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第四話 転生

『英雄とは時にひょんな出来事で、話にも上らぬ辺境の地で誕生するものです。彼の場合も違わなかった。晴天の下、白く輝く太陽が遙か上空へと駆け上がる、そんな夏のことだったのです。青年となった彼は、『選民』を指差しこう言いました。『あの叡智は汚れている』と……。人々は気付くよしもなかった。誰もが気付きませんでした。でも、それはまさしく神の御言葉だったのです。彼はいつしか神の代弁者となっていました……』 ――神話研究家 リーマン・ホーキン博士の著書『崩れ去りし旧世界』より一部抜粋――


 ☆ ☆ ☆


 降りしきる雨が、鬱蒼と生い茂る木々の葉を盛んに叩く。

 もうすぐ太陽が真上に上がる時間帯だというのに、貪欲に成長を続け層のように折り重なった樹冠も相まって、薄気味の悪い暗闇が森を閉ざしてしまっている。純白の花弁へ誘われるようにと赴いた一匹の蛾が、下につり下がっていた壺状の袋へと捕食された。地を覆う濃緑の草は、生える剣のように先端を鋭く尖らせており、その背丈も優に一般男性の腰の位置を上回っていた。周囲には人の胴ほどもある巨木が乱立し、その皺だらけの茶色の肌に巻き付く暗色のツタや、深々と刻まれた、爪痕……? らが、怪しげな雰囲気に拍車を掛けていた。

 一帯に、人為の力が及んでいない。

 もしや人跡未踏の地なのでは、と、そう思えばたちまち想像は裏切られる。

 緑色の海に溺れるが如く、一人の少年がぬかるんだ地に胸腹を埋め、倒れ込んでいた。場にそぐわない肌色の上に、長い黒髪が乱れに乱れている。

 少年は、なぜか一切の衣類を身にまとっていなかった。見渡すもその手の物は投げ捨てられてはいない。しかし剥き出しの四肢からその体幹まで、擦り傷切り傷の類は見当たらず、寧ろ健康的と思えるほどに艶やかだ。

 おかしい。

 この森の不気味さを差し置いたとしても、少年の存在は圧倒的に不自然だった。草を掻き分けてここで力尽きたとするならば、少年の身体には一つや二つの切り傷があって然るべき。というより、彼の周りには草をなぎ倒した形跡など皆無である。彼はいかなる手段を用いてこの場へ到達したのか。枝の上で猿の真似事でもして、間抜けにも足を滑らせた。……あり得ない。現実性がなさ過ぎる。

 不可思議な点はそれだけではない。

 片頬を泥に汚している顔面。

 小さな輪郭に縁取られ、筋の通った鼻を中心とする端整な顔立ち。

 幼さが特徴とも言えるその眠り顔は、豪雨の中マンションの二十一階より身投げを行った、あの少年そのものだった。

 ――つまり、自殺の咎人楠木奈々人に、顔の細部に至るまでまさしく瓜二つだった。

 死人が、そこに倒れ込んでいる。

 しかしあの時、血を撒き散らせた彼の身体は、確かに生命を剥奪された。割れた頭蓋は果肉を覗かせる西瓜のようで、血溜まりを見つめる瞳の奥には何の感情も渦巻かず。幾多の住人に悲鳴を上げさせトラウマを植え付けたその亡骸は、無機質なブルーシートに覆われて、安置所へ運ばれ――そして、胸に垂れた母親の涙諸共、火葬されたはずだった。

 これらの事象を集約して、導き出されるものはあるのか。

 問われれば、あると答えることが出来る。

 ただし、この世界の住人ならば、という限定付きではあるが。

 彼は……


 時間の経過に順い、頭上の灰色の層より溢水する水量は徐々に増加してゆく。

 倒れ伏す彼は最初、己の中に自我を是認した。

 混濁する意識の元で僅かな思考を取り戻す。続いて作動する器官は聴覚。彼の脳内にノイズ音が反響するのは、雨音を誤聴している為だと思われる。それに、鼓膜を打つ律動的なこの音は……。彼はこの時なぜか近くで時計の秒針が廻っているのだと、そう誤解し、これまたなぜか彼の意識は柔らかな安堵に包まれた。

