001 消滅へ向かう世界 (上)
1 消滅へ向かう世界(上)
時計を見なければ、時刻を推し量ることの難しい空間とは、常に変化のない薄暗さが保たれている場所のことだろう。
机の上に置かれているランタンは、褐色の明かりを仄かに放っているのみ。
この部屋にとってそれは、一日中、いや、数ヶ月もの間、変化していないことだ。
クロリアは、そんな閉塞的な部屋の奥で、シュデイアの帰りを待ち続けていた。
「あっ!!」
時計の針が午前零時を指した時、部屋の扉が開く音がした。
だから振り返った。その先では、毎夜そうであるように、シュデイアが立っていた。
優雅な立居振舞と大人の雰囲気を兼ね備えるその人は、僕を必要としてくれる人。
「シュデイア、おかえりなさい!!」
クロリアは、机の上で開いていた日記帳を閉じると、それを手にしたまま椅子から立ち上がって駆け出す。
後はもう勢いに任せてシュデイアへ飛び付いていた。
「ただいま、クロリア」
見上げた先には、銀の短髪と金色の瞳……、シュデイアがいた。
微笑みこそ表立って浮かべないその人だが、それでも何故だろう。
不思議なことにシュデイアの機嫌が良いことも分かってしまうのだ。
いつも、それが嬉しくて。
「……おや?」
シュデイアがクロリアと視線を合わせた後、クロリアが持っている日記帳へ目線を落としていた。
「あっ……」
クロリアは、シュデイアから少し離れると、両手を背中へ回して日記帳を隠す。
それを終始見ていたシュデイアが、クロリアの顔を伺うようにじっと覗き込む。
「日記を付けているのかい?」
「…………、うん」
即答することに戸惑った。
でも、シュデイアに瞳を見入られると視線を反らせない。
だから黙り込むことが出来ず、こくりと頷いてしまったのだ。
「知らなかったよ。オレに出会う前から?」
「シュデイア……、怒ってない?」
シュデイアは、日記というものが嫌いだ。
彼を問い質したことはないが好きである筈がない。
如何してって?シュデイアは過去に興味がない。
すぐに忘れてしまうような過去には執着がないのだ。
だが、日記というものは、そんな他愛のない過ぎた日常を書き留める手段。
それを分かっているクロリアが日記を付けていることを、シュデイアは快く思わないのではないか……、そう思ったから。
「怒るほど興味がないよ」
その通りだった。
クロリアは、心の何処かで怒られることを期待していたのかもしれない。
興味を持ってくれなくとも、いや、怒るということは無関心では引き起こされない。
だから、日記を読みたいなどと言ってくれなくてもいい、シュデイアに怒られたかった。
でも、
「書き記したとしても忘れてしまうことだろう?」
シュデイアは、これっぽっちも興味を抱かなかった。
クロリアは、これ以上その事実を突き付けられるのが怖くて、シュデイアとの会話の内容を別のものへ早々と変えようとする。
「ねぇ、シュデイア。明日は……」
「そうだった。明日は日付の変わる頃までに戻れない」
「え?」
クロリアは、驚きの声を素直に漏らしてしまった。
シュデイアがそんなことを言い出すのは初めてのことだったから。
彼と出会い、この部屋で一日を過ごすようになってから、既に数ヶ月が経過しているけれど、その間、一度だってなかった。
「でも、必ず君の元に戻るよ」
何故だろう……、その言葉は嘘のように感じられた。
彼の表情も言葉も、いつもの優しさが篭っていたのに。
それなのに、クロリアには視線が合っただけで分かってしまった。
シュデイアの瞳が自分を気遣うために不安にさせないために、そんな言葉になった。そんな風に告げているような気がしたから。
そこまで覚ってしまっていたのに込み上げる感情は抑えられなかった。
「僕を……、独りにしないでね?」
クロリアは、小指をちらりと見せる。
するとシュデイアが、その小指に自身の小指を繋いでくれた。
「約束だよ?」
クロリアのその言葉に、シュデイアが頷いてくれた。
いつもの彼がそうであるように。優しく穏やかに包み込むように。
シュデイアと約束を交わした同日、夜が再び遣って来た刻の頃のことだ。
クロリアは、この年の最後の夜、戦争は何時終わるのだろう?
