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 目を開ける。

 一言二言、誰かと会話する。

 しばらくすると頭が痛くてたまらなくて、体中ぎしぎし痛くてまぶたを閉じる。

 うっすらと見えたのは見慣れた天井だったような気もするけれど、それがどこかなんて考える事も出来ないほど頭が割れそうな位痛い。

 体が熱い。

 自分の吐く息が熱くて体の上にかかる布団を払いのけたいけれど、腕も体も思うようには動かない。

 私の体、どうなっちゃったんだろう。

 痛い。熱い。息苦しい。

 助けて、辛いよ。

 体がバラバラになってしまいそう。

 口に出しているはずの声は言葉にならず、呻き声のような醜い不快な声が耳に入る。

 体を伸ばしたり縮めたり、のた打ち回るように狭いベッドの上を動き回り、この痛みが消え去るのを待つ。

 けれど、痛みは消えない。あまりの痛みに、もう抵抗する力も残っていない。

 意識がすーっと遠のいていき、痛みも徐々に引いていく。


 ごめんな。

 ごめんね。


 重なり合うように響く、二つの声。

 何で謝るの。

 私はウィズにもレツにも、謝られるようなことは何もされていないのに。

 二人とも、どうして謝るの。

 その疑問に答える声は聞こえてこない。

 何度も何度も、謝罪の声だけが繰り返される。



 ウィズ。

 祭宮カイ・ウィズラール殿下。

 あなたは何で謝るの。

 謝罪の言葉よりも、もっと聞きたい言葉があるの。

 もう一度言って、あの言葉を。

 成長して帰ってこいと、あの日言った言葉を。

 私はやっぱり、あなたには必要のない人間だったの。

 私を巫女にする為に、あの言葉を言ったの?

