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 大祭二日目。

 全ての礼拝も儀式も終えて、そのまま奥殿へと向かう。

 レツに会えると思うと、自然に早足になってしまって、前殿と奥殿を結ぶ回廊を走り抜ける。

 走るとベールが顔にまとわりついて邪魔で、今日はもう誰に会うわけでもないから、髪が乱れるのも気にしないでベールを髪飾り兼留め具ごと無理やり引き剥がす。

 視界を遮られるのも鬱陶しいし、それに何よりもちゃんと自分の目でレツを見たいと思うから。

 例え薄布であろうとも、レツとの間を遮るものがあるのは嫌だ。

 空は沈みゆく陽が赤々と燃えている。

 レツといられる時間は、ごく僅かしかない。

 今日もいいお天気で、礼拝堂の中はまるで蒸し風呂みたいに暑かった。

 きっとこの夕日の感じだと、明日も暑くてしかたのない一日になるんだろう。


 奥殿へと繋がる橋を渡り、重さを感じさせない扉をレツの邪魔にならないように、音を立てずにゆっくり開く。

 扉が開いていくと徐々に光が奥へと差込み、レツの姿を鮮明にしていく。

 目を閉じ、奥殿の中でレツは静かに、まるで眠っているかのように微動だにせず座っている。

 きっと、沢山の声を聞いているんだろう。

 時折笑うように口角を上げたり、いぶかしむように眉間に皺を寄せる。

 一体どんな言葉を聞いているんだろう。

 そんなレツの表情を少し離れたところから見ていると、神様なんだなって改めて思う。

 普段一緒にいる時のレツは、その辺にいるヤンチャ坊主っていう感じで、ごく普通の男の子に見える。

 触れることは出来ないけれど、触れられなくて困るような事もないし、あまりその事を意識する事もない。

 態度は偉そうな時も多いけれど、それもわがままと言ってしまえばそれで片付くような程度。

 なのに、こうやって光を纏っている姿を見ると、手の届かない存在のように見える。侵してはならない神聖なものに見える。

 ここに来るまでの間、レツに飛びついてしまいたい位の勢いがあったのに、今は息を潜めて静かにその姿を見ていたい。

 決して邪魔をしたくない。

 こうやって傍にいられるだけで、こうやって姿を見られるだけで、何て幸せな事なんだろう。

 心の中から自然とレツを、水竜を敬う気持ちが湧き上がってくる。

 奥殿の床に衣擦れの音を立てないように座り、レツの様子を見守ることにする。

 レツの姿を見ながら、色んなことを思い出す。

 私はどうして水竜の巫女になるのを、あんなにも悩んだんだろう。

 こうやって傍にいられる幸運を、手放そうかとさえ考えた自分が信じられない。

 姿を見たら、声を聴いたら、心は全部レツのところに連れていかれちゃうのに。

 でもあの時悩んだのも、決して拭い去る事の出来ない事実。

 もしも巫女になる前からレツの声を聴く事が出来たのなら、あんな風に悩む事はなかったんだろうか。巫女になる事を熱望したのだろうか。

 抗う事なんて出来ない。

 こんな風に魅了されてしまうのに。

 自分の意思とは関係なく、本能的に水竜を求めてしまうのに。

 ただ、それはレツが欲しい恋の熱狂とは違うものだろう。

 私は今こんなにもレツから満たされた思いを貰っているのに、レツに何一つ欲しいものをあげることが出来ない。

 レツの願いを叶えてあげたいと思っているのに。

 水竜の神殿から自由になれるように。始まりの巫女が残した呪縛から解き放ってあげたいのに。

 今、それが出来るのは私だけなのに。

 どうしてレツじゃだめなんだろう。どうして祭宮なんだろう。

 願いを叶えてあげたいって、心の底から思っているのに。

 その為だったら何でも出来ると思う。本当に。

 もどかしい。

 思い通りにならない心がじれったい。

 私だってレツのことが好きなのに。ちゃんと本能じゃなくって、本当に好きだって思っているのに。

 なのにどうして駄目なんだろう。

 あと一歩の壁が越えられない。

 早く祭宮のこと、断ち切らなきゃ。


「焦らなくていいよ」

 真っ直ぐな目で、レツが見ている。

 深い泉のような青い瞳が、瞬きもせず見ている。

 レツの口調はとても穏やかで、去年感じたのと同じように、いつもの少年の雰囲気でなく成長して青年になったかのような感じがする。

 確かに目に映るレツは、いつもと同じレツなのに。

 たった数日で何歳も歳を重ねてしまったみたい。

 凪いだ海のような瞳に、夕日の光がキラキラと反射している。

「時間はまだたっぷりとある。ヤツに勝てる自信もある」

「レツ」

 笑っていない。

 いつもなら、もっとおどける様に言うのに。

 淡々と、まるで説き伏せるかのようにゆっくりと語りかけてくる。

「恋ってさ、どこからやってくるんだろうね。ササと出会ってこうやって話が出来るようになって、丸二年が経った。僕たちはお互いの事をよく知っていると思う。だけど知っているということが、恋に繋がるわけじゃない」