戦争は何時になったらシュデイアを返してくれるのだろう?
そんな悶々とした自問自答を、紙の上で万年筆を走らせながら繰り返していた。
部屋の机に向かったままの体勢を崩すことなく、そんな内容の日記を付けている。
だがそれは、昨日の今頃と何も変わらない、この部屋の姿だ。
只一つ大きく異なっているのは、今日の日記に、“Happy birthday to you”と付け足したこと。
何故なら、年の暮れの今夜、年が明けた時には、シュデイアの生まれた日が遣って来るのだから。
そこまで書き終えると、日記を閉じる。
それとほぼ同時に、部屋の扉が開いていく音を聞いた。
クロリアは、日記帳を手にしたまま、その扉へ向かって走り出していた。
「シュデイア、お誕生日おめでとう!!」
部屋の扉が半分まで開き切った時のことだ。
クロリアは、そこで始めて気付かされる。
部屋の前にシュデイアがいないということを。
その代わりに別の誰かが立っているということを。
その誰かは、クロリアが全く知らないひとだった。
「……誰?」
今、目の前に立っているのは、一人の成人女性だ。
シュデイアよりも長身で、その場で思わず見上げてしまった。
碧色の海のような煌びやかな髪を、腰元まで伸ばしている女性。
彼女は、クロリアの顔が良く見える位置まで腰を落としてくれた。
すると、彼女はそっと微笑んだ後、クロリアと再び視線を合わせる。
「はじめまして、クロリア」
「初め……、まして」
……誰なの?
クロリアの脳裏に、そう過ぎった後、ただ呆然と立ち尽くしてしまった。
無理もない。見ず知らずの女性が、そこに立っていて、しかも自分の名前を知っているのだから。
クロリアは、驚きが隠せず両目を見開いたままになっていたが、その時、
「シュデイアは、もう此処には戻らない」
目の前の女性は、クロリアが最も恐れていたことを口にしたのだ。
クロリアは、つい数秒前まで保っていた表情を、たった一瞬で失ってしまう。
「え……、お姉さん、何を言っているのか分からない……」
クロリアには、分からないと言ってしまう方が楽で簡単なことだった。
そうだろう? 知りたくもないことを知らされてしまうくらいなら、いっそ理解など……、そう出来たなら、どれだけ楽だろう。
だが、クロリアは、そんな現実逃避など通用しないことを先に理解してしまっている。
だとしたら、出来ることは一つしかない。
彼女の言うことが事実なのか、そうではないのか、突き止めるしかない。
「どうして……、お姉さんは、そんなことを言うの?」
「……クロリア」
「僕の部屋へ突然遣って来て、一体何を……」
「あなた、彼の本当の名前を知っているのかしら?」
「え……?」
シュデイアの本当の名前?
彼女は一体、先程から何を立て続けに言っているのだろう。
「僕、本当にあなたの言っていることが……」
「シュデイアは、本当にシュデイアなのかしら……、そうなの?うふふ」
「お前、何を……」
妖しく微笑むこの女に苛立ちを覚え始めていた頃だった。
この女は、これ以上のことを、まだ僕に向かって言うつもりなのか?
