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ここにいるから

作者: 三輪和哉

10年ほど前に書いた作品をリライトしました。

フィクションですが、今回読み返してみて当時の自分が抱えていた無力感がはっきりと現れているのに苦笑しました。

そしてその無力感は、悲しいかな今も続いているような気がしてなりません。


 二一世紀を迎える数年前のことだ。


 渋谷という街がどうしても好きになれない。

 茶色い髪と黒い顔の集まり――この街にたむろする無軌道なガキどもが、風巻隆平には酷くうっとおしく思える。人波をくぐってここまで足を運んできた自分がとても信じられなかった。

 彼は昨日初めてハローワークに呼ばれた。

 失業認定を受けて給付金を貰うには、その振込口座を職安に申請しなければばならない。勤めていた会社から指定されたところ以外、銀行口座を持っていない隆平は、その証明書を取るため、久し振りに渋谷に足を運んだ。もっとも帰郷が現実化すれば、煩雑な手続きが新たに生まれるのだが。

 朝のラッシュアワーが外れる頃を見計らってアパートを出たが、それでも酷い人混みだ。

 早めに終わらせよう――顔をしかめたまま、隆平が東急方面に向かおうとした時だ。

「風巻くん? 風巻くんでしょ?」

「ひ……瞳?」

 佐久間瞳の声と笑顔が、隆平の記憶を呼び戻す。


「秋の四辺形が天高く見えてきました……そう、ペガスス座ですね」

 今の季節、一〇月の星座を説明するインストラクターの、妙に愛想を強調する物言いを聞きながら、隆平はぼんやりとドームの天井を見ていた。

 銀行で証明書を取った後、瞳はプラネタリウム見に行こう、と云い出した。

 隆平は乗り気になれなかった。

 出逢った頃の彼女に星を見たがるような趣味があるようには見えなかったから意外だったし、何より彼自身早く渋谷から離れたかったからだ。

 だが瞳は強引に隆平の腕を掴み、そのまま東急文化会館の五島プラネタリウムに駆け込んでしまった。

 平日の昼間だからだろう、殆ど客はいない。有り余る空席の一角に二人は座った。

 秋の四辺形に天馬のイラストが重なった時、隆平は瞳の横顔に視線を移す。

 天井を見つめる彼女は真剣な眼差しは、あの頃と変わらない。


 隆平と瞳と初めて出逢ったのは、この六年前になる。隆平の北海道支店への出向が終わり、学生時代を過ごした東京へ戻ったばかりの頃だ。

 どこから聞きつけたのか、帰京祝いだと体育大学のスキー部時代の先輩に呼び出された、新宿のジャズクラブでウェイトレスをしていたのが一八歳の瞳だった。

 中学卒業後に家出同然で上京し、年齢をごまかしてウェイトレスと、モデルのアルバイトをかけ持ちしながら、ポップス系の歌手を目指してデモテープ作りやオーディション通いを繰り返していた彼女に興味を持った。店を紹介した先輩は故郷の岩手に帰ってしまったが、隆平はその後も店に通った。電話番号も交換し、たまに彼女がライヴを開けばそこに足も運んだ。

