西さん。

 加地前先輩から伊藤ちゃんの育成コーチに任命された彼女は、ここ最近はすぐに帰ったりせず、付きっきりで伊藤ちゃんをサポートしてあげていた。

 例年より一ヶ月も遅い入部だったため、そのぶん伊藤ちゃんには放送部員としての積み重ねがない。おのずと教えることは多岐にわたり、葛西さんは彼女が目前に迫った大会で困らないよう指導に力を入れているようだった。今回の初インフォ体験も葛西さんの発案だったりする。

「やっぱり去年の自分を思い出すのかな……」

「古城、さっきからうるさいわよ」

 あるいは加地前先輩へのポイント稼ぎだろうか。

 真実は藪の中。

「あ、松岡先輩。例の話、通りましたよ」

 不意に始まった桃色の話題。

 伊藤ちゃんの無垢な笑みに松岡の目がギラリと輝く。

「よくやったムツミン! それでどんな子なんだ」

「ソフト部の同期ッス。背の低い子です」

「よし! よし!」

 松岡は近くにいた東野の背中をバシバシと叩く。嫌がった東野が二つ、三つほど反撃していたが当の松岡は全く意に介さない。むしろ不自然なほど笑顔だ。

「いやあ、写真を見せたらもう食いつきが凄くって! さすがイケメンッスね!」

「ははは! 今度ミキサーの使い方を教えてやってもいいぞ!」

「それは是非お願いするッスが……」

「おかげで我が世の春が来た! 体育会系なのは玉にキズだが! 今の僕なら許せる!」

「うわぁ」

 松岡のあまりの喜びっぷりに伊藤ちゃんも若干引き気味だった。やはりアグレッシブに異性を求める様子は女性受けが悪いらしい。

 しかし……女の子か。

 悔しいけど俺も男の子だからどうにかして都合つけてもらえないかな。

「……古城、やめといた方がいいよ」

「え、東野?」

 こそこそと近寄ってきた東野は、あまり良い顔をしていなかった。

「残念ながらウチのソフトボール部に可愛い子はいないんだ。あそこも吹奏楽部と同じで軍隊だからね。ひ弱なのはみんな辞めちゃう。残ってるのは筋肉の塊ばかりだよ」

「まだ六月なのにか!?」

「現に睦美ちゃんがこっちに来てるじゃない」

 東野の目線が松岡と談笑する伊藤ちゃんに向けられる。

 たしかに最近はずっと放送部に来ていて、ソフトのほうは大丈夫なのか気になっていたけど、そういうことだったのか。

「まあ睦美ちゃんの場合は実力があるから退部を留保されてるみたいだけど、とにかくそんな訳だから変に期待しないほうが良いよ」

「でも鍛えているからって可愛くないと決めつけるのは……」

「どうせ古城も松岡と同じで小さい子が好きなんでしょ?」

「うっ」

 否定できない。

 別に松岡みたいに中学生レベルを熱望しているつもりはないけど、自分より背の高い女性はあんまりタイプではない。もちろん元より俺に選ぶ権利なんてないのはわかっている。ただどうしても年上の女性には『姉』を感じてしまい、苦手だ。

「……それに古城にそんな相手ができたらたぶん殺されちゃうような気がするんだよね」

「ボソッと言ったつもりかもしれないけど、ちゃんと聞こえたからな」

 いったい誰がそんな無益なことをするんだよ。

 そんなツッコミを入れる前に、伊藤ちゃんのインフォ第二弾が始まってしまった。

『ピンポンパンポン』

 連絡放送はミキサーのあるメインの部屋に置いてある卓上マイクで行うため、その際はみんな黙らないといけないルールになっている。東野も葛西さんも口にチャックをしている。俺だってそうする。