 大分時間を要して、彼はその音が胸から響く鼓動なのだと認識した。

 すると弱々しい思考の片隅より、ふと、もしや自分は生存しているのでは、という疑念が鎌首をもたげた。

 それは得も言われぬ恐怖となり、瞬く間に彼を圧迫する。

(本当に死に損ねたのか? 二十一階から落ちて? 馬鹿な!? だが心臓は動いている。戻るのか? あそこへ。もう安住の地なんて存在しないのに。俺は何処へ連行される? 警察か? その後……いや、その前に精神病院か? またかまたなのか! あんな上辺だけの検査で他人(ひと)を理解したつもりになって愉悦に入る白衣の大人達と共に、またもや閉じこめられろって言うのか。ふざけるな! そうだ生きているのならばもう一度死ねばいい。やる、俺はやってやる。奴らの目を盗み、呆気なく死んでやる。死んでやる死んでやる死んでやる……。いや、まさかっ。馬鹿な事を考える。奴らの目など盗めるものか。何時(いつ)だって、監視を続けるあの憎々しい黒光りのカメラが、きっと俺を邪魔するに決まっている。そうに決まっている。では、死ねない。死ねないぞ。どうしたって、死にきれない。さて、俺は何年に間束縛され、そして生き(なが)える? 嫌だ嫌だよ! なんで社会は、意味の無い『生』なんかをこぞって俺に強要するんだ! もういっそのことっ……!)

 彼は自我の内側で発狂した。

 殺せ殺してくれと、呪詛のように意識の内部で咽び泣く。

 天を覆う分厚い雨雲が蓄えた水滴を余すところなく絞り尽くした頃、彼は若干の冷静さを取り戻した。薄く棚引く朱色の空が、時間の経過を指し示す。とは言え、巨木によるアーケードは相も変わらず陽光を遮り、森は一色、黒が濃厚になるのを待つのみである。

 叫び苛立ち恐れ僻み、負の感情を爆発させた彼は、少しだけ前向きにものを捉える事が出来るようになった。胸に希望の種を見いだせた。

 そう。彼が生きているとは限らないのである。

 この世界が死後の世界ではないか、と彼は推察し始めていた。

 彼は自身が未だに外界を確認していない事を支柱とし、この発想を蔓の如く絡み付かせ大切に育む。希望である。

 さあ、花を咲かすにはあと一歩。手足は動きそうにもない。というより感覚がないのだ。雨音。確かあの時も降っていたはずだ。故に判断材料にはなりそうもない。匂いだってその雨にかき消されてしまっている。残るは一つ。彼は全精力を傾けて、眼球を塞ぐ目蓋をこじ開けた。

(みど……り?)

 焦点が合わず、歪む視界に写った黒緑色を辛うじて草だと判別する。左方に見えるのは地面であろう。脳の回転数が上がるにつれ、外観に立ちこめる靄が消失してゆく。しかし、完全に回復するにはまだ時間が掛かりそうだ。

 立ち上がる事も試みて、両手両足はやはり動かず失敗に終わる。いくら電気信号を送っても、反応する気配すら見せない。もし動かせても立ち上がる事は困難だったであろう。意味をなさない三半規管のせいで、上下左右の判別に狂いが生じている。彼は俯せに寝ているのにも拘わらず、背中側に引っ張られていると錯覚した。

 頑として動かぬ身体に見切りを付け、彼は自身の境遇に思いを巡らせる。彼が着地した地点には、人工のアスファルトが敷き詰められていたはず。誰か自分を発見した人物がこんな山林に放りだした? そんな事件は、小説(フィクション)でしか起こり得ない。小説は現実よりも奇なのだ。まったくどこの馬鹿が間違えたのか。それはともかく……

(現世じゃ……ない!)

 彼は、その事実に小躍りしそうになった。既に陽はほとんど隠れ、先程まで識別のできたものは悉く闇に飲まれてしまっている。眼前の草も例外ではない。せっかく鮮明になった視覚も、あっと言う間に役に立たなくなってしまった。だが彼は構わない。開いた花びらを大層に愛でつつ、意識の中では満面の笑みだった。

 藪の中より二つの眼光が彼を射抜いているとはつゆ知らずに。


 しばらく後。興奮も冷めた頃。

 一向に言う事を聞かない身体が、少しだけ感覚を取り戻して来る。頭上の葉より滴る雫に打たれ続けた結果、彼の裸体はすっかり冷え切っていた。

(ん……?)

