3曲目『発声練習をしてみよう』
突然だが、放送部の仕事は基本的にさほど忙しいものではない。
せいぜいイベントの前後に駆り出されるくらいで、普段は部員たちの自由が効く部活だ。
昼休みのDJ放送にしても部員が自主的にシフトを埋めていく形で決めているし、時には週に一度もDJをしない日だってある。もちろん他の仕事を担当するので部室には来るけどね。
放課後も課題の発声練習さえ終えたら、後は何をしても部員の自由、ということになっている。
「だからってみんな速攻で帰ってしまうのはどうかと思うけどな……」
四月のある日。
文化系クラブの新入生説明会をすっぽかしたおかげか、あるいは副部長が廊下に向けて暴言を吐きまくったせいか――相変わらず新入部員がやってこない我が放送部は、ある種の開店休業状態に陥っていた。
本来ならこの時期は、新入部員を戦力化するための教育期間に当たる。
「まずコードの巻き方から始めて、インフォメーションのイロハ、発声練習のやり方、DJ放送に使用するレンタルCDの領収書の取り方……教えることはたくさんあるはずなのになあ」
肝心の新入生がいないんじゃ、どうにもならない。
誰もいない部室で、俺は一人のんびりすることにした。
すぐに帰ってもいいのだけど、もし見学希望者がやってきたとしたら、その時誰もいませんでしたでは言い訳がつかない。ある程度の時間まで残っておくべきだろう。
「でも暇だな……ポスターでも書くか……」
適当なコピー用紙を机に置いて、俺はどんな絵を描くか考える。
残念ながら古城敬という人間はあまり絵心に恵まれていないため、描けるといってもせいぜいマイクくらいだ。
加地前先輩や去年卒業された先輩たちのように漫画っぽい絵を描くのは到底難しい。
「……漫画か。懐かしいな」
先代の先輩たちはみんな濃いキャラクターの持ち主だった。
皆さんとても個性的な方々で、俺も毎日楽しく過ごさせていただいたが、一方で彼らには、それぞれの人間関係が――その特異なキャラクターが許される空間、すなわち部室の中で完結してしまっている節があった。そのためか、当時の放送部はあまり世間一般に開かれた部活とは言い難かった。
一般の生徒とほとんど交流のない人間たちが楽しく校内放送をしていたところで、大衆からまともに興味なんて持ってもらえるはずもなく、それをいいことに先輩たちは校内にアニソンを流しまくっていた。
あの頃はあんまり評判が良くなかったなあ、ウチの部。
「ふむ……まずは放送部=オタクという固定観念を一掃すべきなのかもしれないな」
「そうね。イメージを切り替えてしまうべきでしょうね」
「か、葛西さん!?」
いきなり話しかけられてビックリした。いつの間に部室に来てたんだ。
「野球部を始めとする体育会系が幅を利かせているウチの高校において、オタクのイメージはずばり醜悪そのものよ。もちろん運動部員にも隠れた趣味人はたくさんいるだろうけど、わかりやすいオタクが嫌われているのは確かだわ。もし放送部にそういうイメージがあるのなら全部変えてしまうべきよ」
葛西さんは学校指定のカバンを部屋の端に置き、俺の対面に腰を据える。
わずかにリンスのような匂いが鼻腔をくすぐった。
今日の葛西さんはどういうわけか髪の毛をくくっていない。先生に見つかったら大目玉は必至なはずなんだけど、どうやってあの監視網を掻い潜ってきたんだろう。
――はてさて話を戻そう。
「オタクというより、オタクっぽい容姿の人間が嫌われてる気もするけどな」
「一理あるわね。その点、今の放送部は『古城を除いて』問題ないから大丈夫でしょう」
俺の乾いた胸にグサリと刺さる一撃。
「いや、俺自身はギリギリセーフだと信じているぞ……」
