11曲目『ほんの少しだけ本気になろう』
☆
人間、一番は中身だ。
いくら外見がよくても中身がクズではどうしようもない。
理想の女性は、とてもお淑やかで、それでいていたずらっぽい遊び心のある人。
「――そして何より小柄な美人であること。僕の理想なんてたったのそれだけだ」
松岡の語りを東野が「あーはいはい」と聞き流す。
開会式が終わり、生徒の姿もまばらになりつつある講堂では、一部生徒たちによる熱いお喋りタイムが繰り広げられていた。
一応下級生である以上、全愛学院の生徒たちの中心でべちゃくちゃ喋っている加地前先輩を放置できない俺たちは、いくらかの交渉の末、彼女の帰還をパイプ椅子の後ろのほうで待つ形に落ち着いた。
「はあ。きっと松岡の理想通りの女の子なんて現れないだろうね。なんならボクは二〇円賭けてもいいよ」
「ではさっそく十円玉二枚でお願いしようか……お前の妹はなかなかいい素材だと思うぞ」
「く、久遠は絶対に渡さないから!」
今日も仲良く喧嘩している松岡と東野。
その隣では、葛西さんが伊藤ちゃんに付きっきりで腹式呼吸を教え込んでいた。
「ダメね。やっぱり付け焼刃じゃ上手くいかないわ」
「すいませんッス。でもこれってそんなに大事なんですか? あんまり声が変わった気がしないッス」
「そうね……技術論というより、これができたらきっと自信になるはずなのよ」
「ああ、なるほど。わかる話ッス」
うんうんとうなづく伊藤ちゃん。
腹式呼吸は声量や長時間の発声に不可欠だけど、実際のところ短時間かつマイクが入る予選大会においてはそこまで必要とは言えなかったりする……らしい(加地前先輩・談)。
逆に審査員にじろじろと見られる決勝以降ではお腹のふくらみが監視されるので、ある意味必修事項だそうだ。
もっとも、本当のところはよくわからない。もしかすると審査員さんはスピーカーからの音だけで腹式かどうか判別できるかもしれないし、それが理由で予選を落とされる生徒もいるのかもしれない。
ただ去年、基本も何もできていないのに原稿がめちゃくちゃ面白かったというだけの生徒――具体的には月面のランディ・ジョンソンくんが、予選落ちとはいえ良い成績を得ていたので、決して腹式だけが全てではないのは確かだ。
「――だいたい八・二ぐらいの査定らしいよ」
「うわっ!」
いつの間にか隣に早苗がいてビックリした。
「……敬ちゃん、終わったら門に来てって言ったのになかなか来ないから」
「ああ、ごめん……」
すっかり忘れていた。我ながら酷いことをしたと思う。
「いいよ。どうせ敬ちゃんだし」
それでもニヒヒと笑ってくれる彼女に、わずかに救われる。
「おい古城! さっきからその人は何者なんだ!」
「……洋祐、あんまり邪魔しない方がいいよ」
「東野は気にならないのか、だって古城だぞ!」
何だかとっても失礼なことを言われた気がするけど、妙に気分が良いので放置しておく。
別に早苗とそんな間柄にあるわけじゃないから俺自身の自慢にはならないんだけどね。
それこそ電車の中で隣の椅子にすっごい美人がいる、ぐらいのものだから。
「……遠山早苗。自己紹介ぐらいしたら」
「そうだね」
彼女に苦言を言う葛西さん。
昨日――あれから二人に何があったのか俺は知らない。
ただこうして平和そうに喋っているんだから、きっと和解できたのだろう。もしかしたら住道あたりで楽しくお茶でもしてたのかもしれない。
「なるほど、古城の幼馴染だったのか……」
「へーボク知らなかったなー」
憎々しい表情を浮かべる松岡と、とても白々しい東野。
東野には以前色々と話したからなあ。
そんな彼らと、仲良く談笑する早苗の姿は……少し新鮮に見えた。
