表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

「泣かないの?」

 奥殿に入った瞬間、レツの声が頭に響く。

 暗いからレツがどんな顔をしているのか、わからない。姿を見ることも出来ない。

 でも、いつものレツの声よりも少しだけ低いような感じがする。

「どうして。泣くようなことなんて、何もないじゃない」

「本当に?」

「だって、私はただご神託を伝えてきただけだもの。どうして泣く必要があるの」

 暗闇の中から歩み寄る音が近付いてくる。

 コツコツと規則的な音が大きくなって、レツの顔が暗闇の中でも見えるようになる。

 至近距離に立つレツは、子供の姿をしているのに、まるで大人のように全てを諦めたような苦笑を浮かべている。

 どうして、そんな顔をするの。

「サーシャ。ボクのところ以外、どこか泣くところあるの」

 どうしてレツのほうが泣きそうな顔をしているの。

「泣きなよ。辛いなら。ここなら他の誰もいないんだから」

 風が巻き起こり、着けたままだったベールが持ち上がる。

 手でベールを押さえて取り、レツの前に座り込む。

「ほらね、泣きそうな顔をしてるじゃん」

 私よりもずっと、レツのほうが辛そうに見える。あんまりにも苦しそうな笑顔で、その笑顔に胸を掴まれる。

 切ない。

 そんな顔をしないで。

「レツのほうが、しんどそうだよ」

「そんなことないよ」

 間髪いれずにレツが答える。

 でも、全然そんな風には見えない。

「サーシャ。キミは祭宮が好きなんだね」

「え?」

 考える間もくれないで、レツがゆっくりとした口調で話し出す。

「知っているよ。サーシャは祭宮に出会ったあの日から、奴のことが好きなんだ。忘れるとか、どうでもいいとか言ったところでそれは真実じゃない。たとえ身分が違おうと、惹かれる気持ちは止めようがない。そうだろう」

 全部、お見通しなのね。

 私が祭宮のことを諦めきれなかったことも。

 偽ったってレツには見抜かれてしまうから、素直に黙って首を縦に振る。

「だから傷ついたんだ。傷つきましたって顔してるもん。何があったのか知らないけれど」

「レツ」

 取り繕うに開けた口は、レツの言葉で遮られる。

「ボクに全部話してみなよ。それですっきりするなら、吐き出しちゃいなよ。何があっても、たとえキミがボクに恋をしなくても、ボクがキミの味方であることには変わりないから」

