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ラバーレ伯爵邸に見慣れぬ貸し馬車が入り、裏口に回り込んだ。
裏庭で放し飼いにされている豚たちがキーキーと激しく泣き喚く。
八百屋の荷馬車がきたのかと厨房の勝手口から顔を出した料理長は、古びた箱馬車から降りてきた人物の顔を見た瞬間、包丁を握りしめたまま息を止めた。
勝手口で凍り付いている料理長の姿を訝しげに眺め、上司の恰幅の良い身体の隙間から外を覗き込んだのは、料理人見習いの少年だった。すぐそばに停まっている馬車に視線を向けた途端、こちらも目を大きく見開き言葉を失う。
くすんだ茶色のドレスに身を包み、栗色の髪を編み上げ、黒い飾りのない帽子をかぶった少女はこの屋敷で働く令嬢付き侍女のセリアだ。お嬢様と一緒にアメレールへ行ったはずでは、と開き掛けた口を閉じられないまま、セリアに続いて馬車から出てきた少女を凝視する。
濃い灰色のドレスは繰り返し洗われているのがわかるほど色あせているし、帽子も形が崩れている。手袋は白というよりも黄ばんでいるし、スカートの裾から見えている靴は汚れていないだけましというものだ。亜麻色の髪を三つ編みにして、きっちりとまとめ上げた姿は、外見だけなら使用人として働くために現れた下層階級の娘の典型だ。白い肌はつやがあり、頬は薔薇色に紅潮し、榛色の瞳を悪戯っぽく細めてさえいなければ。
「あ、あれ、ど、どうなさったんですか?」
小声でどもりつつ少年は恐る恐るセリアに尋ねた。
「変装です」
額に手を当て、大きな溜息を吐きつつ、セリアは顔を顰めて答えた。
「ほら、お嬢様、すぐにばれてしまったじゃないですか。やっぱり無理ですって」
「駄目よ、セリア。ルルって呼んでくれなきゃ」
「……そんな偽名を使ったところで、誰も騙されてくれませんって」
「な、なんで変装したり偽名を使ったりしているんですか?」
セリアとマリー・ルーを交互に見つめ、料理人見習いの少年はおずおずと質問した。
「まったくです。こっちは心臓が止まるかと思いましたよ」
ようやく衝撃から立ち直った料理長が胸を撫で下ろす。
「お父様の隠し子が現れたかと思ったからかしら。それともお祖父様の隠し子?」
「なにをおっしゃるんですか。滅相もない」
慌てて料理長は首を横に振ったが、マリー・ルーの予想が当たっていたことは彼の顔に書いてあった。あちらこちらで浮き名を流していたマリー・ルーの祖父や父には、ラバーレ伯爵家が認めていないだけで、片手では足りないほどの子供がいるとの噂がある。正妻の子供であるエクトルとマリー・ルー以外はフレサンジュを名乗っていないが、マリー・ルーは自分に少なくとも姉がひとりと弟が二人いることを知っていた。
「セリア、なぜこのようなところにいるのです? お嬢様と一緒にアメレールへ行ったはずでは……お嬢様!?」
厨房を覗いた家政婦のネリニ夫人が顔を強張らせて絶句する。
「あら。またばれてしまったわ。完璧な変装のはずなのに、おかしいわね」
悪びれた様子もなく、マリー・ルーは首を傾げた。
「ばればれです。お嬢様の気品はこのような衣装では隠せないんです。ということで、エクトル様に見つかる前に、いますぐアメレールへ向かいましょう。こんなお遊びをしているところを見られたら大変です」
ほら、とセリアは女主人の腕を引いた。
「お兄様なら気づかないかもしれないわよ。とっても鈍感だもの」
「そんなことはありません。お願いですから」
懇願するセリアに厨房へ集まった使用人たちが同情の目を向けたときだった。
「皆、なにを騒いでいるのかね? そろそろお客様の馬車が到着する頃だぞ」
執事のストレイフが厨房に入ってきて、口髭を歪め、顔を顰める。
「おや。お嬢様によく似た娘だね。――あぁ、お嬢様でしたか。失礼いたしました。珍しい格好をなさっていますね」
片眼鏡を掛け直しつつ、マリー・ルーに視線を向けたストレイフは目を細めた。