 謝罪なんて欲しくないよ。



 レツ。

 この世でただ一人だけの水竜。

 どうして謝るの。

 いつもみたいに笑ってよ。

 意地悪な事を言ったって構わないから。

 そんな風に哀しそうな顔をしないで。

 私、レツの笑った顔が一番好きなの。




 何度か目を覚ましては眠り、体の中の熱が少しずつ遠ざかっていき、ようやく体を起こす事が出来るようになる。

 ゆっくりと体を起こすと、数人の神官たちと女官が心配そうな顔で覗き込む。

「お加減はいかがですか」

 いつもと変わらない調子で静かに話しかけるシレルに笑いかける。

「もう大丈夫です」

 声が擦れて裏返る。まるで自分の声じゃないみたいな、変な声が出る。

 それをシレルは全く気にも留めない様子で、淡々と語りかける。

「ご無理をなさらないで下さい。今、医師を呼びます」

 女官たちが沢山のクッションを背中にあててくれ、自分で体を支えていなくても起き上がっていられるようになる。

 自分の体がこんなに重たいなんて、今まで一度も思ったことは無かったのに。

 気を抜いたらその重みに負けて、またベッドに横たわってしまうのではないかと思うくらい、体が重たく感じる。

 シレルが神官たちと何か小声で話しているので、傍にいる女官に話しかける。

 やっぱり上手く声が出ない。

 それでも何とか話すことは出来る。

「何日くらい寝込んでいたんでしょうか」

 途切れ途切れの記憶から推測すると、多分それなりに寝込んでいたような気はするのだけれど。

 でも逆にほんの数日寝込んでいただけで、記憶が混乱しているだけなのかもしれない。

 とても長い間眠っていたような気もするし、ほんの短い間だったような気もする。

 女官は水の入ったグラスを手渡してくれ、それをゆっくりと飲み干す。

 熱くて乾ききった体に染み渡り、まさに生き返ったような気分。

 水を手渡してくれた女官は困ったような顔をして、他の女官の顔色を伺う。

 私、何か変な事言ったかしら。それとも、あんまりにも勢いよく水を飲んだからおかしかったとか。

 目を逸らして黙り込んでしまった女官になんて声を掛けたらいいのかもわからず、ぼーっと女官の反応を待つ。

 やっぱり、何かおかしかったんだわ。

 長い長い沈黙に耐え切れずに俯き、乱れた布団の端を触ってみたりする。

 それもやっぱり巫女としては褒められた行動じゃないけれど、頭はよく働かなくて、気の利いた言葉なんて浮かばない。

 いじいじと手元を動かしていると、突然頭上から嗚咽交じりの言葉が降ってくる。

「もう、お目覚めにならないのかと思っておりました」

 一体何事なの。

 女官が手で口元を押さえ、目を真っ赤にして泣いている。

「よかった。本当に、本当に……」

 女官の言葉は最後まで聞き取れずに、目の前で泣き崩れてしまう。

 他の女官も目を逸らし、目頭を押さえている。

 突然の出来事に頭が真っ白になり、視界の端に映るシレルに視線を移す。

 シレルならこの事態を解決してくれるような気がして。

 気付いたようで、目配せをし他の神官に何かを告げると、シレルが枕元に戻ってくる。

「どこか辛いところはございませんか」

「大丈夫です」

 咄嗟にそう応えたものの、体中のあちこちに熱と痛みが残っている。

 まだ体を自由に動かす事は到底出来ない。

 本当はこうやって座っている事すら、ものすごい労力を必要としている。

 でもどこが悪いのではなく、体中全部、何となく違和感があるような気がする。

 重たい枷が体についているかのように、腕を上げることすら出来ない。

 口を開く事がこんなに体力を使う事だったなんて、今まで私は知らなかった。

 短い一言を発することさえ、肩で息をしながらになってしまう。

「ご無理をなさいませんよう。どうぞお体ご自愛下さい」

 続く言葉に、耳を疑う。

「一月以上も眠り続けていたのですから」

 一月?

 その言葉が信じられなくて、ぎしぎしときしむ体に鞭打って首をまわし窓の外を眺めると、緑色をした葉は視界には入らない。

 目に入る全てが色付いていて、橙、赤、朱に染まっている。

 偶然にも日が沈みところで、視界が全て朱に覆われている。

 ほんの数日だと思っていたのに。

 もう、秋になっている。

 世界は朱に染まっている。

 ご神託の「その時」が来てしまっている。

 ぶるっと寒気が全身を走る。

 何もわからないままなのに、私は何も出来ないまま「その時」を迎えてしまったんだ。


 レツ。

 ねえ、レツ。私が今見ているのは、いつもと変わらない秋なの。それとも違うの。

 多分何かが違う秋だと、直感している。だけど信じたくない。

 それはただの考えすぎだと思いたい。

 だからレツに確かめずにはいられない。

 いつもと同じだと、どうか言って欲しい。


 ――おはよう、サーシャ。気分はどう。


 あんまり良いとは言えないけれど、こんなのすぐに治るよ。

 私、結構頑丈に出来てるもん。

 それよりもレツ、どうなっているの。ご神託の時は来てしまったの。


 焦って聴く私に、レツは何も言おうとはしない。

 長い長い沈黙が続く。

 ドキドキと心臓が早鐘のように鳴り、胸が締め付けられるように痛い。

 あんまりにも痛くて、むせるように咳き込む。

 女官がまた、グラスを手渡してくれる。


 ――はあっ。


 レツが力無く溜息をつく。


 ――自分の体をもっと大切にしなよ。自分のことよりも神託なんかが大事なの?


 だって、レツが本当のことを教えてくれないから。


 ゲホゲホとむせると目眩がして、視界がくらっと歪む。

「もうお休みになられては」

 シレルが心配そうに声を掛けてくれる。

 でも、今ちゃんと聞かなきゃ。レツの見た未来を。


 ――何でそんなにムキになるかなー。国なんてどうだっていいだろ、別に。それともそんなに大事? 祭宮が。


 歪んだ視線を建て直し、奥歯をギリっと噛み締める。

 私の中に芽生えた感情は、絶望と怒り。

 あんまりにも強い怒りに、体に震えが走る。


 祭宮なんてどうだっていいのよ。今そんな事話してない。

 何で誤魔化すの。何で教えてくれないの。何で私に嘘をつくの。

 そんなに私のこと信用できないって言うの? 私はレツにとって心を許せない相手なの?


