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第一話 落下

 外から漏れ入ってくる篠突く雨の轟音が、窓を通り越して室内に響く。既に日は沈んでいる。開けっ放しのカーテン。差し込むはずの星明りは、天を覆う分厚い雨雲に阻まれており、その代わりに、遠く離れた繁華街の光が申し訳程度に室内を照らしている。しかし、薄暗いそこには目につく家具類がほとんどない。パソコンの乗ったデスクに、青を基調とした寝具のみである。壁掛け時計すらないのは、一体全体どういう事だろう。家主も、これでは少し飾り気がないと思ったのだろうか。部屋の隅に腰の位置に届くかという背丈の観葉植物が置かれていた。ただそれでも、室内に充満する寂しさを完全には拭えてはいなかった。何一つ動かない室内は、まるで時が止まっているようだ。

 ガ……チャリ

 そんな間延びした音と共に、玄関のドアの輪郭が、黄色く浮き彫りになってゆく。半分ほどドアが開き、その隙間から一人の青年が玄関へ倒れ込んだ。髪も、学校指定のブレザーも、手提げの鞄までびしょ濡れだ。この豪雨の中、傘も差さずに帰ってきたようだった。前髪から水滴を垂らしながら彼は俯く。その身体は小刻みに震えていた。

 彼は立ち上がると、おぼつかない足取りでリビングを目指す。

 途中、渦巻く激情に耐えかねるように、力一杯壁を殴りつけた。しかし拳から伝わる振動は、彼の心に響くことはない。そもそも彼に心などあるのだろうか。そう思ってしまえるほどに、彼の目からは生気が感じられなかった。その口は虚ろに開かれている。天井の蛍光灯が光を灯すと、元より殺風景な室内は隅々まで明るくなった。ずるずると引きずる足が止まった。着替えもせず、シーツが濡れることもいとわず、ベッドへ力尽きたように倒れ込む。

 しかし十秒も過ぎぬうちに彼は跳ね上がった。そして、猛烈な勢いで寝具を何度も何度も殴り始めた。スプリングが軋む。無駄なことだとは重々承知の上で、それでも、何かに当たらずにはいられなかった。あまりに激しいその乱舞に、身体に付着していた水滴が部屋中に振り飛ばされる。枕が宙を舞い、壁に当たってどこか抜けた音を出す。彼は荒い息を押さえようともせずに、まるで獣のようなうなり声を上げると、近くにあったデスクを蹴り飛ばした。けたたましい音が反響する。黒塗りのコードに巻き付かれたパソコンが、裏返しに床に横たわっていた。それを見た彼の瞳孔が、すうっと、広がった。

 彼はパソコンを勢いよく踏みつけた。ミシミシッという音がする。

「こんな、物さえ、なければ……」

 無機質な白い明かりの下、絶望の権化と化した彼は、キッチンへと歩みを進める。足がもつれそうになっても、彼は構わず進んでゆく。

 彼はこの感情を何かにぶつけたかった。

 彼が吸い込まれるように見たものは、台に立てかけてあった包丁だった。彼の口角が歪にひしゃげ、唇の隙間から笑い声がこぼれた。残忍な笑みだった。彼は躊躇わずそれを抜き取ると、ぎゅうっと握りしめた。全ての細胞が外界の刺激を受け付けない中、茶色い木製の柄が返す反発力だけが、彼の全てだった。右目の前に張り付いていた湿った前髪を鬱陶しげに掻き上げると、なぜか彼は穴の開くほどその刀身を観察し(刃先には何か赤黒いモノがこびり付いていた)、満足そうに頷くとまたもや奇怪に肩を震わせて笑う。武器と呼べるものを持ったことで、何かに対する優越感でも感じているのだろうか。それとも、太古の昔に存在していた野人の血? 遺伝子が歓喜に震えているとでもいうのか。どちらにせよ、気味が悪いことこの上ない。

 彼は部屋を見渡す。眼球が、獲物を求めて上下左右に動いた。視界に捉えられたものは、先ほど投げられて壁面近くに転がっている青い枕。彼は獰猛な笑みを浮かべると、動かぬ獲物へと飛びかかった。ざくっと一刺し。さらに彼は手の中で刃物をくるくる回転させると、頭の上で、両手で逆手にがっしりと柄を包み込んで、再び振り下ろす。

 彼はいつしか口を開いていた。

「てめぇのせいだっ! てめぇが昨日泣きついたせいで、あの人は無益に死んだんだよっ! なんで耐えきれなかった! なんであの人をこの町に呼んだんだ!」

 傍目から見ても、『異常』それ以外には言い表せない。彼は、尚も世迷い言を枕へと吐き出し続ける。その目は充血し、顎からは涎がしたたる。鉛色の刀身で幾度となく刺された被害者は既に原型を留めておらず、血の代わりに飛び出した白色の羽毛だけが、さも楽しそうに彼の周りを演舞する。