「ストレイフ、わたしはいまから使用人に変装します。協力して頂戴。もちろん、お兄様には内緒よ」
にこやかに微笑み、マリー・ルーは執事に対して無理強いをする。
「お嬢様が使用人の真似事をなさるのですか? しかし、どのような仕事をお任せすればよろしいのでしょうか」
「駄目です! ストレイフさん!」
セリアが必死で止める。
「わたくしも反対いたします」
厳格な顔付きで、背筋を伸ばし胸を反らしたネリニ夫人がセリアの味方をした。
途端に、使用人の二大勢力である執事と家政婦が激しく睨み合う。
「まもなくお客様が到着されるのです。お嬢様のお遊びのお相手をしている暇はございません。それに、お客様になにか粗相でもあっては、伯爵家の面目を潰すことになります。お嬢様におかれましては、早急にアメレールへ……」
「そのお客様ってどのような方かしら? わたし、とっても気になるのだけれど、あなたはなにか知っているのではなくて?」
ネリニ夫人の傍に近寄ると、マリー・ルーは笑みを浮かべたまま尋ねる。
「――お客様は、若様の大学時代のご学友メイユール男爵ヴァレリアン・カストネル様です。王都からわざわざこちらへ訪ねていらっしゃるそうです」
数拍の後、ネリニ夫人は渋々ながら白状した。すでに当主の座に就いているエクトルだが、彼女にかかればいつまでも若様のままだ。
「男爵? あら、男性なのね」
残念、とマリー・ルーは肩を落とした。
その背後では、セリアがあからさまに喜んでいる。
「お兄様ったら、わたしが叔母様のところへ向かう日に合わせたようにお客様をお招きしたようだから、てっきりわたしに内緒でお付き合いしている方かと思ったのだけど」
「まさか、それでわざわざ戻ってこられたのですか?」
「そうよ。だって、お兄様の秘密の恋人が訪ねてくるんじゃないかと期待したんだもの」
ふふっとマリー・ルーが愉しげに顔をほころばせると、ストレイフとネリニ夫人は視線を交わした。
「確かに、若様はお嬢様のご出立に合わせるようにして男爵様をお招きになっておられますね」
ネリニ夫人は考え込むときの癖で、眉間に皺を寄せる。
「男爵様は十日ほどこちらに滞在される予定ですが、お嬢様には十日でも二十日でも好きなだけアメレールで遊んでいらっしゃいとおっしゃっていましたね」
「あなたたちも変だと思うでしょう?」
マリー・ルーはネリニ夫人とストレイフに同意を求めた。
「そのメイユール男爵って、ご家族の方もお連れになられるのかしら。お兄様に男爵家の未婚のご令嬢を紹介するために、同伴されたりとか」
「それはございません。男爵様はおひとりでいらっしゃると伺っています」
すぐさまストレイフが否定した。
「あら、そうなの? だったらますます不思議だわ。お兄様ったら、お友達を屋敷に招待しておきながら、たったひとりの家族であるわたしを紹介せずに済まそうとするなんて。礼儀を重んじるお兄様らしくないわ」
ストレイフの言質を取るようにして、マリー・ルーは捲くし立てる。
「きっとなにか理由があるはずよ。わたし、お兄様には内緒でそれが知りたいの。二、三日で良いから、使用人のふりをして、その謎を探ってみたいのよ」
「お嬢様。密偵のような真似ははしたのうございます」
家政婦としてネリニ夫人はマリー・ルーをたしなめるが、これくらいで諦める彼女ではない。
「心配しないで。お兄様にも男爵様にもわたしの正体がばれないように使用人らしく振る舞うから。それに、屋敷内のことですもの。なにも危険なことなどないでしょう?」
ネリニ夫人とストレイフを交互に見遣り、胸の前で両手を組むと、祈るようにマリー・ルーは懇願した。
「もちろん、それはそうですけど」
言い淀んだネリニ夫人は、困惑した様子でストレイフを振り仰ぐ。
「仕方ありませんね」
ほうっと嘆息をついてストレイフが降参した。昔から彼はマリー・ルーのおねだりに弱いのだ。
「ではお嬢様。くれぐれも若様と男爵様に事が露見しないよう細心の注意を払って行動するとお約束ください」
