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7曲目『新人を教育しよう』

 五月某日。雨がパラパラと降る、薄暗い放課後。

「あれっ……ドアが開かない」

 いつものように放送室にやってきた俺は、どういうわけか締め出しを喰らってしまった。

 ガチャガチャとドアノブをひねってもドアはまるでビクともしない。

「もしかして、まだ誰も来てないのかな?」

 そう考えればドアが開かないのにも辻褄が合う。いつもはHRがすぐに終わるらしい東野が早めに来て開けてくれているのだけど、もしかしたら何か用事でもあって今日は来れないのかもしれない。

「仕方ない。一番乗りの俺が鍵を取りに行くか」

「……誰が一番乗りですって?」

 女の声がした。振り返ると葛西さんが立っていた。

「ああ、よう葛西」

「そんなのいいから。とっとと行くわよ」

 何やら急いでいる様子の彼女に、制服の袖口を引っ張られる。

「行くって、どこにだよ」

「講堂だけど。今日は学校説明会があるって昼間に言ったわよね」

「……ごめん忘れてた」

 俺の反応に、葛西さんは小さくため息をついた。

 学校説明会は放送部の定期的な課外活動の一つだ。

 ウチの学校では例年五月から十一月にかけて、二ヶ月に一度の頻度で中学生と保護者を集めた大規模な説明会を開いている。体験授業なんかもあって受験生からそれなりに好評らしい。

 俺たち放送部は、このうち講堂で実施される全体説明会の音響調整を担当している。

 音響調整とは――掻い摘んで説明するなら、例えば校長先生が握っているマイクの音量を聞こえやすい大きさに調整したり、逆に声のデカい先生のうなり声を出来るだけ小さく聞こえるようにしたりと、とにかく聴衆が不快にならないように裏で色々と機械をいじくっちゃう仕事のことだ。

「フハハハ、お前たちの鼓膜の安全はすでにボクの手の中にあるというわけだよ……」

 講堂の映写室から客席の様子を眺める東野。

 遅れそうになった手前、あまり強くは出られないので口にしないことにするけど、無声音だからって下に聞こえないわけじゃないから、あんまり不穏なことは喋らないでほしい。

 無声音とはコソコソ話の時のあれのことだ。まともに発声しないので『無声音』という。

 映写室での会話は基本的にこの無声音で行われる。裏方は裏方らしく目立たないのが鉄則。俺たちは表で喋っている校長先生や教頭先生の邪魔にならないよう、最善を尽くさないといけないのだ。

「あっ、古城もやっと映写室に来たんだね」

 東野に無声音で話しかけられた。

 俺も無声音で返事をする。

「すまん東野。すっかり忘れてた」

「ははは。まだ始まってないから大丈夫だよ」

 小さな手に背中をポンと叩かれる。

「――それにしてもすごい数だね、古城」

「ああ。これはすごいな」

 窓から下界を眺めると、客席はすでに人で満杯になっており、立ち見の保護者が壁沿いにずらりと並んでいた。

 これほどの盛況ぶりは今まで見たことがない。

「校長の話を聞くためだけにこれだけ集まるとは、今時の主婦は意外と暇なんだな」

 スポットライト担当の松岡がこちらに近づいてくる。

 まだ始まる前なので自由に動けるようだ。

 映写室にはスポットライトが二つ備え付けてある。それぞれ自由に照らす位置を変えることができるので、壇上の校長を照らしながら一方で司会席の教頭を照らすといったことも可能だ。

 このスポットライト、卒業式なんかだと卒業生代表が壇上まで歩く姿を追わなくちゃいけないこともあったりして、結構『狙撃』が大変だったりするのだけど、こういうのんびりとした説明会の場ではあまり仕事がない。

