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第二章:天秤が揺れる時

二撃、三撃と、健は消火器を窓に叩きつける。ガラスが砕ける。ワイヤーが曲がり、ようやく大人の腕が通るほどの穴が穿たれた。


 断面には鋭利なガラス片が鋸の刃のように突き出している。

『マスターの安全懸念! 腕を差し入れたら、受傷します!』

 処理能力が限界を越えた時のエラーなのか、エイミーの健の呼び方が初期値に戻った。


 健は構わずに、白衣の腕を、穴から差し入れた。

 ズブリ。

 布が裂け、肉が切れる。

「……っ」

 眉をわずかにひそめ、健は内側のサムターンを探り当て、回した。

 カチャリ、と解錠音が響く。


 健が腕を引き抜くと、白衣は赤く滲み、指先からポタポタと血が滴り落ちた。

『速やかに治療を! マスターの安全が脅かされました!』

「動脈と、重要な神経は避けた。二頭筋も三頭筋も、骨間筋も全て動く。痛覚も触覚も冷覚もある」

 健は傷を一瞥もしない。既に傷はついた、今からできる処置など限られている。健はただ右腕に、痛みと、白衣のサラリとした触覚と、冬の寒さを感じていた。


 健は、研究室へ踏み込む。

「俺の怪我と、6歳児の命。天秤にかけるまでもない……意味ある時間の移し方だ。あの子は、俺の30倍近く生きられる」

 健は、冷蔵ショーケースを順番に確認していく。並ぶ試薬瓶の中から、目的のラベル――『セルラーゼ』を見つけ出し、ひっつかんだ。

「……ビンゴ。あの子の70年分の未来が、この瓶に詰まってる」


 数分後。

 健は、救急外来に駆け戻った。

「『根』をドロドロに溶かす必要はない。少しでも『根』と粘膜との癒着が緩めば、十分だ」

 健は、祈るように呟く。シリンジで吸い上げたセルラーゼを、『根』へピンポイントに滴下した。傍らでは佐藤が、アレルギー反応予防のためのステロイド剤を点滴している。アナフィラキシーが生じた時用に、アドレナリンも準備していた。


 だが、化学反応は魔法ではない。分厚い植物の細胞壁が崩れるには、時間が必要だ。

 健が、大急ぎで受傷部位の洗浄と止血を終え、救急外来に戻った、その時だった。


 ――ピーーーーーーーー。


 無機質な電子音が、連続音に変わった。

 波形が平坦になる。

 心静止。


「心肺停止! 佐藤先生、胸骨圧迫を!」

「はい!」

 佐藤が美咲の小さな胸に両手を重ね、体重を乗せた。健がすかさず、アンビューバッグで美咲の口に、空気を送り始める。


『エイミー、心拍停止後の時間をカウントダウン!』

 健の視界の隅に、美咲の心拍停止時間の経過タイマーが表示された。

 健自身の『余命』のカウントダウンの減少と、増加していく美咲の蘇生時間が並ぶ。


 セルラーゼが効くまで、最短でも10分。ちょうど、小児患者の心肺停止で、後遺症無く回復できるリミット時間と同じくらい――

(頼む、間に合ってくれ……!)


「アドレナリン、0.2ミリグラム静注! 3分ごとに反復投与!」

 救急医の指示が飛ぶ。


「ハァ、ハァ、ハァ……!」

 佐藤の息が荒くなる。


「交代だ!」

 健が佐藤と入れ替わり、胸骨圧迫を引き継ぐ。

 掌から、肋骨の弾力を感じる。その奥にある小さな心臓から全身へ、血液を届けるイメージで押す。


 美咲の心拍が停止してから、5分、経過。喉頭鏡を覗き込んだ救急医が、首を振った。

 7分、経過。佐藤が再び圧迫を代わる。


 健は、喉頭鏡を覗き込む。

「……まだだ、まだ癒着が剥がれない……っ」

 青い薔薇は、不気味なほど鮮やかなまま、喉に居座っている。

 焦燥感が、脂汗となって健の背中を伝う。

 冬だというのに、心臓マッサージを続けている佐藤の顔にも、汗が浮かぶ。

「疲れるだろうが、止めるな! 医者の疲労は可逆的だが、この子の命は不可逆だ!」


 9分52秒、経過。

(脳へのダメージが残る、境界線を超えてしまう――)

 健の心臓が嫌な音を立てた、刹那。

 モニター越しに、白い『根』の輪郭が、微かに崩れたのが見えた。

「……癒着が、緩んだ!」

(天秤を、揺らせ!)