「約束するわ」
勝ち誇った笑みを浮かべ、マリー・ルーは首を縦に振った。
「ならば、制服をご用意いたしますので、お着替えください。ただし、あくまでもお嬢様は若様やお客様には見られないようお気を付け下さい。いくら若様でも、お嬢様が使用人姿でお屋敷内を歩いている姿に気づかれれば、卒倒しかねません」
「わかっているわ」
要求が飲まれたことに満足し、マリー・ルーは承諾した。
「ストレイフ。わたくしは反対です」
慌ててネリニ夫人はストレイフの腕を掴んで抗議した。
「大丈夫だ。お嬢様がお客人の目にさえ触れなければ、若様がご心配されたような問題が起きない」
ぼそり、とストレイフは妹に囁く。
「その根拠のない自信は、どこから生まれてくるんでしょうね」
承伏しかねる顔でネリニ夫人はぼやいた。
黒い綿の制服の上に、真っ白なエプロンを着け、白いリボンがついた室内帽を被ると、マリー・ルーは使用人らしい姿となった。
「どう? 似合っているかしら」
鏡の前でくるりと回って見せると、マリー・ルーはセリアに訊ねた。
「お嬢様のお育ちの良さまでは隠し切れていませんが、よくお似合いですわ」
セリアの隣に立つ侍女のファニーが手を叩いて誉めそやした。
明らかにお世辞とわかるファニーの言動にセリアは眉を顰めたが、マリー・ルーは嬉しそうにまた鏡を覗き込む。
マリー・ルーの変装はなかなかのもので、使用人の制服を自然に着こなしていた。
「そういえば、さきほどお客様が到着されていましたわ。あたしはお出迎えには参りませんでしたが、男爵様が馬車から降りられるところを見た馬丁のピエールの話では、なかなかの美男子だそうですよ」
「そうなの? だったら、ますますお顔を拝見するのが楽しみだわ」
屋根裏にあるセリアたち侍女の部屋で着替えを済ませたマリー・ルーは声を弾ませた。
「ただ、妙なことに、男爵様をお出迎えした際、若様のお側に控えていた使用人はネリニ夫人以外は皆、男だったそうです」
「……なぜ?」
「よくわかりませんが、若様がそうご指示なさったそうです。それに、わたしたち女の使用人には、極力お客様の前に姿を見せないように命じられました」
「まぁ。男爵は、使用人の気配がするだけで煩わしく感じられるのかしら」
貴族の中には使用人が視界に入ることを嫌う者もいる。
「傲慢な方なのかもしれませんね」
ふんっと鼻を鳴らしてセリアが嘯く。
「お嬢様、くれぐれもお気を付けなさいませね。貴族として傲り高ぶっている男の方ほど、扱いが面倒なものはありませんからね。なにかちょっとでも落ち度があると、それはもう十倍くらいに誇張して被害者面をするんですから、最悪ですよ」
かつて別の屋敷に勤めていた際の経験なのか、ファニーがもっともらしい口振りで忠告する。
「わかったわ。できるだけ遠く離れたところからその男爵を観察するわ」
両手を握りしめて拳を作ると、マリー・ルーは威勢良く答える。
気分はすっかり間諜だ。
「お嬢様。お願いですから、あまり無茶はなさらないようにしてくださいね。もし若様や男爵様に見つかりそうになったら、顔を見られる前に逃げてきてください。それで、そのまま屋敷を出てアメレールへ向かいましょう」
不安げに顔を曇らせたセリアが繰り返す。
「はいはい。セリアったら本当に心配性ね。それと、わたしのことはルルって呼んでくれなくては困るわ。二人とも、わたしの先輩って設定なんだから」
一応、マリー・ルーはルルという名の新しい使用人ということになった。
掃除くらいなら修道院時代にしていたのでそれなりにできる、とマリー・ルーが主張すると、ネリニ夫人は彼女に箒を渡した。とりあえず、小道具ということらしい。
「じゃあ、わたしはお客様の様子を見張りに行ってくるわ」
まるで敵情視察にでも出掛けるような意気込みで、マリー・ルーは箒を手にして廊下へ出た。
「いってらっしゃいませ。それとお嬢様、何度も念を押すようですが、若様と男爵様には正体がばれないよう、近づかないでくださいませ」