 がっ

 遂に、枕を貫通した切っ先が艶やかなフローリングを削った。

 彼の動きがびたりと止まる。何一つ動かない。追随するように、羽毛は全て床に落ちてしまった。そうだ。彼が止まれば全てが止まる。例え時間でさえも例外ではない。

 実質、彼はこの部屋の支配者だった。止めることも動かすことも自在だった。

 ただ一つ、巻き戻すことは不可能だったけれども。

 ぽたっ……ぽたっ……と、枕が濡れる。その水滴の軌跡を辿れば、もはや何の光も返しはしない、あまりに黒い瞳があった。彼は徐に包丁を引き抜くと、床にごろんと仰向けになった。視界の先には濃淡のない白い天井が広がる。目端から、雫が垂れてゆく。ひくっひくっとむせび泣くその顔は、一分前の醜悪な顔からは想像も出来ないほどに幼かった。ここまで来れば、先ほどの奇行の理由が見えてくる。枕を何に見立てていたのかも、誰に向けて罵詈雑言を浴びせていたのかも。

「戻ってきてくれよ、なあ」

 彼は突然身体を強張らせたかと思うと、虚空の眼内に怒りの炎を宿して、天井…いやその先にあるはずのものへと、手にしていた包丁を投げつけた。鋭く回転する刃物は、しかし天井に阻まれてそれには届かない。物理法則に従って落下してきた包丁が、カランと乾いた音をこだまさせる。またもや、羽毛が舞った。

「ふっざけんな! てめぇにはっ……言いたいことが山ほどあるんだ! お空の上でふん反り返ってないで、いっ……いい加減出てっ……こいよ卑怯者! なんであの人がこんな目に遭わなくちゃだったんだよ! なんでっ、なんであの人だったんだよ! 答えろ、どうしてだっ!!」

 彼は、天に向かって声の限り絶叫する。カッと見開かれた眼。ぎりぎりと音を立てる両対の歯。その表情は、対象への並々ならぬ憤怒を感じさせた。何かを吐き出そうとして、しかし吐き出せなかった彼は、再度虚ろに笑うと、操り人形よろしく不気味に起きあがった。その右手には、やはり包丁が握られている。重心の定まらない首が、振り子のように揺れながら部屋全体を見渡す。彼は、次なる獲物を探しているのだ。しかし元々家具類の異様に少ないこの室内は、彼の望みを叶えるはずもなく……。彼は苛立ち交じりに床を刺した。そこで気付く。紺色のブレザーに包まれた役立たずの双腕が、目の前でいかにも当然とばかりに脈打っている様子に。めくられてゆく左の袖の下には、数多の傷跡が生々しく残っていた。包丁の赤黒い汚れはこびり付いた血だったのだ。どうやら彼は、日常的に自傷行為を行っていたようだった。

 彼の瞳にどす黒い何かが溢れ出す。そして、素早い動きで振り上げた包丁の切っ先を、その柔らかな左腕に、微塵も躊躇せずに突き刺した。「あぐっ」という苦悶の表情の中にも、どこか甘美めいたものを受け取る彼の精神は、やはり普通ではない。いや、そうすることにより、自らを罰している気分にでも浸っているのだろうか。次第に加速してくる呼吸音。彼は、まだまだ足りないとばかりに右腕に力を込めた。ぐりぐりと、ほじくるようにして、刃は進む。その刃が骨に当たるとガリガリッと、進行を止めてしまう。溢れる赤い液体が、腕を伝って床に垂れてゆく。錆びた鉄のような馴染みの匂いが鼻孔を付いた。

 ここに来て、彼の五感はその痛みゆえに、並の鋭さを取り戻すに至る。右耳の方へ響くこの音は恐らく、隣の住人からの警告音。分かる。やつは壁の向こうで顔をしかめて「迷惑だ」と言っている。己の肩が上下する度に、不定期な息づかいが嫌でも聞こえた。今思えば、先ほどからチャイム音が鳴りっぱなしだった。誰だ? ああ、五月蠅い。皆、五月蠅い。いっそのこと殺してしまおうか。彼は、腹の底から煮えたぎるような殺気がわき上がるのを、傍観の眼差しで眺めていた。もうどうでもいいのだ。全てを壊してしまいたい。彼の心は虫食い穴だらけだ。ここ半年、彼の傷を埋めてくれていた彼女は、彼自身の愚鈍な行為によりこの世を去ってしまった。あの時自分が引き返していれば、彼女は今頃……。