 黙って頷く。

 レツの言うとおりだ。

 この二年間で、レツの事を理解する事は当然全部じゃないけれど出来たと思う。

 だけどレツを知ることが、恋焦がれる事には繋がっていないのは、レツの言うとおりなんだもん。

 冷静に分析をしているレツもまた、私に恋なんてしていない風にも思えてくる。

 私たちは、お互いにお互いのことを「好きにならなきゃいけない」って思っているんじゃないのかな。

 そうしなくてはと思っている限り、永遠に恋を手に入れることは出来ないような気がする。

 でも恋をしなければ、レツをこの一人きりの孤独な「水竜の神殿」という空間から救い出すという奇跡を起こすことは出来ない。

「そうじゃないよ、サーシャ。キミは色々難しく考えすぎてるよ。ボクはね、いいところを見せたいだけなんだよ」

 心の中を読んだレツが笑いながら言う。

「みっともないから、ボクは自分の心の中を明かしたくないだけだよ。例え思い通りにならないとしても、ね。そんなことよりサーシャ、明日は気をつけて」

 突然真顔に戻り、レツが手招きをする。

 明日、気をつけるって何を。

 レツの座るところに歩み寄りしゃがみ込むと、温度のない手が私の両手を握る。

「ボクはいつでもサーシャを見てる。傍にいる。いつでも助けてあげるからね」

「レツ? どうしたの」

 明日は大祭の儀式と礼拝はあるけれど、別に特段変わったことをするわけでもないし、今日までやってきたことの繰り返しみたいなものなのに。

 強いて言えば、祭宮に会わなければいけないんだけれど。

 でもそれだって、大祭の時に王家にご神託を伝える為のもので、慣例みたいなものなのに。

 何をそんなに懸念しているんだろう。

「明日の夜は、ここにいてもいいからね」

「うん」

 よくわからないけれど頷く。夜もいてもいいよっていうのは嬉しいから。

 あ、そういえば。

「ねえ、レツ。どうして普段は夜は奥殿に入ってはいけないの」

 レツが驚いたような顔をして、瞬きをする。

「あれ、言ってなかったっけ」

「うん」

「そっか。夜はね、ボクが狂うから」

 手を離し、レツが扉を指差す。もう時間だよって告げるかのように。

 これ以上詮索するなって言っている風にもとれる。

「今日はゆっくりオヤスミ。また明日、サーシャ」

 これ以上、話す気はないみたい。聞いても無駄よね。

 おやすみなさいを言って、戻る為にレツに背を向ける。

 扉に手を掛け、もう一度レツを振り返ると、ここに入った時と同じような格好で目を閉じている。

 溜息をついて扉を閉めた時、頭の中でレツの声が響く。


「ボクはキミが好きだよ」


 知っているわ。

 それが真実だということは。

 だけどレツの心の中にいる始まりの巫女に、私はきっと負けている。

 奇跡を起こせる可能性があるから私の心が欲しいのであって、レツの本心は私には向いていない。

 ずっと、きっと何百年という長い間、レツの心の中には始まりの巫女しかいない。

 私も、神官長様も、歴代の巫女たちも、誰も始まりの巫女には勝てない。

 どうしたらいいんだろう。

 私の心も、レツの心も。




 大祭最終日。最後の礼拝兼儀式。

 次の一年の五穀豊穣を願い、また今回の大祭の終わりを告げる為の祈りを捧げる。

 礼拝堂に入ると、この三日間同じところに座り続けた祭宮が目に入る。

 横にはどうせまた神官長様が座っているんだわ。

 チラリと礼拝堂の最前列中央のあたりを見ると、今回に限っては神官長様は祭宮の隣には座っていない。

 祭宮と神官長様の間には、見たことのない人が座っている。値踏みするみたいな表情で、信仰心のカケラも感じさせないようなくつろぎきった態度で足を組んで。

 あの二人の間に座っているということは、きっと王族関係者なんだろう。それ以外考えられない。

 横目で見ているのに、その人と目が合ったような気がして、慌てて目線を戻す。

 一体何者なんだろう。

 やけに目がギラギラしていたような気がする。

 それにどことなく祭宮に似ている。

 きっと痩せたら祭宮のような感じになると思う。

