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「巫女様、お時間です」
深く頭を下げたシレルに頷き返す。
「参りましょう」
巫女になって三度目の水竜の大祭が始まる。
ざわめく廊下をシレルの先導で歩いていくと、神官たちが立ち止まり、会釈をしてくれる。
通り過ぎる時、みんなの顔が引き締まって固まっていく。
なんだか、自分だけが異質の存在になったような、どことなく寂しいような気持ちになる。
巫女として敬ってくれているだけの事なのに、疎外感を感じるのは、どうしてなんだろう。
取り巻く神官たちが、どことなくよそよそしい感じがして、拒絶されているような距離感を感じるようになって数ヶ月。
たった一枚、薄布一枚なのに、ベールが私を他の人たちとの世界を隔ててしまったみたい。
でも後悔はしていない。
あの日、ベールを着けて神官長様の前に行った事も、それからずっとベールを着けていることも。
これさえあれば、私は強くなれるから。
もう誰にも、私の存在を否定されたくない。
その思いはずっと変わらない。
いくつもの角を曲がり、礼拝堂の扉の前に立つと、シレルが思い出したように振り返る。
「祭宮様がお見えです」
予想外の言葉に、思わずシレルの顔を凝視するけれど、その表情は全く変わらず揺るがない。
何で今、急に祭宮のことを言い出したんだろう。
儀式が始まるっていう時なのに。ここに来るまでの間、何一つ祭宮にまつわる事を言わなかったのに。
言おうと思えば、朝打ち合わせをした時でも、さっき部屋を出る前でも言えたはずなのに。
いけない。動揺を見せたらいけない。
「祭宮様?」
心の動きを悟られないように、ゆっくりとシレルに問いかけて、体の向きをシレルの方へ向ける。
「本日より後夜祭まで、全ての礼拝および儀式に参列なさるとのことです」
「お仕事熱心ですね」
どういう風の吹き回しか知らないけれど、何か魂胆があるんだろう。
本気で祭宮として水竜の大祭に参加しなくてはいけないという使命感に燃えているとかっていう訳じゃないだろう。
そんなこと、絶対にありえない。
きっとそれは大義名分で、あの人に会いに来たんだろう。
春先からずっと会っていなかった、神官長様に。
今更その事に驚いたりはしない。だって、いつものことだもの。
ベールの下で苦笑いを浮かべたけれど、きっとシレルには見えていない。いつもより多くの生地を重ねているから、余計に。
どんな風に伝わったんだろう。
シレルが目線を扉の向こうの喧騒に向ける。
「儀式が終わった後に、ご挨拶をとお申し出があった場合、いかが致しましょうか」
多分、シレルが考えているように、そういった申し出は間違いなくあるだろう。
この儀式が終わったあと、か。
水竜の大祭を始める為の儀式ならびに、一般の人を入れての一回目の礼拝。
終わるのは夕暮れの頃になるから、まだレツに会いに行く時間あるかな。
今日はバタバタしていて、レツの顔まだ見てない。
ちょっとでもいいから、レツに会いたい。
んー。
夕食の後なら、少しくらい祭宮に挨拶するくらい時間作れるかな。
それとも軽く挨拶する程度なら、遅い時間に無理して会うよりも、明日にしたほうがいいのかな。
明日の朝一……。それは面倒だよね。着替えやらお化粧やらで、いつもよりも仕度に時間が掛かるから。
それに今日来ているのに会わないっていうのも、王家を蔑ろにしているみたいに思われるかもしれない。
しかたない。
やっぱりレツの顔見たら、とんぼ返りで戻ってくるしかない、か。
「もしも祭宮様よりお申し出があったら、夕食後にお会いすると伝えて下さい。儀式が終わったら、私は奥殿に行きますから」
「かしこまりました」
頭を深く下げたシレルが顔を上げるのを待ち、頷き返す。
それが合図になったようで、シレルがその手を扉に掛けた。
扉が開くと、一瞬静寂が訪れ、その後爆発したような歓声が聞こえてくる。
胸の鼓動が早くなる。
熱狂が伝わってくる。
普段感じる事のない躍動感と生命力に足がすくむ。
巫女として、レツの名を汚さないように、ちゃんと務めなきゃ。
目を閉じて深呼吸すると、頭の中にレツの笑顔が浮かぶ。
耳から入ってくる喧騒が、ふっと途切れて心地いいレツの声が聴こえる。
――行っておいで。サーシャなら大丈夫。いつもみたいに堂々としていればいいよ。
うん。
――怖くなんかないよ。儀式っていったって、僕に「どーもありがと」するだけのことだよ。
レツの言葉に頬が緩む。
緊張で強張っていた全身の力が抜ける。