 叫ぶようにレツにぶつけると、レツが息を呑むのが伝わってくる。

 今は見えないけれど、きっとレツはまんまるな目で驚いた顔をしている。

 そんな気配が伝わってくる。

 レツとちょっと話をしただけなのに、肩で息をしなければいけないほど、体が疲れてしまっている。

 息が乱れる。

 体が重たい。

 目を閉じてしまいたい。

 けれど、今、レツと話をするのをやめたりしない。

 レツが私のことをどう考えているのか、今、聴かなきゃ。

 今聴かなかったら、ずっとうやむやにされてしまう気がする。


 ――サーシャ。少し落ち着いて。体に障る。


 落ち着かせようと、静かにレツが囁く。

 その冷静さに更に腹が立つ。

 私の言葉なんて全然聞いてなかったみたいな言い方して。

 今は体のことなんて、どうだっていいんだから。

 この後また寝ればきっと治るんだから。


 ――何怒ってんの。起きたと思ったら怒り出すんだから。ボクの心配なんて、まるで無駄だったみたいだね。


 笑うレツの声に、怒る気力すら萎える。

 何で嬉しそうに笑ってんのよ。いつもはぐらかされて、いつの間にか聞きたいことは聞けないままになっている。


 答えてよ。

 何で私の話、ちゃんと聞いてくれないの。何でいつもはぐらかすの。


 しばらく沈黙が続く。

 息を整えるようにゆっくりと深呼吸を何度もする。

 私の体、やっぱりどこかおかしい。

 ほんのちょっとレツと話しただけなのに、もう起きていることすら限界に近付いてきている。

 吐き気と目眩に襲われ、くるくると視界が回りだす。



 ――世界が朱に染まる時、ある者は歓喜の、ある者は悲しみの涙を浮かべるだろう。もう、手遅れだよ。



 手遅れ?