 太って、いやいや、この場合は何て言うんだっけ。そうだ、恰幅がいいから全体の雰囲気は何となく違うけれど。

 神官長様と祭宮といった私の知っている王族とはまた別の、どことなく威圧感のある人だわ。

 気にしてもしょうがないので、祭壇の中央に立ち静まり返るのを待ってから、長い長い祈りの言葉を紡いでいく。


 一通りの儀式も終わって、礼拝堂を退出しようとした時、背中に強烈な視線を感じる。

 なんだろう。

 深く考えずに振り返ると、祭壇に背を向けて退出していく大勢の人たちとは対照的に、祭壇のギリギリのところまで神官長様と祭宮を引き連れて、多分王族の人が近付いてくる。

 すっと、その人物を私の間に割って入るように、シレルと数人の神官が立ちはだかる。

「巫女様」

 シレルが促すように声を掛けるので、何も言わずに頷く。

 決して神殿以外の人と、言葉を交わしてはいけない。

 たった一人の例外は、祭宮。

 それも限られた部屋の中だけで。

 見下ろすように三人の姿を見て、衣を翻す。

 歩こうと一歩足を進めると、長い裾がどこかに引っかかったかのように、ピンっと後ろに引っ張られる。

 どこかに引っかかったのかと思って振り返ると、衣は額に汗を浮かべた男の手に握られている。

「おやめ下さい」

「お放し下さいませ」

 異口同音に祭宮と神官長様が咎める。

 けれどそんな二人の様子を気にすることなく、その手を離そうとはしない。

「何が悪い。この者と話したい」

 自分の言葉は絶対で、服従すべきであるというかのように聞こえる。

 言葉の端々に傲慢さが伺える。

 初対面にも関わらず、私はこの人のことが嫌いで、触れられたくないと思っている。

 今、たった一言、その声を聞いただけなのに。

 なんか、気持ち悪い。吐き気がこみ上げてくる。

 力一杯裾を引っ張ってしまいたいくらい、嫌。

 そんなことをしないのは、巫女としての体面があるからで、本当は今すぐこの顔の見えないところへ行きたい。

 嫌いなの。

 この人の顔、一秒足りとも見ていたくない。大っ嫌い。

 どうしてそう思うのかは、わからないけれど。

「お放しくださいませ。そのような子供のような振る舞いをなさるのは、あまり外聞のいいものではありませんわ」

 冷ややかに神官長様が言うのを聞き流し、その人は更に手に力を篭める。

「巫女様とお言葉を交わすことは出来ません。その手をお引き下さい」

「そちは話せるのにか」

「わたしは水竜様および陛下より、祭宮の任を与えられております。巫女様からご神託を賜るのが、わたしに課せられたことでございます」

 祭宮が頭を他人に、まるで神官たちのように下げるなんて初めて見た。

 こんな風に祭宮が頭を下げるなんて、想像もつかない事だったから、驚きの声を上げてしまいそうになる。

 気付くと前の方の席に座っていた人たちが扉の方を向くのをやめ、こちらを向いて様子を伺っている。

 今ここで失敗する事は許されない。

 巫女を壊したらいけない。

 私がちょっとでも失敗したら、巫女の威厳が台無しになる。

 それは水竜の威厳や神秘性も損なう事になってしまう。

 誰にも気付かれないように、そっと深呼吸する。

 シレルが振り返るので、黙って頷き返す。

 私は大丈夫だって伝える為に。

 今ここで動揺していることを、他の誰にも悟られてはいけない。

 私はただ、この事態が収束するのを見ているだけでいい。

 無理やり裾を引っ張って手を離させるのも、もしかしたら水竜に対する信仰心の表れからそういった行動を取っているかもしれないので、あまり好ましくないだろう。

 でもこの人は、そんなことを考えているとは思えない。もっと俗物のように見える。

 だた、息を潜めて遠巻きに見ている人たちは、きっととても水竜に対して強い信仰心を持っている。

 その人たちの幻想を壊してはいけない。

「おやめくださいませ。ここは水竜の座すところ。巫女様は尊いお方ですわ。手をお引き下さいませ」

 神官長様からそんな言葉が出るなんて思ってもみなくて、唖然としてしまう。

 私のこと、尊いなんてこの人が思っていたなんて。信じられない。