クロリアは、その現状に耐えられなくなって、苦虫を噛み締めるような思いで吐き捨てる。
「名前なんか関係ない、シュデイアはシュデイアだ」
そう、シュデイアはシュデイア。彼は僕を助けてくれたひと。
たった今、この時、この部屋の外の何処かで、誰かが血を流していたとしても、だ。
それを引き起こしている張本人が、シュデイアだったとしても、だ。
「僕が彼に救われた事実だけは、何があっても変わらない」
「そう……、ふふふふふ」
「何がおかしい?!」
気が付けば、既に喉元を通り過ぎて叫び終えていた後。
クロリアが呼吸を整え終わった後も、女は笑い続けていた。
だが、その耳障りな笑い声も静まり、彼女と再び視線が合う。
クロリアは、怯むことなく鋭く睨み付けると、声を張り上げて叫ぶ。
「何がおかしいのか、言えるものなら言ってみろ!!」
「あなたにとっても……、名前はそういうものだったのね」
彼女の言っていることが、さらに分からなくなる。
だが、今度は現実から逃げたいからではなく、本当に何を言っているのか理解し兼ねたのだ。
そんなクロリアへ、彼女は何の躊躇いもなく言い放つ。
「シュデイアとクロリア。二人共、必要とされなかった名前を捨てた」
「……!?」
「あなたの本当の名前は、クロリアなんかじゃない」
「違う、僕は……」
「そうでしょう? トロメリア王子」
「…………」
クロリアには、直ぐに言い返せる言葉が見つからなかった。
言い返すことなど出来るはずもない……、何故なら、それは……、目の前の女が、たった今、言い放ったことは、変えられない事実だったから。
クロリアが黙り込み続けていると、女は「うふふ」と笑みを浮かべた後、
「トロメリア・グリフォン・サン。父親はサン族の王・パグロ。今こうして、わらわとあなたがお話をしている間にも、シュデイアと殺し合っているかもしれない男の王子があなた」
「あの男の名前を口にするな?!」
「そうね、無理もないわ。だって、あなたは実の父親から愛されなかったもの。サン族の昼の王の子でありながら、夜の住人の証である夜色の髪を宿して生まれたあなたは、生まれて間もない頃に水牢へ幽閉された。その14年後、敵地へ人質として差し出されて……」
「黙れ……、お前に僕の何が……」
「くすくす。さぁ」
女の顔が、とても冷酷なものへと変わっていた。
少なくとも、この時のクロリアには、そのようにしか映っていない。
ひととしての感情へ何の配慮もしない、そんな残酷な笑み。
「敵将のシュデイアは、そんな不憫なあなたを救ってくれたそうね。でも、本当にそうだったのかしら。彼の真実を知りたいとは思わない?」
「…………お前」
「シュデイアの本当の名前が、それを教えてくれるわ」
「これ以上喋ると、僕はお前に何をするか分からない」
「ナタタ・クロウ」
「……は?」
「シュデイアの本当の名前よ」
クロリアが手にしていた日記帳を床に落とす。
とうとう、この女の何もかもが分からなくなったからだ。
この女だけじゃない……、シュデイアのことも、だ。
「ナタタ・クロウ」という名前を聞いたその瞬間に、だ。
クロリアは、何もかもが信じられなくなると、この女は嘘を言っているんだ、きっとそうであるに違いないと、それだけを信じようとしていた。
もし、それさえも、信じるに値しないことだとしたら、僕はもう何を信じて生きていけばいいか分からない。
シュデイアが、「ナタタ・クロウ」だって? そんなことが、ある筈がないじゃないか。
だって、ナタタ・クロウは、もう……、
「嘘だ……、嘘だって言えよ?!」
「ごめんなさいね、本当なのよ。くすくす」
「ナタタ・クロウは、数十年も昔に死んでいる?! だから、シュデイアがナタタである筈がない!!」
ナタタ・クロウとは、烏の半獣人・クロウ族の王、ナナタ・クロウの双子の弟のことだ。
その弟が身に宿していた異質な死の力を欲して誘拐したのがシュデイアなんだ。
だから、そのシュデイアがナタタであるなどと言うことは……、在り得ないことだろう?
