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「泣かないの?」
奥殿に入った瞬間、レツの声が頭に響く。
暗いからレツがどんな顔をしているのか、わからない。姿を見ることも出来ない。
でも、いつものレツの声よりも少しだけ低いような感じがする。
「どうして。泣くようなことなんて、何もないじゃない」
「本当に?」
「だって、私はただご神託を伝えてきただけだもの。どうして泣く必要があるの」
暗闇の中から歩み寄る音が近付いてくる。
コツコツと規則的な音が大きくなって、レツの顔が暗闇の中でも見えるようになる。
至近距離に立つレツは、子供の姿をしているのに、まるで大人のように全てを諦めたような苦笑を浮かべている。
どうして、そんな顔をするの。
「サーシャ。ボクのところ以外、どこか泣くところあるの」
どうしてレツのほうが泣きそうな顔をしているの。
「泣きなよ。辛いなら。ここなら他の誰もいないんだから」
風が巻き起こり、着けたままだったベールが持ち上がる。
手でベールを押さえて取り、レツの前に座り込む。
「ほらね、泣きそうな顔をしてるじゃん」
私よりもずっと、レツのほうが辛そうに見える。あんまりにも苦しそうな笑顔で、その笑顔に胸を掴まれる。
切ない。
そんな顔をしないで。
「レツのほうが、しんどそうだよ」
「そんなことないよ」
間髪いれずにレツが答える。
でも、全然そんな風には見えない。
「サーシャ。キミは祭宮が好きなんだね」
「え?」
考える間もくれないで、レツがゆっくりとした口調で話し出す。
「知っているよ。サーシャは祭宮に出会ったあの日から、奴のことが好きなんだ。忘れるとか、どうでもいいとか言ったところでそれは真実じゃない。たとえ身分が違おうと、惹かれる気持ちは止めようがない。そうだろう」
全部、お見通しなのね。
私が祭宮のことを諦めきれなかったことも。
偽ったってレツには見抜かれてしまうから、素直に黙って首を縦に振る。
「だから傷ついたんだ。傷つきましたって顔してるもん。何があったのか知らないけれど」
「レツ」
取り繕うに開けた口は、レツの言葉で遮られる。
「ボクに全部話してみなよ。それですっきりするなら、吐き出しちゃいなよ。何があっても、たとえキミがボクに恋をしなくても、ボクがキミの味方であることには変わりないから」
苦々しい顔に無理やり笑みを浮かべるレツの言葉が心に痛くて、涙がこぼれてくる。
こんなにも優しい。
微笑みがあたたかい。
私は何もしてあげられないのに。恋をすることは出来なかったのに。
レツの事、好きなのは本当。
好きって言われたら嬉しい。一緒にいて楽しい。
でもどうしても、私はレツに対しての一線を越えられなかったのに。
なのに、どうしてそんな風に優しいの。
「ほーら。話してごらん。ボクが聞いてあげるから」
あまりにも穏やかな口調に涙が溢れ出し、喉に声がひっかかって言葉が出てこない。
全てを知って、私の気持ちも理解して、それでも笑うレツに申し訳なくて、自分自身が腹立たしい。
「ごめ……ごめん、ごめんなさい」
振り絞った言葉が嗚咽に混じる。
「ごめん、ごめんね。レツ。ごめん」
謝る事しか出来ない。
ちゃんとレツを見るって約束したのに。
レツの事も好きだけれど、恋しいと思えなくてごめんなさい。
他の人を想っているのに、レツの傍にいて甘えてごめん。
レツに辛い思いをさせているのに、無理やり笑顔を作らせてごめん。
身勝手すぎる自分が情けなくて、レツに申し訳なくて、涙が止め処なく流れてくる。
涙が床にこぼれるのも気にしないで、レツの顔を見上げる。
困ったような顔をして、レツの手が涙を拭うように動く。
「バーカ。何であやまんのさ」
「だって、だって、私……」
がばっとレツの体が私に覆いかぶさる。まるで抱きしめるみたいに。
「いーよ。もう何も言わなくて。ごめんね、ボクが苦しめていたんだね」
ごめん、ごめんね。
決して触れられないレツの体に手を回すかわりに、服の裾を両手で握り締め、声を上げて泣き出す。
悔しかったから。
辛かったから。
哀しかったから。
何一つ思い通りにならない、私の心がもどかしかったから。
私はずるい。
レツといると居心地が良くて、すごく楽だから、レツにずっと傍にいて欲しいって言って欲しい。
レツのいるこの場所にちょっとでも長くいたい。
誰にも「巫女」を譲り渡したくない。
永遠にこの場所でレツと一緒にいたい。