☆
早苗に連れられて朝陽寺の校門までやってくる。
この学校、近所に同名の仏教寺院があることから府立朝陽寺高校と名付けられたらしい。実際は生國魂神社のほうが近いみたいだけどそのあたりの事情は不明。学校付近は宗教施設や公園の多い物静かな町になっていて、とても大阪とは思えない荘厳な雰囲気がある。大人になったら通ってみたいなあ。
「敬ちゃん、このあたりにカラオケ屋さんがあるって知ってる?」
「え、ああ……さっき行ったけど」
「ふふふ。そこに連れてってくれたら嬉しいんだけどなあ」
早苗はニヒヒと笑ってみせる。
そう言われたら案内するしかない。
ついさっき行ったばかりの小さなカラオケ屋に入り、部屋を取って二人で席につく。
どういうわけか先ほど四人で入った時よりも狭い部屋が宛がわれた。
「……こんな時間にカラオケ屋に来るやつなんて他にいるのかよ」
いくら早苗でもさすがにこの狭さは気まずい。
下手したら俺の部屋より狭いんじゃないかコレ。椅子だってギリギリだし。
「そうでもないみたいだよ。さっきドアを開けて出てくる学生さんがいてね、その時に漏れ聞こえた音から察するに、他の部屋もみんな放送部の人みたい。きっとみんな練習してるんだね……」
「……それで、早苗はどうしてここに?」
歌でも歌うつもりなのかな。
俺がそんな軽い気持ちで構えていると、彼女はカバンの中からいくらかの書類を取り出して、机の上にドサドサと積み上げ始めた。
よく見ると多くはコピー用紙だった。
大きなクリップでしっかり留められたそれらは、およそ一〇〇枚を単位として大体四十セットぐらいあるようだ。他にも図書館で借りてきた書籍や、何のために使うのか石膏の類まで用意されている。
狭いカラオケボックスの中に、早苗帝国が誕生した。
「よし……ビビらせた!」
彼女の意図がちょっぴり漏れ聞こえてきた。
ビビらせる……?
そんなことより、いったいどういうつもりなのか聞かないといけない。
「おい、この書類は何なんだよ」
「……ねえ敬ちゃん。敬ちゃんはいつもテスト前にどうやって勉強してる?」
「テスト前って……」
ぶっちゃけ勉強なんてほとんどしない。
せいぜい要点をノートにまとめるぐらいだ。
おかげさまで成績は悪く、いつも海面スレスレを低空飛行している。
「わかってるよ。どうせ何もしてないんでしょう」
「そんなことは……ないけどさ……」
こういう話題で、早苗を相手にまともに反論しようとは思えない。
なぜなら彼女はとても凄い人だから。
どうやってもケチをつけられないので黙るしかない。
そんな俺の様子に気づいたのか、彼女はニヒヒと笑い、こちらの肩に右腕を乗せてきた。
「ねえ聞いて、敬ちゃん」
「お、おお」
妙に接近されてトギマギする。
どうしたんだ、今までこんなことなかったのに、どうしたんだ。
「私の勉強は徹底的なリサーチと究極の一夜漬けが本分なんだ。だから良い点を取ることもあるけど、あんまり根付いてなくってね」
「へ……へえー」
「おかげさまで専門化するとすぐに手に負えなくなっちゃう。所詮は一夜漬けだから総知識量が足りないんだね。わかりやすく言えば、いくら小さな戦いで勝利できても、巨大な戦力を持つアメリカには最終的に敵わない、みたいな」
元々部屋が暗いからわかりにくいけど、早苗の表情がわずかに暗くなったように見えた。
そういえば昔から早苗って一番になれていなかった気がする。
小学校時代も……母の言伝だけど中学時代だって……すごいけど一番じゃなかった。
「でもね……今回は予選だよね」
「え、ああ今日は予選大会だけど」