 どういう意味なの? やっぱり神官長様のあの解釈は間違っていたということなの。

 待ってと声を掛けたけれど、レツの気配はどんどん遠ざかっていく。

 あの時、レツの言葉の意味するところを、誰も理解していなかった。

 私たちだけじゃない。ご神託を受けた国王陛下も、ご神託を伝えた祭宮も。誰もレツの真意を汲み取る事が出来なかったんだわ。

 空も木々も、朱に染まっている。

 もう止められない。

 何もない、いつもと同じ秋なんて来ない。

 それでも何が起こっているのか、私には全くわからない。

 悪い予感が胸を占め、何かが起こると言う事だけが明確にわかっているだけ。

 ゆっくりと目を閉じて、ふらふらと揺れる体を横たえる。

 悪い予感と、全身に残る倦怠感。

 心も体も、何か得体の知れない渦の中に巻き込まれてしまったみたい。

 何か考える事も億劫で、意識の糸を手放して詰まれたクッションに顔をうずめる。

 レツ。

 傍に行きたい。早く顔が見たい。



 私の願いが当分叶わないと、医師の宣告で確定する。

 うとうとしていて目覚めたら、医師が大げさに体中調べに来ていたところだった。

 健康がとりえのはずなのに、どこが悪いとかっていうわけじゃなくて、どこもかしこも悪いらしい。

 一言で説明するなら「病弱」が的確なんだそうだ。

 ついでに付け加えるなら「瀕死」の状態だそう。

 今は少しの事でも熱を出すし、体を起こす事も難しいし、心臓もきちんと調べたわけではないけれど弱っているって。

 どうしてこんな事になったのかと聞いてみたけれど、医師はわからないと首を横に振るだけ。

 何がきっかけで寝込むことになったのかすら、原因はよくわからないみたい。

 ただ、眠っている間に何らかの病に罹っていたことはわかるけれど、それが何という病なのかと聞かれたら、何という病なのか判断がつかないとのこと。

 どうやら医師にもわからないような「奇病」に罹ったみたい。

 その名前もよくわからない病気に罹った事によって、私の体は恐らく神官長様よりも弱くなってしまった。

 安静にしていれば、ある程度回復する見込みもないわけではないそうだけれど。

 かといって、それは確約できなくて、とにかく今は無理せず大人しくベッドの住人になっているのが一番なんだって。

 会えないとなると、余計に会いたくなる。

 レツ、ずっと一人で寂しくないのかな。

 医師から告げられた事を説明した時も、レツはあっさりとした返事しか返してくれなかった。

 レツは会えなくたって、いつだって話せるからそれでいいって言うけれど、どんな顔をしているのかちゃんと顔を見て話したいよ。

 でも今の私は日々の祭祀もこなせない。

 全ての、巫女としてやるべき儀式やお祈りなどは、神官長様が代行していると聞いた。

 なんとなく立場が逆転してしまったみたい。

 それに、私じゃなくてもいいんだってわかって、神殿の中で一人だけ役立たずで浮いた存在になってしまったみたい。

 居場所が無い。

 取り残されて四角く区切られた空間で、絶望にも似た気持ちを抱えて漫然と毎日を過ごすしかない。

 空しい。

 私は巫女なのに、巫女としての業務は何一つこなせない。

 神官長様がなさっているのなら、誰も文句なんてないだろう。

 むしろ、私がやるよりもずっと順調に毎日滞りなく進んでいるかもしれない。

 きっと以前巫女だった時のように、たおやかでお美しいんだろう。

 それでももしも奥殿に行く事が出来たら。

 少しは心の中の空洞を埋められるかもしれない。

 歯がゆくて、もどかしくて、でも泣くのは悔しくて、ただ時が絶って体力が回復するのを一日千秋の思いで待ち続ける。

 その間にも刻々とご神託の時は過ぎていく。

 動き出した朱の行方。

 それを解明できればと思うけれど、何かを考えるにも情報から取り残されていて、一人で考えるには限度がある。

 とにかく今は、早く治そう。

 早くレツに会えるように。



「私が寝ている間、特に変わった事はありませんでしたか」

 目覚めてから数日。

 枕元であれこれ忙しそうに動いている女官に、かすれた声で問いかける。

 女官は困ったような顔をして、シレルに助け舟を求める。

 こくりとシレルが頷き、女官が一礼をして部屋の隅に下がり、かわりにシレルが枕元に跪くようにしゃがみ込む。

「今はお体を第一にお考え下さい。外の事は我々で対処致します」

 レツ同様に、何があったのかは教えてくれない。

 何もなかったのかもしれない。何も無いのが常なのだから。

 神殿での毎日は代わり映えのない毎日で、規則正しくて変化が無さ過ぎて退屈になるくらいなんだから、本当に特に何も無かったのかもしれない。

 それでも今は勘繰ってしまう。

 本当は何かがあって、それを隠しているのではないかと。

 だって、確かにレツは「手遅れ」と言ったのだもの。

 朱は動き出しているはずなんだから、きっと何かが起こっている。

「私は起き上がるのも困難ですから、何かをしようと思っても不可能です。ただ、何か起こっていないかを確認したいだけです」

 隠さないで教えて欲しい。何もないなら、何もないで構わないの。

 それならそう言ってくれればいい。

 だから教えて。

 私が外の情報を知るには、こうやってシレルに聞く以外には方法が無いから。

 強い口調になってしまったのは、わかっている。それが理不尽は行為だって事も。


「戦が起こりました」

「戦?」


 ――世界が朱に染まる時。


「はい。隣国と戦になっているようで、海岸沿いの村や街では、かなりの被害が出ていると聞いております」


 ――ある者は歓喜の、


「どうしてそんな事に」


 ――ある者は悲しみの涙を浮かべるだろう。


「わかりません。私が知り得たのはそれだけです」

 意識せず溜息が漏れる。

 重たい体が、更にずしんと重たくなる。

 ご神託の真意を汲み取っていたら、この戦は止められたのかしら。

 今更そんな事を思っても、取り返しがつかない。

 もう嘆いてもどうしようもない。全ては始まってしまったのだから。

 頭の中に、あのご神託が響く。

 どうしたらいい。どうしたら……。

 もう止めようがないのはわかっているけれど。

 私に何かが出来るなんて思っていない。

 だけどせめて、現状を把握しないと。

 そうだ。祭宮を呼び出して話を聞けば、全容がわかるかも。

 でも祭宮に王都からここまで来てもらうには、それなりの時間と手間もかかる。

 それよりも、レツは。

 大地を司るレツには、この戦の影響はないの?