レツには何だってお見通しなのね、ありがとう。
行ってくるね。上手く出来たら、後で褒めてね。
心の中でレツに語りかけ、礼拝堂に足を踏み入れる。
入りきれない位の人で、礼拝堂の後ろの扉が開いている。扉の奥まで人の列が繋がっている。
去年もこんなに沢山の人がいたかな。
最前列の席に、祭宮と隣に座る神官長様の姿が見える。
祭宮は神妙な面持ちで、祭壇を見つめている。
居並ぶ神官たちの中央に立ち、祭壇の中央を見上げる。
ざわめきが徐々に収束していき、礼拝堂の中は静けさに包まれる。
物音一つしなくなるのを待って、祝詞を奏上する。
それは、今年もまた水竜の大祭が執り行われる事を示す合図。
一年に一度だけ紡がれる、祈りの言葉。
そして、神殿は興奮の三日間が始まる。
シレルの予想通り、儀式の後に祭宮カイ・ウィズラール殿下から「ご挨拶を」とのお申し出があって、奥殿から戻って一息つく暇もないまま、神官長様の執務室へと向かう。
夜になる事を告げたら、祭宮から夕食を一緒にとのお申し出があったそうだけれど、それはシレルが上手く断ってくれたみたい。
奥殿から戻ってきた時に聞いて、一緒に食事になんてことにならなくて、本当に良かったと思った。
だって、テーブルマナーなんて、巫女になる前に少し習ったけれど自信ないもの。
いつも部屋で一人で食事をするから。そんなの気にした事もないし。
もしも祭りの間にそういう話が出ても、全部断ろう。
大体、祭宮と神官長様と三人で食事なんて、針のムシロじゃない。
絶対に味なんてわからないくらい緊張するに決まってる。
それに、せっかく最近失敗する事なくやってたのに、荒が目立つどころの話じゃない。きっと笑い話になる。
想像しただけでも、ぞっとする。
絶対に断ろう。
固い決意を胸に、執務室の扉を叩く。
中からは珍しく特に声が聞こえてこない。あんまり気にしてもしょうがないので、そのまま扉を開いて中に入る。
ソファに座っていた祭宮が、にこやかな笑顔を浮かべて立ち上がる。
神官長様の姿はない。
部屋の中をぐるりと見渡してみても、祭宮意外に神官すらいなくて、本当に祭宮一人だったみたい。
「こんばんは、祭宮様。お待たせしてしまって申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそ。お忙しいのにお時間を作って下さいまして、ありがとうございます」
人当たりのいい笑顔の祭宮に、見えないかもしれないけれど微笑み返す。
顔を見なければ、声を聞かなければ平気なのに。
心の中が、ざわざわと草原を渡る風のように音を立てて、キュっと胸が締め付けられるような息苦しさを感じる。
もう諦めるってきめたのに、心は上手く誤魔化せない。
馬鹿正直に、祭宮の笑顔に反応する。
しょうがない。
幼馴染のルアのことを忘れるのに三年かかったんだもん。きっと祭宮のことだって、すぐには割り切れないよ。
今は、今出来ることをすればいい。
いちいち自分の気持ちの揺れに付き合ってなんかいられない。
そうしたらきっとずっと忘れられないもの。
「神官長様は席をはずしていらっしゃるんですか」
ここに一人で祭宮を残すなんて考えられない。
何か理由があったのか。例えば体調が悪くなったとか。
それともいつものように、私を避けていらっしゃるのか。
なんにしても「客人」である祭宮の接待を放棄するなんてありえない。
「わたしがお願いしたのですよ。巫女様と二人でお話をさせていただけないかと。神官長様のお体の具合も良くなさそうに見えましたから、お休み頂いた方がよいのではと思いまして」
「そうですか」
一瞬ドキっとして、私ったら馬鹿みたい。
神官長様のお体を考慮してってことなのね。なんだかドキドキして馬鹿みたい。悔しい。
「それでしたら、人払いをしたほうがよろしいのでしょうか」
どうせ、そんなことは思っていないんでしょう。
いつもみたいに調子のいいことを言っているだけなんでしょう。
私の背後に立つシレルをチラッと見て、祭宮がまた微笑んだ。
「聞かれて困るような話ではありませんけれど、巫女様がそうお望みなら」
ニヤっと祭宮の口元があがる。意地の悪い顔。
そうやって私のことを試そうとしているんでしょう。こういうとき、本当に楽しそうなんだから。嫌な奴。
「私はどちらでも。祭宮様のお望みどおりに」
笑い返すと、祭宮が目を細めるようにする。
何よ。絶対にそっちのペースには乗らないわよ。
しばらく間をおいて、祭宮が溜息をつく。
「祭りの間、三日間も巫女様にお会いできるのですから、独り占めにするのはやめておきましょう」
三日?