 いかにも松岡らしい仕事の選び方だった。

 もうちょっと早く来れていたら、俺だって狙ったんだけどなあ。

「……そういや俺は何をやれば良いんだろう」

 ふと映写室を見回す。

 音響のミキサー席には東野が陣取っている。

 スポットライトは二台とも松岡が占有している。そもそも今日はおそらく一台しか使わないので担当者は二人もいらない。できれば他の仕事を探すべきだ。

 残りの一枠、照明装置は――どうやら葛西さんがやるつもりらしい。

「古城、照明は私がやるから」

「じゃあ俺はどうすれば……」

「知らないわよ。そこの机で原稿でも書いてたら?」

 彼女の言葉(無声音)に俺はビックリした。

「え……いいの?」

「だって四人もいらないもの。暇されるのは嫌だし、それなら原稿でも書いとけって話じゃない」

 時は五月下旬。

 いよいよ六月の大会が近づいてきた頃である。

 俺たち放送部員は日々アナウンス原稿と誼を交わすことを強いられていた。

 何度も何度も書き直し、そのたびに単語のイントネーションを辞書で調べる。時には取材内容を読み直し、時には文章の構成そのものを変えてしまうことだってあった。

 そうして日々生産されていく幾多のアナウンス原稿のうち、顧問教師の厳しい審美眼に許された原稿だけが、この無間地獄から逃れることができた。そして俺たちはその高みを目指して、日々研鑽を重ねるのだった。

 なお葛西さんはすでにこの難題をパスしており、毎日涼しい顔で部室を後にしている。

「よし……葛西に続いてやる!」

 思わず映写室でガッツポーズ。

「ずるいぞ、古城!」

「そうだよ! 働かない古城が得するなんておかしいよ!」

 周りの批判(無声音)なんて気にしない。

 やることがないんだから他の活動をやって何が悪い。

「……幼馴染から優しくないって言われたばかりのくせに」

 野太い声(無声音)にキッツイ所を刺されてしまった。

 東野の奴、弱みでも握ったつもりなんだろうか。

「ばかりって、あれから半月は経ってるっての……」

「へえ。あれから会うことはあったの?」

「まだ無いけどさ……」

 時が経つにつれて早苗の罵詈雑言が胸に響くようになっていた。

 古馴染の彼女からあんな風に見られていたなんて。

 そんな罪悪感にも似た思いが、俺の胸を強く締めつける。

「ふふふ。罪悪感を感じるなら原稿を書かずにいることだね。そしてボクたちと一緒に無間地獄を楽しもうじゃないか」

 東野に肩をバシバシと叩かれる。

 悔しい。こいつにこんな扱いを受けるのが死ぬほど悔しい。

『ただでさえダメダメなのに性格まで悪いとなると、もう褒めるところが無いよ』

 東野に話をほじくり返されたせいで他の罵倒まで頭に浮かんできた。

 クソ……それくらいわかってたけど、早苗もそこまで言わなくてもいいじゃないか。

 俺が無声音でぶつぶつと文句を言っていると……。

 ――吹奏楽が鳴り始める。

 学校説明会のオープニングを飾る、我が江袋高校の吹奏楽部(五人)。

 少人数ながらも、華やかな舞台で精一杯に演奏する彼らの姿は、いつ見ても好感が持てる。とても物悲しいのは相変わらずだけど、それでも頑張っているのは伝わってくるからだ。

 今日の彼らの曲目は『星条旗よ永遠なれ』だった。

 本来は運動会で演奏するような行進曲なんだけど、何故あえてこれを選んだんだろう。

「はは、軍隊みたいだと思ってたら、本当に軍隊になっちまったのかもな」

 松岡が無声音で苦笑する。

 おそらく吹奏楽部の尋常ではない組織力を皮肉っているのだろう。

 たしかに彼らは凄まじい。こうして舞台の上で演奏している限りでは『小さいながらも遊び心にあふれた演奏集団』のように見えてしまうけど、普段の彼らは自衛隊もビックリのとんでもないスパルタ集団だ。

