第八話 人脈
「猛獣使いの一味がしくじったそうだな!」
北方、
のっぺりとした白塗りの壁からだった。
天使と悪魔を主題とする絵画が数多くかけられている。
興奮の色を帯びた男の野太い声が講堂の隅々に響き渡った。
「僕も今聞いたところなんだ! 現状の詳細を知る者はいないか!?」
南方、
講堂内に多色の光芒を落とすステンドグラスからだった。
赤ん坊を抱く女神の麗姿が七色に光り輝いている。
神経質そうな甲高い青年の声が周囲に問いかけた。
「妨害したお馬鹿さんの面構えを私に教えてよ。綺麗に脳髄を蒸発させてあげるから」
東方、
エアポンプから吹き出す泡が波紋を作る巨大な水槽の表面からだった。
多種多様な海洋生物が青い液体の中におぼろに浮かび静止している。
透き通るようでしかし艶っぽい色声が殺人願望を述べた。
「だからわしは言ったのじゃ。見せ物屋では必ず失敗するじゃろうと」
西方、
いつも誰かを写している曇り一つない姿見からだった。
鏡の縁は古風な木板の浮き彫りに装飾されている。
咳き込みと共にしゃがれたがらがら声が張り上げられた。
筋肉隆々の壮年の男がせかせかと飛び出す。
横壁はまるで白い絵の具を溶かし込んだ水面の如く、揺れる、うねる。
眼鏡を掛けた青年の痩躯が落下し着地する。
ステンドグラスを通過する光が一瞬だけ闇一辺倒に切り替わったのは気のせいか。
金色の髪量著しい貴族風の美女が飛沫を立てて現出する。
水槽にそのような女性の影は見あたらなかったはずだが。
腰の曲がった老人が身の丈よりも大きな杖をついている。
鏡の中に先ほどまでなかった老人の後ろ姿が左右逆に存在している。
四者四様の登場を互いにどうこう言うわけでもなく、年齢も服装も統一のない四人は、ただ無言で直進し出す。図らずとも、講堂の中央で合流する。
講堂の中央、
大理石の床に描かれた直径十㍍を越えようかという円形、それに内接する正六角形。内部には黒く変色した血で、細々としたルーンがびっしりと記されている。宙に目を向ければ、重力を完全に無視して浮かぶ一冊の本。とはいえ、それは分厚い魔術書などではない。まるで童子に読み聞かせる絵本のような薄さだ。『ダリアス』という金文字だけが、古ぼけた深緑色の表紙で唯一の装飾だ。止まってはいない。くるくると、重心を軸に回転している。まるで、そこに不可視無形の力が渦を巻いているようではないか。
「私が経緯と現状を報告します」
四人は同一方向へ一斉に視線を走らせた。
アーチ型の扉は開くことはなかった。しかし、少年は現れた。扉をない物のように自然な動作ですり抜け、加速も減速もせず、四人に向かってゆったりと歩き出したのだ。住む世界が違ければこの扉を、細部まで随分と精巧な立体映像だ、と感嘆する者もいるはずだ。
涼し気な目元を覆い隠すように垂れ下がった前髪を、手で横に流してやる。全身白を基調にした衣服の上に、これまた白いマントを羽織っている。それが少年には抜群に似合っていた。
「あらトライル。久しぶりね。ご趣味の北方探検は気が済んだのかしら?」
少年は柔らかに微笑むと優雅に低頭する。妖艶な流し目と共に軽く茶々を入れた金髪の女が見たのは、彼女自身も背にぞくりと来るほどの美貌の笑みだった。
「ええ。収穫はありました。成竜の巣です。猛吹雪に隔離された果ての凍土にいくつか点在していました。血を分け与えて貰えるよう既に交渉済みです」
「そう。じゃあ、しばらくは延命と若作りに四苦八苦する必要もなさそうね」女は老人に「今回は猛り狂って殲滅しないようにしないとねえ?」と声をかけた。苦々しい感情が老人の皺を増やす。