そうしたら、大祭の間は毎日会いに来ますよって事なの。
そんなに話すことないのに。何を話したらいいのかも、わからないのに。
考えてみたら、私と祭宮には共通の話題なんてものは一つもないじゃない。巫女に関わること以外は。
どうしろって言うの。間が持たないわ。
「嫌そうですね。不服ですか」
「いえ、あの、そういう訳では」
咄嗟に取り繕うような言葉が出て、ここ最近上手く被っていた巫女の仮面が剥がれ落ちそうになる。
「そうですか。では、君。少し席を外してくれるか。巫女様はわたしと二人で話をしたいそうだ」
「そんな事、言ってません!」
大きな声が出てしまって、はっとして口元を手で覆う。
たとえベールをしていても、これじゃ私の感情が筒抜けじゃない。
レツ以外の誰にも、私の心には触れさせないってきめたのに。
何ヶ月も上手く振舞えたのに、ほんの少し祭宮と話をしただけで、作り上げてきた巫女があっという間に崩れ去る。
本当に鬼門か天敵だわ、祭宮カイ・ウィズラール。
「御前失礼致します。後程お伺い致します」
何をどう解釈したのか、シレルが一礼をし、部屋を出ようとする。
どうして行っちゃうのよ。
私は出ていってなんて言っていないのに。
「うん、よろしく」
何で祭宮が答えるのっ。
「失礼致します」
そう言い残すとシレルは扉を閉め、執務室の中には祭宮と私の二人っきりになる。
シーンとした空気が痛い。
先に話の主導権を握らなきゃ、またペースを乱される。
でも、何を話したらいいの。
「何か、雰囲気変わったな」
ドキっと、心臓が大きな音を立てて跳ねる。
上品な笑みを浮かべているのに、口調は思いっきり下品。
その切り替えの早さ、ギャップにすぐにはついていけない。 祭宮の仮面をあっという間に外してしまったみたいで、砕けきった態度で祭宮はソファにもたれかかる。
ペースを先に握らなきゃって思っていたのに。
「変わりましたか」
私は私のペースを守ろう。巫女の仮面が外れないように。
たとえ相手が祭宮であろうとも。
もうウィズって呼んだりしないって、心に決めているんだから。
「お前、近寄り難くなった。いかにも巫女様って感じでさ」
自然と口元が緩む。ベールがあってよかった。
褒められているみたいで嬉しい。祭宮にまでこんな事言われるなんて。
やっと私のこと、巫女として認めてくれたのかな。
私は、誰もが認めてくれるような巫女になれたのかしら。
「でも、つまんねえ」
浮かれた心を現実に戻すような、思いっきり不愉快そうな顔で、祭宮は腕を組んで踏ん反りかえる。
何よ、その何か言いたげな、不満たらならな顔は。
言いたい事があるなら、ハッキリ言えばいいじゃない。
やっぱり私のこと、巫女として認めてくれないってことなの。
「お前が何考えてるのか、さっぱりわかんねえんだもん。いつもそうやって顔隠してるの?」
「顔を隠しているつもりはありませんけれど」
これがあるほうが緊張しないし、ボロが目立たないし、薄布一枚なんだけれど自分の世界を守れるような気がするから。
別に顔を隠しているわけじゃない。
強いて言うなら、心は隠しているかもしれないけれど。
「つまんねえよ、本当に」
ブスっとした顔を、プイっと横に向け口を閉ざす。
子供みたい。
祭宮はわざわざ二人きりで、何を話したかったんだろう。
こうやってヘソを曲げる為に人払いをしたとは思えない。
だとしたら、また神官長様絡みかな。
本当に祭宮って神官長様のこと第一なのよね。