それに、ナタタがクロウ族の城があるスカイランド王国からシュデイアに攫われた時には、ナタタは既に死んでいたはず。
だって、シュデイア本人がそう言っていたもの……、クロウ族は、ナタタの力をシュデイアへ渡さない為に、ナタタを同族内で殺めた後、その死体を誘拐させたのだと。
もう、僕には何が一体如何なっているのか分からない……、
「如何言うこと……、なんだ……、一体……、何で」
「彼に会わせてあげる」
女は、クロリアが落とした日記帳を拾えない間に、自分の額をクロリアの額と合わせ終えていた。
その瞬間、クロリアの目の前で突如眩しい光が散る。
クロリアは、その時、思わず瞼を閉じてしまった。
その直後、クロリアと女は、額を合わせ合ったまま光の先へ消えていった。
「ん……」
目が覚めて最初に捉えたのは、僅かな明かりのなかで、じっとりとそこにいる暗闇だった。
クロリアは、ゆっくりと身体を起こすと目を擦りながら天井を見上げる。
それでも、先程の女と額を合わせた後のことが思い出せない。
それとも、此処でずっと気を失っていたのだろうか……、その間に、この暗い部屋へ連れて来られたのかもしれない。
「此処……、何処だろう?」
この部屋にも窓がない。
家具といった家具さえ一つも見当たらない閉塞的な部屋だが、部屋の床には、血のような赤で禍々しい魔法陣が描かれている。
「あれは……?」
もう一度、目を凝らしながら其処を注視する。
それでも、その場所には誰かが横たわっているままだ。
見間違えではないと自覚した時、もう一つ何かを理解してしまっていた。
「……シュデイア?」
クロリアが彼の名を呼ぶが、横たわっている者から言葉はない。
それは、クロリアの中に絶望感を沸かせるには充分過ぎた。
クロリアは、その後、現実を突きつけられることが恐ろしかったが、同時にそれを確認しなければならないという衝動にも襲われていた。
だから、シュデイアへそっと近付くと、彼の隣に腰を落とす。
クロリアは、眠っているように瞳を閉じているシュデイアの肩を片手で揺すってみるが、それはもう何かを覚った後のことだった。
クロリアは、じわりと増えてゆく心拍数に対して、呼吸を整えて抑え込もうと試みるが、血の気が完全に引いたシュデイアの顔の目前では、何処までも無意味な行為だった。
「死んでいる」
クロリアは、既に体温を失っている彼の頬を両手で撫でた。
クロリアの両瞼の奥底から、熱を帯びたものが頬に零れ落ちると、背後で気配を潜ませていた女が、クロリアへ真実を告げる。
「驚くことないわ。それは初めから死んでいるの」
クロリアが絶句している間にも、彼女がさらに一言付け加える。
「あなたがシュデイアと出会った時から、彼は死んでいた」
「………………」
「シュデイアは、ナタタ・クロウを連れ去った後、ナタタに殺されている」
「ナタタ……」
「ナタタは、シュデイアの肉体を乗っ取った後、実兄であるナナタやクロウ族へ復讐を遂げる為、シュデイアとして戦乱を引き起こした」
クロリアは、シュデイアの頬から手のひらを放す。
そして、もう死んでいるシュデイアの身体を眺め続けていると、自分自身の顔が音もなく、ぐねりと歪んでいくのが感じられた。
「僕は……、死人に救いを求めていたってことか」
「トロメリア王子」
女にそう呼ばれて、クロリアが両目を見開いた。
そして、彼女へ激しい口調で跳ね返す。
「僕はクロリアだ?! ナタタだってシュデイアなのだから!!」
「でも……、本当はナタタなのよ。それにあなたも」
「僕はクロリアだ!!」
クロリアは、両手で頭を抱え込むと、左右に振り散らしながら叫び声を上げた。
そんな彼を、目の前の女は、何の動揺も浮かんではいない瞳で見ているだけ。
そして、残酷な言葉ばかりを並べていくことを、決してやめようとなどしない。
「そう……、あなたも、ナタタを必要としないのね」
「僕が必要としてきたのはシュデイアだ!!」
「あなたが必要としたのは、シュデイアでナタタではないから?」
「ナタタなんて、僕は知らない……」
「だから、ナタタのことは如何でも良いと言うのね?」
「だったら何がいけないって言うんだ?!」
「いけなくなんてないわ」
「………、え?」
「本当に如何でも良いなら、あなたも今すぐ消えてしまえばいいのよ」
クロリアは、目の前の女の冷たい声で一気に血の気が引いてしまうと、今の今まで血が昇っていた頭が急激に冷めていく。
「……僕が、消える?」