「そういえば、何に影響されたか知らないけど、二年生になってから『俺』とか言い出して、喋り方も微妙に熱血系の主人公を目指して失敗したみたいになってるけど、古城にはどちらも不適当よ」
ぐっ……いちいち痛いところを突いてきやがる。同じ部員でも松岡と東野はあまり触れずにいてくれたのに。そりゃ加地前先輩は普通に弄ってきたけど、まさか業務以外でほとんど喋ることのない葛西さんからダメ出しされるとは思わなかった。
「――それで、古城はどうして喋り方を変えたの? 何の影響?」
対面からじっと見つめられる。
「いや、影響というより、単に後輩にバカにされたくなかっただけだよ……」
この学校は体育会系が強いこともあって中堅校のわりに荒々しい生徒が多い。
だから新入生に備えて、対抗手段として口調を変えたのだ。
「ああ、なるほど」
葛西さんは合点が行った様子。
ちなみに彼女は、自分の地位や名誉に関わることがなければ、そこまで変わった子ではない。
普通に会話はできる。ここ重要。
ただ、近くに先輩がいたり、顧問の若松先生が部室に遊びに来ていたり、テスト対策の頃になったりすると、何を話してもほとんど相手をしてくれなくなる。
もっとも興味のある話題でないと返事をしてくれないのはいつものことなんだけど……。
あくまで彼女は自分本位な人間だ。加えて独善的で許容力がゼロに等しい人物なので、俺としてもあまり関わりたい相手ではなかったりする。
すぐにキレるし、機嫌が悪くなったらなかなか直らない。
そのくせ人が怒るポイントをあまり理解していない。
『あの女は遠くから眺めるのが一番』とは知り合いの副部長の言葉である。
ま、そもそも彼女がこうやって俺に話しかけてくること自体が珍しいんだけどね。いつも放課後は発声練習だけしてすぐに帰っちゃうし。
「ところで、古城は何をしようとしていたのかしら?」
またもや話しかけられた。
「一応ポスターを描こうと思っていたところ……だ」
「……ふふ。無理しちゃって」
なんか笑われた。
すごい。眠気が吹っ飛ぶほど可愛かった。視界に白い花が咲いた。
「いや無理なんかしてないっての!」
「いつも通りでいればいいのに」
ニッと白い歯を見せつけられる。
な、何がどうなってるんだ!?
あの仏頂面の彼女にいったい何があったんだ。さっきから。
「ええと……どういうつもりなの?」
俺はストレートに聞いてしまった。
対する葛西さんの返事はこうだ。
「別に、古城を味方につけておいて、松岡に対抗しようと考えているだけだけど……笑えばいいんでしょ?」
「おおう……」
彼女もまた直球だった。ちょっとぐらいシュート回転させてくれてもいいのに、ストレートすぎて逆にわけがわからない。
「古城はどう思うの? 副部長はあの人で良いと思う?」
「松岡のことなら、あいつはあれで仕事には真面目だから適任だと思うけど……」
俺の言葉に偽りはない。悪態ばかりついているあの男も仕事に関しては面倒見が良い。放送設備に詳しいのも彼の長所だ。
「でも性格は破綻してるでしょ。あの男に人をまとめる才能はないわ」
言い終えてから、葛西さんは物憂げに「ふう」とため息をつく。
うーん。なんというか……。
「……ちゃんと鏡を見たほうが良いと思うよ」
「鏡? 人の外見とリーダーとしての内面的資質に、何かしら相関性でもあるの?」
真顔で睨まれる。怖い。
このままだと地雷を踏みそうだし、ここは一つ話題を変えたほうが良さそうだ。
「そ、そんなことより発声練習しないか?」
俺は席を立ち、スタジオのドアを開けた。
☆
放送部員にとって発声練習は日々の要である。
部室奥のスタジオには、そんなスローガンの印字されたポスターが所々に張ってある。