「大丈夫よ」
箒を握りしめると、マリー・ルーは胸を躍らせながら階段を下りる。
まずは兄の友人であるという男爵の姿を遠くから眺めるため、彼の居場所を探すことにした。
ラバーレ伯爵家の領主館は広い。
三階建てに加えて屋根裏と地下があり、部屋数だけでも三十は下らない。屋敷の裏には広大な庭園と農園もあり、庭園には四阿が三つに池が二つ、噴水がひとつある。
(男爵、いらっしゃらないわね。アンヌの話では、お庭へ散歩に出られたってことだけど)
メイユール男爵の姿を探して、屋敷内を徘徊していたマリー・ルーは、さすがに歩き疲れ始めていた。
使用人たちの話を統合すると、メイユール男爵は客間に案内された後、荷物の整理は連れてきた従僕に任せ、居間でエクトルと一緒に軽食を摂りながら談笑していたらしい。その後、夕食まで運動がてらに庭を散策してくると言って、男爵はひとりで庭園へ向かったのだという。
(こういうとき、無駄に広い庭って困るわね)
幼い頃は癇癪を起こすたびに庭の躑躅の茂みに隠れては、使用人たちの大捜索で捕獲されるという経験を積んできたマリー・ルーだ。いくら広いとはいえ、庭は隅々まで把握している。たださすがに、庭に不案内な状態で歩き回っているメイユール男爵に見つからないようにしながら、彼を探し出すというのはなかなか難しかった。
(アンヌの話では、男爵は長身だし綺麗な白金の髪をしているから、遠目でもすぐに見つけられるって言っていたけれど、どこにもいないじゃないの)
夕暮れ時の庭は、ほの暗くなりつつある。
目の前の野薔薇の木の垣根は、彼女の鼻の辺りまでの高さがあった。わずかに背伸びをしなければ、壁となっている垣根の向こう側を見渡すことが出来ない。宵闇が迫りつつあるせいと、庭園内の背の高い木が影を作っているせいで、西の空はまだ茜色をしているというのに周囲は薄暗い。
(もしかして、もう男爵は部屋に戻ってしまったのかしら)
初夏とはいえ、日が沈むと空気が冷える。北部地域であるデュフォーは、日没と同時に気温が下がる気候だ。王都からきた男爵には、さぞかし肌寒く感じることだろう。
夕食の銅鑼の音もまもなく鳴るはずだ。
今日はもう男爵の顔を見るのは諦めた方が賢明かもしれない。
(とっても美形で、お伽話に登場する王子様みたいな容姿だって言うから、ちょっと楽しみにしていたのに)
本物の王子様を見たことがない彼女は、使用人たちが誉めそやす男爵の容貌がいまいち想像できなかった。
(皆が口を揃えて称賛するくらいだからきっとかなりの美貌なんでしょうに。そんな方をわたしに会わせようとしないなんて、お兄様はなにを考えていらっしゃるのかしら)
庭園内を二周し、農園も一周したところで、マリー・ルーは寒さで身体を震わせた。使用人の制服は軽いし動きやすいが、肌着が薄いせいか、いつになく空気がひやりとする。
東の空には満月が浮かんでおり、星々も瞬いている。
(仕方ないわ。今日は男爵のお顔を拝見するのは諦めましょう)
溜息をついて、くるりと身を翻したときだった。
一歩進んだところで、なにもないはずの場所で顔面から障害物に当たった。
「きゃっ! ごめんなさい」
暗がりの中でも、感触で人にぶつかったことはわかったマリー・ルーは、すぐさま謝罪した。庭師の誰かがまだ庭園内で仕事を続けていたと思ったのだ。
相手が黙っていたためため、マリー・ルーは額をさすりながら視線を真正面に向けた。
最初、屋敷内に灯り始めていたガスランプの明かりを背にした人影は黒く、誰だかわからなかった。マリー・ルーよりも頭ひとつ分以上背が高い。
よくよく目をこらすと、庭師のような作業着ではなく、金糸銀糸の縁飾りの刺繍、金ボタンが付いた濃紺の羅紗生地の上着が視界に入った。繊細な模様の絹のレースが袖や襟飾りに使われ、上着の下に着ているシャツは光沢のある絹だ。上着と揃いのズボンに、腰帯は緋色の天鵞絨ビロード、黒の革靴という格好だった。
(……だ、誰?)