「だったら大丈夫。私なら敬ちゃんを決勝に連れていけるよ」
突然、彼女に両肩をガシッとつかまれる。
意外にも彼女の手は力強かった。
陸上とかやってたみたいだし鍛えているのかな。
「――荒野に放置された野糞みたいな今のあなたを私が変えてみせるから」
「こ、荒野の野糞がなんだって?」
「だから我慢してね……今から午後の部が始まる十三時まで、たったの三時間半だから」
何だかとっても酷いことを言われた気がする。
「じゃあ敬ちゃん、まずはこの書籍の論述に従って……歯の位置を変えようか」
早苗はポケットからモンキーペンチを取り出した。
命の危険を感じた俺は、カラオケボックスを出ようとした。
しかし早苗の力は果てしなく強く、あっという間に組み伏せられてしまう。
「大丈夫だよ! ちょっと痛いだけだから! ちゃんと石膏で固定するから!」
「待って、待って! よくわからないけど許して!」
「敬ちゃんの歯並びをゴミ箱の食べかすから調べたけど、どうも奥歯と前歯と犬歯の全部が良くないみたいなの! 声がこもっちゃうのはそのせい……だからパッパと治しちゃおう!」
抵抗できない。
マウントを取られて嬉しいはずなのに全く嬉しくない。
髪の毛が頬にかかっても、匂いがしても、良い気がしない。
恐怖が全部を上塗りしていく。
いったい彼女をここまでさせるのは何なのか。
俺にはまるでわからない。
「……あなたたち、何をやってるのよ」
二つくくりの菩薩様には後光が差していた。
明るい廊下から、下界ともいえる暗い部屋の中に入ってきた葛西さんは、早苗からペンチを奪い、彼女の手を取る。
「どうせ極端から極端へ走ると思ったわ。まったく」
「…………」
彼女の言葉に早苗は顔を真っ赤にした。
目が覚めたのか、恥ずかしさを自覚したのか――もぞもぞと両膝を動かしてマウントを外し、立ちあがる。
ようやく俺は解放された。ああ助かった。
「……前はもっと隙のない女だと思っていたけど、妙におっちょこちょいなところがあるみたいだし、案外あなたたちってお似合いなのかもしれないわね」
葛西さんは「ふう」とため息をつく。ちょっとお相撲さんみたいだった。
「あの……祥子ちゃん」
早苗は手を合わせて彼女を拝んだ。
「わかってるわよ。誰にも言わないから……とっとと続きしたら?」
葛西さんはガチャリとドアを閉め、そして部屋の椅子にゆっくりと腰を据えた。
ただでさえ狭い部屋がよりいっそう狭くなる。別に葛西さんの体格のことをいってるわけじゃない。彼女はいたって普通にスタイルが良い。どこに連れて行ってもきっと歓迎される程度には完璧だ。
「祥子ちゃん、なんでここに……?」
早苗は部屋に居座ろうとする葛西さんに困惑していた。
「あら、もちろん私自身の練習のためよ。私も午後の部だし、ちょうどいいわ。あとは素人のあなたが古城をどこまで指導できるのか観察させてもらおうと思ってね……別に口出しはしないわよ」
「……重ね重ね、ありがとう」
早苗は親愛のこもった笑みを葛西さんに向ける。
俺には葛西さんの顔がちょっとだけ赤くなったように見えた。
「――さて、敬ちゃん。ペンチは取り上げられちゃったけど他にもやり方はたくさんあるからね。まずはこの書類からやっていきましょう。滑舌を良くするための必勝法――『舌をペンチで伸ばす』だって!」
制服のポケットから二本目のペンチを取り出して、ニヒヒと笑いながら近づいてくる早苗。
その姿にはもはや恐怖しか感じられなかった。
「待ってくれ! まだ冥土筋で念仏買ってない!」
「古城、地獄八景なら念仏を買うのは冥土筋じゃなくて念仏町よ」
葛西さんがしょうもないツッコミを入れてくる。カラオケの機械を手に持っているのは歌うつもりだからだろうか。