これらは俺たちから数えて五つ上の学年の先輩たちが、間違って大量に印刷してしまった新入生勧誘用のポスターを面白がり、セロハンテープで壁に張りまくったのが始まりらしい。
以前はもう少し多かったのだけど、去年の夏に松岡が「視界の邪魔だ」と言ってほとんど剥がしてしまった。
今ではドアの前の一枚と、パソコンの近くの一枚が目立つぐらいだ。
「探せば荷物の裏なんかにまだまだあるかもしれないけどね……」
「古城、発声始めるなら早くして」
葛西さんに急かされた。
彼女は壁に向かって小さく息を吐く。おそらく呼吸を整えている。
俺も同じように壁に向かう。
「古城、ストップウォッチを忘れてない?」
「ちゃんと持ってるよ!」
あわててポケットからストップウォッチを取り出す。
「じゃあ、行きます!」
俺は大きく息を吸ってから、親指でスタートボタンを押した。
今日の目標は三〇秒。
一息で声を出し続ける。
ただひたすらに大声で、腹から怒鳴りつけるように。
この腹式呼吸というやつがなかなか難しい。
「……ふう」
限界まで声を出し終えたぐらいに、再びボタンを押す。
ストップウォッチの表示は『二九秒三七厘』だった。
もう少しで三〇秒だ。次はもうちょっと粘ってみよう。
リラックスタイムに入った俺の後ろで、葛西さんはまだ声を出し続けていた。
あの背中の姿勢の良さは、育ちの良さからだろうか。
「……四七秒。加地前先輩にはまだ遠いわね」
悔しそうな表情を見せる葛西さん。
加地前先輩は平気で一分半とか超えちゃう人なので、個人的にはあまり比較対象にならないと思うのだけど、葛西さんとしては一つの超えたい壁のようだ。
それから何度か声出しをやった俺たちは、続いて発音の練習をすることにした。
A・E・I・U・E・O・A・O。
独特のリズムで「アエイウエオアオ」から順番に変則的な五十音を口にしていく。
ワ行で五十音が終われば、次に待っているのは「キャキェキィキュケキョキャキョ」だ。
「ピャピェピィピュピェピョピャピョ! はあ!」
そんな具合で全部やり終えた頃には、ちょっとした満足感が得られる。
もっとも発声練習はこれだけでは終わらない。
早口言葉を言ったり、加地前先輩がその上の先輩から習ったよくわからない練習をしたり、落語の一説を諳んじてみたり……やろうと思えばどこまでも続けられる。
でもまあ、毎日のことなのでそのあたりは加減の問題だ。
「今日はこれくらいにしておこうか、葛西さん」
俺はここでギブアップさせてもらうことにした。
葛西さんはまだ続けるみたいなので、俺は彼女の邪魔にならないようにスタジオを後にする。
部室に戻ると、いつもの三人がトランプをしていた。
どうやら大富豪をやっているらしい。簡単に説明すればルールに則って手札を捨てていくゲームだ。てっきり帰ったものと思っていたけど、遊んでいるのなら帰るよりタチが悪い。
「フハハ、ここで一を出すのが正義ってもんよね!」
「じゃあ僕はその上に二を出しますね」
「ちょ、ちょっと東野くん! 松岡くんがわたしをいじめるんだけど!」
「ははは……あ、それボクが八切りしますね」
考えもなしにどんどんカードを切っていく加地前先輩。
ポーカーフェイスで冷徹にゲームを進める松岡。
そしていいように使われつつも自分の取り分は確保している東野。
何というか、戦い方にそれぞれの性格が出ているようだった。
「あ、ワンゲーム終わったら古城もやる?」
東野に誘われる。手札をちらりと見せてもらったけど、ビックリするぐらい弱かった。
「いや……俺はポスターを描くよ」
「ポスター? ああ勧誘用のやつか」
松岡が口出ししてきた。
「そんなの後にして古城もやろうよ。三人だと手札が多くて大変なんだ」
さっき見せてもらった手札を改めて見せつけてくる東野。処分に困った単発手札がいくつも軒を連ねていた。たしかにこれは大変そうだ。