 不意に、重々しくも透明感のある声が彼の頭に響きだした。男声女声からなる、なんとも荘厳な合唱である。その絶妙な協和音は、生まれてこの方聞いた事の無い音声で、得も言われぬ神妙さを持ち合わせていた。しかし彼が聞き惚れる事は無い。それどころか表情で嫌悪感を示したほどである。

 時間を置いて徐々に音量を増すそれは、いつしか彼の脳内を占領する。彼は気付いた。歌声は、同じ節を何度も何度も繰り返している。まるで、頭の裏側にその調べを強引に塗り込もうとでもするように。内側から自我を改変されているようで、気味が悪かった。それだけではない。彼は胸の内に小さな違和感を覚えていた。

 結局、歌声は前触れも無く煙のように消えていった。

 しかし、抱えた違和感は消えてはくれない。取り戻した静けさが、今は逆に恐ろしい。

 心の底で何かが溶解するような、そんなイメージが頭に浮かんだ。

 焦りと恐怖に身が強張り、彼の冷たい裸体は、まるで結露でもしたかのように、玉の汗にびっしりと覆われていた。

(何だ、何が起こっている?)

 北風に流された雲の間から、紅い満月が妖しく顔を覗かせる。

 蠢く不快感はやがて激痛となりかわり、本格的に彼の全身を蝕み始めた。

 それは身体の感覚が研ぎ澄まされるに比例して、順調に、むくむくと肥大していった。熱い。暑いのではなく、熱いのだ。血管の内部を燃えている糸状の蛔虫にでも巡られているようにしか思えない。唯一見える肩口の血管が、ぶくぶくと膨張しているのを視認する。実際、自分の血液は沸騰しているのではないか? 今にも気化したそれが皮膚を裂けて噴出するようで、彼は気が気でなかった。特に胸の辺りがやたらと熱いのは、心臓が廻ってきた灼熱の液体を(ひとえ)に受け付けているからだろうか。

 文字通り焼け付く痛みに身を焦がし、彼は声にならない叫びを上げる。

 指くらいは動かせるようにはなったが、未だ尚、四肢には力が入らず、彼の暴力的欲望――この場で暴れ回りたいという渇望は、行き場を無くし再び彼の内部で荒れ狂った。心の堤防が決壊しないのが不思議なくらいだ。はち切れんばかりに膨張した緑色の静脈が彼の裸体を隈無く包み込む様子は、まるで彼が狡猾なツタの悪魔にでも拘束されたようである。

 彼はもう、どうにかなりそうだった。

(これが、地獄ってやつなのか……?)

 四肢体幹だけではない。血管は脳にこそ深く根付いているものだ。彼は、想像することを全力で拒否した。眼下で起こっている現象は、脳内においても当てはまるのだろう。激烈な頭痛は波のように時間をおいて迫って来る。視界が真っ赤に彩られる。彼はそれを誤解し、毛細血管が破れ瞳が紅に染め上げられた自分を、自分の中に作り出す。

 この状態はいつまで続くのか。

 彼には、内に暴れる激痛より逃れる(すべ)がない。

 これが噂に聞く地獄と言う奴なのだとすれば、永劫、これが継続するのか。それとも自我が崩壊するまでだろうか。裁きの劫火に燃やされて、『この』自我が灰燼と化すのか。消滅と再生、もしやこれが輪廻転生の実態か?

 紅に染まる視界と白光に支配された脳裏。

 何も考えられない何も思い出せない。

 彼は憔悴し、この場に来て二度目の絶望に飲み込まれてゆく。

 苦痛もいよいよ我慢の限界に近づいた時のこと、定かではないが、おそらく胸の辺りではないか。彼は、ぶしゅっという音を耳にした。臨界点を越え鮮血が霧のように吹き出したのだと、彼は朦朧とするしつつ思った。

 この感じは二度目だった。身体が抜け殻となってゆく。

 彼は皮肉を覚えた。死後の世界でこの感覚を再び味わう事となろうとは、と。

 前回との相違点は、それが終末と解放ではないこと。彼が意識を手放し落ちてゆけば、反比例するように痛覚が増す。落下点は煮えたぎる火口のど真ん中だとでもいうのか。しかし……。

 また、死ぬのか。

 ゆっくりと、彼の中で何かが断絶する。

 彼の意識は闇に沈んでゆく。




 闇の中に低い声が響き、仄かな光が空中に浮かんだ。一部始終に傍観を決め込み息を押し殺していた眼光の主が、長剣の一閃で手前の邪魔な草を難なく薙ぎ払い、下手すれば既に事切れているかも知れぬ少年に近寄っていった。大柄な体躯の男だった。男は、倒れ伏す少年の痩躯を優しく反転させた。必然的に仰向けになった剥き出しの裸体が、光球に照らされ優しげな双眸に見下ろされる。その人物の注目を集めたものは、少年の前腕の内に浮き上がった黒い刺青のような文字だった。


