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「解せないわ」
街道をゆっくりと駆け抜ける馬車に揺られながら、ラバーレ伯爵令嬢マリー・ルー・フレサンジュは形の整った眉を顰めた。
箱馬車の中まで騒々しく車輪が回転する音が響く。半日近くずっと座席に腰を下ろしているので、臀部が痛くなりつつあった。
「どうかなさいましたか?」
車内の向かい側の席に座った侍女セリアが、怪訝な表情を浮かべて尋ねる。
マリー・ルーは癖のある亜麻色の髪を丁寧に結い上げ、レース飾りとバラの造花がたっぷりとついた上に絹のリボンをあしらった帽子をかぶり、豪奢な外出着姿だ。屋敷を出た瞬間から榛色の瞳を輝かせて、青々と生い茂る麦畑を眺めていた。二ヶ月ぶりの外出に興奮し、住み慣れた領地であるデュフォーのなだらかな丘陵さえも、窓越しに物珍しげな顔で見遣っていたものだ。羊の放牧を目にしては歓声を上げ、牛が草を食む姿にさえ声を弾ませていた。
ほんのすこし前からこの若い女主人が黙り込んでしまったのは、さすがにはしゃぎ疲れたのだろう、とセリアは考えていたのだが、どうやら違っていたらしい。
「ずっとわたしを屋敷に軟禁していたお兄様が、突然叔母様のお屋敷に遊びに行くお許しをくれるなんて、なにかあるに違いないわ」
頬を紅潮させ桃色の唇を尖らせたマリー・ルーは椅子から身を乗り出し、捲くし立てた。
「だってあの堅物のお兄様が、わたしがショロン伯爵様の御領地で開催されるお祭りに行くってわかっていながら、叔母様を訪問することを許したのよ? 普通なら絶対にあり得ないわ」
ショロン伯爵夫人はマリー・ルーの父方の叔母に当たる人物だ。両親を亡くしている甥や姪を気遣い、季節の折々に便りをくれたり、自分の領地へ遊びにくるよう誘ってくれる。
ショロン伯爵領アメレールはラバーレ伯爵領から馬車で二日ほどの距離にあるが、海が近く、港があるため繁華街も賑わっている。牧羊が主産業であるラバーレ伯爵領とはまったく気質が異なることもあり、マリー・ルーは叔母の嫁ぎ先を訪ねることをなによりも楽しみにしていた。母の死後、祖父の命令で修道院へ入った彼女は、半年前の祖父の死と同時に帰郷した。以来、修道院へは戻らず領地の屋敷で暮らしているが、生真面目な兄の許可なしには屋敷から出してもらえずにいる。屋敷から一番近い村へも、二ヶ月前に乳母の見舞いのために行かせてもらえただけだ。
祖父の葬儀の際、式に参列するためデュフォーに戻ってきた叔母から、いつでも遊びにいらっしゃいと誘われたマリー・ルーは、ショロン伯爵邸へ行きたいと毎日のようにねだっては兄から無視されていた。
それが、三日前になって突然、叔母のところへ行ってきなさい、と兄エクトルが言い出したのだ。なにか裏があるに違いないとマリー・ルーが疑うのも当然だろう。四日前までは、祖父の喪が明けないうちは外出を控えるべきだ、と父によく似た容貌の眉間に皺を寄せてもっともらしく説教していたのに。
「お嬢様のご希望が叶ってお出掛けできるんですからよろしいじゃありませんか」
楽天的な性格であるセリアが朗らかに言い切ったが、マリー・ルーは納得しなかった。
「吝嗇家のお兄様が、お小遣いまでたくさん持たせてくれたのよ? ゆっくりと遊んできなさいって言ったのよ? いつもなら、叔母様にご迷惑にならないよう早々にお暇してきなさいって言う、あのドケチのお兄様が!」
白い手袋をはめた両手を頬に当て、マリー・ルーは恐怖に満ちた眼差しで目の前の侍女を睨んだ。
「不吉だわ! きっと天変地異の前触れよ! それとも、悪魔でも憑いたのかしら!?」
「なにもそこまでおっしゃらなくても……」
口先では女主人をなだめていたセリアも、次第に不安が募り始めたのか顔を曇らせる。
現ラバーレ伯爵エクトルは、放蕩者だった祖父と父によって傾いたフレサンジュ家を立て直すべく、日々倹約に勉めている。まるで修道僧のように清貧を重んじ、厳格に財産を管理している。いまマリー・ルーが着ているドレスはすべて叔母から贈られたものであり、彼女自身はこの二年ほど、仕立屋を呼んでドレスを新調していない。靴も帽子も手袋も鞄も、すべては叔母からの贈り物だ。