しかし、だからといって、隣の部屋で真面目に発声練習をしている人間がいるというのに、その横でガラス越しに――まるで彼女に見せつけるような形で、トランプで遊ぶわけにはいかない。
別に先輩や松岡たちを強く責めるつもりはないし、彼らだって悪気があってやってるわけじゃないんだろうけど、残念ながら今だけは彼らのお仲間になりたくなかった……。
「…………はえ!?」
どういうわけか、そんな言葉が胸をついて出てきた。
あまりに自然に出てきてしまったので、自分としてはさほど違和感がなかったのだけど、我ながらずいぶんと変な発音だったようで、机でトランプをしていたお三方の目線がこちらに集中してしまっている。
そんなことより――俺は今、気づいてしまった。
自分が知らぬ間に、心の中で葛西なんかの味方をしていたということに。
『笑えばいいんでしょ?』
彼女の言ったことは一〇〇%正しかった。
彼女はその笑顔を見せるだけで人を無意識に味方にできる。
葛西祥子は守るに値する人間である、と思い込ませることができる。
あれだけ自分勝手な人物なのに――俺だって今までそれなりに悪い気分にさせられてきたのに、ただ笑うだけで全部が帳消しにされてしまう。それ以上の感情が沸き起こる。
「先輩、美人って怖いですね……」
「あらあら! 古城くんったら嬉しいこと言ってくれるのね!」
残念ながら、ニコニコ笑顔の先輩を見ても特に思うところはなかった。
☆
駅のホームで電車を待っていると、不意に背中を触られた。
まさか……痴漢!?
「敬ちゃん、背中がお留守だよ」
背後から聞こえてきたのは優しそうな女の声だった。
「……なんだ早苗か」
ビックリさせやがって。
心の中でそう悪態をつきながら、俺は自分の頬が緩んでいくのを実感していた。
久しぶりにこいつと会えた。
「おっ、ご機嫌さんだね」
「今日はいつになく運が良い日みたいでね」
「家近いのになかなか会えないもんねえ」
彼女はニヒヒと笑う。
小さい頃から全く変わらない笑い方にこちらもニヤリとさせられる。
遠山早苗。古城敬という人間にとって、ほとんどただ一人の『幼馴染』だ。
もっともまともに交流があったのは小学校までで、中学以降は別の学校に行ってしまったこともあり疎遠になっていた。
こうしてたまに会う機会ができたのは高校生になってからだ。
まあ機会といっても、彼女の通う「私立四條畷学院高等学校」と俺の通う「府立江袋高校」がたまたま近所にあって、最寄駅が同じなのでごく稀に会うことがあるというだけなんだけど、それでも昔馴染みに会えるのは単純に嬉しかった。
『まもなく一番乗り場に各駅停車・西明石行きが七両で参ります』
『危険ですからホームの内側へお下がりください……』
ラッシュアワーの片町線はサラリーマンでいっぱいだ。
満員電車、どうにか電車の隅に居場所を確保した俺たちは、向かい合って話を続ける。
周りは見知らぬ人々で埋め尽くされており、さながら矮小な空間に二人きりで閉じ込められたような気分だ。
やがて電車は動き始め、暗い車窓は野崎の街を映すようになる。
「敬ちゃんは最近どう?」
唐突な質問だった。
「どうと言われても、また俺が愚痴を言うパターンになりそうなんだけど……」
「吐いてすっきりしたらいいじゃん。敬ちゃんの話を聞きたいな」
彼女はまたニヒヒと笑う。
そう言われたら、こっちも言わせてもらうしかない。
「うーん。最近は部活も暇かな。新入生が入ってきたら変わるだろうけど」
「ほうほう」
「後は副部長の座を巡ってちょっとしたトラブルがあったり」
「トラブルって?」
早苗はきょとんとした表情を見せる。
「葛西さんが……松岡が副部長になったのを怒ってるんだよ」
