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私は帰ってきた。
無機質な電子音が響く、暗黒の空間。目の前には巨大なロゴタイプが浮遊し、「PUSH START」の文字が明滅している。タイトル画面である。
私は疲労していた。しかし、その瞳には狂気じみた光が宿っていた。
先ほどの記録、十三分二秒。あれは決して悪いタイムではない。世界ランキングでも上位に食い込む好タイムだ。
だが、私は知っている。魔王城の階段で、一度だけ足が引っかかったことを。あの一瞬のロスがなければ、十二分台の壁を突破できていたことを。
(妥協するな。己を許すな。フレームの神は、細部に宿る)
私はコントローラーを握り直した。
指先が震えているのは、恐怖からではない。武者震いだ。
私は押した。
ためらいもなく、「はじめから」を選んだ。
暗転。
ファンファーレ。
そして、三度、私は石造りの床に膝をついていた。
「よくぞ参った、異界の勇者よ。我が国は今――」
王の顔がある。
数分前(彼らにとっては数千年の歴史の果てか、あるいは一瞬の夢か)に見たばかりの、威厳に満ちた髭面だ。
私は立ち上がった。
前回の走では、玉座の裏の壁を抜けた。
だが、今の私は学習している。あのルートは移動距離が長い。もっと速いルートがあるはずだ。
私は王を見据えた。
そして、無言で王の頭上へと跳躍した。
「ゆ、勇者よ!?」
王が仰天し、首をすくめる。
私は王の王冠の上に両足で着地した。ふわりと乗ったのではない。全体重をかけ、王の頸椎がきしむほどの勢いで踏みつけたのである。
「ぐ、ぐえぇっ!?」
「お父様!?」
王女の悲鳴が上がる。
だが、私は止まらない。
このゲームの物理エンジンには致命的な欠陥がある。「キャラクターの頭上に乗り、ジャンプとしゃがみを特定の周波数で連打すると、反作用で天井を突き抜ける」という、通称『ハイジャンプ・バグ』だ。
私は王の頭頂部で、高速の屈伸運動を開始した。
ガクン、ガクン、ガクン。
王の首が上下に激しく揺さぶられる。もはや虐待である。
しかし、これを見る王女の眼差しは、またしても私の想定を遥かに超えていた。
「ああ……なんという光景! 勇者様は、父上の頭を踏み台にすることで、『王権よりも上位にある概念』を示しておられるのね! 権威に頼らず、己の足のみで天を目指すという、究極の独立宣言……!」
(違う。当たり判定のめり込みを待っているだけだ)
「う、うむ……! 苦しいが……勇者の靴底から、熱いパッションを感じるぞ……! 行け、勇者よ! 余を踏み越えていけ!」
王もまた、何かに目覚めていた。
次の瞬間、私の身体はロケットのように真上に射出された。
天井の石材を透過し、城の尖塔を突き破り、私は大空へと舞い上がる。
眼下に広がる世界は、前回と同じく美しく、そして広大であった。
風が頬を打つ。
私は空中で微笑んだ。
このルートなら、いける。
先ほどよりも、五秒は速い。
さあ、走ろう。
魔王が待っている。世界記録が待っている。
私には、エンディングの余韻に浸る暇などないのだから。
勇者は、赤面などしなかった。
ただ、タイムだけを見つめていた。
(完)