堅実なラバーレ伯爵による財政再建策により、この数ヶ月でフレサンジュ家の身代はかなり持ち直してきているが、当面はエクトルによる引き締めは続くことになっている。食費も削られており、マリー・ルーは食事と菓子が質素になっていくのがなによりも耐えがたかった。そんな状況で、叔母の屋敷までの往復の旅費(マリー・ルー、セリア、御者の三人分)と滞在費(前に同じ。しかもマリー・ルーは多額の小遣い付き)をエクトルが出してくれるなど、尋常ではない。
「そういえば、ストレイフが明日くらいにお兄様のお客様がいらっしゃるって言っていたわね。ネリニ夫人に、一番良い部屋を用意するように頼んでいたのを小耳に挟んだわ」
執事のストレイフは、マリー・ルーの祖父の時代から仕えている、伯爵家のすべてを知り尽くしている使用人のひとりだ。ネリニ夫人はストレイフの妹で、伯爵家の家政婦を務めている。
「もしかして、お兄様はそのお客様とわたしを会わせたくなくて、叔母様のところへ追いやったのかしら。お客様って、まさかお兄様の秘密の恋人とか!」
きゃあ、と歓声を上げ、マリー・ルーは色めき立つ。
まもなく二十五歳になるエクトルは、その真面目な性格が災いし、浮いた噂のひとつもなく、マリー・ルーが知る限りでは恋人もいない。祖父の後を継いで爵位を授かったことだし、そろそろ結婚を、と周囲もやんわりとは勧めている最中ではある。
「エクトル様は秘密の恋人なんて作らないと思いますよ。目も眩むような持参金を持った成金のお嬢さんが現れれば、すぐに特別結婚許可証を手に入れて結婚されるでしょう」
マリー・ルーの期待をぶちこわすような冷ややかな声で、セリアが否定する。
「あら、わからないわよ。お兄様だって人の子ですもの。運命の恋をしないとも限らないわ。それに、持参金目当てで結婚する気があるなら、いまごろ都の社交界でお金持ちの未婚のご令嬢たちを相手に歯の浮くような台詞を囁いて、舞踏会を渡り歩いているに違いないわ。お兄様にそんな軟派な真似ができるとは思えないけど」
ラバーレ伯爵家は、王国建国当時から続く歴史と血統を持つ、財産は乏しくとも、由緒正しき家柄だ。家名を餌にすれば、いくらでも裕福な家の令嬢たちが寄ってくる。いまだって、毎日のように見合いの肖像画や細密画があちらこちらの王侯貴族たちから届けられている。来月には十六歳になるマリー・ルーには、まだ見合い話のひとつも持ち込まれないというのに。
「エクトル様はいま、伯爵家を立て直すことで大変お忙しいんです! 恋愛なんてしている暇があるはずがありません!」
鼻息も荒くセリアが断言したかと思うと、両手で顔を覆い隠してわっと泣き伏した。
「セリア。お兄様の朴念仁のいったいどこが良いというの? わたしにはまったく理解できないわ。顔はお父様に似て厳ついし、真面目すぎて面白みはないし、気は利かないし」
マリー・ルーとエクトルは髪と瞳の色こそ兄妹で同じだが、容貌や性格はまったく異なる。歳が九つも離れているせいか、幼い頃からマリー・ルーにとって兄は両親と同じく大人だった。修道院で親しかった友人たちの中には、初恋が実の兄だと告白する者もいたが、マリー・ルーにとって堅物の兄は憧れの対象ですらなかった。どちらかといえば、兄は苦手な部類だ。
その兄に惚れ込んでいるセリアは、お側にお仕えできるだけで幸せですと言いつつも、身分違いの片思いに一喜一憂する毎日だ。いまや彼女の想いを知らぬ者は伯爵邸内においてはエクトルただひとりとなっている。
なぜあれほどまでに熱烈なセリアの恋情溢れる視線に気づかないのか。エクトルの国宝級の鈍さには、妹であるマリー・ルーも呆れるしかない。
「エクトル様は立派な方です。伯爵家に一生を捧げるお覚悟をされ、あのように毎日粉骨砕身の努力をなさっていらっしゃるではないですか!」
感情が高ぶってきたのか、セリアが涙声で訴える。
「伯爵家を継いだ身なんだから当然よ。領内の皆に税を納めてもらっているのだし、領主としての義務は果たさなくちゃ。伯爵家の当主として、そろそろ結婚して跡継ぎをもうけることも本気で考えるべきでしょうけどね。というか、用意周到なお兄様のことだから、きちんと考えているでしょう。きっと、わたしたちが叔母様のところから帰ったときには、お兄様の婚約者って方が屋敷に逗留されていらっしゃるのかも」
「えぇ!? そんなぁ!」
悲鳴に近い叫び越えを上げ、セリアは顔色を無くす。自分で言い出しておきながら、いざエクトルの結婚が現実味を帯びてくると、嘆かずにはいられないらしい。