「その話は後ほどにしましょうか。詳しく、お話ししますので」
少年トライルはあらましを語り始めた。
「場所は魔法都市へ続く人気の少ない街道でのこと。猛獣使いは暗殺対象ソフィー・グランマレッドを急襲。その時、居合わせた奴隷商人の幌馬車もろとも破壊。しかし、折り悪く運搬中だった呪い済みの異邦者と対象が接触。機転から瞬時に契約を交わし――」
「――その異邦者が身一つで全てをなぎ払ったと?」北から現れた壮年が引き取る。
「その通りです。追加情報では、この異邦者は剣奴の出であり、闘技場では常に勝利を積み重ねていたとか」
「剣奴だって? 確かにそうなのか?」南の青年が早口で言う。
「ということは紅証の持ち主じゃから……」
「軟弱者の自殺者(青年をちらりと一瞥した)に、一杯食わされたというわけね」
皆揃って黙り込み、石像のように動かない。扉から現れた少年は、そんな四人を煌めく紅い瞳で眺め、続いて下方に注意を向けた。下方と言っても、彼の足の前という意味ではない。この講堂全体の下方、つまりは床一面に視線を当てた。
おびただしい数の死体があった。こがねいろの虫のわんさか盛られた陶器の受け皿があれば、四つ足の一本欠けた獣が何匹も、口蓋を裂かれて転がっている。牙が何本か抜け落ち、無色の分泌液が血を混じらせていた。その横に、漆黒の翼を縄で貫通されて括られた鳥が、天井から床面すれすれに吊されている。互いに向き合っている個体もあった。現在ただ光を跳ね返すのみのビーズ玉は、死の直前に何を見たのだろうか。
しかし不思議と腐敗臭はせず、蝿も蛆も湧いていない。
(相も変わらず、魔術とは宗教感が拭えない)
そこには五、六の人間も倒れている。男女混合の肉体たちは等しく衣類を纏っておらず、尊厳のへたくれもなく無造作に置かれている。無論、生死確認の余地はない。全て同様に腹を裂かれ、紫色の臓物が気味悪く飛び出している。硬直した死体の表情、カッと見開かれた眼球には底なしの恐怖それのみが有る。色ガラスを通過した光が、頬に鼻に唇に、大層不気味な化粧を施している。
少年は彼らの魂の冥福を祈り目を閉じた。
(あなた方に授けられた無二の生の意味を、僕は決して無駄にはしない)
長い沈黙を破り、壮年が唸るように口を開いた。
「計画に罅が生じた。割れ目を塞ぐパテが必要だ」
「しかし、予言にあるよう僕たちは直接手を下すことを許されていない」
「魔法都市そのものを攻撃するというのはどうじゃ。例えば、ミロクラネスの残したルーン文字の全てに魔力を注いでいるらしい、あの馬鹿にでかい塔を根こそぎ粉砕する。もともと、飽和するほどにマナの匂いを放出している場所じゃ。たちどころに魔獣たちに食い荒らされるじゃろう。しかも迎撃する側の魔術師の大半は力を失っている状況ときた」
「白昼で夢を語るなよな、じいさん。流石のあんたでも魔術師の巣窟でそんな大掛かりなことが出来るかよ。破壊するまでに引っ捕らえられちまう。そしたら……だ」
壮年は断首を表す動作をした。その面持ちが暗い。
「とにかく、ソフィーという少女を殺さぬことに予言は成就しないっ」眼鏡を掛け直して青年が熱く言う。「あと一人なんだっ。たったの一人だ。ここまで来て諦めきれるか!?」
「その通りです」少年トライルが静かに、しかし言葉の端にまで意志をたぎらせる。「あと、一人。その少女を殺しさえすれば……」
一同口を閉じ、宙に浮く本を見る。誰かが唾をごくりと飲み、誰かがうっとりと将来の自画像に想像を巡らす。誰もがこの古ぼけた書物の効力を信じ、更には陶酔していた。
「時間はある」