 World 1976 Level 6


 そのアルファベットと数の羅列に視線を留める。男はひたすらにじっと待った。頭上の葉から滑り落ちてきた豪雨の残滓が肌を打っても、夜風に吹かれた草木がざわざわと気味悪く笑っても、男は辛抱強く待ち続けた。その間、産毛一つなびかせなかった。

 ――待ち望んでいたものが、遂に始まった。

 それは唐突だった。刺青が、得体の知れない化学変化でも起きたかのように、左端の『N』から一気に侵食され紅に染まっていった。いかなる絵の具を用いても表現できない濃厚な妖しさを漂わす色彩は、正確無比に人の血色を再現していた。

 意味不明の文字らに何を見い出したのか。男は顎に手をやり何度も頷く。明かりに照らされた目尻が垂れ下がり、つり上がった口元には濃い陰影がついた。手の平とこすれる度に硬質な髭がじょりじょりと音を立てた。

 男は粘り気の強い声で次のような意味の言葉を発した。

 ――南西の離島、少年、黒髪、自殺。間違いないようだ。彼が予言の……

 しかしその満足そうな表情は、数秒も持たずに顔から強制的にぬぐい去られた。

 遠吠えが聞こえた。しかし魔物の遠吠えにしては幾分甲高く、そして透き通り過ぎていた。森にあまねく響き渡る、天を突かんばかりの悲痛の叫びは、男の肌を泡立たせ、震えは身体の芯まで浸透した。

 この鳥肌は恐怖による悪寒ではない。むしろ興奮によるものだった。沸騰せんとばかりに熱を帯びた感情が、男の体温を押し上げていた。男は知っている。この陰鬱な樹海にひっそりと暮らす呪われた天涯孤独の存在を。自らに化け物を背負い込んだ報われぬ少女の伝説を。

 堪えようと噛み締めた鋭い歯の隙間から、くっくっくっと笑いが飛び出た。男は一旦深呼吸をし高揚した気分を落ち着ける。さも愉快そうに、転がる少年と遠吠えのした方角を交互に見やった。口が開かれた。

 ――しかし、本当にこんな辺境で生き存えていたとは。予言の的中率は文句なしだ

 周囲を照らしていた明かりが、風に吹かれた蝋燭のように、他愛なく消滅する。

 男は膝を弛ませると、勢いよく巨木の枝へと飛び乗った。それは人間の所行とは思えぬほどの跳躍力で、実際、男は人間ではない。厚い木の葉の層を突き破り、夜空に点在する星々に姿を確認される。

 雲の切れ間から、満月は、血をしたたらせんとばかりに紅い。

 不吉な知らせであるはずのその紅いの光を、恭しさすら感じさせる顔つきで、男は全身に浴びる。

 次の瞬間、バサッ! と、折りたたまれていた二つの翼が、空気を押しのけて展開された。

 背に接続された翼は、二つとも腕の二倍ほどの横幅を誇り、黒い羽毛にびっしりと覆われていた。インクから引き揚げたばかりのような光沢を見せる翼は、紅い月光を反射させ、本当の漆黒の美をまざまざと闇夜に見せつけていた。

 翼がはためき始めた。力強くしなる翼によって掻き混ぜられた大気が葉腋を引きちぎり、眼下に広がる広大な森林を波立たせる。飛沫の代わりに、大量の緑葉が月明かりの元で白光を放ち、くるくると宙を舞った。一際強く翼を上下すると、切り裂かれた空気が金切り声を上げた。

 男は飛んだ。重力に抗い優雅に飛行する。荒れ狂う気流の中で、その口だけがこう言っていた。

 ――御身の存在を希望とし、我々も『対なる予言』を蹴散らせて見せましょう。我々はいかなる苦難があろうとも決して諦めません。一族揃って滅びの運命を受け入れるつもりはないのです

 紅い月面にぽつんと浮かんだ黒点が、吸い込まれるように消える。


 そして、

 新たなる来訪者が、彼の元へ近づいてくる。

 牙を鳴らし、ぬかるんだ大地を駆け抜けて。

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