 ミキサーのマイクスイッチが押される。伊藤ちゃんは大きく息を吸った。

『れんらくします。一年六組の荒木くんは至急増渕先生の所まで行ってください。繰り返します……』

 今度は少し慣れた感じでアナウンスすることができた。

 こうして放送部員は成長していく。


     ☆     


 ――小学校・四年生の冬。彼は私にこう言った。

「僕は完璧な女性と結婚したいな」

 輝かしい瞳の発する純朴な欲望に、私は胸を躍らせた。

 私は小さい頃からずっと彼を見ていた。

 ずっとずっと彼と一緒だった。

 家が近いだけが理由じゃなかった。常に私からくっついていた。

 あの冬――かすかに望むべき未来が見えた。

 その日から、私は完璧を目指すようになった。

 幸いにして生まれついての姿かたちはさほど悪くなく、後はステータスを得るだけだった。

 私は一度彼と距離を取ることにした。

 青春は誰かにくれてやる。私は『最後』に勝てばいい。

「母ちゃんと一緒に墓に入れて幸せだあ!」

 そんな父の言葉が頭から離れなかった。

 さて、努力と一言にするのは簡単だけど、実際どれほど頑張ったのか、なんてのは表現のしようがない。

 何冊、何十冊の本を読みました。それは立派なこと。

 でも頭に入ったかどうかは誰にもわからない。

 この世には斜め読みという言葉があるくらいだから、やっぱり表現のしようがない。

 その点、私の努力と結果は全て『欲望』に直結したものだった。

 敬ちゃんと結ばれるという未来のため、ひいてはわずかながら芽生えつつあった身体本来の欲望のため。やりたいこととやらなきゃいけないことが見えていた分、繋がっていた分、私は集中力は並外れたものがあったと少し自画自賛したい。

 頑張ったのは勉強だけではない。この世の全てのタイトルに私の名前を刻み込もうと考えた。

 文武両道、何もかもでトップを取れば完璧になれるだろうとの発想だ。

 とにかくあの頃は目の前の標的に全力で取り組んだだった。

 凡庸だった私が青春を捨てるためには、時にはエサも必要だった。

 私は小学六年生になったある日、久しぶりに彼の家を訪れた。

 二年ぶりに興じるマリオカート64の楽しさたるや、隣にいる彼の笑顔と共に忘れられない思い出になった。

 彼がトイレに行っている間に、私は彼の部屋にちょっとした細工をした。

 今思えば、あの細工のおかげで私は数年間モチベーションを保つことができたのだろう。


 それから時は行き過ぎて、幾度目かの冬の日。

 私はある人から愛を告げられた。

 よく喋るクラスメートだった。

 もちろん私は丁重にお断りしようと思った。

 しかしその日の夜、寒々しい布団の中で、私の中の賢い部分がこんなことを告げてきた。

 ――あのクラスメートのほうが未来があるんじゃないか?

 私は思わず息をのんだ。

 日々、あの部屋の細工のおかげで、彼の様子は観察することができた。

 ウチの近所の江袋高に通うことが決まり、ようやく受験勉強から解放された彼は、それから全くといっていいほど何もしていなかった。そもそも決まったのがあの江袋高という時点で、私からしてみれば受験勉強をしていないのと一緒だった。

 一方であのクラスメート――名前は覚えてないけど、彼はウチの生徒だった。

 単純に考えて、未来があるのはどちらだろう。

 私は答えを出せなかった。一応クラスメートの彼にはお断りのお手紙を送付したけれども、私の好きな古城敬にそこまで執着するだけの価値があるのか、私はわからなくなってしまった。

 でも、もし彼という存在から離れてしまったら、私は今までのように頑張れなくなるかもしれない。モチベーションが保てないかもしれない。

 何よりもそれが――一番怖かった。


     ☆     


 六月二日の帰り道。

 予選大会を前日に控えたこの日、加地前先輩による最終調整が行われた。

 決意の表れと称して愛用品のトランプをめちゃくちゃに引きちぎった先輩は、全員の原稿読みを一通り聞き終えた後、各々に一言ずつアドバイスを与えてくれた。

 俺が最初にもらったアドバイスはずばり「顔が悪い」というもので、こればかりはどうしようもないのでどうにか別のアドバイスをいただけるよう、何故か松岡と二分ぐらい交渉する羽目になった。

「そもそも予選大会は音声審査なんだから顔は関係ないっての……」

 Bコンの予選は府内の某府立高校で開催される。参加者は指定された教室の壇上でマイクに向けてアナウンスを行い、審査員を務める大人たちは別の部屋でマイク音声のみを耳にする。つまり審査員と参加者は直接対面しない。

 まあ、一度目のアドバイスは先輩なりの笑えないジョークだったのだろう。

 二度目にもらったきちんとしたアドバイスは「声の量が足りない」というものだった。

「でも大きすぎてもレベル的におかしくなるよな……」

 レベルとはマイクで拾った音声の大きさのことだ。あまり大きい声を出すと音が割れてしまう。

「古城の場合、想像以上に出ていないから気持ちとしては叫んでもいいくらいよ」

「あ、葛西」

 一人きりで帰っていた俺の横に、いつの間にか葛西が追いついていた。

 ちなみに松岡と東野は裏門のラーメン屋『檜皮厳鉄』に寄るらしく、どういうわけか伊藤ちゃんもそれに付き従い、三人で夜の街に消えてしまった。加地前先輩は例によって自転車だ。

