功績をすべて差し出した婚約者に「無能」と言われ婚約破棄されましたが、その後すべて私の仕事だったと判明しました
王宮の大広間は、本来ならば祝福の言葉と拍手に満ちているはずだった。
天井から下がる幾重ものシャンデリアは眩いほどに輝き、磨き上げられた大理石の床には、正装した貴族たちの姿が映り込んでいる。
今宵は、隣国との外交成功を祝う式典――そして同時に、功労者の婚約を正式に披露する場でもあった。
少なくとも、私はそう聞かされていた。
だから私は、深く息を吸い、背筋を伸ばしてその場に立っていた。
隣に立つはずだった婚約者の顔を、まっすぐに見つめながら。
その期待が、音を立てて崩れたのは、一瞬だった。
「――エリシア・アルベルト」
私の名を呼んだ声は、驚くほどよく通った。
婚約者だった男――レオンハルト・ヴァイスは、一歩前に出ていた。
自信に満ちたその表情は、今日が“自分の晴れ舞台”であると疑っていない顔だった。
「君との婚約は、本日をもって破棄する」
静寂。
広間から、すべての音が消えたように感じた。
次の瞬間、ざわり、と空気が揺れる。
誰かが小さく息を呑み、誰かが囁き合い、誰かが私を値踏みするように見つめる。
――ああ、やはり。
胸の奥で、小さく何かが落ちた音がした。
驚きよりも先に、妙な納得があった自分に、私は苦笑しそうになる。
「理由は簡単だ」
レオンハルトは私を見下ろし、はっきりと言い切った。
「君は無能だ。
私の仕事に、何一つ貢献していない」
言葉が、刃物のように突き刺さる。
「それに、家格も釣り合わない。
これから先、私の隣に立つのに相応しい女性ではない」
その言葉に、周囲の視線が一斉に私へ集まった。
同情。好奇心。軽蔑。
混ざり合った感情が、ひどく居心地が悪い。
レオンハルトの隣には、淡い色のドレスを纏った侯爵令嬢がいた。
彼女は小さく首を傾げ、困ったような笑みを浮かべる。
「殿下も、お辛かったのですわ。
でも……これからは、ご自分のために進まれないと」
その声は柔らかく、優しげで――けれど、私に向けられた視線には、確かな勝利の色があった。
私は、そのすべてを静かに受け止める。
怒りも、悲しみも、もう声に出すほど残っていなかった。
「……承知いたしました」
私はそう答え、ゆっくりと頭を下げた。
ざわめきが、ひときわ大きくなる。
「反論しないのか?」
「泣きもしないなんて……」
「本当に無能だったのかしら」
ひそひそと交わされる声が、背中に突き刺さる。
けれど私は、何も言わなかった。
ここで何を言っても、この人たちはもう聞かない。
――それを、私は長い時間をかけて学んできたのだから。
ただ一つだけ確かなのは。
この婚約破棄が、終わりではないということだった。
◆
婚約破棄の言葉を告げられ、頭を下げたままの姿勢でいると、ふと過去の光景が脳裏をよぎった。
――最初は、こんな形になるとは思っていなかった。
レオンハルトと婚約した頃、彼は今ほど自信に満ちた男ではなかった。
若くして官職に就いたものの、失敗を恐れ、常に周囲の顔色を窺っていた。
「もし、交渉が失敗したらどうしよう」
「この判断、本当に正しいのかな」
夜遅く、誰もいない執務室で、彼は何度もそう口にした。
私はその隣で、黙って資料を広げる。
「ここは、先方の要求を一部受け入れた方が無難です」
「この文言は、後々問題になります。少し変えましょう」
そう言うと、彼はほっとしたように息を吐いた。
「君がいてくれて助かるよ、エリシア」
その言葉が、嬉しかった。
自分の居場所が、確かにここにあると思えたから。
⸻
私の仕事は、常に裏方だった。
交渉前夜、相手国の事情を洗い出す。
王宮内の派閥を整理し、誰が何を望んでいるのかを書き出す。
利害が衝突しそうな部分は、事前に折衝して潰しておく。
表で華やかに話すのは、いつもレオンハルト。
その後ろで、私は静かに道を整えていただけだ。
誰にも気づかれなくてもいい。
問題が起きなければ、それでよかった。
そう思っていた――あの頃は。
⸻
気づけば、私は毎晩のように王宮に残るようになっていた。
窓の外が暗くなり、灯りが落とされても、私の机だけは明るいまま。
指先は紙で切れ、目は霞み、肩は重く痛んだ。
「今日は、もう帰ったら?」
そう言われることもあった。
けれど私は首を振った。
「この書類だけ、終わらせてしまいますから」
誰かが失敗しないために。
誰かが責められないために。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
⸻
いつからだろう。
レオンハルトが、私の仕事を「そこにあって当然のもの」と思うようになったのは。
「書類はもうできてるよな?」
「根回しは任せた」
確認ではなく、命令。
感謝の言葉は、次第に減っていった。
それでも私は、何も言わなかった。
――婚約者なのだから。
――支えるのが、私の役目なのだから。
そう言い聞かせていた。
⸻
周囲の評価が、彼に集まるのを見て、胸が痛まなかったわけではない。
「レオンハルト様は、やはりお優秀ね」
「若くして、あれほどの成果を出すなんて」
その言葉の一つ一つが、私の仕事の結果だと知っていても。
私は、微笑んでいた。
彼が誇らしげにしている姿を見るのが、嫌いではなかったから。
⸻
けれど、あの侯爵令嬢が現れてから、空気は変わった。
「殿下って、本当にお忙しいのですね」
「でも、無理をなさらないで。周りに頼るのも大切ですわ」
彼女はそう言いながら、私を見る。
まるで、そこに“余計なもの”があるかのように。
「最近、エリシアは何をしているんだ?」
ある日、レオンハルトがそう言った。
「以前ほど、目立った働きが見えない」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
――目立たないようにしてきたのは、あなたでしょう?