そのためにレツに期待させておいて、こうやって裏切ってしまった。
酷いよね。
それでいて、レツが許してくれるって思っているんだから、私はどれだけレツに甘えているんだろう。
この傍にいたいっていう気持ちが、恋だったらよかったのに。
そうしたらレツの望みを叶える事ができて、私たちは永遠に一緒にいられたかもしれないのに。
どのくらい泣いたんだろう。
体中の水分全部出し切ったんじゃないかって位泣いて、その間中レツはずっと抱きしめていてくれて、やっと気持ちが落ち着いてくる。
天窓からはごく僅かな月の光が入ってくるだけで、暗くてとても静かで、生き物たちがみんな眠りについているんじゃないかってくらい、静寂に包まれている。
もしかしたら、ものすごく長い間泣いていたのかもしれない。
顔を上げるとレツと目が合う。
「大丈夫?」
問いかけるレツに頷き返す。
体を起こし、レツの顔が正面に見えるように座りなおす。
今はもう、レツの顔には苦渋の色は浮かんでいない。
いつものように、凪いだ海のように静かに落ち着いている。
「サーシャ。一つだけ聞いてもいい?」
「うん」
レツの瞳を覗き込むと、すっとレツが目を逸らす。
「祭宮のどこが好きなの」
好奇心から聞いているような言い方だけれど、別に嫌な感じはしない。
祭宮。
ウィズの好きなところ。
うーん。
優しいところ。いや、レツのほうが優しい。
頼りになるところ。いやいや、レツのほうが頼りになる。
本音を言えるところ。いやレツのほうがずっと色んな事話せる。隠し事なんてしないし。本心を偽ったりもしない。
あれ?
何かおかしい気がする。
悪口なら山のように言えそうなんだけれど。
態度がでかいとか。裏表が激しすぎとか。祭宮モードのとき、実はちょっと気持ち悪いとか。何考えているのか、さっぱりわからないとか。短気で怒りっぽいとか。慣れなれしくて嫌な感じがするときがあるとか。人のことを小馬鹿にしているとか。神官長様のことばっかり考えているとか。
ムカつくところは沢山出てくる。
あれ。本当にどこが好きなんだろう。
「えっと……」
くすくすっとレツが笑う。
「何で困ってるの」
そう言われても。
「浮かばなくて。どこが好きか」
「何それ」
「うーん。自分でもよくわからないんだけれど、ここっていうところは無いみたい」
「ふーん」
納得いかないって顔で、レツが床に胡坐をかいて座る。
だって、自分でもわからないんだもん。
だからレツに上手く説明なんて出来っこない。
下から覗き込むレツの瞳は、暗闇の中でも何故か反射する水面のようにキラキラと輝いていて、とても綺麗。
「あ、でもね」
「何」
レツの瞳を見ていたら急に思い出した。昼間の、レツに敵対しようとした傍若無人な人のこと。
そしてあの人を制止し、あの場から開放してくれた祭宮のこと。
「困っている時には助けてくれる。巫女になる前も、なった後も、今日も助けてくれたよ」
目を細め、レツが低い声で冷ややかに呟く。
「あー。ただのカッコつけのところね」
「違うよ。ひっどーい。人が見る目ないみたいな言い方して」
レツの言い方がすごく癇に障って、何か私がすごくダメみたいな言い方をされた感じがして、ついつい声を荒げてしまう。
「だってそうだろ。あんな奴連れてきたのは、祭宮自身じゃないか。自分で撒いた種じゃないか。それなのに嬉しそうな顔しちゃってバカみたい」
プイっとレツが首を横にして、顔を背ける。
「そりゃ、そうかもしれないけど」
取り付く島もない感じで、レツはしばらく口もきいてくれない。
話しかけてみても無視して、そのまま座り込んでいる。
何よ、自分で話を振っておいて。
ふてくされた顔で、頬杖ついて遠くを見ている。
そんな顔するくらいなら、聞かなきゃいいじゃないよ。
「あのさあ」
下から睨みつけるような顔で、力の篭った声でレツが話しかけてくる。
いつもの天真爛漫さは無く、一瞬びくっと体が動くほどの迫力がある。
明らかに不機嫌そうなのが手に取るようにわかって、レツに対してイライラしていた気持ちが、すっと影を潜める。
逆に怒らせちゃったかも、という不安が心によぎる。
「別にサーシャが祭宮のことを好きでも気にしないよって言ったから、ボクが傷つかないとでも思った?」
「え、あの、ごめん、そういうつもりじゃ……」
咄嗟に出たのはありきたりの言葉。
私はまたレツに嫌な思いをさせてしまったんだ。どうして上手くいかないんだろう。