 でも決してつきあっていたわけじゃない、と彼は思っている。肉体関係を持つこともなかった。

 ただその頃、最初の挫折の真っ只中にいた隆平にとって、妹のように思えた瞳を黙って見ていることが、ある種の癒しだったのかも知れない。


「ごめんね、無理につき合わせちゃったみたいで」

「いいさ、別に。どうせ暇なんだから」

 プラネタリウムを出て、二人はすぐに同じ建物の中の喫茶店に入った。チーズケーキを口にしながら瞳は済まなそうに微笑む。

「でも石垣島じゃ、夜になったら天然プラネタリウム状態だよ」

「沖縄出身だったよね、君は」

 沖縄生まれという彼女の出自も、北国育ちの隆平の興味を引いた要因だった。

「それにしても……もう六年経つのね、初めて逢ってから」

「突然君が失踪してからは、四年だよ」

「止めてよ、そんな云い方」

「でも失踪にしか見えなかったよ、おれには」

 確かに別れは突然にやってきた。

 デビュー決まったの――曖昧な関係のまま過ぎた二年目の夏、瞳はそう云い残し、勤めていたジャズクラブを辞めた。住所も電話番号も変わってしまい、連絡も取れなくなった。

 でも隆平は一時酷い虚無感に襲われただけで彼女のことも記憶の中から薄れていき、やがて砂を噛むような日々が始まった。

「ごめんね……あの時プロダクションがさ、むやみに一般人と会うなって云ってきたの。今時珍しいんじゃないかなぁ、あんなに管理したがるなんて」

「でもあの時でもう君二〇歳だろ? 一〇代のガキじゃあるまいし」

「そーゆーところだったの。そんなに大きな事務所じゃないけど、若いコどんどん入れてくるから、あたしもうオバさん扱いよ」

 瞳は拗ねて頬を膨らませた。

 一八の時にすでに二〇代半ばの大人びた雰囲気を漂わせていた瞳が、成熟より早熟を要求されるこの頃の芸能界で厳しい状況に置かれたであろうことは、隆平にも容易に想像できた。

「風巻くんは? さっき会社辞めたって云ったよね?」

 話題を振ってきた瞳が隆平の顔を覗き込む。

「……君が知ってるのは、どこまでだっけ?」

「あの時は……スキー止めたって話だけ」

「まぁ、ね」

 隆平は曖昧に笑って済ませようとする。

 だが、そうはできそうにもなかった。


 いつもスポーツ採用だった。

 新潟で生まれ、幼い頃からアルペンスキー競技に没頭していた隆平は、中学、高校と競技会で頭角を現してきた。東京の体育大学に推薦入学を果たした後もインターカレッジ、冬季国体と好成績で経験を積み重ね、全日本ナショナルチームに加わったまま、隆平は北海道出向を条件に大手スポーツ用品メーカーに社会人選手として入社する。そこの北海道支店は伝統を持つスキー部を抱えている。翌年にアルペンスキー世界選手権の日本開催を控えていたこともあった。そうでなければ、普通なら隆平が入れる会社ではなかった。

 だが世界選手権、滑降競技公式練習の時、急斜面で高速ターンの操作を誤り、激しく転倒する。

 右足靭帯損傷――隆平の選手生命を絶つには十分な大ケガだった。そして利用価値のなくなった者に対し、世間は得てして冷たい。

 出向を解かれ、本社に戻ってきても同期の社員は、仕事上は隆平の遥か先を走っている。パソコン一台まともに扱えない隆平は、下請けの部品工場に再び出向を命じられる。

 下町にあった工場は居心地はよかった。実直な工場長からパートのおばさんまで、どこか荒っぽいけれど人情が残っていて、一緒に作業レーンで働くことは決して苦ではなく、むしろ自分に合った身の処し方に思えた。

 すると今度は不況の波をもろにかぶった。下請け作業の拠点を徐々に海外に移し始め、隆平のいた工場は閉鎖が決まった。抗議する間もなかった。

「君はまだ若いから……」

 本社へ戻ることは認められず、解雇となった隆平に、一気に白髪を増やした工場長が声をかけた。目を真っ赤に腫らし、悔しさに唇を噛み締める工場長の横顔、未だに脳裏から離れない。

