5曲目『ラジオドラマを聴こう』
☆
ある日の帰り道。
テキスト『楽しい算数』が楽しくなかった時代――つまり小学生の頃を思い出しながら、俺は夕景の川沿いをぼんやりと歩いていた。
隣に早苗がいたらもっと楽しいのだろう。
しかし彼女と会えるなんてのは本当に運次第だ。
そもそも川まで来ている時点ですでに望み薄と言っていい。
ラジオドラマの制作はうまく行っている。
葛西さんの怒号一発で編集の仕事を押し付けられた東野が、隣で見守っている松岡に泣き言を言いながらも一生懸命に効果音やBGMを付け加えていた。
最近はパソコンの編集ソフトがあるから楽になったわね――加地前先輩曰くちょっと前まではMDプレイヤーを使って細々と編集していたらしい。それが今ではクリック一つでちょちょいのちょいだ。もちろんセンスや慣れは必要だから、慣れない東野はぶつぶつと泣き言を言っていたわけだけど。
『どうしたらいいのさ、洋祐! 再生が止まらないよ!』
『単にリピートになってるだけだろ』
二人の掛け合いはさながら漫才のようでちょっと面白かった。
そんなことより、問題は……葛西さんだ。
どういうわけか俺の隣には彼女がいる。それも四条畷駅からずっとだ。
加えて恐ろしいことに、彼女は何も喋ってこない。だからやたらと気まずくて、俺はずっと無心で小学生の頃を思い出していた。
さっき一度、京橋駅を出る時に彼女に訊いてみた。
『どうしてついてきたんだ?』
葛西さんは答えた。
『うっさい! 黙って家まで行け!』
南出口に一閃、響いた怒号。
道行くサラリーマンや開店準備中の寿司屋さんにじいっと見られる中、俺はできるだけ急いでその場を後にした。
そんなこんなで家に着いてしまった。
「……ねえ」
ここにきてようやく口を開いた葛西さん。
「これが俺の家だけど、それがどうかした?」
「いえ、このあたりに遠山って子が住んでるはずなんだけど……」
彼女はキョロキョロと路地を見回す。
目当ての表札を探しているみたいだけど、あいにく遠山家――早苗の家はもう少し奥にある。
「葛西は遠山家の人に面識でもあるのか?」
「あるわよ。親戚だから。今日はそのためにここまで来たの」
「葛西と早苗が親戚……?」
おかしい。変だ。
ちょっとビックリしたけど、やっぱりおかしい。
だって、早苗は葛西さんのことを最初知らなかった。
親戚なら名前くらいは知ってるはずだ。
だが早苗は、ちょうど一年前に俺が初めて葛西さんの話をした時も、これといって反応を示さなかった。最近にしてもそうだ。親戚だとかそんな話は一切出てこない。
「おかしいぞ、そんなはずない」
俺は思わず葛西さんの両肩をつかんでしまった。
眉間にしわを寄せた彼女は、ひとしきりため息をついた後、俺の手を振り払う。
「グズね……本人から古城の家の近くに住んでいるって聞いてるからこそ、こうやってついてきたんじゃない。それとも特に用もなく家に来て、何やかんやでラブちゅっちゅになる展開でも想定してたの?」
「…………なるほど」
後半の煽り言葉はともかく、彼女の話は筋が通っていた。
そうなると早苗は俺に嘘というか、知らないふりをしていたことになる。
「どういうことなんだ?」
「さあ。古城とあの女の関係に興味はないわ。それより案内してくれないかしら。遠山のおじさんに渡すように言われているものがあるの」
葛西さんは学校指定の大型カバンから結構なサイズの白い箱を取り出す。
「それは……ケーキみたいだな」
「紛れもなくケーキよ。うちは洋菓子屋だから」
白い箱の取っ手の部分から、ビニールのフィルムを通してわずかに窺えるホールケーキは、それはそれはとてつもなく美味しそうだった。
よく見ると箱の中に結構な量の保冷剤が入っており、ちゃんと腐らないようにしてあった。葛西さんには脚本のカンパンの描写の件で多少の疑念があったので、少し安心した。
「――おじさんの誕生日ケーキよ。前に約束したらしくって。お父さんと遠山のおじさんは仲が良いのよ」
「へえ、そうなんだ」
両家の仲が良いとなると、なおさら早苗の知らないふりが気になってくる。
いったいどういうつもりだったんだろう。別に気を害するとかそんなんじゃなくて、単純に気になって仕方がない。
「ほら、とっとと案内して」
せっかちな葛西さんに急かされる。
やっぱりこの人は苦手だ。
葛西さんを連れて隣の路地に向かう。路地の一番奥に見えるのが遠山家だ。
「すみません、葛西祥子です」
玄関先のインターフォンを鳴らして、彼女はそう言った。
『あら祥子ちゃん! 久しぶりね!』
早苗のお母さんの声だ。
いつになく元気そうに聞こえる。
『もしかしてケーキの件かしら! わざわざ悪いわねえ』
「いえ……去年の家族会で約束したそうですから」
何故かバツが悪そうな顔をする葛西さん。
『まあいいわ! とにかく上がって! お茶ぐらい出すわよ!』
「すみません急いでいるので……」
『そうなの。じゃあ……早苗! ちょっと玄関まで出てくれる!?』
驚いた。思わず葛西さんと顔を見合わせてしまった。
まさか帰ってきていたとは。
しばらくして早苗のお母さんが会話に復帰した。