壮年の重々しい口調が、会合の終わりを示した。
「あと八年だ。何とかなるさ。時機はいずれやってくる」
五人は、一斉に右腕を突き上げる。
否、五人の『異邦者』は一斉に右腕を突き上げる。
その前腕には、違う言語で共通の意味が刻まれている。
色は青黄赤緑紫と実に様々だ。
Complete Level5
四人はそれぞれ、自分が出現した場へ戻っていく。白壁に飲み込まれ、ステンドグラスに飛び込み、水面が穴を開け、鏡面は講堂の様子のみを写している。
静寂が支配する講堂の空気に、一つのため息が混ざり込んだ。
少年トライルは床面に描かれた円形のすぐ手前に立つ。本の回転が徐々に止まり、少年の方へゆっくりと接近してくる。まるで泥沼の中を進むようで、その速度は青亀よりものろかった。
時を同じく、トライルは視界にまぶたで蓋をして、五感以外の感覚に身をゆだねる。肌に密着する冷たい液体のようなものが、不規則な軌道で流れてゆく。湿り気を帯びた息の生暖かさが忽然と消え、気道を凍らすブレスを肺に溜め込んでいるように感ぜられた。
室内に、綻びはない。
(完全に去ったか)
目先鼻先に浮く本へ誘われるように手を伸ばして、指先に強い痺れをもたらす高圧電流をくらった。バチィッ! という凄まじい音が講堂に反響する。しかし、痛がる様子もなく少年は顔をしかめるにとどまった。見れば、右手首に付けられた銀のブレスレッドが白く輝いている。瞬時、肉体内部に迎撃障壁を張ったらしい。
「らしくない不注意ですね」
どこからともなく声がしたと思えば、白いマントの下から黒髪の使い魔がひょいっと小さな顔を出した。衣類を掴んでロッククライミングさながらに這い登り、首の後ろという本来の定位置に戻る。会合の間はマントの下に隠れていたようだ。
「少し、憤りを感じているのかもしれないな」少年は下唇をギュッと噛んだ。
「憤りですか?」
「うん……」
前腕のCompleteを意味する文字に目を落とし、言う。
「あの五人は『鍵』を手に入れて神様に罪を許された存在のはずなのに、こうして再び人を殺めてる。彼らだけじゃない。全世界の至る所で、そんな矛盾が公然とまかり通ってる」
「……」
「何が懺悔と浄化の『新世界』だよって、そう思っちゃってさ」
懐の小刀で指先をすっと切る。
半球状の透明なバリアに触れぬようにしつつ、球の面に手をかざし血を一滴垂らした。
誰も触っていないのに、たちまち最初のページが開き、予言の内容が明らかになる。文字は紅い結晶を思わせ、淡い光を乱反射させる。ただのインキとは別物であることが一目で見て取れる。
前提:我ら予言者は神の御言葉をありのままに書き記す者であることを
ここに明記し血判をもって約束する
紅き生命の源を用い、この予言の書に署名する者よ
脈打つ命の実を貪らんとする強欲な者よ
この予言の書に血を注ぎし者たちよ
私の神は仰っている
願いを聞き入れた賢者に不老の身体と永久の魂を与えると
ページが独りでに捲られていくが、どこも白紙の状態だった。そこに存在していたはずの文字が儚い命と引き替えに消失したのを、少年トライルは知っている。己の無力が祟って、止めようにも止められなかった。言い訳など出来はしない。
「あと一人、か」
少年が現実味を帯びた言葉を呟いた。
ようやく文字の書かれたページが現れた。
『ソフィー・グランマレッド』
と書かれた名の下記に判別条件などが綴られている。
「いつ見ても――」彼女だけは飛び抜けて波乱の人生を約束されている。
言葉が続かなかった。