「あの人たち、いつも廊下でごめんなさいを連呼してるもんね……旧軍みたいというか……」

 窓枠に頬杖をついた東野が、ぽそっと毒を吐く(無声音)。

 実は俺も何度か、『フルート殿! 下手な演奏をして申し訳ありません!』という台詞を連呼しながら土下座している様子を見たことがあるので、何となくわかる。

 あんな古くさいノリだから新入部員が一人も入ってこないんじゃないだろうか。

「ってそれはうちも同じか……ははは」

「古城、無声音!」

 葛西さんに無声音で怒鳴られて、俺は久しぶりにチビりそうになった。

 この迫力はいったいどこから来るのだろう。謎だ。


     ☆     


 学校説明会は滞りなく終わり、俺たちはマイクやスピーカーを手分けして回収した後、放送室まで戻ってきた。

 鍵を持っていた東野がガチャリとドアを開ける。

「ああー! やっと大声で喋れるね!」

 長い間、無声音に縛られていたこともあり、放送部員は概ね開放感を感じているようだ。かくいう俺も無性に叫びたくて仕方がない。

 さっそく、俺たちはそれまでの鬱憤を晴らすかのように発声練習を始める。

 まずは腹式呼吸で大声を出すところから――

「失礼しまぁぁぁぁぁッス!!!!」

 ――スタジオに聞きなれない叫び声が響いた。叫び声自体は発声練習の最中なので珍しいものでもないのだけど、聞きなれないというのはなかなか無いことだろう。

 声の主を探すのは簡単だった。なぜなら『彼女』は何の断りもなく放送室の中に入り込み、すでに俺たちのいた奥のスタジオまでやってきていたからだ。

「どもッス! イトーって言います!」

 彼女はイトーと名乗った。

 どこにでもいそうな、背の高い女の子だった。

 強いて特徴を挙げるとするなら――彼女は全身にソフトボール部のユニフォームを着込んでいた。

「あ! もしかして練習の最中でしたか!」

「一応、そういうつもりだったけど……あなた何者?」

 葛西さんは厳しい目つきをしていた。以前からああいう運動系の生徒は嫌いだと公言していた彼女のことだ。イトーのことをあまり快く思っていないのだろう。

「やっぱり練習中でしたか! すみませんでした!」

 イトーは深々と頭を下げた。

「いや、だからあなた何者……」

「出直します! 失礼しました!」

 そう言って、勝手に放送室から出ていってしまったイトー。

 入り方は大胆だったのに、出る時はやけに謙虚なんだな……。

「……返事をしない奴はもっと嫌いよ」

 葛西さんはドアのほうを見ながら「ふう」とため息をついた。松岡がよく相撲取りみたいだと陰で茶化しているけど、実際はもっと可愛らしい感じでため息をついているのであの指摘はちょっと違うと思う。

 ついでにいわせてもらえば、普段興味がない話題にしか返事をしてくれない葛西さんに、その台詞を言う資格はない。

 何はともあれ、発声練習は再開された。


 発声が終わった後、補習帰りの加地前先輩から話を聞いた。

「そのイトーって子はきっと新入生の伊藤睦美いとうむつみちゃんね。女子ソフトボール部・期待の遊撃手って校内新聞で特集されてたもん。俊足巧打の三番打者として、さっそく活躍してるんだって。何でもチャンスにめっぽう強いとか!」

 どうやら本当にソフトボール部の部員だったようだ。

 でも、そんな彼女がどうして放送室に入り込んできたんだろう。

「もしかしたら入部希望なのかもね! やだ! 期待の新入部員じゃない!」

 身をよじらせて喜びを表現する加地前先輩。

 先輩には悪いけど、果たしてそんな美味い話があるのだろうか……。


     ☆     


 梅雨の匂いがコンクリートの校舎に充満する、五月二十二日。

 俺は湿っぽい渡り廊下を、とある女の子と二人で歩いていた。

「いやあ、なかなか難しいッスね!」

 ひょっとすると俺よりも背が高いかもしれない、一年一組の伊藤睦美ちゃん。

 先日、晴れて放送部に入部となった一年下の後輩だ。

 言うまでもなく俺たち二年生組にとっては初めての後輩になる。

「どーにもこーにも上手く書けないですもん! どうしたらマルがもらえるんスかね?」

「それは俺が聞きたいくらいだよ……」

 俺たちは手元に原稿の束を抱えていた。

 来たる六月六日のBコンに向けて、放送部『アナウンス原稿製作本部』はその製造ラインを日々フル稼働させている。一日当たりの生産量はすでにピークに達しつつあり、数日後に原料となる印刷用紙が足りなくなる事態すら懸念されていた。