「あなたの生きている意味そのものだったシュデイアは、もう死んでいる」
その通りだ。
シュデイアは、クロリアの目の前で死んでいる。
僕の元へ帰ってくると約束したのに。指切りだってしたのに。
「シュデイアは、僕を独りにしないって……、約束してくれたんだ」
それなのに、彼は約束を破った。
最初から、彼に守れる約束ではなかったのだ。
「シュデイア」などという人物は、最初から存在しなかったのだから。
クロリアが必要としたその人は、既に死していた存在だったのだから。
「生きる希望を失った今、あなたが生きている意味なんてないじゃない」
目の前の女は、冷たい微笑を浮かべたまま囁いた。
だが、クロリアは、感情が高ぶって取り乱した後に黙り込んでしまっていた。
「それとも」
黙り続けているクロリアへ、女の言葉は止まらない。
「迷っているの?」
「……そうかも知れない」
クロリアは、死体になっているシュデイアを眺めながら、彼に対する愛情と憎悪の両方を、その瞳に浮かべて揺らしていた。
多くの相反する感情が、このまま生きるべきか死ぬべきか、それを躊躇わせていた。
「でも、クロリア。あなたには、まだ時間が残されている」
「……時間?」
「今のあなたに、ナタタが如何でも良い人かどうか完全に決めてしまうことなど出来はしないのよ」
クロリアは、女の言葉に頷きこそしなかったが、心の中では、そうかも知れないと相槌を打っていた。
「あなたが決断を出せるようになるまで、わらわが記憶を預かるわ」
「記憶を……?」
「あなたから、ナタタのこと……、それに、シュデイアが死んでいることを忘れさせるだけよ」
女は、シュデイアの隣で座り込んでいるクロリアへ近付くと、その場で腰を落とした後、クロリアの額を自身の額と合わせた。
すると、クロリアは、突如現れた眩しい光によって瞼を閉じてしまう。
クロリアは、シュデイアの死の記憶を手放したことさえも手放してしまうと、自身の意識も何処かへ飛ばしてしまった。
クロリアが意識を取り戻した頃には、あの女の姿がなくなっていた。
だが、その彼女の代わりに、あの女と全く同じ髪と瞳の色で、亀の甲羅を肩に背負っている少年の顔が直ぐ傍にあった。
「きみ……、誰?」
クロリアは、あの女に似ている少年を、目を丸めて凝視してしまう。
その少年は、クロリアから額を離すと、落ち着きを払った声で話し始める。
「わしは、ライア」
「ライア……」
「アキの分身じゃ」
「アキ? 分身って??」
「ぬ??」
「……っていうかぁ」
クロリアは、ライアと名乗った亀のような少年をじぃーっと見つめたまま、率直に思ったことを口にする。
「ただの亀じゃないかぁ」
「わしは、断じて亀ではないのじゃあっ?!」
ライアは、クロリアに亀呼ばわりされると大声で言い返して否定した。
だが、そのライアの必死な否定は、クロリアに微塵も伝わらなかった。
だって……、如何見ても亀みたいだぞ、お前。
「ねぇ、お亀~……、お前は此処が何処なのか分かるのかぁ?」
「か、亀ではないとっ……!!」
「お前のことは、どうでもいいから、僕の質問に答えろよなぁ」
「ぬぅ~~~~~!!」
「お前と似ている変な女が、シュデイアと会わせてくれるって……、その後、その女と額を合わせたら、光に包まれたんだけどさぁ~」
「そこからの記憶が、はっきりせぬのか?」
「そうなんだよぉ~」
「この部屋に死体があったことも忘れておるのじゃな?」
「えっ、死体……、そんな物騒なものがこの部屋にあったの?!」
クロリアは、部屋中を見回してみるが、そんなものは何処にもなかった。
「亀ぇ、お前、驚かせるなよぉ」
「ぬ……、すまぬ。しかしこれで、わしも状況を把握したぞ」
「って、一人で把握するなよぉ~……、僕にも説明しろよなぁ!!」
ライアは、少し前から斜め後ろの壁を睨み付けていた。
まるでそこに誰かいるかのように。でも、誰もいやしない。
いるはずかない。この部屋にはクロリアとライアしかいない。
そのはずなのに、ライアは此処にいるはずのない誰かとアイコンタクトでも取り合っているかのような様子だったのだ。
クロリアは、それが気になったから本人へ単刀直入に聞いてみることにする。
「お前、さっきから何を見ているんだ?」
「いや、何でもないぞ。クロリアよ」
「あれ……、何で僕の名前を知っているだよぉ??」
これには首を傾げながら目を細めてしまう他なかった。
あの変な女と言い、こいつと言い、何で僕のことを知っているんだ?