 健は、美咲の喉にピンセットを突っ込み、薔薇の根元を掴む。

 ズルリ。

 抵抗は、なかった。喉の粘膜や、周囲の神経を傷つけること無く、青い薔薇が引き抜かれていく。背中を叩かれた時のように、美咲の体内の酸素値が低下することも、ない。

 青薔薇が、美咲の唇から出てきた、直後。


 ――ピッ、ピッ、ピッ。


 モニター音が、自発的な心臓の拍動の、再開を告げた。


 そして次の瞬間。美咲の胸が大きく、深く上下した。

「カハッ……!」

 美咲の青白かった顔色が、わずかに改善する。すかさず救急医が、美咲の喉に残っていたセルラーゼを吸引した。

 モニターが、心臓の正常なリズムと、酸素の値を示し始めた。


「心拍、再開したぞ!」

 救急医が、安堵の溜息をつく。

 美咲の頬に、赤みが戻り始める。


「やった!」

 佐藤や、周囲の看護師が、快哉を叫んだ。

 健もまた、荒い息を吐いた。

『エイミーもういい』

 美咲の心拍停止時間のカウントが止まる。

 健はふと、自分の余命カウントを、目に止める。使ったのは、10分。たった10分で、凄まじい疲労感だ。左目の奥から左側頭部の痛みが増し、健は思わず、左目を掌で覆った。


 右目だけで見たAIメガネに、天秤に乗る二つの炎が見えた。ゴウッと音がして、失われた火の粉ーー健の余命が、向こう側ーー美咲に移っていく。


 健は左目から、手を離した。痛みは、まだある。しかし、気分は――爽快だった。


 明るい喧騒の中、健は、右手のピンセットで摘んだままの青い薔薇を、じっと見た。

 青薔薇は、引き抜かれて数十秒もすると――セルラーゼに触れていない花弁も含めて黒く変色した。そしてすぐに溶けだし、黒い液体となって、ピンセットから滴り落ちた。

「……薔薇が、消えた?」


 大げさに感謝する救急医に、軽く頭を下げて、すぐに健は、美咲をICUの個室に運んだ。

 美咲のベッドサイドの電子カルテパソコン前に座り、記録をつけ始める。

 ICUの空気は、どこか張り詰めている。


「美咲ちゃん、安定してますね。……今日の鏡先生、本当に凄かったです。神懸かってました」

 背後から、目を輝かせた佐藤が、小声で声をかけてきた。

 佐藤の頬は、興奮で朱色に染まっている。


「……結論から。十文字以内で。俺の時間は、他人の称賛を浴びるためにない」

 健は、あえて突き放す。雑談に余命を奪われる気はない。

「先生、天才!」

「対応能力が高い」

 臆しない佐藤の反応は好ましく、健はくすりと笑う。緊迫したICUの空気が、一瞬、緩む。

「あの、鏡先生、医者4年目ですよね。……こういう変わった患者さん、よく診られるんですか? 私、あと2年で、あんなに格好良く、瞬時に見抜いて、患者さんを救えるようになる自信、なくて」

 雑談でなく、後輩の進路相談ならば、意味ある仕事である。きっと、健が消えた後、佐藤は成長し、多くの患者を救うのだから。

 健は切り替えて、時間を使うと決めた。

「『鏡の呪い』って噂、聞いてるだろ。俺、珍しい病気の患者さんを『引く』んだよ。俺は外れ値だから、参考にならない。救急でなければ……患者は簡単には語らないから、時間をかけた問診が、かえって効率的なケースもあるし……」

 いくつかアドバイスをする間にも、電子カルテをタイピングする手は止めない。


 佐藤は、健の話に何度も頷いていたが、ふと思いついたように尋ねてきた。

「……美咲ちゃんの薔薇の話って、カルテに書いておいたほうがいいですよね」

「……何だったと思う? あの花。一瞬で消えた。まるで――花に見せかけておいて、バレたら消えるよう、仕組まれていたみたい」

「えっ……人為的なもの……? そういえば、青い薔薇ってそもそも自然界には存在しない。遺伝子操作で作るって……」

「光合成もできない、暗い気道で成長できるように、遺伝子操作された薔薇だったのかもな。……ま、荒唐無稽だし、調べようにも、どうせ証拠の花はない。……あまり口外しないほうがいいかもしれない。後で、他の先生や看護師さんにも、そう伝えておいてくれるか」