 そんな中で、数日前に新入部員が入ってきた。

「いやあ、しかし入部してそうそう大会ですか! ありがたいッス!」

 朗らかに笑う伊藤ちゃん。

 彼女、さすがはソフトボール少女なだけあって、体力と精神力には目を見張るものがあった。

 顧問教師の『あと数日で原稿を完成させろ』というむちゃくちゃな指令にもしっかり応えていて、毎日下校時間ギリギリまで休憩も取らずに取材と執筆を繰り返している。

 曰く、梅雨でソフトボール部が開店休業状態だからこそできる荒業だそうだ。

「そういえば、伊藤ちゃんはどういう原稿を書いているの?」

「自分はソフトボール部の先輩について書いてるッス! どうぞ古城先輩も見てください!」

 持っていた原稿をひったくられて、代わりに伊藤ちゃんの原稿が手元にやってくる。

 この子、押しが強いというか、行動が早いというか……葛西さんじゃないけど、俺もちょっと苦手かもしれない。

「ふむふむ……なるほどね」

 伊藤ちゃんのアナウンス原稿は意外にも出来が良かった。

 ソフトボール部の三年生・石井和乃いしいかずのさんが、交通事故で足の骨を折った後、必死のリハビリでレギュラーメンバーの座を取り戻したという感動的なストーリーだ。伊藤ちゃんは二年の先輩からこの話を聞いた時、号泣したという。

 文章についても書きなれている感じがして、口に出しても読みやすそうだった。

「すごく良いんじゃないかな。これならもうちょっとで合格できそうな気がするよ」

「ありがとうございます! 先輩の原稿もすごいッス!」

 いつの間にか俺のやつも読まれていたらしい。何だか気恥ずかしい。

「それにしても文章が上手いね、伊藤ちゃん」

「ありがとうございます! ああでも、それは葛西先輩がほとんど手直ししてくれてるッス!」

 伊藤ちゃんは照れくさそうに頬を掻いた。

 なるほど、そういうことだったのか。

 現在、加地前先輩から伊藤ちゃんの育成コーチを任されている彼女が一つ一つ手直ししたのなら、この原稿の出来栄えにも納得がいく。

「……俺の原稿も手直ししてくれないかなあ」

「え! 自分がですか!?」

 いや、君じゃないですよ。


 ペケマークだらけの原稿と共に放送室に戻ってくる。

 伊藤ちゃんは葛西さんのいるスタジオのほうに行ってしまった。

 俺は放送室の机にドッと腰を据えて、目の前のノートパソコンからマウスを探す。

「おっ……帰ってきたな」

 マウスを持った松岡が近づいてきた。USB端子をぶらぶらさせているその姿はなかなかシュールだ。

「古城、これを返して欲しいか」

「出来ればそうしてもらいたいな。それがないと作業ができない」

 マウスがないとまともにパソコンが動かせない。そうなるとワードを立ち上げることだって出来ないし、俺はそれを理由に暇な時間を持て余すことになる。

 あと数日で大会事務局に原稿を送付しないといけないことを考えると、今のこの時間を無駄にするのは少々避けたいところだ。どうにかして松岡からマウスを取り返さないといけない。

「ふふふ。だったら僕の頼みを聞いてもらおうか」

 松岡はメガネをキラリと光らせる。

「お前の頼み?」

「ああ。なに、簡単なことだぞ……」

 彼は俺の耳元に手を添え、口を近づける。

 必然的に顔が近くなって少々トギマギした。こいつ真面目な顔したら本当に格好いいな。

「……ムツミンをエサに芋づる方式で女の子を集めたい。古城も協力しろ」

 結局、お前の本質はそこなのかよ。もうちょっと原稿とかそんなところにも注力しなさいよ。

 しかしまあ、ただそんなことを頼みたいがためにわざわざマウスを奪い取るだなんて、本当に不器用というか子供というか……頼みごとが下手というか。全く松岡は相変わらず松岡だ。