ソフィーという名に釣られるように、今は亡き古い友人の顔が脳裏にまざまざと浮かび上がった。十年前、最初から最後までトライルの忠言を耳にも入れず、言葉も満足に話せない赤ん坊へ命を捧げるという蛮勇を奮った『異邦者』の名は、
「ルネ」
そう言った。
「なあ、あいつは何を知っていたんだと思う?」
目を細め、上を向く。
死別の前日、やけに自身有り気ににたにたと笑う浅黒いあの顔は、一時も色あせたことがない。爛々と輝く双眸は、死を恐れぬ愚者の目付きだった。
「ソフィー・グランマレッド」
この少女にきっと『何か』があるのだ。
「殺させはしない。絶対に」
マントをひるがえし、少年は講堂をあとにする。
自動で閉じてゆく本に、そのページが垣間見えた。
『ソフィー・グランマレッド』
・十五年に一度の厄年に生まれし少女
・黒き亜竜の生き血を飲み干し呪いを打ち消し不老の身体を取得する
・これ世界に災厄をもたらす忌み子なり
――成人を迎えさせず人ならざる者の歯牙にて殺害せよ
術の使用はこれを禁じる
夜の帳は既に落ち、天地の明暗が逆転している。
「嬢ちゃん。どうやら君は白狼使いに出くわしちまったようだ」
秋ということを鑑みても、本日は一段と冷え込んでおり、暖炉に赤々と燃える薪が火花を散らしている。
ティーカップに注がれた黄色い液体をすすりながら、第三警備隊隊長フラーレンは言う。紅で統一された衣装を身に纏っているが、他の警備隊員とは違い、袖に金の刺繍が施されている。
「白狼使い……ですか」ソフィーは首をひねった。
心配事でもあって眠れなかったのだろうか。どす黒いくまが目の下を覆っている。
それだけではない。身体中の皮膚という皮膚が赤く擦り傷だらけだ。骨折など重傷は見受けられないが、足に布製の包帯を巻いている。
「ここ最近、白狼の群れが人気のない街道を通過中の商人を襲撃して、金品や食料を強奪していく事件が多発しているんだ。嬢ちゃんと奴隷商人を襲ったという狼も、恐らく同一のものと考えていい。死骸の鑑定を専門家に依頼したらな、術式の痕跡は皆無だったそうだ。おそらく調教された獣だったんろう」
フラーレンは、もう一度ティーカップに口を付ける。ソフィーの膝前のテーブルにも彼女の分が用意してあったが、およそ芳しくない匂いを発しているそれを口に含む気は起きなかった。使い魔ルヴェルも気味悪げに見つめている。湯気がゆらゆらと上昇する光景に眉をひそめつつ、彼女は「本当に断定できますか?」と不安げな声音で発した。
「どうしてそんなことを言うんだ?」
濃い眉が特徴的な顔面が、抜け目なくソフィー見つめている。逆に質問されて、彼女は一瞬答えに詰まってしまった。あの狼たちは確かに自分を標的としていた、などと言っても信じてはもらえないだろう。詳しく語り合いたいほどの話題でもない。詮索されれば面倒だ。
「いえ、別に……」
「まあ、被害が大きくなれば相応の魔術師が派遣されて適切に対処するだろうし、そこまで深く考える問題でもないだろう。それより」男は居住まいを正した。「目下の問題は君とあの『異邦者』の関係についてだな」
ソフィーが透視術を習得していれば、今の言葉に胃が沈み込むのを両目で確認出来ただろう。ぐっと歯を噛み合わせて恐怖を堪える。詮方なしの状況だったとはいえ、彼女が法に触れる行為をしてしまったことは紛れもない事実だった。言い逃れは許されない。せっかく縛り付けられていた故郷を抜け出してきたというのに、一歩進めば牢獄に拘束されるとはなんたる不幸であろうか。
「まあとは言え、そんなに気を落とさなくても良い」
「しかし、服従の呪術を身に刻まれた異邦者との無許可の契約は、法律で固く禁止されているはずです。最低十年の実刑と聞いたことがあります」
