第五章:無菌室の侵入者
病室の中では、 女が、ベッド上の美咲を抱きしめていた。
天井のHEPAフィルターから、清浄な空気が絶え間なく降り注ぎ、微かな風切り音だけが響いている。純白のベッドとシーツ。ベッドサイドテーブルには美咲の肺機能障害が再発した時の為に、黒光りする機械――呼吸を助ける人工呼吸器の一種、NPPVが置かれている。
「助けて頂いて、ありがとうございました。見つかって、本当に良かった。美咲の……母です」
女は、嬉し涙さえ浮かべていた。女の免許証と、美咲の母子手帳を見せられた。『神﨑 美咲』、と書かれている。使い込まれたその手帳は、一見して本物のようだった。
(なるほど、だから看護師さんはこの女性を止めなかったのか。……患児の家族が来院し、証拠を見せられれば……医者も看護師も面会を拒否できない)
「離れてください。その子は、免疫不全です」
女が美咲から、少しだけ離れた。女のマスクから覗く目は、柔らかく細められている。女の手には、手品師のような白い手袋がはめられていた。女は、あまり美咲には似ていない。
(俺の勘違い? 疑いすぎた? 普通に、母親が迎えに来ただけ……? もしかして、母親はあの薔薇の事を知らない……?)
「もともといた病院に戻ろうと思います。さあ、美咲。一緒に行こうね」
美咲はにっこり笑い、女に向かって小さな手を伸ばす。そのまま、手を繋いだ。
「え、美咲ちゃん? この人がお母さんって、思い出したのか?」
健の問いに美咲は答えない。ただ、美咲は小さな舌を出して、女の右手の甲を、ペロリと舐めた。
健が止める間もなかった。沈黙が、一瞬、場を支配する。
「……やない」
美咲が、ぽつりと呟く。
「え?」
女が怪訝な声を出す。
「……おかんや、ない!」
美咲は叫ぶと同時に、女の手を振りほどいた。
「いつまで経っても、不合理な感情……不必要な脳内物質の分泌が消えないのね」
女の口元から、慈愛が剥がれ落ちた。
「……大人しく来れば、いいものを」
女はバッグから、無骨な円筒形の缶――発煙手榴弾を取り出した。女は、その上部にある安全ピンに指をかけ、勢いよく引き抜く。
乾いた金属音が響き、安全レバーが弾け飛ぶ。一拍の間を置いて、激しい燃焼音が轟いた。
シュゴオオオオオオッ!!
缶の排気孔から、猛烈な勢いで灰白色の煙が噴き出す。女は、すかさずガスマスクのようなフルフェイスのマスクを装着する。
瞬く間に、視界が分厚い雲のような煙に塗りつぶされる。煙が、無菌室を迷宮へと変える。
「グッ、ゲホッ……!?」
健は反射的に白衣の袖で口を覆うが、煙は容赦なく粘膜を刺激する。
(なんだこの臭いは……! 鼻を刺す強烈な酸の刺激臭。それに、口の中に広がる金属みたいな味……)
喉が焼けつくように熱い。少し離れたところから、美咲の咳も聞こえてきた。
(――塩化亜鉛ガスか!?)
軍事用や工業用に使われる強力な発煙剤。だが、その正体は吸湿性の高い金属塩化物だ。
(まずい……! この密室で吸い続ければ、肺がただれて水浸しになる……溺れるように、窒息する)
健の脳裏で、選択肢の天秤が、揺れる。
背後の個室のドアを開けて、煙を逃がすべきか。
前方の犯人に向かうべきか。
(だめだ、廊下には看護師さんだっている……瀕死の患者さんの病室にも影響が出るかも。巻き込むわけに行かない。いや……視界さえ確保できれば……第三の選択肢が、ある!)