 苦々しい顔に無理やり笑みを浮かべるレツの言葉が心に痛くて、涙がこぼれてくる。

 こんなにも優しい。

 微笑みがあたたかい。

 私は何もしてあげられないのに。恋をすることは出来なかったのに。

 レツの事、好きなのは本当。

 好きって言われたら嬉しい。一緒にいて楽しい。

 でもどうしても、私はレツに対しての一線を越えられなかったのに。

 なのに、どうしてそんな風に優しいの。

「ほーら。話してごらん。ボクが聞いてあげるから」

 あまりにも穏やかな口調に涙が溢れ出し、喉に声がひっかかって言葉が出てこない。

 全てを知って、私の気持ちも理解して、それでも笑うレツに申し訳なくて、自分自身が腹立たしい。

「ごめ……ごめん、ごめんなさい」

 振り絞った言葉が嗚咽に混じる。

「ごめん、ごめんね。レツ。ごめん」

 謝る事しか出来ない。

 ちゃんとレツを見るって約束したのに。

 レツの事も好きだけれど、恋しいと思えなくてごめんなさい。

 他の人を想っているのに、レツの傍にいて甘えてごめん。

 レツに辛い思いをさせているのに、無理やり笑顔を作らせてごめん。

 身勝手すぎる自分が情けなくて、レツに申し訳なくて、涙が止め処なく流れてくる。

 涙が床にこぼれるのも気にしないで、レツの顔を見上げる。

 困ったような顔をして、レツの手が涙を拭うように動く。

「バーカ。何であやまんのさ」

「だって、だって、私……」

 がばっとレツの体が私に覆いかぶさる。まるで抱きしめるみたいに。

「いーよ。もう何も言わなくて。ごめんね、ボクが苦しめていたんだね」

 ごめん、ごめんね。

 決して触れられないレツの体に手を回すかわりに、服の裾を両手で握り締め、声を上げて泣き出す。

 悔しかったから。

 辛かったから。

 哀しかったから。

 何一つ思い通りにならない、私の心がもどかしかったから。

 私はずるい。

 レツといると居心地が良くて、すごく楽だから、レツにずっと傍にいて欲しいって言って欲しい。

 レツのいるこの場所にちょっとでも長くいたい。

 誰にも「巫女」を譲り渡したくない。

 永遠にこの場所でレツと一緒にいたい。

 そのためにレツに期待させておいて、こうやって裏切ってしまった。

 酷いよね。

 それでいて、レツが許してくれるって思っているんだから、私はどれだけレツに甘えているんだろう。

 この傍にいたいっていう気持ちが、恋だったらよかったのに。

 そうしたらレツの望みを叶える事ができて、私たちは永遠に一緒にいられたかもしれないのに。


 どのくらい泣いたんだろう。

 体中の水分全部出し切ったんじゃないかって位泣いて、その間中レツはずっと抱きしめていてくれて、やっと気持ちが落ち着いてくる。

 天窓からはごく僅かな月の光が入ってくるだけで、暗くてとても静かで、生き物たちがみんな眠りについているんじゃないかってくらい、静寂に包まれている。

 もしかしたら、ものすごく長い間泣いていたのかもしれない。

 顔を上げるとレツと目が合う。

「大丈夫?」

 問いかけるレツに頷き返す。

 体を起こし、レツの顔が正面に見えるように座りなおす。

 今はもう、レツの顔には苦渋の色は浮かんでいない。

 いつものように、凪いだ海のように静かに落ち着いている。

「サーシャ。一つだけ聞いてもいい?」

「うん」

 レツの瞳を覗き込むと、すっとレツが目を逸らす。

「祭宮のどこが好きなの」

 好奇心から聞いているような言い方だけれど、別に嫌な感じはしない。

 祭宮。

 ウィズの好きなところ。

 うーん。

 優しいところ。いや、レツのほうが優しい。

 頼りになるところ。いやいや、レツのほうが頼りになる。

 本音を言えるところ。いやレツのほうがずっと色んな事話せる。隠し事なんてしないし。本心を偽ったりもしない。

 あれ?

 何かおかしい気がする。

 悪口なら山のように言えそうなんだけれど。

 態度がでかいとか。裏表が激しすぎとか。祭宮モードのとき、実はちょっと気持ち悪いとか。何考えているのか、さっぱりわからないとか。短気で怒りっぽいとか。慣れなれしくて嫌な感じがするときがあるとか。人のことを小馬鹿にしているとか。神官長様のことばっかり考えているとか。