「ああ、葛西さん。前にも敬ちゃん言ってたね、変わった人だって」
変わった人というか、もっとキツいことを言った覚えがある。
どうも早苗を前にすると愚痴のタガが外れてしまう。俺の悪い癖だと思う。早苗だって疲れた身体で帰路を迎えているに違いないのに、全くもって申し訳ない気持ちだ。
それにしても俺はどうしていつも彼女に愚痴ばかりこぼしてしまうのだろう。そんなに愚痴っぽいつもりはないんだけど。
彼女が聞き上手なのかな……いや、他人のせいにしちゃいけない。反省。
「それで松岡くんはどう対抗したの?」
「なんだかんだでヘタレなところがあるから何もしてないよ」
「加地前さんは?」
「いつも通りかな……」
「東野くんは?」
「エクステ付けて男子生徒からじろじろ見られてたよ」
うん。やっぱり彼女は聞き上手だ。我ながらスラスラと言葉が出てくる。
とはいえ毎度愚痴ばかりこぼしていたら、いずれ会うこともなくなってしまうだろう。
今後は気をつけるようにしよう。
「そんなことより、早苗はどうなの?」
「私はいいから敬ちゃんの話を聞かせてほしいな」
気をつけるように……しよう……。
JR京橋駅の一番ホームに列車が到着した。シュークリーム屋の甘々とした香りが充満する駅舎を、駆け足の人々が掻き混ぜていく。みんな忙しそうだ。
俺たちはその後ろをのんびりと歩かせてもらった。
「敬ちゃん、シュークリーム食べる?」
「いや……早苗は?」
「別にいいかな。太りたくないし」
言い終えた時点ですでに彼女は改札を抜けていた。
どういうつもりで聞いてきたんだろう。
改札を抜けた先には寿司屋があり、不動産屋があって、細い歩道がある。
このあたりからはもう俺たちのホームグラウンドだ。
「まだまだ寒いね……」
「そうだな……」
川沿いの歩道を二人で歩く。
歩道はやがて幅の広い橋――新城見橋にたどり着き、さらに寝屋川を越えて市道に合流する。
その頃には電車ごっこだった二人も左右に並んで歩くようになっている。
姉が言うことには、制服姿の女子生徒と一緒に歩くのは『高校生の特権』らしい。年をとるとどうしても別のバイアスが掛かってしまい、綺麗な眼で見られなくなるそうだ。
そういう意味では、俺は今、男子の本懐を遂げているのかもしれない。
「中学時代は別々だったしなあ……」
「中学の話? たしかに敬ちゃんとは別の学校だったもんね」
またもやニヒヒと笑う早苗。
「寂しかったなら敬ちゃんもウチに来たら良かったのに」
「……俺の頭で四條畷なんて行けるはずないだろ」
彼女は中学時代から四條畷学院に通っている。府内有数の進学校の中等部といえば非常に狭き門だ。それをパスした彼女の頭は素直に称賛されるべきだと思う。
さらに言わせてもらえば、普通なら中高一貫のエスカレーターで気が緩む生徒が多い中、なんと彼女は特待生にまでなってしまっている。母から間接的に聞いたことには、早苗は各種の試験でとんでもない成績を残しているらしい。いったい何が彼女をそこまで勉学に励ませるのか、四條畷学院の職員室では定期的に話題になっているとかいないとか。
一方の俺はただの公立高校の生徒。成績だって並以下にすぎない。
「まあ、敬ちゃんでは私ほどにはなれないだろうね」
小学校まではほとんど同じだったはずなのに、いつの間にか彼我の差は離れていく一方だ。
「ほう……言ってくれるじゃないか」
別に羨む気持ちはないけど、雲の上に行ってしまったなあ、という感じはする。
ところで早苗とは三ヶ月ぶりの再会になるわけだけど、彼女は気づいたりしないのだろうか。
あるいは松岡たちと同じように気づかないふりをして気遣ってくれているのかな。
「敬ちゃんの喋り方の話?」
「へ?」
「バッチリ顔に出てるよ」