気を許しているから、ついつい言わなくてもいい事まで言ってしまう。
本音を話せるただ一人の存在だからって、もうちょっと考えて話すようにしなきゃ。
怒るのも当たり前だよね。
何て私って無神経なんだろう。
自己嫌悪でいっぱいになる。
「バーカ」
ふっとレツが笑う。
ピチンと軽い音を立てて、おでこを指で弾かれる。
本当は指は当たっていなくって、風の塊が当たっただけだけれど、確かに触れたような感触はある。
「何困ったような顔してんの。冗談だよ」
べーっと舌を出し、レツが立ち上がる。
背中を向け、レツは奥殿の奥の暗闇の方を見てる。
レツにつられるように立ち上がり、無言でレツの背中を見つめる。
また余計な事を言ってしまうんじゃないかと、何か言うのは躊躇われたから。
本当に冗談なのか。
それとも本気で言っていたのか。
聞き返したいけれど、聞き返せない。
「で、何があったの」
振り返らない。
何て言ったらいいのかわからなくて、レツが次に何か言ってくれるのを待つ。
今の、本当に冗談だったの。
私、レツを傷つけているんじゃないのかしら。
私に気をつかわせないように、誤魔化していたりしないかな。
何か冗談で流しちゃいけない気がしたんだけれど。
本当はもっと言いたいことがあるんじゃないの。
「聞いてあげるから。何でそんなに落ち込んでるの」
湧き上がってきた疑問は、結局レツのその言葉で飲み込むことになる。
聞いたほうがよかったのか、それとも聞かないままでいいのか。
私はなぜか、レツに対してすごく臆病になってしまっている。
下手な事を言って、軽蔑されたくない、嫌われたくない。
ふうっとレツが溜息をついて、大きく伸びをする。
実体が無くっても肩が凝ったりするんだろうか、なんていうくだらないことが頭をもたげる。
妄想を打ち払うように頭を左右に降り、意を決してレツに話し出す。
祭宮が話していた、結婚するかもしれないという事。結婚したらこのあたりに住もうかって言っていたこと。
相手が見つかったのかと喜んでいた神官長様の話。
それから私の考えてたこと。
たまに相槌を打つだけで、レツは途中で口を挟もうとはしない。
最後まで聞いて、レツがゆっくりと振り返る。
「失恋したと思ったんだ。ふーん。で、サーシャはどうするつもりなの」
向かい合うレツの目は真剣で、誤魔化したりなんて出来ないような、何でも見透かしてしまいそうな澄んだ目をしている。
その場しのぎでなく、自分を誤魔化すのでもなく、きちんとした答えを話さなきゃ。
レツに二度と嘘とつきたくない。
何度も深呼吸をして、ゆっくり時間を掛けて考える。
どうしたいのか。
どうなるのか。
レツに同情するのではなく、義務感を持つのでもなく、嘘偽りのない私の気持ち。
「多分……」
「うん」
「今、すぐ、なんて無理だけれど、きっと少しずつ恋しいと思ったり、ドキドキしたりしなくなると思うの」
「何で?」
問い返したレツの瞳の中の光が動く。
「そんなに簡単に忘れられるような恋なの? ボクにはそうは見えない」
全てを見通すレツの目に、ぐっと言葉に詰まる。
レツの真っ直ぐな視線が痛くて、目を逸らしてしまいたくなるけれど奥歯を噛み締めて堪える。
ここで逃げたり誤魔化したりしたら、また同じ事になる。
思いつくままに、レツに話してみようと思う。
別に、取り繕う必要は無い。
レツが知りたいのは、私の本当の気持ちなんだから。
「時間が解決してくれると思ったから。時間がたって気持ちが薄れていくのを待つしか出来ないと思うの」
コクンとレツの首が縦に動く。
それに促されるように、さらに思いつくままに話し出す。
「昔、好きだった人がね、あ、レツは知っているよね、きっと。幼馴染のルアって言うんだけどね、王都に言っちゃって、私結構しつこい性格だから諦めきれなくて、なかなか。結局三年掛かったんだ。王都に行っちゃってから気持ちが落ち着くまで。だけど時間が経つことによって、気持ちがどんどん薄れていったの。だから、そういう風になるんじゃないかって」
一気にまくし立てる私の言葉を黙って聞き、レツがまた頷くように首を振る。射抜くような視線のまま。
「それにさ、不毛じゃない? どんなに好きでも絶対に振り向かないし、身分だって違いすぎる。私が巫女じゃなくなったら、二度と会う事も無い人だし。分不相応っていうのかな」
「それはどうだかわかんないけれど」
不毛じゃないってことかな。
想い続けていたければ、想い続ければいいってこと?