「それも、説明すると面倒なことにだのう……、ぬぅ……、あの女、アキは、忘却の神と言ってのう」
「……なんだぁ、それぇ?」
いきなり神とか言われてもなぁ、というのが率直な感想だった。
でも、今のライアの発言で、あの女がアキという名前だということは分かった。
さらにライアは、アキのこと、そして自分自身のことを、簡単にだが話してくれた。
「人から記憶を奪うと、アキ自身が分身を生むのじゃ。記憶の器をのう」
「もしかして……、お前がその分身で器なのかぁ?」
「おぉ、そうじゃ!!」
「え、マジかよぉ……」
適当に言ってみただけなのに、それが当たっていた時ほど反応に困ってしまうというのは、今の状況を言うのかもしれない。
「僕には、何だか良く分からないけど」
「クロリア。今は分かりやすく説明しておる時間など……」
「でも、シュデイアに会えたら、それでいいや!!」
そう、あの女・アキは、シュデイアに会わせてくれると言った。
そして、このライアは、そのアキの分身なのだ。
だったら話が早そうじゃないか。
「なぁ、ライア。シュデイアに早く会わせてくれよぉ!!」
「ぬぅ……」
クロリアからシュデイアの名前が出た直後、ライアが眉間に皺を作った。
如何してだろう?でも、そんなこと構うものか。
クロリアは、ライアのことなど御構いなく、彼との会話と続ける。
「今日はね~、シュデイアの誕生日なんだ!!」
「……ほぅ」
「プレゼントは悩んだけれど……、僕の日記を贈ることにしたんだ」
「何故、日記なのじゃ?」
「だって、シュデイアは直ぐ忘れちゃうんだ」
「あの男は、そういう宿命にあるしのう……」
「え?」
「いや。話しておきたいことは、今言っておくが良いぞ」
「僕がシュデイアと一緒に過ごして楽しかったこと嬉しかったこと……、その全てを彼が忘れてしまっても思い出せるように日記にしたんだ」
「……そうか。」
「うんっ!!」
クロリアは、ライアに対して、初めて笑顔を見せていた。
ライアは、その直後にクロリアへ背を向けると、また斜め後ろの壁を睨み始めたが、やはりそこには誰もいない。
「心底恨むぞ、アキ」
聞き取りにくかったが、誰もいない壁へ向かって、ライアがそう呟いたような気がした。
「面倒なことを押し付けおって……、仕方ない。行くかのう、クロリア」
「シュデイアの所? うんうん、行く行く!! ……って、あれれ??」
クロリアは、その時、初めて気付いた。
「日記がない」
そう、自室の床に日記を落としたまま拾っていなかったことを思い出したのだ。
「元の部屋に日記を置いてきちゃったよぉ!!」
「何? しかし今は、この世界から脱出することの方が先じゃ」
「脱出? シュデイアは此処にいるんだろ??」
「此処で会わずとも、百年後で会うことになるがのう」
「はぁ?? お前、いきなり何を言い出すんだよぉ」
クロリアにとって、ライアのその発言が唐突過ぎた為、間に受けることもなければ、真剣に取り合うこともしなかった。
だが、ライアの方は、今はそれ所ではないと口煩く言い始めると、クロリアの右手首を強く掴んで、後はもう急ぎ足で駆け出していた。