二人は小さい頃からの知り合いらしいけれど、何でそんなに気にかけているのかな。
特別な何かがあるんじゃないかしらって、勘ぐりたくなるよ。
「お前さ、前に俺がやった石。あれ、どうした」
前に貰った、あの青い石のネックレスの事だよね。
この間祭宮が来た時、レツにあげるって言ったあの石。
レツは受け取ってくれなかったから、奥殿を取り巻く湖の中に置いてきた。祭宮のことはもういいよっていう証に。
でも、本人にはさすがにそれは言えない。
それを言ってしまったら、私はあなたが好きなんですって言わなきゃ説明つかないもの。
それに、なんだか言い難い。手元にないって。
「ありますよ」
無くしたわけでも、捨てたわけでもない。置いてきただけだもの。
湖の底の深いところに沈んでいるかもしれないけれど。
「ふーん。ならいいけどさ」
髪を掻き毟るような仕草をした祭宮の袖口から、青い石が見える。
二つで一つだった、水の色をした小さな石。
祭宮はそうやって毎日身に着けているんだろうか。それとも私に会うときだけ着けるんだろうか。
どっちにしても、その石を見ると胸が痛んで、祭宮から目を逸らす。
強くいられるようにってくれた、半分の石。
大切にしなきゃって思っていたけれど、大切にしていたら、いつまで経っても私は祭宮に心を捕らわれたままになる。
だけど、祭宮の気持ちを踏みにじってしまったような気がして心が痛む。
ちゃんと巫女としてやっていけるようにっていう、祭宮の気持ちの篭ったものだったのに。
「本当にさ、ベールがあるとお前が何考えてるのか、さっぱりわからないな」
祭宮のほうを見ると、つまらなそうに頬杖をついている。
「俺にも見せたくないんだ、顔」
「祭宮様」
「祭宮様、ね。それがお前の答えか。お前にとっては俺は祭宮でしかないんだな」
何で急に怒りだしたんだろう。何で突然そんなことを言い出すんだろう。
「貴重なお時間をとらせてしまって、申し訳ありませんでした。最終日にまたご挨拶とご神託を伺いに参ります。では失礼致します」
立ち上がって早口でまくしたて、背を向けて歩き出し外へ繋がる扉へ手を掛ける。
私は呆然とそれを見ているしかなくて、扉がカチャンと音を立てた時、焦ってソファから立ち上がる。
けれど、何を言えばいいのかわからなくて、祭宮を呼び止めるように「あの」と声をかけたものの、固まって動けなくなる。
「なんでしょう。巫女様」
すごく丁寧な口調なのに、目が怒ってる。
いつもみたいに綺麗な笑みすら消え去っている。
鋭い目線が痛い。
私は何を間違えたっていうんだろう。どうしてこんなに怒らせてしまったんだろう。
「ごめんなさい」
「何で謝るんですか。あなたは私に謝る必要のなるような事をなさいましたか」
「……いいえ」
そんな風に突き放すように言わなくたっていいじゃない。
何で怒っているのよ。さっぱりわからないよ、祭宮が何を考えているのか。
「おやすみなさい、巫女様。いい夢を」
「あの、案内を」
「いらない。道ならわかっている」
バタンと音を立てて扉が閉められ、足音が遠のいてゆく。
誰もいない執務室のソファに腰掛け、なんだかよくわからない現状に頭を抱える。
何だったんだろう。
一体どうして祭宮は怒っているんだろう。本当は何の話がしたかったんだろう。
結局また、私の頭の中は祭宮のことでいっぱいになってしまって、儀式の時に祭宮の姿を見るたびに、溜息が自然にこぼれ出るようになってしまった。