 祭壇の台座の下で両手を広げ、神官長様が立ちはだかる。

「水竜様は絶対です。あの方がお決めになられた事に反するような事をなさるおつもりなら、力ずくでも出て行っていただきますわ」

 強い口調で神官長様が言うのを聞き、納得する。

 そうか、神官長様はレツを、水竜を守ろうとなさっているのね。

 私じゃない。レツを守る為に必死なんだわ。

 神官長様付きの神官をはじめ、数十人の神官があたりを取り囲む。

 礼拝堂の中は、ただならぬ雰囲気が広がっていく。

 もう誰も、礼拝堂の出口へ向かおうとしていない。

 ざわめきはどんどん大きくなって、騒ぎになっていく。

 恐らく祭宮の連れてきた兵士と思わしき、体格のいい人たちも身構えて動き出そうとしている。

 まさに一触即発。

 きっかけがあれば今にも爆発しそうな、不穏な空気で礼拝堂は包まれている。


 レツ、どうしよう。

 私は巫女として、今、何をしたらいいの。

 本当にただ立っているだけでいいの。どうしたらいい。

 ――大丈夫。不安になることはないよ。

 でもこのままじゃ。

 どうやって解決したらいいの。

 ――サーシャは何もしない事。偉そうに立っている事。それ以外に出来る事はないよ。

 だって、それじゃ手を離してくれなそうだよ。

 ――揺らがないで。サーシャが一言でも口を開けば、何百年もの秩序が壊れてしまう。そいつはそれをわかってやっているんだ。


 不快そうにレツが言い捨てる。

 ニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべている男に鳥肌が立つ。

 得体が知れなくて気持ち悪い。

 早く離してよ。


 ――大丈夫。ボクはすぐ傍にいるよ。サーシャ。


 レツの言葉に少し平静を取り戻し男から目を移すと、ベール越しに祭宮と目が合う。

 大丈夫、口がそう動いた気がする。


「水竜の神殿と袂を分かつおつもりですか?」

 男が祭宮を睨みつける。

「お引き下さい。何の利益にもなりません」

「そちの意見など、聞いておらん」

 祭宮に忌々しげに吐き捨て、その人は腕を思いっきり突き出し、祭宮の体を払いのける。

 また一歩、台座に近付く。

「水竜の神殿への侮辱と見なしますわよ」

「下がれ」

「下がりません。わたくしに命令を出来るのは水竜様ただお一人ですわ。わたくしはこの神殿を預かる神官長です。巫女に仇なすおつもりなら、わたくしを殺してからになさいませ」

 神官長様の表情は見えない。

 物騒な言葉に、神官たちが身構えるように体を動かす。

「大げさな」

 失笑するような男の表情が、あっという間に凍りつく。

「本気ですわ。わたくしはここをひきません。どうなさいますか」

 しばらく睨み合いをするかのように、男は神官長様を見ている。

 その時間がものすごく長く感じて、息苦しい。

 取り巻く神官たちも、息を殺して様子を伺っている。

 自分の鼓動と、呼吸する音が、ものすごく大きく聞こえてくる。


 ふっと衣の張りが取れる。

 祭宮が男の手を掴み、ずっと掴まれていた裾を開放する。


 行け。


 祭宮の口が言葉を発せずに告げる。

 わかったというように祭宮に頷き、わざと衣を大げさに翻し神官たちに動けることを伝え、周りに幾重もの神官たちを従えながら礼拝堂を後にする。

 背後で男が祭宮に詰め寄る声が聞こえる。

 ありがとうございます。

 心の中で神官長様と祭宮にお礼をする。


 それにしてもあの人は一体何者なんだろう。

 神官長様と祭宮の態度から察するに、王族であることは間違いない。しかも二人よりも上位の。

 王族の仕組みなんてわからないから、何となくそうなんだろうなっていう程度だけれど。

 でもそんなことよりも、こんな風に生理的嫌悪感を感じる人に会ったのは初めて。

 見た目がどうこうという訳ではなく、何かあの人の雰囲気が気持ち悪いというか、近付きたくないというか。

 とても嫌な何かを纏っている。

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