短いレツの言葉に含まれた真意が、理解できない。
だって想い続けたら、レツを傷つける。
それにどうするつもりなのかって聞かれたから、時間が経つのを待とうっていう結論を出したんだけれど、それは何か間違っているのかしら。
ポツリと呟くレツの言葉に勢いを失って、私の口はまた重たく閉じてしまう。
「おいで」
レツが傍に来るようにと手招きをする。
促されるままにレツの横に立つと、実態のないレツの手が、私の手を掴む。
そのまま引っ張られるように歩いていくと、奥殿の最奥の扉の前に辿り着く。
この扉の向こうは、確か湖のはず。
どうするんだろうとレツの横顔を覗き込むけれど、レツは何も言わず、こっちを見ようともしない。
すっと扉に向かって、空いている方の手をかざす。
バチンと、何かがはじけるような音がして、空間が捻じ曲がったような、平衡感覚が無くなったような感じがして、気付くと薄暗い洞窟のようなところに立っている。
ここは、もう一つの奥殿……。
横を見ると、レツの姿はない。
その代わり、目の前には全容を見る事ができない巨大な黒い塊がある。
本当のレツ。
一瞬考えてから、黒い塊に近付き、もたれるようにして座る。
ぬくもりが背中から伝わってくる。
「サーシャの思うとおりにしたらいい。ボクはこうやってキミが傍にいてくれれば幸せだから」
どこからともなく聴こえてくる、レツの声。
背中から伝わるあたたかさが心地よくて、目を閉じてゆっくりと息を吸い込む。
私も、こうやってレツの傍にいる時、すごく幸せなんだ。
ねえレツ。
私、レツのこと好きなんだよ。
一緒にいたら、すごく楽しい。そりゃ、たまにはムカつくときもあるけれど。
こうやって穏やかな気持ちになれるのも、安心できるのも、全部レツといる時だけなんだよ。
どうやったら伝わるのかな。
熱情はないけれど、私はとってもレツのことを大切に思っているって。
本能だけじゃないよ。絶対に言い切れる。
「ずっとこうやって傍にいられたらいいのにね。誰にも邪魔されずに二人っきりで」
自然と、考えるよりも先に口が動く。
こうやってこの洞窟の中で二人っきりでいられたら、きっと祭宮のことも考えずに済む。
神官長様の態度にイライラしたり、失望したりすることもない。
萎縮したりすることもなく、警戒して周りに気を配る事も無く、穏やかな気持ちに包まれて生きていける。
誰にも邪魔されない。私とレツだけの楽園。
「ダメだよ。食べたくなっちゃうから」
夢見心地に響く、優しくて甘いレツの声が、空想の羽を更に広げる。
「一生、私、ここにいる。ねえ、いいでしょう? そうしたら、きっとずっとレツのことを大切にするから」
「ダーメ。そんなの逃げているだけだもん」
「そんなことない。逃げてなんかないよ」
だって、今こんなに満ち足りた気持ちなのに。
こんなにも私は幸せだって思っているのに。
逃げてなんかない。私はレツとずっと一緒にいたいって、確かに思っている。
「今はよくても、すぐに嫌になるよ。飽きるに決まってる。こんな息苦しい中で一緒にいたら、きっとお互いが疎ましくなる。ボクはそんなのは嫌だ」
たった今、私が抱えている気持ちは幻想だって言うんだろうか。
そんなことないのに。
レツのこと、疎ましいと思ったりしないのに。どうしてそんな言い方するの。
ふわっと風が起こり、誰かの手が頬に触れたような感触がする。
目を開けて誰なのか見たいのに、まぶたが重たくて開かない。
意識がゆっくりと遠ざかっていく。
かすかに聴こえてくる、レツの声。
「今日はここで眠りなよ。疲れたでしょ。キミの涙も喜びも全部、ボクが抱きしめてあげるから」
あったかい、優しいレツ。
ずっとこうしていたい。
何も特別なものなんていらない。ただこうやって、レツが傍にいてくれたら。
私、きっと世界で一番幸せになれる。
夢を見た。
広大な大地。巨大な蛇行する河川。そびえ立つ山々。
本来あるはずのものがない。
ここにあるべき巨大な迷路。頑強な牢獄。
後に神殿と呼ばれる、王宮よりも遥かに大きな建造物。