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
「……必要なことは、しております」
「そうか」
それだけだった。
⸻
私は、その日も夜遅くまで机に向かっていた。
手元の書類が、少し滲んで見える。
疲れからか、視界が揺れていた。
それでも、手を止めなかった。
もし、私がやめてしまえば。
もし、私が手を抜けば。
――彼は困る。
そう思っていた。けれど。
実際に困るのは、いつも私だけだった。
婚約破棄を告げられた今、ようやく分かる。
私は、彼の隣に立っていたのではない。
ただ、彼の後ろで、影のように支えていただけなのだと。
そして影は、光の中では――見えない。
◆
レオンハルトは、変わった。
正確に言えば――
変わったのではなく、勘違いを重ねるようになったのだ。
いつの間にか、彼は「できる男」として扱われることに慣れていた。
「今回の交渉も見事でしたね」
「若くして、ここまで成果を上げるとは」
そう言われるたび、彼は謙遜しながらも、どこか誇らしげだった。
「まあ、努力の結果だよ」
その言葉を聞くたび、私は胸の奥で、小さく何かが軋むのを感じていた。
努力していたのは、確かに彼だった。
けれど――それを成立させるために、誰が夜を削っていたのかを、彼はもう考えもしない。
⸻
仕事の場で、彼は次第に私を外すようになった。
「今回は、俺一人で大丈夫だ」
「君は、そこまで関わらなくていい」
そう言われるたび、私は一歩下がる。
それが彼の望む距離なのだと、思うことにした。
実際、表向きは何も問題が起きなかった。
――正確には、起きていないように見えていただけだ。
細かな修正。
誰にも気づかれない調整。
裏で起きかけていた衝突を、事前に潰す。
私は相変わらず、それらを続けていた。
ただし、彼の目に触れないように。
⸻
侯爵令嬢は、その変化を敏感に察していた。
「殿下、本当にお一人でお仕事なさっているのですね」
「素敵ですわ。依存されるのは、お嫌でしょう?」
彼女はそう言って、ちらりと私を見る。
微笑みは柔らかい。
けれど、その奥には、はっきりとした悪意があった。
「彼女は……真面目すぎるだけですわよね」
「支えるのが得意な方、というだけで」
その言葉に、レオンハルトは曖昧に笑った。
否定は、しなかった。
⸻
ある日、彼は私に、はっきりと言った。
「正直に言うと、君がいなくても仕事は回っている」
胸の奥が、ひどく冷えた。
「君は……悪く言えば、補助的な存在だ」
「必要ではあるが、不可欠ではない」
それは、彼なりに気を遣った言い方だったのだろう。
けれど私は、その瞬間に悟った。
――この人はもう、私を対等な存在として見ていない。
「分かりました」
そう答える私を見て、彼は安心したようだった。
抵抗しない。
感情をぶつけない。
それを「理解してくれた」と、勘違いしたのだ。
⸻
侯爵令嬢は、さらに距離を詰めてきた。
「殿下は、もっと評価されるべき方です」
「今の立場に、相応しい女性が隣にいなければ」
その言葉に、彼は頷いた。
自分が選ばれる側だと、疑いもしない顔で。
⸻
私は、少しずつ仕事を整理し始めた。
引き継ぎの書類を書き、記録を整え、名義を明確にする。
それは、何かを訴えるためではない。
ただ――
終わりが来たときに、混乱が起きないように。
その準備をしている私に、レオンハルトは気づかなかった。
彼は、自分が積み上げたと思い込んでいる成功の上で、
どれほど薄い氷の上に立っているのかを、まだ知らなかった。
◆
式典当日の朝、私はいつもより早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
街が動き出す前の、静かな時間帯だった。
鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。
少しだけ、目の下に影ができていた。
――今日は、終わる日だ。
そう思うと、不思議と心は落ち着いていた。
悲しみも、怒りも、もう一通り味わってしまった後だったからだろう。
残っているのは、静かな覚悟だけだった。
⸻
王宮へ向かう馬車の中で、私は手元の書類を確認していた。
古い癖だ。