「セリアの言う通り、お兄様は恋愛している暇なんてないんですもの。叔父様や叔母様方によって厳選された資産家令嬢の誰かと明日にでも婚約するかもしれないわね。半年後にはめでたく政略結婚ってところかしら」
「そ、それは、おめでたいことです……」
最後は呼吸困難寸前になりながらセリアは呟く。
「本当にあなた、お兄様のお客様について聞いていないの?」
ずいっとセリアににじり寄ると、マリー・ルーは厳しく問い詰めた。
「なにも聞いておりませんわ」
目尻に涙を浮かべながら、セリアは必死で首を横に振る。
「まぁ、それもそうね。ストレイフもネリニ夫人も、セリアの気持ちを知っているんだもの。お兄様の婚約者候補が訪ねてくると知っていても、わざわざあなたに教えるはずがないわよね」
「い、いえ、ストレイフさんでしたらきっと、わたしが潔くエクトル様を諦められるよう、はっきりとエクトル様が内々にご婚約したことを教えて下さるのではないでしょうか」
そばかすだらけの顔をくしゃくしゃに歪め、セリアは自分に言い聞かせるようにたどたどしく告げた。
「どうかしらね。もしかしたら、セリアが可哀想だから、お兄様の婚約を知っていて言わないってこともあり得るわよ。でも、それにしたってわたしを屋敷から追い出すのはおかしいわよね。わたしは別に、セリアと違ってお兄様の婚約者に嫉妬したりしないし、反対にお兄様のような者の妻になってくださって有り難うございますってお礼を言わなければならない立場なのに」
「ではやはり、エクトル様のご結婚とはまったく関係ない方なのですわ!」
胸の前で手を組み、期待を込めて祈るようにセリアが目を伏せる。
「じゃあ一体誰かしら。わたし、物凄く気になるわ」
兄の交友関係はほとんど知らないマリー・ルーは、わざわざ王都から遠く離れたデュフォーまで訪ねてくる人物に興味が沸いた。
「わたしを屋敷から遠ざけてまで会う必要がある人物って、誰かしらね」
首を傾げて考えてみるが、まったく思いつかない。
「お嬢様のお見合い相手では?」
「わたしが不在ではお見合いにならないじゃないの。それに、お兄様だってわたしに内緒でわたしの婚約を勝手に決めてしまったりしたら、わたしが大暴れして破談になるだけの醜聞を引き起こすくらいのことは想定しているはずよ」
「それもそうですね。お嬢様をショロン伯爵領へ送り出すくらいですから、よほどお嬢様と会わせたくない人物ってことでしょうか」
うーん、と二人は腕組みをして唸った。
「見てみたいわ」
ぼそり、とマリー・ルーが呟くと、セリアは顔を強張らせた。
「あ、あの、お嬢様。確かにあたしもエクトル様のお客様についてはとても気になりますが、でも、せっかくエクトル様がアメレール行きをお許し下さったことですし」
「こっそりと屋敷に戻って、こっそりとお客様のお顔を拝見してからでも、アメレールのお祭りには充分間に合うわ。だって、お祭りは十日間も行われるのよ!」
毎年夏に催されるアメレールの祝祭は、マリー・ルーも是非一度見てみたいと楽しみにしていた。だが、祭が始まるのは五日後だったし、叔母の屋敷までは馬車で片道二日の距離だ。そう急ぐことはない。
「お兄様にはできるだけ見つからないようにして、もし見つかっても忘れ物を取りに戻ったって言い訳をすれば良いのよ。お兄様だって事情があってわたしを屋敷を追い出したという後ろ暗さがあるはずだから、なぜ戻ってきたんだなんて咎めたりしないはずよ」
「それはそうですが……」
あまり乗り気ではないセリアは、もごもごとぼやいた。
「でも、もし、なにか国家機密に絡むような会合がお屋敷で開かれていたりしたらどうするんですか」
「そんな重要な集まりにうちの屋敷を使ったりするわけないじゃないの。いくら辺境とはいえ、丘の上に建つ屋敷なんだから、あんなところ夜陰に紛れて出入りしようったって目立つのよ」
ラバーレ伯爵邸の周囲は、麦畑か牧羊地だ。その間を縫うようにして、近隣の村々とを繋ぐポプラの並木道が通っている。伯爵家を訪ねるためには必ずこのポプラ並木を通らねばならず、畑仕事をする農夫や、牧童たちが常に仕事をしているので、誰にも見られずに屋敷へ辿り着くことはできない。
「とはいえ、わたしもこのまま戻ってはすぐお兄様に見つかってしまうわね。村の人達の誰かが、お兄様にわたしの帰還を話さないとも限らないし」