「わかったから、とりあえず……マウスを返してくれるか」

「いいだろう。その代わり約束は守ってくれよ?」

 松岡の手により、机のノートパソコンにマウスが接続される。

 これでようやく原稿の改良ができる。

「――はあ。そもそもムツミンが僕好みの美女ならこんな努力は必要ないんだがなあ」

 松岡は心底悔しそうな様子でため息をつく。

 ムツミンこと伊藤ちゃんはとても健康的な女の子だ。背が高くて力持ち。全体的にすらっとしていて、肌もそれなりに焼けている。これが松岡の好みではないらしい。

「僕はもっと小動物的な女が好きなんだ。こう……守ってやりたくなるような。ムツミンや葛西は守るどころか自力で何でもできそうだからダメなんだよ。加地前先輩は女として問題外だし」

「松岡、お前って恐ろしく無礼な奴だよな……」

 メガネでなければ手が出るところだった。暴力は嫌いだけどさ。

「ふふふ。洋祐は何もわかっていないね」

 理由もなくジャージを着ている東野が、職員室の顧問教師のところから戻ってきた。男子用の制服というアイコンがないと本当に女子生徒にしか見えないのがすごいな。声だけは相変わらずスターフォックスのピグマみたいに野太いけど。

 東野は首元まで伸ばした髪を掻き上げ、ニッと得意げな笑みを見せる。

「睦美ちゃんはともかく、葛西さんなんて庇護欲をそそる最高の存在じゃないか」

「あの葛西が……最高の存在だと?」

 松岡は怪訝な顔をした。信じられないといった様子だ。

「そうだね。じゃあマネしてみるよ」

 東野は近くにあった俺のブレザーを肩にかける。ブレザーだけは男女共用なので演出に使えると考えたのだろう。

 ここで、フッと東野の表情が変わった。

 いつになくキツそうな眼光、まるで苦虫を噛み潰したような顔つき。

 ポケットに手を入れて、斜めから人の上半身を見つめる、その姿勢。

 そして誰も寄せつけない身勝手な性格を表に出し続ける――そんな女の子。

「――いつになったら副部長の座はいただけるのかしら?」

「ダメだ。声が低すぎて全く似てない」

「ええ!? 結構頑張ったのに! 酷いよ洋祐!」

 雰囲気は似ていたけど、松岡の言うとおり声がダメすぎた。

「はあ……この声を忌々しく思う日が来るなんてね。まあいいや。それで庇護欲の話だけど……」

「東野。さっきの真似、私もあんまり似てないと思うわよ」

 まさかの本人登場に東野は飛び上がった。

 奥のスタジオからガラス越しに全容を見ていたらしい葛西さんは、自分の真似をしてくれていた東野にじりじりと近づいていく。

「ねえ、ちょっとこっちに来てくれる?」

「い……嫌だ! 助けて洋祐!」

「いいこと。出来の悪い真似なんてのはカスのやることよ。やるならもっと上手くやるべきなの」

 葛西さんは東野を羽交い絞めにした。あれは色んな意味で逃げられない。

「伊藤。手伝いなさい」

「は……はい! すみません東野先輩! 失礼しまッス!」

 伊藤ちゃんが東野の足を持ち上げた。

 次に葛西さんが両手を持ち上げ、東野はさながら救助隊の担架のようになってしまう。

「東野。さっきも言ったけど、私は完コス派なの。出来の悪い真似は大嫌い。だからやるならやるでしっかり指導してあげるわ。私がわざわざ時間を割いてあげるんだから、せいぜい喜ぶことね。それに元ネタからやり方を教えてもらえるなんてなかなか無いことだと思うわよ?」

「た、楽しめたら何でもいいじゃないかあ!」

 必死で抵抗する東野だけど、こだわりがあるらしい葛西さんは彼の逃亡を許さない。

 そのうち、伊藤ちゃんと一緒にスタジオまで彼を運んでいってしまった。

「……あれで怒ってるわけじゃないんだよな、あの女」

 松岡が悪口を言わないなんて珍しい。

 後に残された俺たちは、ガラス越しに繰り広げられる世にもおぞましい指導風景――それこそ直視すれば女性に対する幻想を全て失ってしまいかねない様相から目を背けつつ、原稿の改良を進めることにした。

 東野の奴、ちょっとうらやましいけど、いつもながら貧乏くじだなあ。


     ☆     


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