 ずっと一人だったレツは大丈夫なの。

 私の中の嫌な予感は、レツに絡む「何か」だったんじゃないのかしら。

 私が倒れたあの日だって、レツの様子はどこと無くおかしかった。

 いつもはあんなふうに一緒にいる時に、突然寝てしまったりしない。

 もしかしたらあの時既に、この戦は始まってしまっていたんじゃないのかしら。

 今、私が出来る事。私にしか出来ない事。

 それはレツに会うことだわ。

 多分、私が出来る最後の事になると思う。

 私の体、もう長くない。

 いくら大人しく寝ていても、一向に良くなる気配が無い。

 それどころか、胸の痛みはどんどん激しくなってきている。

 お医者様にもどうしようもないような病に罹っているのなら、きっと治る見込みは無い。

 それならレツに会いたい。

 最後の瞬間まで、巫女でいたい。

「奥殿に、行きます」

 ふらつく体を起こし、全身に力を篭めて立ち上がる。

 目眩で世界がぐるぐると回るけれど、固く目を閉じたらそれも収まる。

「無理です。おやめ下さい」

 制止するシレルの声を無視して、扉の方へと歩く。

 こんなに部屋の中が広かったなんて。

 扉に手をつくと、息切れがして肩で息をせざるをえなくなる。

 女官たちも周囲を取り囲み、これ以上動けないようにと人垣が出来る。

 けど、今会わなければいけない気がする。

 今会わなかったら、取り返しのつかない事になる。

 鼓動が不規則に乱れ、息苦しい。

 でも、それでも行かなきゃ。

 ぎゅっとこぶしを握り締める。どこかに力を入れていないと、崩れ落ちてしまいそうだから。

「どいてください。水竜が呼んでいるのです」

 嘘も方便とはまさにこのことだわ。水竜という言葉の持つ力は、絶大な効果を表してくれる。

 出来るだけゆっくりと力を篭めて言うと、女官たちが互いの顔を不安そうに見回す。

 シレルも困惑した顔で立ち尽くしている。

 女官の体の間をすり抜け、ドアノブに力を入れる。

「すぐに戻ります」

「無理です! 生きている事すら奇跡だとまで言われているのに、これ以上お命を縮めるような事はおやめ下さい」

 強いシレルの言葉が胸を打つ。

 普段決して聞くことのないような大声も、必死の形相も、全て心配してくれるからだってわかっている。

 でも、ごめんなさい。

 わかっているのだけれども。

「でも、私は巫女なんです」

 シレルに微笑みかけると、絶望したような表情でうなだれる。

 ごめんなさい。心配してくれているのに。

 ドアノブを回して扉を開くと、驚きの表情のまま固まる神官たちが目に飛び込む。

 その神官たちも言葉を呑んだような表情のままで、声を掛ける事すらしてこない。

 すれ違う神官たちは、何かを言いかけて立ち止まる。

 多分、酷い姿をしているんだろう。

 寝たきりで四肢は衰えて細くなり、今も熱があるせいか体は熱いし、それでいて寒いような感じもするし、青ざめた表情でフラフラしながら歩く姿は、誰が見ても異様なものだろう。