 ムカつくところは沢山出てくる。

 あれ。本当にどこが好きなんだろう。

「えっと……」

 くすくすっとレツが笑う。

「何で困ってるの」

 そう言われても。

「浮かばなくて。どこが好きか」

「何それ」

「うーん。自分でもよくわからないんだけれど、ここっていうところは無いみたい」

「ふーん」

 納得いかないって顔で、レツが床に胡坐をかいて座る。

 だって、自分でもわからないんだもん。

 だからレツに上手く説明なんて出来っこない。

 下から覗き込むレツの瞳は、暗闇の中でも何故か反射する水面のようにキラキラと輝いていて、とても綺麗。

「あ、でもね」

「何」

 レツの瞳を見ていたら急に思い出した。昼間の、レツに敵対しようとした傍若無人な人のこと。

 そしてあの人を制止し、あの場から開放してくれた祭宮のこと。

「困っている時には助けてくれる。巫女になる前も、なった後も、今日も助けてくれたよ」

 目を細め、レツが低い声で冷ややかに呟く。

「あー。ただのカッコつけのところね」

「違うよ。ひっどーい。人が見る目ないみたいな言い方して」

 レツの言い方がすごく癇に障って、何か私がすごくダメみたいな言い方をされた感じがして、ついつい声を荒げてしまう。

「だってそうだろ。あんな奴連れてきたのは、祭宮自身じゃないか。自分で撒いた種じゃないか。それなのに嬉しそうな顔しちゃってバカみたい」

 プイっとレツが首を横にして、顔を背ける。

「そりゃ、そうかもしれないけど」

 取り付く島もない感じで、レツはしばらく口もきいてくれない。

 話しかけてみても無視して、そのまま座り込んでいる。

 何よ、自分で話を振っておいて。

 ふてくされた顔で、頬杖ついて遠くを見ている。

 そんな顔するくらいなら、聞かなきゃいいじゃないよ。

「あのさあ」

 下から睨みつけるような顔で、力の篭った声でレツが話しかけてくる。

 いつもの天真爛漫さは無く、一瞬びくっと体が動くほどの迫力がある。

 明らかに不機嫌そうなのが手に取るようにわかって、レツに対してイライラしていた気持ちが、すっと影を潜める。

 逆に怒らせちゃったかも、という不安が心によぎる。

「別にサーシャが祭宮のことを好きでも気にしないよって言ったから、ボクが傷つかないとでも思った?」

「え、あの、ごめん、そういうつもりじゃ……」

 咄嗟に出たのはありきたりの言葉。

 私はまたレツに嫌な思いをさせてしまったんだ。どうして上手くいかないんだろう。

 気を許しているから、ついつい言わなくてもいい事まで言ってしまう。

 本音を話せるただ一人の存在だからって、もうちょっと考えて話すようにしなきゃ。

 怒るのも当たり前だよね。

 何て私って無神経なんだろう。

 自己嫌悪でいっぱいになる。

「バーカ」

 ふっとレツが笑う。

 ピチンと軽い音を立てて、おでこを指で弾かれる。

 本当は指は当たっていなくって、風の塊が当たっただけだけれど、確かに触れたような感触はある。

「何困ったような顔してんの。冗談だよ」

 べーっと舌を出し、レツが立ち上がる。

 背中を向け、レツは奥殿の奥の暗闇の方を見てる。

 レツにつられるように立ち上がり、無言でレツの背中を見つめる。

 また余計な事を言ってしまうんじゃないかと、何か言うのは躊躇われたから。

 本当に冗談なのか。

 それとも本気で言っていたのか。

 聞き返したいけれど、聞き返せない。

「で、何があったの」

 振り返らない。

 何て言ったらいいのかわからなくて、レツが次に何か言ってくれるのを待つ。