 自責の念は、沼の如く口を広げて彼を飲み込もうとする。しかし幸か不幸か、彼女の名に反応して、脳内に彼女に関連する記憶が展開されてゆく。まさしく走馬燈のように。

「自業自得、か…」

 鮮やかに浮かび上がった彼女の可愛らしくも華やかな微笑みに、破壊の衝動は容易く奥底へと押し込まれる。彼自身も、釣られて穏やかな笑みを溢した(やはり幼い)。震える唇で彼女の名を呼んだ。

 どれほど時が経っただろうか。ふと、彼の表情が苦痛に歪んだ。下を向けば、辺り一面が血だまりと化していた。随分と長い間、追慕の念にかられていたらしい。それを認識するやいなや、脳裏に浮かぶ少女の姿がかすれ始めた。出血多量、頭に詰まったみそは、彼女の像を結ぶことすらままならない。細胞という細胞が抜け落ちてゆく感覚。彼にとって、それはもはや事務的な事象とすら思える。身体の末端から波のように、スイッチがオフへと切り替わってゆく。

 このまま自分は無くなるのだろう。けれど、これでは……。

 無情にも薄れてゆく彼女の姿が、彼の中に『眠っていた何か』をかき立てた。思い出は刻一刻と消えてゆく。このままここで冷たくなる事を許可すれば、自分の迎える最後に、彼女の笑みは存在しない。独りだ。何ものからも隔絶された暗い意識の檻に捕らわれて、最後に相対するのが自分自身なんて、耐え切れるはずがない。散々な人生だったが、せめて最後くらいは彼女と共に眠りたい…。

 蒼白な顔で立ち上がる彼の右手から、包丁が滑り落ちた。血の海に微かに波紋が広がった。紅色の刀身が、別れを惜しむように怪しげにくるくると回転する。血を滴らせつつ彼が向かう最後の場所は、大空。眠りに着こうとする身体に鞭打ち、彼は窓を開けベランダへと足を踏み入れる。彼は、最後に見た自身に思わず吹き出した。窓に映った彼の顔には、ようやく休めると、あどけなき安堵の表情が浮かんでいた。

 ――ああ。気張ってたのかもな、俺

 もはや、何の未練もなくなった、この大きな世界を見渡す。ここはマンションの二十一階。吹き荒れる暴風が彼を部屋へと押し戻そうとするが、彼の足取りはもう揺らがない。空が泣いているかのようだった。土砂降りの雨が、彼の双肩を容赦なく、しかし、ただ無意味に叩いてゆく。瞳を染める漆黒は、前方の景色か、それとも彼の内側が透けて見えているのか。

 彼は、場違いなほどに愉快だった。不思議な気持ちだった。社会に繋縛されていた身が、久々の新鮮な空気に諸手を挙げて震えていた。左腕の血は既に止まっている。数分もすれば、カウントダウンは0となり彼の時間は永久に停止するはずだ。しかし、彼はそれを待たなかった。欄干に身体が乗り上がる。空の彼方を見上げる彼は、目元を笑わせながらしゃがれた声で言った。

「      」

 それが最後の言葉だった。

 次の瞬間、二十一階のとある一室は完全に無人と化した。彼の身体が大気の中を鉛直に滑空する。胃の辺りに覚える浮遊感。後方へと流れてゆく景色を尻目に、彼は最後の思索にふける。自分はこの後、どこへゆくのだろう。思えば、死後のことなど考えもしなかった。いや、それでいいのだ。彼の終わりが、実体をもって迫ってくる。不釣り合いな事はしなくて結構。彼は、すうっと目をつむった。

 どさっ

 その音は、篠突く雨音にかき消されてしまっていた。雨は天井知らずにますます強くなる。季節外れの台風なのだろうか。主を失った室内では、開け放たれた窓より、湿り気を帯びた風が吹き込み暴れる。それに巻き込まれたカーテンが、ばたばたとはためく。視線を向ければ、室内で奇怪な現象が起きていた。風のせいだと思いたい。あでやかに光る紅色が、なぜか未だに、部屋の中心で哀しげに回り続けていた。



 全ては忘れ去られてゆく。

 時間の奔流が、人々の頭から記憶をぬぐい去ってゆく。

 古今東西、様々な思想がぶつかり合ってきた。

 死後、我々はいったいどこへ向かうのだろうか、と。

 彼の第二の人生が、全ての人間に普遍的に当てはまるとは思えない。

 だが、確かな一例がここにある。

 こうして楠木奈々人の、贖罪の旅は幕を開けることとなる。

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