ドアを開けなくても、無菌室が陽圧になっているせいで、ごく僅かな煙が室内から漏れていく。時間は、ない。
「エイミー。サーモグラフィーモード、起動!」
ヒュン、という電子音と共に、健の視界が切り替わる。
白い霧の世界が、青と赤のヒートマップへと変貌した。
煙の中――うっすらと、二つの赤い熱源が浮かび上がる。
一つは、ベッドに仁王立ちした美咲。
もう一つは――美咲の隣に立つ、赤い影。
(見えた)
健は、白衣のポケットから、愛用の打腱器を引き抜いた。金色の柄、先端に白いゴムのついたハンマー。本来は、膝や肘を叩いて、腱反射を見るための診断器具。
霧の中、女の手が美咲の腕を掴んだ、その刹那。
「嫌やっ!」
美咲の頭の影が、女の左手首に重なる。美咲が、噛みついたようだった。
「この……変異体が」
女が美咲に向け、右腕を高く振り上げた。
その動作によって、女の右頸部から鎖骨にかけてのラインが、赤く浮かび上がる。
(こんな小さなハンマーでも……神々の経路を知っていれば)
女の鎖骨周囲には、腕の運動や感覚を司る神経の束――『腕神経叢』が存在する。
健は踏み込んだ。
使うのは、打腱器のゴムのヘッドではなく、柄の底部の、鋭利な金属部分。
(腕神経叢を強烈に圧迫すればーー上腕、前腕、指へと伸びていく感覚神経・運動神経に、強烈な痛みと、麻痺が生じる!……鎖骨骨折や動脈損傷を生じたとしても、構うものか。相手は悪人だ)
――ズドッ!!
健の全体重を乗せた突き。狙い通り、女の右鎖骨の辺りに、深く刺さる。
「が、ぁ……!」
マスク越しの、女の悲鳴。
カラン、カラン……。
女の右手から発煙手榴弾が滑り落ち、床に転がった。健はすかさず、発煙手榴弾に、膿盆――医療資材を入れるための、ステンレスのトレイ――をかぶせた。煙が閉じ込められ、僅かにではあるが、眼の前の白い闇が薄くなっていく。
(煙さえ、消せれば……)
「センセ、排煙ボタンを!」
「分かってるけど、ボタンが見えないんだ! 美咲ちゃん、喋るな。体内に煙が入る!」
叫んだそばから、健の肺が燃えるように痛む。
「空気鉄砲で、煙を飛ばしたらええんちゃう?!」
(……そうか! それなら……!)
「美咲ちゃん、時間を稼いでくれ!」
小柄な赤い影が、女に再度、噛みつくのが見えた。女が手を振り払う。
「『特異点』などと称され、思い上がったか……!」
女が、勢いよく美咲をつかみ、連れていこうと歩きだした。しかし、女は数歩歩いた所で、突然つんのめって、倒れる。
(美咲ちゃん、ナイス! 酸素のチューブとかで、足元にトラップを作ったな!?)
健はその隙に、記憶を頼りに、すぐ手前の、ベッドサイドのテーブルへ手を伸ばした。
健の指先が、硬質なプラスチックの筐体に触れる。NPPV――自力での呼吸が弱い患者に、マスクを通じて高圧の空気を送り込み、肺を広げるための補助換気装置だ。
NPPV本体を持ち上げ、まだ煙が蔓延していないシャワー室に入れた。電源ボタンを押し、設定圧を最大にする。
――ォォォォォン!!
内蔵された高性能タービンが、唸りを上げる。
直径22ミリの蛇腹ホースの先端から、空気が噴き出した。シャワー室のドアを、蛇腹チューブ1本分の隙間だけ開けて閉じる
(勢いが足りない!……いや、ボタンが一瞬見えるだけでもいい)
健はチューブの端に指を当て、出口の断面積を、三分の一に絞る。
**シュゥゥゥゥゥゥ!!**
空気の噴流の勢いが増した。健はチューブを、壁側に向ける。ホースを動かして、壁を探る。少し煙が薄くなった、その視界の向こう側――1.5mほど先に、ほんの一瞬だけ、『排煙(SMOKE EXHAUST)』と書かれた、赤いプラスチックカバーが見えた。
(そこだ!)
健は、手に持った打腱器を、排煙ボタン目掛けて、投擲した。
ヒュン!――ゴッ!
ハンマーの柄が、排煙ボタンを直撃した。
ブォォォォォォォォン!!
部屋の四隅にある排気ダクトが、唸りを上げる。
強力なファンが、室内の煙を吸い込み始めた。
視界を埋め尽くしていた白い霧が、徐々に晴れていく。
「はぁ……!」
健は、壁に手をつき、息を吸い込んだ。美咲が、健に駆け寄る。
「……大人しくしていれば、良かったのに、ね」
煙の消えた無菌室。
女の左手に握られた黒鉄の塊が、無菌室の白い蛍光灯を反射し、鈍く輝いていた。
――自動式拳銃、ベレッタ92。
銃口を向けられた美咲は、しかし、花が綻ぶように――笑った。
<コンテスト用のため、一度更新を中止します>