 今の、本当に冗談だったの。

 私、レツを傷つけているんじゃないのかしら。

 私に気をつかわせないように、誤魔化していたりしないかな。

 何か冗談で流しちゃいけない気がしたんだけれど。

 本当はもっと言いたいことがあるんじゃないの。

「聞いてあげるから。何でそんなに落ち込んでるの」

 湧き上がってきた疑問は、結局レツのその言葉で飲み込むことになる。

 聞いたほうがよかったのか、それとも聞かないままでいいのか。

 私はなぜか、レツに対してすごく臆病になってしまっている。

 下手な事を言って、軽蔑されたくない、嫌われたくない。

 ふうっとレツが溜息をついて、大きく伸びをする。

 実体が無くっても肩が凝ったりするんだろうか、なんていうくだらないことが頭をもたげる。


 妄想を打ち払うように頭を左右に降り、意を決してレツに話し出す。

 祭宮が話していた、結婚するかもしれないという事。結婚したらこのあたりに住もうかって言っていたこと。

 相手が見つかったのかと喜んでいた神官長様の話。

 それから私の考えてたこと。

 たまに相槌を打つだけで、レツは途中で口を挟もうとはしない。

 最後まで聞いて、レツがゆっくりと振り返る。

「失恋したと思ったんだ。ふーん。で、サーシャはどうするつもりなの」

 向かい合うレツの目は真剣で、誤魔化したりなんて出来ないような、何でも見透かしてしまいそうな澄んだ目をしている。

 その場しのぎでなく、自分を誤魔化すのでもなく、きちんとした答えを話さなきゃ。

 レツに二度と嘘とつきたくない。

 何度も深呼吸をして、ゆっくり時間を掛けて考える。

 どうしたいのか。

 どうなるのか。

 レツに同情するのではなく、義務感を持つのでもなく、嘘偽りのない私の気持ち。

「多分……」

「うん」

「今、すぐ、なんて無理だけれど、きっと少しずつ恋しいと思ったり、ドキドキしたりしなくなると思うの」

「何で?」

 問い返したレツの瞳の中の光が動く。

「そんなに簡単に忘れられるような恋なの? ボクにはそうは見えない」

 全てを見通すレツの目に、ぐっと言葉に詰まる。

 レツの真っ直ぐな視線が痛くて、目を逸らしてしまいたくなるけれど奥歯を噛み締めて堪える。

 ここで逃げたり誤魔化したりしたら、また同じ事になる。

 思いつくままに、レツに話してみようと思う。

 別に、取り繕う必要は無い。

 レツが知りたいのは、私の本当の気持ちなんだから。

「時間が解決してくれると思ったから。時間がたって気持ちが薄れていくのを待つしか出来ないと思うの」

 コクンとレツの首が縦に動く。

 それに促されるように、さらに思いつくままに話し出す。

「昔、好きだった人がね、あ、レツは知っているよね、きっと。幼馴染のルアって言うんだけどね、王都に言っちゃって、私結構しつこい性格だから諦めきれなくて、なかなか。結局三年掛かったんだ。王都に行っちゃってから気持ちが落ち着くまで。だけど時間が経つことによって、気持ちがどんどん薄れていったの。だから、そういう風になるんじゃないかって」

 一気にまくし立てる私の言葉を黙って聞き、レツがまた頷くように首を振る。射抜くような視線のまま。

「それにさ、不毛じゃない? どんなに好きでも絶対に振り向かないし、身分だって違いすぎる。私が巫女じゃなくなったら、二度と会う事も無い人だし。分不相応っていうのかな」

「それはどうだかわかんないけれど」

 不毛じゃないってことかな。

 想い続けていたければ、想い続ければいいってこと?