 普段の倍以上の時間を掛けて、奥殿へと続く渡り廊下までたどり着く。

 良かった。ここまでこられた。

 心臓はバクバクと大きな音を立て、息をするのも苦しい。

 奥殿まで、あと少し。もうちょっとでレツに会える。

 今行くよ、レツ。

 足を一歩踏み出すと、ざわっと風が揺れて木々が音を立てる。

 やっとレツのところまでいける。

 嬉しさで心と一緒に体までが軽くなる。

「お待ちなさい」

 透き通る声に振り返る。

 神官長様が山のような神官を従えて、腕組みをして立っている。

 その中にはシレルの姿もある。

 私は何も聞こえなかったかのように、更に一歩二歩と歩みを進める。

 背後で何度も呼ぶ声がするけれど、今ここで立ち話をするような体力は無い。

 押し問答している間に、私の体力が尽きてしまう。

 レツのところに行けなくなるのは、絶対に嫌。

 自分でもわかっている。

 あとどのくらい体がもつのかわからない事。今倒れてもおかしくない事。そして倒れたらもうココへはこられない事。

 だから今、レツのところに何としてでも行きたいの。

「戻りなさい!」

 背後から掛けられる声を無視して、どんどん奥へと進んでいく。

 この目で見たかったもの。

 奥殿がどんどん大きくなって目に飛び込んできて、心が歓喜で震える。

 あとちょっと。

 もう少し頑張れば、レツに会える。

 ふらりと足元が崩れ落ちそうになり、しゃがみ込んでしまいたい気持ちを奮い立たせ、通路脇の木々を支えにしながら一歩また一歩と進んでいく。

 奥殿へ掛かる橋に辿りついた時、音も立てずに独りでに扉が開く。

 待っている。

 レツがあそこで待っている。

 駆け出したくても、足が重たくて走ることなんて到底出来ない。

 歩みを止めないだけで精一杯。

 俯いて歩いていると、視界が真っ赤に染まる。

 目眩のせいなのかわからないけれど、奥殿を取り巻く湖が赤く染まっているように見える。

 頭を振って目眩を追い出し、引きずるように体を橋の欄干で支えながら渡りきり、奥殿の扉に手を掛ける。


「すごい根性だね、サーシャ」

 はじけんばかりの笑顔でレツが飛びついてくる。

 一番見たかった、レツの笑顔。

 体重の無い体を受け止められず、床に尻餅をつく。

 ほっとして全身の力が抜け、もう立っている事すら出来ない。座っている事さえ辛い。

 やっとレツに会えたのに、口を動かす事も出来ない位疲れてしまって、額を冷たい汗が流れ落ちる。

 これでもう、おしまいかも。

 体を自分で支えられなくて、床に横たわる。

 なんだかもう、意識をつなぎとめる事すら出来ない。

 ゆらゆらと視界が揺れて歪む。

 目を開けていてもレツの輪郭が歪み、二人にも三人にも見えてふわふわ浮いているようにも見える。

 まぶたが重たい。眠ってしまいたい。

 でも眠ったら永久にレツの笑顔を見られなくなってしまいそう。


「よくここまで来たね。助けてあげる」


 ぼんやりとした視界が、レツの手で遮られる。

 あたたかい優しい風が額を撫でる。

 じわっと、まるで冬の寒い日に外から帰ってきてストーブにあたったような、体の中に温かいお湯が広がっていくような感覚がして、じわじわと体が温まっていく。

 ゆるゆると湯船に浸かっているような心地よさが全身に広がり、指先にまで熱が届く。

 その熱が体内にあった病を押し出して流し去るように、体の上に圧し掛かっていた重さからも少し開放される。

 もう動かせないとまで思った指先に力が入る。

 眠気は去り、ほんの少しだけ活力が戻ってきている。

「何をしたの」

 口から出た声も、普段のものと変わりない。

「前にも言ったでしょ。キミはボクの一部だから治せるって」

 クスクスとレツが笑う。

 いつものレツだ。

 私の知っている、私だけが見られる笑顔。

 良かった。

 体も楽になり、自然と笑みがこぼれる。

 そんな私の様子を見て、レツがまた嬉しそうに顔を崩す。

 レツの手が視界から消えたので起き上がろうとすると、その手を額の前に広げて制止する。

「ダメだよ。元通りになったわけじゃないんだから。もうちょっと寝てなよ」

 素直にレツの言葉に従って、寝転んだままレツの顔を見上げる。

 何年も会うことが出来なかったような、そんな気持ちになる。

 見慣れたやんちゃなレツの顔が、涙で虚ろになる。

 会いたかった。

 ずっと、ずっと会いたかった。

 どうしてそんな風に強く思うのかわからないけれど、心の奥底から「ただ会いたかった」という欲求にも似た気持ちがこみ上げてくる。

 会えなかった時間の大半は眠っていて、実質会えなかったのはほんの数日なのに。

「何で泣くのさ」

 言葉とは裏腹に、レツは目尻を下げて口角を上げ、穏やかな笑みを浮かべている。

 髪を撫でるようにレツの手が何度も動く。

「会いたかったの。死んじゃうかもしれないって思ったら、レツに会いたくなったの」

 瞬きをし、レツが驚いたような顔をして、しばらくしてからまた元のような笑みを浮かべる。

「光栄だね。そっか祭宮よりもボクに会いたかったんだ。でもね、そんな体にしたの、ボクなんだ」

 一瞬頭の中が真っ白になる。

 ソンナ体にシタノ、ぼくナンダ。

 笑顔には似つかわしくない言葉の意味が、全くわからない。

 私が死にそうになったのは、レツが何かをしたからなの。

 何かされた記憶も無いのに。

 突然こうやっていたっていう感じなのに。

 レツは何を言っているの。

「体が少し楽になるまでの間、ボクの話を聞いてよ」

 変わらない笑顔のまま、レツが私の知らない、私が眠っていた間の話を始める。



 前に一度、ご神託を告げるときに、ボクと一体になったような錯覚をした事があったでしょ。

 覚えてる?