「幼いのに博識だな。やはり魔法都市を受験しようとすることだけはある。だが、もう一度言うぞ。そんなに気を落とさなくていい」神経過敏になっている少女に、優しく諭すように言った。と思えば一転「クラァックッ!! 入ってもらえっ!!」
びりびりと腹まで響く大きな声に応じて、渋面の巨躯が、背の低く丸々と太った中年を引き連れ部屋に入ってくる。「だから声がでかいっつーの……」巨躯がぶつくさ文句を垂れている。
「おおうっ!!(こっちもでけーよ……)」不健康の鏡ともいえる体型の中年は、フラーレンに負けじと声を張り上げ、ソフィーの方へ一目散に駆けてきた。歳に似合わず目をきらきらと輝かせ、段々腹がぽよんぽよんと揺れている。「君はっ!」のみならず、ソフィーの小さな手をギュッと握りしめた。湿っている……。
ソフィーは訝しげに彼を見た。彼の身体がソフィーと同じく擦り傷だらけだから、のみではない。憶えにない人物が、さも自分を知っているかのように振る舞うことに疑問を感じたのだ。
フラーレンが説明する。
「彼はマックと言う。覚えてないか? 君と一緒に被害を受けた商人だ」
ソフィーは合点した。そう言えば、視界の隅に毬のような物体が転がっていた気がする。あれは彼だったのか。それはともかく早く手を放して欲しいソフィーである。
「いやーっ。あの時、君が彼と契約を交わしてくれなかったら、今頃俺はあの狼たちの腹の中で消化中だったっ。本当に感謝しているっ」
興奮してぶんぶんと腕を上下に振るマック、
――のぶよぶよとした首根っこを掴んで軽々と宙に浮かせたのはフラーレン。
「さて商人さんよ」声に面白がっている響きがある。「ここらで一つ取引と行かないか?」
「取引?」ソフィーとマックは怪訝に思って眉間に皺を寄せた。
「そう。取引だ」警備隊長は髭に隠された口角をにやりとつり上げ「すこぶる公平な裏取引だよ」
マックは雰囲気の変化を敏感に感じ取り、顔つきを真面目に正した。
「して、その中身は? 警備隊長が直々に持ちかけるんだ。それ相応の内容なんだろう?」
「ああもちろん。お前の人生を幾分左右するな」
「は? 人生?」
「話はな。お前の運搬していた奴隷たちの出所に始(あっ!)……おやおや、なんだつまらん。もう分かったのか」
心当たりの有りすぎるマックの顔色が、色取り取りに変幻していく。フラーレンの表情を今だけ切り取れば、意地汚い腹黒高官そのものだった。しかし、何の話をしているのか見当の付かないソフィーは、ただただ不思議そうに彼らを眺めるだけだ。
「な、何がが望みっ」マックは額に汗を浮かべてどもる。宙に浮いているのも相まって、多数の水滴が付いたバルーンのぶるぶる震えている様に思えた。
「いや、そんなに難しいことじゃないんだ」フラーレンは滑らかに「ただ、今回の件をありのままに他言しないってことさえ守ってもらえればそれでいい。何が言いたいかっていうと、ようはこの嬢ちゃんと異邦者が許可なく契約を結んでしまったことを秘匿したいんだ」
目を丸めて呆けていたマックは「噂の力を甘く見ちゃいけないぜえ? そういうのは風よりも速く伝わってゆくもんだ。事件の概略は酒場のつまみにでもなってるだろうよ。早くもでっけー尾ひれがついているかもしれねえ」
「いや、直前に情報封鎖してあるからまだそこまで広がっちゃいないはずだ。当事者のお前もここでこうして吊し上げられているわけだしな。まあ、でっけー尾ひれ付きでも結構結構。南部のクレーシュタル湖にいるっていう古代魚くらいに馬鹿にでかい尾ひれが付いてくれてかまわない。ただし、その尾ひれは俺たちの望む形でなくちゃならんが……」