――あれは、ボクを縛る檻。これは檻ができる前の、ずっとずーっと遠い昔の風景。
ボクは子供だった。
いつからこの世界に存在していたのかなんて知らない。
ただ、気付いた時にはここにいた。
大河の源流。山麓のふもと。
ボクがくしゃみをしたら雹が降り、ボクが涙を流せば洪水が起きた。
体をくねらせれば、大河が氾濫する。
けれど、ボクにはそんなことはどうでもよかった。別にボクが生きていくのに、不都合は無い。
ただ、たまに無性に腹が空く。
腹が減るとイライラして、山麓の峰を崩してみたり、大地を引き裂いてみたり、世界を厚い雲で覆ってみたりした。
けれどそんな事でボクの空腹が満ち足りるはずも無く、イライラが更に募るだけだった。
だから大河を干上がらせてみたり、氾濫させてみたり、ボクのできるありとあらゆることをしてみた。
そうすると、誰かがボクの前に食事を差し出す。
美しく着飾った、怯えた目の少女。
ボクは少女たちの名を知らない。知る必要も無い。
人間たちは少女を「贄」と呼んでいた。
ニエが怯えたように震えるのを気にも留めず、沢山の人々が踊ったり、仰々しくなにやら祈ったりするのを聞いていた。
もったいぶらずに、早く寄越せばいいものを。
腹が減って仕方が無い時は、ニエの少女を取り囲む奴らに雷を落とし、追い払った。
少しは我慢ができそうな時は、何も面白みもない遣り取りを黙って見ているだけにしておいた。
少女を取り囲む人間たちの姿が消えれば、食事の時間。
待ちにまった食事だ。
ボクは美味しくいただいた。
だがある時、食おうかと思ってやめた。
そのニエは、ボクに「かわいそうね」と言って泣いた。
その涙を見ていたら、食欲が減退し、なんだか空腹なんてどうでもよくなった。
ボクはかわいそうなんかじゃない。
この世界に生きるどんなモノよりも自由だ。
思い通りにならないモノなんてない。
なぜこんな小娘に「かわいそう」なんて言われなきゃならないんだ。
とりあえず、ボクはこのニエを生かすことにした。
けれど腹が減るのは抑えられないから、少しずつその生気を食ってごまかした。
丸のまま食うよりは劣るけれど、これでも十分腹は満たされた。
ある時湖で寝ていたら、ニエが声を掛けてきた。
「あなた、誰」
ボクは何を言っているのか、意味がわからなかったから、体を起こしニエに近付いた。
「どうして湖面を歩けるの。どんな魔法を使ったの」
首をかしげるニエを鼻で笑った。
湖面を歩いて、何がおかしい。ボクは竜だ。そんなことできて当たり前だろう。
「ちっちゃな子が、こんなところで一人で何をしているの。竜に食べられちゃうわよ」
バカか。
ボクが竜そのものなのに、誰が誰を食うっていうんだ。
しかし、おかしい。
いつもニエを遥か下方に見ているのに、ボクはどうしてニエを見上げている。
何かがおかしい。
「早くこっちに来たほうがいいわ。竜に見つかる前に」
ニエは手を差し出した。
その手にボクは手を重ねた。
あたたかい。
ボクは生まれて初めて、他人の温もりを知った。
そして気付いた。
ボクが小さな人間の子供の姿になっていることを。
キミはボクにどんな魔法をかけたの。
ボクを永遠の孤独から救い出した人。
そしてボクから未来を奪った、残酷なキミ。
キミはボクが人の手によって支配される事を望んだのか。
今はもう会えないキミ。
ボクがキミに着けられた枷は、誰にも外す事ができない。
この枷がある限り、一日たりともボクはキミを忘れたりしないだろう。
縛られたのは、体なのか、それとも心なのか。
いっそ憎めたら、どんなに楽だっただろう。
今、キミとの約束が破られようとしている。
ボクは世界に混沌を巻き起こす。
引き金を引いたのは、キミが愛した奴の末裔。
だから、ボクを許してね。
キミとの約束、破るつもりはなかったんだ。
朝になり、奥殿の冷たい床の上で目を覚ました。
不思議と体は痛くは無い。
そばにレツの姿は見えない。
眠っている間、とても幸せで、とても寂しい夢を見ていた気がする。