 短いレツの言葉に含まれた真意が、理解できない。

 だって想い続けたら、レツを傷つける。

 それにどうするつもりなのかって聞かれたから、時間が経つのを待とうっていう結論を出したんだけれど、それは何か間違っているのかしら。

 ポツリと呟くレツの言葉に勢いを失って、私の口はまた重たく閉じてしまう。

「おいで」

 レツが傍に来るようにと手招きをする。

 促されるままにレツの横に立つと、実態のないレツの手が、私の手を掴む。

 そのまま引っ張られるように歩いていくと、奥殿の最奥の扉の前に辿り着く。

 この扉の向こうは、確か湖のはず。

 どうするんだろうとレツの横顔を覗き込むけれど、レツは何も言わず、こっちを見ようともしない。

 すっと扉に向かって、空いている方の手をかざす。

 バチンと、何かがはじけるような音がして、空間が捻じ曲がったような、平衡感覚が無くなったような感じがして、気付くと薄暗い洞窟のようなところに立っている。


 ここは、もう一つの奥殿……。

 横を見ると、レツの姿はない。

 その代わり、目の前には全容を見る事ができない巨大な黒い塊がある。

 本当のレツ。

 一瞬考えてから、黒い塊に近付き、もたれるようにして座る。

 ぬくもりが背中から伝わってくる。

「サーシャの思うとおりにしたらいい。ボクはこうやってキミが傍にいてくれれば幸せだから」

 どこからともなく聴こえてくる、レツの声。

 背中から伝わるあたたかさが心地よくて、目を閉じてゆっくりと息を吸い込む。

 私も、こうやってレツの傍にいる時、すごく幸せなんだ。

 ねえレツ。

 私、レツのこと好きなんだよ。

 一緒にいたら、すごく楽しい。そりゃ、たまにはムカつくときもあるけれど。

 こうやって穏やかな気持ちになれるのも、安心できるのも、全部レツといる時だけなんだよ。

 どうやったら伝わるのかな。

 熱情はないけれど、私はとってもレツのことを大切に思っているって。

 本能だけじゃないよ。絶対に言い切れる。

「ずっとこうやって傍にいられたらいいのにね。誰にも邪魔されずに二人っきりで」

 自然と、考えるよりも先に口が動く。

 こうやってこの洞窟の中で二人っきりでいられたら、きっと祭宮のことも考えずに済む。

 神官長様の態度にイライラしたり、失望したりすることもない。

 萎縮したりすることもなく、警戒して周りに気を配る事も無く、穏やかな気持ちに包まれて生きていける。

 誰にも邪魔されない。私とレツだけの楽園。

「ダメだよ。食べたくなっちゃうから」

 夢見心地に響く、優しくて甘いレツの声が、空想の羽を更に広げる。

「一生、私、ここにいる。ねえ、いいでしょう? そうしたら、きっとずっとレツのことを大切にするから」

「ダーメ。そんなの逃げているだけだもん」

「そんなことない。逃げてなんかないよ」

 だって、今こんなに満ち足りた気持ちなのに。

 こんなにも私は幸せだって思っているのに。

 逃げてなんかない。私はレツとずっと一緒にいたいって、確かに思っている。

「今はよくても、すぐに嫌になるよ。飽きるに決まってる。こんな息苦しい中で一緒にいたら、きっとお互いが疎ましくなる。ボクはそんなのは嫌だ」

 たった今、私が抱えている気持ちは幻想だって言うんだろうか。

 そんなことないのに。

 レツのこと、疎ましいと思ったりしないのに。どうしてそんな言い方するの。

 ふわっと風が起こり、誰かの手が頬に触れたような感触がする。

 目を開けて誰なのか見たいのに、まぶたが重たくて開かない。

 意識がゆっくりと遠ざかっていく。

 かすかに聴こえてくる、レツの声。

「今日はここで眠りなよ。疲れたでしょ。キミの涙も喜びも全部、ボクが抱きしめてあげるから」

 あったかい、優しいレツ。

 ずっとこうしていたい。

 何も特別なものなんていらない。ただこうやって、レツが傍にいてくれたら。

 私、きっと世界で一番幸せになれる。




 夢を見た。




 広大な大地。巨大な蛇行する河川。そびえ立つ山々。


 本来あるはずのものがない。

 ここにあるべき巨大な迷路。頑強な牢獄。

 後に神殿と呼ばれる、王宮よりも遥かに大きな建造物。


 ――あれは、ボクを縛る檻。これは檻ができる前の、ずっとずーっと遠い昔の風景。