 そう、あれをね、しつこく覚えていたヤツがいたんだ。

 そしてあれ以上の奇跡を起こそうとしたバカがいてね。ボクもその話に乗ったわけ。

 でもね、一つだけリスクがあった。

 あ、今顔色変わった。察しがついた? そうサーシャ、キミの体だよ。

 ボクがキミの体に憑依する。その事によって、キミの体は莫大なエネルギーを必要とする。

 まあ正確にはボクがなんだけれど。


 ボクが食事しているの、見たこと無いでしょ。ボクが食べるのは巫女なんだ。

 あはは、ひきつらない。ひきつらない。

 別に本当に食べるわけないよ。頭から丸呑みされるとでも思った? そうしたら歴代の巫女はみんな食べられちゃってるって。

 ほんのちょっと、生命力を貰うんだ。そうするとボクのおなかは満たされる。

 巫女はね、確かにボクの言葉を伝えるっていう役目もあるんだけれど、ボクのおなかを満たすっていうこともナイショのお仕事なんだ。

 でね、ボクが奥殿の外に出るっていうのは、ボク自身普通には出来ない事なんだ。

 前に見たことあるでしょ。あの鎖がボクを繋いでいるから。

 だから巫女に憑依するっていう形で、短い間なら外に出る事が出来る。

 だけれど、どんな巫女にでも同じように出来るわけじゃない。

 実際にほんの数回しか成功した事ないんだ。それで亡くなった巫女もいる。

 サーシャはボクの姿を見ることができる。しかも本質を見抜いている。そのくらい感応力が強いから出来たんだ。

 でもねー。その結果、キミの生命力のほとんどを、ボクが食べることになっちゃったんだよね。

 ボクもキミがどうなるか、正直に言うとわからなかった。

 だからこうやってもう一度会うことが出来て、本当に良かったよ。

 で、だ。

 当然ボクのお食事事情を知っている祭宮は、当然このリスクにも気付いていたんだけれど、そこまでしてでもボクを引きずり出したかったんだよね。


 大祭の時に、アホな国王が失敗したからね。

 あ、何の事だって顔してる。

 最後の日に、無礼千万なイヤなデブが来たでしょ。

 あれ。あれが今の国王だよ。

 欲のカタマリのギラギラぎとぎと野郎。

 あいつはね、焦ってんの。

 自分が国王やる自信はたんまりあるのに、周りの誰もがあいつを認めていないからね。

 嫡出扱いだけれど本当は妾腹の、ただ一番最初に生まれたからっていう理由だけで国王になったんだって、誰もが思っている。

 実際に対抗馬はそこそこ優秀だったし、本当の嫡出だったからね。

 まあ色々あったんでしょ。その辺はボクは関係ないことだ。

 だから目に見える形が欲しかったんだよ。いまだかつて誰もやろうとしなかった戦なんて起こしてさ。

 それを祭宮は止めたかった。

 だけど、アイツの言葉なんて国王が耳を貸すはずもない。

 だから喉から手が出るほど欲しかった「水竜のお墨付き」を逆手に取って止めようとしたんだろうね。

 キミの命を危険に晒してもね。

 え? ボクが何かをしてあげたかって?