川からの風が早苗の髪をさわさわと揺らす。夜は山の風が吹く。
「――まあ、別に気にならないかな」
「そうなのか?」
「一人称なんて年齢と共に変化するものだからねえ……私だって昔は……」
そうして喋っているうちに、いつの間にか俺たちは家の近所までたどり着いていた。
路地の裏筋にある二階建ての一軒家。それが我が家だ。
ちょっと奥に入ったところに早苗の家もある。
東城見一丁目は奥まっていて色々とややこしいのだ。
「じゃ、またね敬ちゃん。放送部頑張ってね!」
左右に手を振り、路地を後にする早苗。
わずかな残り香が胸を熱くさせる。
「うん……またな」
またいずれ、偶然会うことがあれば。
できれば近いうちに。
そんな淡い希望を胸に抱きつつ、俺は自宅のチャイムを鳴らした。
☆
新入生説明会から一週間が過ぎたある日。
放課後の放送部に一人の新参者が現れた。
「あの! 見学希望なんですけども!」
背丈の小さな男の子だった。
たどたどしい口調にダボダボの制服。
まさしく一年生といった具合だ。とても可愛らしい。
「おやおや。ようやく一人目だね」
出迎えた俺の後ろから、東野が顔を見せる。
その瞬間、男の子の表情が真っ青になった。
「えええええ!? なにその声!?」
どうやら東野を女性だと思い込んでいたらしい。
「え、ボクの声?」
「そんなあ、そんなあ!」
東野の野太い声を聞いて恐慌状態に陥った男の子は、持っていた紙束をその場に落とし、今にも泣きだしそうな顔で駆け出してしまった。
「ああ! 一人目が逃げていく!」
「追え東野! そいつをエサにして女の子を芋づるでゲットしなきゃいかん!」
背後から松岡が指令を下す。
「わかった!」
副部長の命令を受けた東野は、かつて陸上で鍛えた脚力を生かして、誰もいない廊下を物凄いスピードで駆け抜けていった。
嵐が去った後、俺は目の前に落ちていた紙束を拾い上げる。
そこには『ガラスの向こうのあなたに一目惚れ』だの『体育倉庫裏に来てください』だの、愛くるしい言葉が大量に記されていた。
紛れもなくラブレター。それも二日ぐらい寝ずに書いたような代物だ。
いったい何が、彼をそこまでさせたのか。
俺には思うところがあった。
「おい松岡」
「ん、どうした古城」
「お前のせいで一人の男の子が純情を汚したようだぞ」
「そうか。それは良かったな」
よくわかっていないらしい松岡は、ケロリとした表情でペットボトルのジュースを胃に注いでいた。
それにしても、ガラスの向こうのあなたに一目惚れ……か。
エクステを付けた東野は「黙っていれば」完全無欠の美少女だったから仕方がないとはいえ、あの男の子には深く同情せざるを得ないなあ……。
そんなこんなで放送部はいつでも部員募集中です。
☆
『こんにちは。DJかなえです。ただいまお送りいたしました曲はスターダストレビューの「今夜だけきっと」「トワイライト・アヴェニュー」でした。今日は水曜日の懐メロ特集です!』
『季節は春から初夏になりつつある今日この頃。そろそろ冬服の上着が鬱陶しくなってくる時期ですね。ボクは最近ほとんど上着を着ていません。夕方になると寒い風が吹くので一応持ってきてはいるんですが、もうほとんどお役御免です』
『そういえば新入生の皆さんは部活とかもう決まりましたか。放送部はいつでも新入部員を募集しています。ボクたちと一緒に青春の汗をかいてみないかい? きっと楽しいよ!』
『特に一年三組の矢野くん! ボクはいつでも返事をしてあげるよ!』
『そんなわけで……次の曲に行ってみましょうか!』
『三曲目、村下孝蔵で「同窓会」。紛うことなき名曲ですね。四曲目は甲斐バンドで「裏切りの街角」です。歌詞の都会に出ていくというあたりに時代を感じます!』
『それでは二曲続けて、どうぞ!』