フラーレンは「嬢ちゃん。君の付き人の名前、なんていったかな?」と聞いた。
「……マーベルよ」ソフィーは答えた。「今は入院しているわ。命に別状はないけど」
「そう、そのマーベルがだ。実は剣を携えていたんだ」
「ほーう。近辺を脅かしていた白狼八匹を剣一本で斬り伏せた女剣士、英雄像を作り上げる気か」得心した様子でマックが言う。「適役だな。マーベルって女も、主人のためならやむをえんと理解してくれるだろう。で、俺が酒場に凱旋と同時、そんなふうに事件のあらましを塗り替えればいいと?」
「ご名答」
「そうすりゃ、あれにも目をつむってくれると?」
「無論だ。ただ、条件の一つとして、位置補足術をかけさせてもらうぞ?」
「あ、あぁ……。まあいいか。取引成立だ。俺にも断る理由がねえ」
狡猾そうな笑みを顔に貼り付けたマックは「不幸中の幸いってやつだな。幌馬車はなくなっても運だけは失っちゃいねえ。神様ってのもいるもんだな……」とぼやきながら部屋を出ていった。
「これを機に根っから生真面目になっちまえ。術式がある。いつでも天から見守っていてやるよ」
うへっという丸顔が、消えた。
「さあ、そういうことだ。まずは嬢ちゃんの今夜の寝床かな。隊員の宿舎が空きがあるが、男臭くて満足に寝息を立てられないだろう。宿屋を手配させよう」
「ちょっと待って」終始、蚊帳の外で事の成り行きを傍観するしかなかったソフィーは、会話が終わってようやく警備隊長に疑念を口に出来た。
「何で私を庇ってくれるの? あなたたちにメリットなんてこれっぽっちもないのに」
フラーレンは破顔した。
「メリットなんて関係ないさ。ただ、一人の少女が一度きりの青春を監獄の中で浪費することが忍びなかっただけだ」フラーレンはウインクした。「あんまり深く考えなさんな。『ただでさえ短い人生』、を有意義に過ごしたいとは思わないのか?」
どきりとした。
この警備隊長のイントネーションは、明らかに普通と違う。
まるで彼がソフィーの抱える呪いについて知っているかのようだ。
「人生百年とはいえ、輝かしいのは前半の若い内だ。後半なんて、することもなく老化に怯えて腐っていくだけさ。それに、俺たちみたいな稼業の輩は早死にしやすいからな。今回みたいなのは親身になって見過ごしちまうもんなのさ。なあ、クラック?」
巨躯の男は顔をしかめてこう言った。
「うーん。たしかに人生百年と短いっすね。しかし、それと犯罪者を独断で釈放することに、一体何の因果があるんすか。そして、俺もなぜ見て見ぬふりで荷担しているんすか」
「いいじゃねえかよぉ」警備隊長フラーレンは快活に笑った。「こういう小さな芽を守る行為が、やがては世界を動かしていくもんなんだよ。法律が全能だなんて言う連中は、頭がどうかしてるとしか思えないね。やっぱり世の中を正すのは人情だよ人情っ!!」
「ふむ。隊長はよわい四十を越えてましたね。じゃ、芽を守る行為もそろそろ引退して、種蒔きのほうに勤しんだらどうっすか。子どもを真っ直ぐに育てることで、間接的でもやがては誰かのためになるかもしれませんし、そっちの方が自然の理により近いと思いますがね」
「回りっくどい言い方だなぁおいっ。お前、俺と同じ未婚の一匹狼のくせして人のこと言えねえだろうがよっ」
「残念。ここでカミングアウトです。実は俺、三日前にめでたくゴールインしたんすよ」
「…………」
「…………」
「…………まじ?」
ソフィーの見つめる茶色の瞳が、深刻そうにうるんでいて、しかし楽しそうに笑っていた。