 するわけないじゃん。何でしてやらなきゃ、いけないのさ。

 俗世の事は、ボクには関係ないもん。

 で、戦はおきた。


 見える? 戦の火。朱色の世界。

 街が燃える。大地が燃える。血に染まる。

 嫌な光景だろ。

 悲鳴。怒号。狂気。歓声。

 吐き気がするよ。

 だけど国王は、当然最前線なんかにはいない。

 幾重にも囲む塀の中、一番誰よりも安全なところで笑っていやがるんだ。

 人の命も、他の生き物たちの命もなんとも思ってない。

 自分が痛くなければ、誰だって平気なんだよね。どれだけ血が流れようとも。

 だから、ボクは神託にその事を匂わせた。

 恐らく国王には伝わっていたはずだ。こういう悲惨な未来が来る事を。

 回避しようと思えば、あの時点では出来たはずなのに、しようとはしなかった。

 だからこんな事になっているんだよ。

 ボクはね、こんな残酷な未来が来なければいいのにと願っていたんだ。

 だけど親切に教えてやるつもりも無かった。

 だからサーシャにも黙っていた。

 だって、ボクが喋ったら、キミは祭宮に教えちゃっただろうからね。



「見たかったんだ。人の世の行く末を。人がどうやって世界を治めるのかを」

 そう締めくくったレツの顔には、苦悩も戸惑いも喜びも感動も無い。

 事実をありのまま受け止めたと言わんばかりの、飄々とした表情を浮かべている。

 でも達観した顔つきの向こうに本心を隠しているような気がして、レツの頬に触れるように手を伸ばす。

 見下ろすレツの顔を通り過ぎ、指先が宙を掴む。レツの姿の向こうに、自分の手が透けて見える。

 チクン、と胸に痛みが走る。

 苦々しい思いで、胸がいっぱいになる。

 私はレツには触れない。

 それは当たり前のことなのに。姿を見られることすら、きっと奇跡のような事なのに。

「バーカ。何、情けない顔してんの」

「だって……」

「キミが傍にいる。ボクはそれで十分だよ。キミを失わなくて、本当に良かった」

 穏やかな笑みを浮かべるレツの言葉が、痛いほど胸に染み渡る。

 私はちゃんとレツに必要とされているんだ。

 例え、何かを隠すような事があったとしても、それはレツなりに考えがあってのこと。

 もう疑うのはやめよう。

 私が今、巫女としてこうやっていられることの幸運を大切にしよう。

 もしかしたら、永遠に会えなくなっていたのかもしれないのだから。

 この笑顔が見られる。

 それで私は満たされる。

 この感情は恋とはいわないかもしれない。レツの求めているモノとは違うかもしれない。

 だけど心の底から、レツに出会えて良かったと思っている。

「ボクもちょっと疲れちゃった。一緒に寝てもいい」

 甘えるような口調でレツが横たわる。

 いいとも悪いとも、まだ何も言ってないのに。

 目を閉じるレツの顔を見ていたら、なんだかとても幸せで、このままずっと二人で眠っていたい。

 子供のようで。子供じゃない。

 大人のようで、大人じゃない。

 不思議な小さな水竜レツ。

 今はゆっくり、おやすみ。





 体の節々が悲鳴を上げだし目を開けると、奥殿に入る光はごく僅かになっている。

 本当に寝てたんだ。

 どの位眠っていたんだろう。

 自分で思っていたよりもすんなりと体を動かせる。

 本当にレツが瀕死の淵から救ってくれたんだ。

 確かに前のように動き回るのは無理だけれど、日常生活がおくれる程度には回復しているみたい。

 改めてレツってすごいって思う。

 やっぱり「人ならざるもの」なんだなあって。

 眠る前と同じように横たわるレツの横顔を見つめる。

 穏やかな表情は、本当にぐっすり眠っているような感じがする。

 起こさないほうがいいのかな。

 でも黙って帰るのも、よくないよね。

「レツ?」

 眠っているレツに声を掛けても、まるっきり反応はない。

 よっぽど深く眠っているのかしら。

 少し体を動かして、レツの表情が良く見えるように体勢を変える。

 その時、指先が何かに触れる。

 まるで水のような感触。

 なんだろう。

 指先をまじまじと見つめると、指先が朱色に染まっている。

 これ、何。

 よく見ると、レツの周り一面が朱に染まっている。

 それはここに来る途中に見た、あの湖の真っ赤な色とよく似ている。

 鉄のような匂いが鼻につく。

 血、だ。

 実態の無いはずのレツが小さな水溜りのようになっている血だまりの中で眠っている。

「レツ。レツ! 起きて!」

 反応が無い。

 これは、レツの血なの?

 もしかして私を治したから、こんな風になっちゃったの。

 どうしよう。私のせいだ。

 あまりの禍々しい光景に、頭が錯乱する。

 どうしよう。

 こんなところにレツを置いておけない。

 動かさなきゃ。

 手を伸ばしてレツの体を押そうとしても、手は空を切るだけ。

 レツの体には触れられない。

 どうしよう。

 どうしたらいいんだろう。

 ぴちゃん。ぽしゃん。

 規則正しい音が、どこからともなく聞こえてくる。

 見上げると、天井から一滴、また一滴と血が落ちてくる。

 その落ちた血はレツの顔を通り抜け、床を血に染めていく。

「やめて! イヤ。何でこんな事になっているの! やだ、イヤーー!!」

 絶叫が奥殿に響き渡る。

 血だまりの中で眠るレツを、私はただ見下ろす事しか出来ずに震えていた。







 ――朱に大河が染まる時、大地は沈黙し、眠りへといざなわれるだろう。

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