『……ごめんなさいね。いまちょっと立て込んでいるみたいで』
「いえ、お気になさらず、お母様」
『すぐに私が行くわね!』
ちょっとしてから、ドタドタと階段を下りる音がした。
玄関ドアがガチャリと開けられる。
「ごめんごめん、何かごめんねえ……って敬くん!?」
葛西さんの隣にいた俺を見て、早苗のお母さんは目を丸くする。
「あ、どうも御無沙汰してます」
「えっ……二人はどういう?」
「私たちは江袋高の放送部員なんです。今日は案内してもらいました」
俺が答えるよりも先に葛西さんが答えていた。
「へえ、そうだったの……ふーん」
「……これケーキです」
白い箱に入ったケーキが、葛西さんから早苗のお母さんに手渡される。
「あらあら、こんな良いものだったなんて。まあショートケーキだわ!」
「では失礼します」
「え……ちょっと!?」
早苗のお母さんが引き止める間もないまま、葛西さんは逃げるように路地を出ていった。
そこから先の彼女の消息は不明だけど、きっとそのまま駅まで戻ったのだろう。ここらへんから駅までは迷うまでもない距離なのできっと大丈夫なはずだ。
後に残された俺は、早苗のお母さんとちょっとばかり世間話をした後、路地違いの自宅に帰ることになった。
それにしても、早苗の件が気になるなあ。
☆
上着のポケットに入っていた大量の紙パックが、一つ一つ部員の前に置かれていく。
ジャンケンに負けた松岡が全員分のジュースを買ってきてくれたのだ。
「クソッ……こういうのは東野の仕事だろ……」
「そんなこと言わないの、洋祐」
さりげなく酷いことを言う松岡を東野が諌める。
春の終わりも近い五月一日。
この日、ついに完成したラジオドラマをみんなで聴くことになった。
いつもは発声練習をするだけですぐに帰ってしまう葛西さんも、この日ばかりは夕方まで残っていた。
「じゃあ、さっそくスタートしてもらえるかな!」
加地前先輩がパチンと指を鳴らすと、その場で唯一立っていた松岡が面倒くさそうな顔でCDプレイヤーに近づいた。他の部員はみんな椅子に座ったままだ。
『――府立江袋高校 放送部制作 アンニュイの森』
部室のスピーカーから葛西さんによるタイトルコールが流れる。
『あれ……ここはどこだ?』
一応、内容は割愛させてもらう。
収録した音声に加えて、怪しげなBGMや効果音が追加されていて、身内の作品ながら結構良い感じの出来になっていたと思う。
約八分の再生時間が終わった後、葛西さんはそそくさと部室から出て行ってしまった。
単語帳みたいなものを手に持っていたので、きっとどこかで勉強するためだろう。
彼女の残した紙パックのコーヒーを加地前先輩がチューチューと飲んでいたのにはちょっとビックリしたけど、何はともあれラジオドラマの制作は成功裏に終わった。
「いやはや、なかなか良いものだね」
編集をした東野は満足げだ。
「そうか? 大したことのない高校生レベルの作品じゃないか。話はよくわからないし……ただ勢いはあったな」
松岡も珍しく褒めていた。
皮肉屋のこいつがモノを褒めるというのはなかなか無いことだ。
「わたしは祥子ちゃんが部活に参加してくれたこと自体がすでに嬉しいけどね!」
加地前先輩はさっきからずっとご機嫌だった。ご機嫌すぎて飲み終えた紙パックを携帯電話にして遊んでいたぐらいだ。
なるほど――たしかに葛西さんが大会や学校行事以外でまともに部活に参加したのは今回が初めてなのかもしれない。一年生の頃は、上の先輩たちとも親しまず、ただ発声練習と大会前の練習だけに力を入れていた彼女も、あれから一年経って少しは変わり始めているのだろうか。
「そりゃ副部長の椅子がかかっていたんだから、参加ぐらいするでしょうよ」
「洋祐……そういうことは言うもんじゃないよ……」
一応そういう考え方もできるみたいだ。
ラジオドラマの余韻が去った後、松岡たちと先輩はいつものようにトランプを始めた。
俺も参加したかったが、どうにもそういうわけにはいかない事情があった。
☆
『こんにちは。DJ松岡です。一曲目は千里大学付属高校合唱部で「旅立ちの日に」でした。卒業ソングの定番ですね。なお本日は合唱曲特集となっております』
『最近、僕たち放送部はラジオドラマを制作しました。これがなかなか出来が良く、できれば皆さまにもぜひ聴いていただきたいと思っています。六月に放送部の大会があるので、それが終わったら顧問の若松先生に掛け合ってみるつもりです』
『重ね重ね申し上げますが、放送部では新入部員を募集しております。優しい先輩たちが親切丁寧にしっかりと技術を伝授いたしますので、ぜひぜひ、なにとぞ、クラスのお友達とお誘いあわせの上……本館二階の放送室まで遊びに来ていただけますれば、僕としても感無量、感無量であります』
『え、早く曲紹介しろ?』
『……えー、はい。二曲目は同合唱部で「空も飛べるはず」。スピッツの名曲を合唱用にアレンジしたものです。三曲目も同じ合唱部で「モルダウの流れ」。僕らの親の世代にとって合唱といえばこの曲だそうですよ』
『それでは二曲続けて、どうぞ』