 健は、美咲の寝顔へ視線を投げた。首筋に、バーコードのような傷跡が見える。

「……佐藤先生、今のうちに休憩しとけ。朝までにあと数台は救急車が来るだろ」

「あの……鏡先生のほうこそ、お休みになったほうがいいんじゃ」

 気遣わし気な佐藤の眼差しに、健は『ああ、研修医にまで知られているのだな』と思う。

「大丈夫、急に倒れたりする病気じゃない」

「そうじゃなくて、あの、私。先生が……心配で」

「大丈夫」

 健は有無を言わせず、視線で佐藤を仮眠室に誘導した。


 佐藤が仮眠室のドアを閉めたのを確認し、健は美咲に声をかけた。

「……で? あの薔薇は、何かな? 狸寝入りの美咲ちゃん?」


 美咲は、勢いよく両目を開けた。黒目がちなネコ目。

「……気づいとったん? 呪いのセンセ」

 美咲の口から漏れたのは、あっけらかんとした、関西弁だった。

「モニターの値が、覚醒時らしく上昇していたから。大丈夫? 痛いところはない?」

「大丈夫や。ドクター同士のイチャイチャタイムかー思て、気ぃきかせたんや、感謝してぇな。……予言したる。あの美人研修医のセンセ、3日以内に、『鏡先生って、彼女いるんですか?』って、上目遣いで聞いてくるで」

 美咲は、ベッドの上に身体を起こした。一度心臓が止まったとは思えないほど、スムースに。


(そういえば、可愛い研修医がいるって、救急の山中が騒いでたっけ……下らない)

 後輩からの好意など要らない。他人からどう思われても、気にならない。正確には――気にする時間など、ない。

 健は、興味の無い話題に、黙る。

「うわ、なんやその、嫌そうな顔。センセ、きっと昔、恋に痛い目みたんやな……」

 美咲は、健の沈黙を曲解したようだった。

「元気出しや。先生の『呪い』は、うちにとっては『救い』やった。先生が秒で見抜いてくれたから、うちは生きとるんやろ?」

 美咲は小さな手で、自分の喉周りを、ぺたぺたと触る。

「最短時間で、仕事をしただけだよ」

「時間、時間て……そればっかやなぁ。せやけど、おおきに」

 美咲は、澄んだ瞳で、健を見つめた。


「センセがうちに『時間』をくれんかったら……うちは今頃、天国でどろんこ遊びしてたかもしれん。うちの喉に、お花が咲いてたんやろ?」

 ふと、美咲の視線が、ベッドサイドの電子カルテ台に置かれたシャーレ――薔薇の溶けた後の黒い液体を入れている――に吸い寄せられる。


 美咲の瞳孔が、開く。

 健は、嫌な予感がした。


 次の瞬間、美咲の身体が弾かれたように動いた。

 ベッドから靴も履かずに飛び降り、シャーレに小さな手を伸ばす。


 健は反射的に、シャーレを持ち上げ、反対の手で美咲の肩を掴んで制止した。


「貸してぇな!」

「やめろ!」

 美咲は、なおも黒い液体へ手を伸ばす。

「……ええやん、ちょっと舐めるだけやん」

「舐める?! 得体のしれない薔薇だぞ! 美咲ちゃんの免疫防御は絶望的にやる気がないんだ、バイキンを体内に入れたら、惨敗する!」

 健が怒鳴る。だが、美咲はキョトンとした顔で、首を傾げた。

「毒やから、舐めるんやん」

 健は、美咲の発言の意図が分からなかった。『毒』という単語が、幼い美咲には理解できていないのかと当たりをつけ、諭す口調になる。

「毒っていうのは、危ないんだ。食べたらお腹が痛くなるし、下手したら死ぬかもしれない。怖いだろ?」

「……怖いって、何や?」

 美咲は、まばたきを一つ、した。

「心臓がドキドキすること? それとも、お漏らししちゃうこと?」


 健は、背筋に、悪寒を感じた。

(恐怖、という感情を知らない? 扁桃体へんとうたいの機能不全……? 何者だ、この子)

「怖いっていうのは……危険な状況や、危険が予測される状況で感じる、嫌な気持ちのことだよ」

(恐怖がない、ということは……これくらいの年齢で有りがちな、『死ぬのが怖い』って親に泣きつく夜も、この子には訪れないのか) 

 健は、静かに続けた。

「……美咲。この青薔薇、いつ、どこで、誰に、植え付けられた?」

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