恐る恐る視線を上げると、まず白金の髪が視界に飛び込んできた。まっすぐに伸びた髪をうなじでひとつに結び、肩から胸へと垂らしている。宵闇が迫る中でも際立つ白磁のような滑らかな肌と、紺碧の色を湛えた瞳が美しい。なんといっても、頬から顎の線の優美さと、目鼻立ちがほぼ完璧に近い形で整っており、まるで絵師が描いた絵画の中にだけ存在する神のようだ。胸が平らなので男であることはほぼ間違いないと思われるが、優美さと気品が全身から漂っており、マリー・ルーは圧倒された。
「あ、あの、申し訳ございません!」
この男はもしや、と気づいた瞬間には、マリー・ルーは勢いよく頭を下げ、最敬礼で謝罪した。そのまま、脱兎のごとく走り去ろうとしたが、すぐに腕を掴まれた。
「君、ここで働いているの?」
低いけれど耳に心地よい美声がゆったりとした抑揚で囁かれる。
なぜか、マリー・ルーに耳元に唇を寄せてきており、物凄く顔の距離が近い。
「え? あ、はい!」
マリー・ルーも羨ましくなるような長い睫で彩られた目はくっきりとした二重だ。顔の彫りは深い。
思わず見惚れかけた彼女は、慌てて乱暴に相手の手を振り払った。うっとりと見とれかけたことを誤魔化すように、視線を反らすが、頬が紅潮していることは自分でもわかった。そばにいるだけで息が詰まりそうになるし、動悸も激しく高鳴る。
(これは、遠くから眺めている方が落ち着ける美貌だわ……)
あまりにも美しすぎて、至近距離では直視できない。
「君、名前を教えてくれないかな?」
柔らかく微笑むと、手を振り払われたことなど気にしていない様子で、青年は首を傾げマリー・ルーの顔を覗き込んでくる。
「な、名乗るほどの者ではございませんっ!」
声を上擦らせ、ほとんど叫ぶようにして答えると、マリー・ルーは横っ飛びに移動した。そのまま、呼び止めようとする声には耳を貸さず、スカートの裾を掴むと大股で靴音も高らかに走り出す。
「まぁ、お嬢さ……ルル、どうしたの」
厨房で晩餐の準備を手伝っていたセリアは、肩で大きく荒い息を繰り返しながら勝手口から飛び込んできたマリー・ルーの姿に目を瞠る。
「あ……会っちゃった……」
ぜいぜいと激しい呼吸混じりにマリー・ルーが報告すると、料理長がコップに水を注いで持ってきてくれた。
「会ったって、若様?」
まだ息が整わないマリー・ルーは、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「では、男爵様?」
こくこくとマリー・ルーが首を縦に振ると、帽子飾りのリボンも揺れた。
「暗がりの庭園にいたのよ。すっごい間近で顔を見てしまったのだけれど、なんかもう、信じられないくらい綺麗な人だったわ」
コップの水を一気のみした後で、マリー・ルーは呆然となりながら報告した。
「間近って……まさか!」
「む、向こうはきっとわたしの顔なんて見ていないわよ。制服を着た使用人がいたからなにか用事があって声を掛けてきたんじゃないかしら」
名前を訊かれたことは、マリー・ルーの記憶からは見事に消えていた。
「ほら。わたしってこんなに十人並みの顔だし、覚えられてなんかいないわよ」
「お嬢様はとっても可愛いお顔をしていらっしゃいます!」
マリー・ルーの肩を掴むと、セリアは力説した。
「一目見て、お嬢様の可愛らしいお顔を忘れてしまうような男は、男ではありません!」
かなり贔屓が入っている発言ではあるが、マリー・ルーもさすがにまんざらでもない表情を浮かべる。ただ、今回に限っては、顔を覚えられるとかなりまずい。
「まさかお兄様、わたしの肖像画が飾ってある画廊に男爵を案内したりはしないわよね? わたしの素性が男爵にばれてしまうようなことは……」
「全力で、画廊の間への侵入を阻止しますから、ご安心ください」
いつの間にか厨房に現れたストレイフが力強く断言した。