「あの……敬ちゃん、これ一応冗談のつもりだったんだけど……」
早苗の表情が何ともいえない感じに変わる。
彼女の真意はともかく、二本目を用意しているあたり、残念ながら冗談には見えなかった。
☆
第五九回馬場町全国放送コンテスト――通称Bコンの予選大会は大いに盛り上がった。
特に午前の部は、これは俺の知らない時間帯の話だが、東野曰く「各校の実力者が軒並み出てきた」そうで、生徒たちは彼らの魅せる妙技に舌を巻いたらしい。
全愛の村中久子が特有の『白鳥手振り』と共にクセのない聞き取りやすい声を披露すれば、月面一の強面男こと大隣憲一はまるで公共放送の壮年アナウンサーのように安定した『言葉の間』を見せつける。この二人は去年も全国に出ている強者で、あの頃から段違いの実力を持っていた。
また四條畷の妖精・東野妹の極端なアニメ声は会場を騒然とさせたそうで、伝統的にオタクの多い放送部員の間ではいったい誰に似ているのか少々議論が巻き起こったらしい。
ちなみにウチの加地前先輩は「ああ、この人は今年も東京行きだな」と思わせるぐらいの貫禄あふれるアナウンスをしていた。こちらは松岡がちゃんと録音していたので俺も聞くことができた。
さて、昼飯の後は午後の部である。
俺は指定された教室に赴き、順番待ちの椅子に腰掛けた。
目の前にはたくさんの生徒がいた。どいつもこいつもICレコーダーを持った放送部員だ。
他校の生徒の発表を録音して何が楽しいのやら。
それも俺なんかの発表だぞ。期待されても困るんだよ。
ちゃんちゃら、おかしい。
そんな具合に悪態をついて、心の安定を図る。
実際に合否のジャッジを下すのは目の前の生徒たちではなくて、マイクの向こうにいる審査員だ。しかしそうわかっていても観衆の評価というのはどうしても気になってしまう。
俺は息を呑んだ。
一瞬とも思える時間が経って、隣にいた全愛の生徒が発表を終える。
いよいよ俺の出番。
――もし全国に行けたら、私の一番大切なものをあげるよ。
そんなこと言われたら……悲しいけれども、精一杯頑張るしかないじゃないですか。
俺は真心をこめてマイクスタンドの高さを調節した。
去年と同じく両足が震える。
この感覚は昨秋の新人大会でも味わった。
たくさんの人の前に立つ、ただそれだけでこんなにも辛い気持ちになる。
『いいこと古城。あなたが普段やっているDJ放送を聞いているのは六〇〇人の全校生徒よ。それに比べて今回の大会ではせいぜい教室にいる三〇だかの生徒だけ。そう考えたら、ずいぶん楽じゃない?』
葛西さんが苦労の末に編み出したであろうストレス回避法、あんまり効果ないなあ。
それでも、俺はここに立っていなきゃいけない。
どうしてかと訊かれたら、多分まともに返事はできないだろうけど。
去年の彼女みたいに笑われたくないから――じゃ、理由として弱すぎるか。
だったらそうだなあ。
彼女の期待に応えたいから? 常に頑張っている彼女がさっき言ってくれた「今日は頑張ったね」の言葉をちゃんと受け止めたいから? 手伝ってくれた二人に良い格好をしたいから?
うーん。しっくりこないなあ。
そうこう考えているうちにそろそろ始まりそうだ。
仕方ない。
やっぱり俺も一人の放送部員だから――とでもしておこう。
補足:Bコンのモデルは『NHK杯高校放送コンテスト』として実在します。ただし採点基準についてはよくわかっていません。審査員を務める各校の顧問方や専門家の方々が相談して決めているものと思われます。ただ批評と点数がしっかり明示されるので、ある程度の基準はあるはずです。