 スキー場の近くでペンションを営む故郷の両親からも、もう帰って来いという連絡が何度も入ってくる。特に無職となったことを聞いた母親は、一刻も早い帰郷を望んだ。

 帰る条件は整った。だが隆平には充足感が欠落したまま戻っていいのか、という想いもある。

 スキー以外、何もない自分。それ以外何もしようとしなかったことへの後悔。

 そして何より、自分は故郷を離れて、何を成せたのか? 何も成せないままでは負け犬じゃないか? という想いも強い。


「あのね、風巻くん、あたし実は今、沖縄に住んでるの」

「え?」

 隆平が一通り語り終えると、瞳は軽い嘆息を一つつき、全く関係のない告白を始めた。

「東京じゃないのか?」

 瞳の意外な言葉に、隆平は戸惑った。

「この夏にね、事務所との契約終わらせてすぐ戻ったの、石垣島に」

 今回の上京は、契約上残っていた最後の仕事の整理のため――瞳はそう云った。

「へぇ、意外。家出娘のやることとは思えませんなぁ」

「まだ親とはしっくりいってないけど、そのうち沖縄の本島で一人暮らし始めるつもり」

「でも何で?」

「そりゃさぁ、悔しいけど実績残せなかったよ。オリコン一〇〇位以内にも入れなかったし……でもいきなり、脱げ! はないと思わない?」

「は?」

 歌手として芽が出ない瞳に対し、事務所が考えた新たな売り出し方はヌードグラビアのモデルだった。しかも本人には内緒でそれを進めようとしたのが直前で発覚し、怒った瞳はそのまま事務所を辞めてしまった。

「確かに昔バイトでやってたけど、ちっちゃい商店街の広告とかばっかだよ。食べてくためだけだったし、一緒にしないでほしいわ!」

 猛然とまくし立てる瞳の表情を、隆平は素直に可愛いと思えた。

 変わってないな――。

「で、どうすんだよこれから? 引きこもるのかい?」

「逆よ逆。しばらく沖縄で活動続けるつもりだよ。コザだったらライヴハウスも多いし、それでチャンスうかがってみる」

 そう云って瞳は笑った。その笑顔に、隆平は安堵を覚える。

 瞳にしたって帰郷することに不安と痛みがなかったわけではないはずだ。そこに至る決心には、強いエネルギーが必要だったはずだ。

 だが瞳は帰郷に新たな活路を見出そうとしている。

 隆平が安堵の次に抱いた感情は――負けたくないな。

 不意に瞳は大きな鞄から手帳を取り出し、メモ用紙を取って写譜ペンで走り書きを始めた。

「はいこれ。今の連絡先。あたしここにいるから」

 彼女から差し出されたメモには、実家の住所と自室の電話に携帯電話の番号が記されていた。

 そして最後に意味不明なアルファベットの文字列がある。

「これ……何?」

「やだなぁ、電子メールのアドレスだよ。インターネット知らないの?」

「おれパソコン触れないから何も分かんないよ」

「メールはねぇ、本土の友達と連絡取り合うのにはとっても便利だよ。手紙ほど面倒くさくないし、電話ほどお金かからないし」

「ま、いいや……ありがと」

 勢いに任せて喋る瞳を制しながら、隆平はメモをポケットに押し込む。

「ごめんね、でもいい時間潰しになったわ」

 瞳は席を立った。渋谷にある以前の所属事務所に最後の打ち合わせに行くのだと云う。

「あーあ、あのバカ社長の顔、ホントは二度と見たくないんだけどなぁ」

 外に出たところで、瞳が膨れっ面を作った。

「まぁ、最後にするんだったらちゃんとガマンしろよ」

「分かってるよ」

 隆平が久し振りに瞳の頭を撫でると、瞳は拳を作って隆平の胸元に押しつけた。

「じゃ、あたしこっちだから」

「ああ」

「明後日には沖縄戻ってる。気が向いたら連絡ちょうだいね、方法は何でもいいから!」

「瞳!」

 駆け出そうとした瞳に、隆平が声をかけた。

「ん? 何?」

「がんばってな」

「風巻くんもねぇ!」

 最後に大げさに手を振って、瞳は秋の渋谷の雑踏に消えた。

 完全に見えなくなるのを確かめ、隆平は瞳に渡されたメモをポケットから取り出した。

 おれも実家帰ってペンション手伝ってみようか――。

 もちろん、瞳がそうしたように、次の一歩をうかがいながら。


 二一世紀も数年が過ぎた今、隆平は実家のペンション経営を両親と一緒に行なっている。パソコンも使えるようになり、その仕事は幅広い。

 結局、帰郷後の忙しさに飲み込まれ、瞳との連絡は途絶えた。ただ、もっと自身がしっかりしてから胸を張って連絡しようとも思う。

 隆平は今でも時々、瞳に渡されたメモを取り出し、メールアドレスの文字列を見つめる。

 ここにいるから。

 どこからか瞳の声が聞こえる気がする。


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