「どうも古城からはやる気が見えないんだけど、本気ならちょっとぐらい手ほどきしてあげてもいいわ」

 トコトコと歩くたびに彼女の二つくくりが揺れる。

「やる気が見えないって酷いな……」

「本当のことじゃない。そもそも古城はどうして放送部に入ったのよ」

「そんなレベルでやる気がないみたいに見えるの!?」

 ちょっとショックだった。俺は楽しいながらもそれなりに真剣にやってきたつもりだったのに。

「で? どうして?」

「……楽しく部活がやりたかっただけだよ」

 俺の返事に、葛西さんはフッと蔑みの入り混じった微笑みを浮かべた。

「そう。ちなみに私は人前に立つだけの胆力をもらうために入部したわ」

「人前に立つ?」

「ちょっと引っ込み思案なところがあるでしょ。これから先、社会に出た時にプレゼンとかで困らないためにもスピーチの能力は必要だと考えたの。別に人数が少ないから部長になりやすいなんて理由だけで入ったわけじゃないのよ」

 葛西さんに引っ込み思案なイメージはなかったけど、たしかに去年の大会での惨状や、活発な伊藤ちゃんに対する当初の人見知りっぷりを考えるとあながち本人の勘違いではない気がする。

 それにしても珍しくぺちゃくちゃと話しかけてくるなあ。

 こんな葛西さん、初めて見たかもしれない。

「……別に古城に気はないわよ」

「わかってるよ!」

 キッと睨まれて思わず動転する。葛西さん、心の中を盗み聞きとは褒められない。

「古城には大会の後でしっかり仲間になってもらわないといけないから、こうして色々と秘密めいたことを教えておけば親近感が湧くでしょう。これもまた戦略の一つ。松岡が相手となると手段は選んでいられないわ」

 相変わらず心の中がダダ漏れなのもあんまり褒められないよ。

 でも、彼女に親近感が湧いたのは事実だった。


     ☆     


 ポケットからイコカを取り出し、四条畷駅の改札を通る。

 葛西さんは住道の住人なので帰りの方向は一緒だ。いつもは早々と帰ってしまう彼女だけど、こうして同じ時間に帰れば一緒の電車に乗れるみたいだ。

 普段寂しい思いをしている分、女の子と帰路を共にできる嬉しさが胸に染みる。

「……敬ちゃん」

 責めるような口ぶりが右耳を通じて脳に注ぎ込まれた。

 その呼び方をする人間は、この世に二人といない。

 小学校以来の古馴染はみんな中学になってから『古城』と呼んでくるようになった。

 別の中学に行った彼女一人を除いて。

「この女の人、誰?」

 早苗は葛西さんを指差した。

「誰って……いやお前」

「いいわ古城。ちょっと黙ってて」

「えっ」

 葛西さんに制され、俺は口をつぐむ。

 どういうわけか逆らえない雰囲気があった。

 駅のホームで相対する二人。

「……遠山早苗。あなたは私が誰かわからないの?」

「残念ながら顔に覚えがないわ。どなた?」

「葛西祥子、あなたの親戚のつもりよ」

 早苗の目が見開かれた。

 そうなのだ。早苗と葛西さんは親戚、それも『はとこ』と比較的近い親戚のはずだ。

 幾度となく親戚の会合で出会っているらしい二人だが、どういうわけか早苗は葛西さんのことを認識していなかった。

 葛西家と遠山家は誕生日ケーキを渡すくらいに仲が良いはずなのに。

「……わ、わかっていたよ敬ちゃん。それに祥子ちゃん。ただのジョークだよ」

 彼女はいつものようにニヒヒと笑った。

 一方の葛西さんは――唇を噛んでいた。

「あなた、私を忘れていたの!」

「落ち着け葛西、ここは駅のホームだぞ! 公共の場だ!」

 今にも殴りかからんとして身を構える葛西さんを全身で抱え込み、どうにか二人を引き離す。

 ちょうど電車がホームに入ってきた。

 猛烈な風が俺たちに浴びせられる。

 都合の良い風だった。どういうわけかヒートアップしていた葛西さんの心を冷やし、早苗の温かみも吹き飛ばしてくれた。

『ただ今、到着の電車は、十八時二十分発、普通電車・西明石行きです――』

 人の流れが俺たちを遮る。

 いつまでも抱きついていられないので、葛西さんを解放して、俺は早苗に近づく。

「本当にわからなかったのか?」

「そんなわけないでしょ。ジョークだよジョーク! ほら!」

 笑顔の早苗に突き飛ばされる。

 人ごみの中で彼女を見失った俺は、電車に乗るのも忘れて目で彼女を探していた。

 しばらくして西明石行きが発車すると――ホームには俺だけが取り残されていた。


     ☆     


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