現在、マリー・ルーが乗っているのは、伯爵家がただ一台所有している箱馬車だ。扉には紋章が飾られ、馬は二頭立て、御者も立派なお仕着せ姿だ。ひとめで『ラバーレ伯爵家の者』が乗っていることがわかる。いまやラバーレ伯爵家といえばエクトルとマリー・ルーの兄妹しか本家にはおらず、エクトルは普段から馬に乗って移動していることが多い。自然と、滅多に見かけないラバーレ伯爵家の馬車に乗っているのは、マリー・ルーであるという結論に達する。
「どこかで貸し馬車を雇って、乗り換えるってのはどうかしら。わたしはこの格好では目だってしまうから、もっと地味な服を買って着替えるの。それで、屋敷に奉公に上がる使用人のふりをして戻るのよ」
「なんでそんな間諜みたいな真似をなさるんですか!」
目を剥いたセリアが狼狽える。
「面白いと思わない? わたし、使用人のふりをしてお兄様に見つからないよう屋敷の中を歩き回って、お客様がどんな方か確認するわ。それで、また貸し馬車に乗って戻ってきて、その後に叔母様のお屋敷を訪ねましょう」
「危険です!」
「なんで危険なの? わたしが普段から暮らしている屋敷よ? ストレイフやネリニ夫人には協力して貰わなければならないけど、お兄様に見つからないようにすることと、お客様にはわたしの素性がばれないように振る舞えば良いだけよ。危険なことなんてまったくないわ」
「……いえ、まぁ、それはそうなんですけど」
歯切れ悪くセリアは口籠もる。
「セリア。もしかして、お兄様のお客様について、なにか知っているんじゃないの?」
「まさか! あたしはなにも存じ上げません。ただ、エクトル様がお嬢様のアメレール行きを許可されたことになにか理由があるのであれば、お嬢様はまっすぐアメレールへ向かうべきではないかと考えただけです」
慌てふためくセリアの態度は怪しいような怪しくないような、マリー・ルーには判断できなかった。
「お客様って、男性かしら。女性かしら。どちらにしても、わざわざデュフォーまでお兄様を訪ねていらっしゃるなんて、奇特な方ね」
マリー・ルーが知る限り、エクトルには友人が少ない。わざわざデュフォーまで訪ねてくるような友人は過去にひとりとしていなかった。
見渡す限り丘陵地帯が広がっているデュフォーは、娯楽がない。釣りができる川はあるが、狩猟ができる狩場はない。風光明媚な場所もなく、ただ長閑な田舎の風景が広がっているだけだ。
デュフォーで生まれ育ったマリー・ルーは、北部のサンノールにある修道院で五年間過ごした以外は、ずっと領地で暮らしている。叔母の嫁ぎ先であるショロン伯爵家は数え切れないくらい訪ねているが、母親の実家がある王都へは一度も行ったことがない。修道院時代の友人たちからは、王都の社交界へ顔を出してはどうかと誘いの手紙が頻繁に送られてくるが、財政難のためその予定もない。
叔母を訪ねてアメレールへ出掛ける以外はデュフォーに籠もっている彼女にとって、兄の客人とはいえ、誰かが屋敷を訪ねてくるというのはちょっとした大事件だ。
「きっと、男性ですわ」
主人と一緒になって騒いでしまったことを反省しつつ、セリアが当て推量で言った。
「女性だったら、どのような年齢の方にせよ、よほど家格が釣り合わない方でない限りはエクトル様もお嬢様にご紹介されるはずだと思うんです。それに、エクトル様のお客様としてお迎えされる方であれば、それなりの身分がある方でしょう? そのような方がお屋敷にいらっしゃるというのにお嬢様にご紹介なさらないのであれば、男性に違いありません」
「男性、ねぇ」
「それも、きっとエクトル様くらいの若い紳士に違いありませんわ」
エクトルが若いかどうかについては、マリー・ルーにはいささか疑問の余地があったが、聞き流すことにした。問題は、なぜ客人が男性だと、兄は自分を叔母の屋敷へ行かせようとするのか、ということだ。
「そのお客様は、お嬢様をショロン伯爵家へ避難させなければならないような問題を抱えていらっしゃる方なのではないでしょうか」
「問題って?」
「それはあたしもよくわかりませんけれど」
セリアは言葉を濁したが、見当が付いているらしい口振りだ。
「で、本当に戻るんですか?」
まじまじと女主人を凝視し、セリアが再度確認をする。
「戻るわよ。お兄様のお客様って方を見てみたいんだもの。わざわざわたしを遠ざけたってことは、なにかそれなりの理由があるはずよ。それがなんなのか、知りたいわ」
好奇心に満ちた眼差しで、マリー・ルーは力強く断言した。