 ボクは子供だった。

 いつからこの世界に存在していたのかなんて知らない。

 ただ、気付いた時にはここにいた。

 大河の源流。山麓のふもと。

 ボクがくしゃみをしたら雹が降り、ボクが涙を流せば洪水が起きた。

 体をくねらせれば、大河が氾濫する。

 けれど、ボクにはそんなことはどうでもよかった。別にボクが生きていくのに、不都合は無い。

 ただ、たまに無性に腹が空く。

 腹が減るとイライラして、山麓の峰を崩してみたり、大地を引き裂いてみたり、世界を厚い雲で覆ってみたりした。

 けれどそんな事でボクの空腹が満ち足りるはずも無く、イライラが更に募るだけだった。

 だから大河を干上がらせてみたり、氾濫させてみたり、ボクのできるありとあらゆることをしてみた。

 そうすると、誰かがボクの前に食事を差し出す。

 美しく着飾った、怯えた目の少女。

 ボクは少女たちの名を知らない。知る必要も無い。

 人間たちは少女を「ニエ」と呼んでいた。

 ニエが怯えたように震えるのを気にも留めず、沢山の人々が踊ったり、仰々しくなにやら祈ったりするのを聞いていた。

 もったいぶらずに、早く寄越せばいいものを。

 腹が減って仕方が無い時は、ニエの少女を取り囲む奴らに雷を落とし、追い払った。

 少しは我慢ができそうな時は、何も面白みもない遣り取りを黙って見ているだけにしておいた。

 少女を取り囲む人間たちの姿が消えれば、食事の時間。

 待ちにまった食事だ。

 ボクは美味しくいただいた。


 だがある時、食おうかと思ってやめた。

 そのニエは、ボクに「かわいそうね」と言って泣いた。

 その涙を見ていたら、食欲が減退し、なんだか空腹なんてどうでもよくなった。

 ボクはかわいそうなんかじゃない。

 この世界に生きるどんなモノよりも自由だ。

 思い通りにならないモノなんてない。

 なぜこんな小娘に「かわいそう」なんて言われなきゃならないんだ。

 とりあえず、ボクはこのニエを生かすことにした。

 けれど腹が減るのは抑えられないから、少しずつその生気を食ってごまかした。

 丸のまま食うよりは劣るけれど、これでも十分腹は満たされた。


 ある時湖で寝ていたら、ニエが声を掛けてきた。

「あなた、誰」

 ボクは何を言っているのか、意味がわからなかったから、体を起こしニエに近付いた。

「どうして湖面を歩けるの。どんな魔法を使ったの」

 首をかしげるニエを鼻で笑った。

 湖面を歩いて、何がおかしい。ボクは竜だ。そんなことできて当たり前だろう。

「ちっちゃな子が、こんなところで一人で何をしているの。竜に食べられちゃうわよ」

 バカか。

 ボクが竜そのものなのに、誰が誰を食うっていうんだ。

 しかし、おかしい。

 いつもニエを遥か下方に見ているのに、ボクはどうしてニエを見上げている。

 何かがおかしい。

「早くこっちに来たほうがいいわ。竜に見つかる前に」

 ニエは手を差し出した。

 その手にボクは手を重ねた。

 あたたかい。

 ボクは生まれて初めて、他人の温もりを知った。

 そして気付いた。

 ボクが小さな人間の子供の姿になっていることを。



 キミはボクにどんな魔法をかけたの。

 ボクを永遠の孤独から救い出した人。

 そしてボクから未来を奪った、残酷なキミ。

 キミはボクが人の手によって支配される事を望んだのか。


 今はもう会えないキミ。

 ボクがキミに着けられた枷は、誰にも外す事ができない。

 この枷がある限り、一日たりともボクはキミを忘れたりしないだろう。

 縛られたのは、体なのか、それとも心なのか。

 いっそ憎めたら、どんなに楽だっただろう。



 今、キミとの約束が破られようとしている。

 ボクは世界に混沌を巻き起こす。

 引き金を引いたのは、キミが愛した奴の末裔。

 だから、ボクを許してね。

 キミとの約束、破るつもりはなかったんだ。





 朝になり、奥殿の冷たい床の上で目を覚ました。

 不思議と体は痛くは無い。

 そばにレツの姿は見えない。

 眠っている間、とても幸せで、とても寂しい夢を見ていた気がする。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