何かあったときのために、最終確認をしておきたくなる。
外交交渉の記録。
修正履歴。
誰が、いつ、どの判断を下したのか。
そこには、淡々と私の名前が並んでいる。
――これでいい。
私はその束を閉じ、膝の上に置いた。
⸻
王宮の大広間は、すでに準備で慌ただしかった。
侍女たちが行き交い、楽団が音合わせをしている。
華やかな装飾が施され、誰もが今日を“祝う日”だと信じて疑っていない。
「エリシア様、おはようございます」
文官仲間が声をかけてくる。
「今日の式典、緊張しますね」
「……ええ」
それ以上、言葉は交わさなかった。
彼らは知らない。
今日、この場で何が起きるのかを。
⸻
控室で、私は一人になった。
しばらくすると、扉が開き、レオンハルトが入ってくる。
晴れやかな顔だった。
どこか、浮き立っているようにも見える。
「緊張しているか?」
彼は、まるで何も問題がないかのように声をかけてきた。
「いや……まあ、少しは」
曖昧に答えると、彼は満足そうに頷いた。
「今日で、すべてがはっきりする」
「俺たちは、それぞれ前に進むんだ」
その言葉に、私は何も返さなかった。
――あなたは、本当に分かっていない。
今日、はっきりするのは。
前に進むのは。
私だけだということを。
⸻
式典が始まる直前、侯爵令嬢が姿を見せた。
「エリシア様」
親しげな声色。
けれど、距離は保ったまま。
「殿下のご決断、驚かれたでしょう?」
同情するふりをしながら、彼女は私の反応を窺っている。
「いえ」
私は、正直に答えた。
彼女は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
「……そうですか」
その目に、苛立ちが浮かぶ。
「でも、これからはご自分の身の丈に合った生き方をなさるべきですわ」
「殿下のような方には、相応しい伴侶が必要ですもの」
私は、静かに彼女を見返した。
「そうですね」
肯定でも否定でもない、その返事に、彼女は言葉を失った。
⸻
大広間へ向かう扉の前で、私は足を止めた。
向こう側から、ざわめきが聞こえる。
集まった人々の期待と興奮が、空気越しに伝わってくる。
私は一度だけ、深く息を吸った。
――大丈夫。
私は、やるべきことをやってきた。
そして今日は、ただ“事実”が示されるだけだ。
扉が開く。
光と視線が、一斉にこちらへ向けられる。
そして私は、その中心へと歩き出した。
――ここから先は、もう戻れない。
◆
大広間の中央に、王太子が立つ。
晴れやかな衣装。
自信に満ちた表情。
彼の隣には、侯爵令嬢が控えていた。
わずかに顎を上げ、勝者の立ち位置を疑っていない顔だ。
参列者たちの視線が、期待と好奇心を帯びて集まる。
――婚約破棄。
それはこの国において、ひとつの“見世物”だ。
とりわけ王太子が関わるなら、なおさら。
誰もが、私がどんな顔で断罪されるのかを見たがっていた。
⸻
「これより、王太子レオンハルト殿下より、正式な発表が行われる」
儀典官の声が響く。
場内が静まり返る。
レオンハルトは一歩前に出て、胸を張った。
「諸君。本日、私は――」
一瞬、彼の視線が私を掠める。
そこにあるのは、憐れみでも後悔でもない。
切り捨てる者の顔だった。
「長年の婚約関係を解消することを、ここに宣言する」
ざわり、と空気が揺れる。
予想通りの展開に、人々は小さく頷き合った。
「理由は明白だ。彼女は、王太子妃として相応しい成果を示せなかった」
私は、微動だにしなかった。
「外交・内政において目立った功績はなく」
「ただ、地味な事務作業に埋没していただけだ」
――違う。
だが、私は反論しない。
ここで言葉を挟めば、物語は“感情論”になる。
それでは意味がない。
「王太子妃には、より高い能力と華が必要だ」
彼はそう言い切り、隣の侯爵令嬢に視線を向けた。
彼女は、控えめに微笑んだ。
完璧な構図だった。
⸻
そのとき。
「――発表を続ける前に、よろしいでしょうか」
静かな声が、大広間に落ちる。
私だった。
一瞬、空気が止まる。
「……発言を許可する」
レオンハルトは、余裕を崩さず頷いた。
私は一歩、前に出る。
ドレスの裾が、床をなぞる音がやけに大きく聞こえた。
「殿下は、私に功績がないと仰いましたね」
「事実だ」
即答だった。
だから私は、軽く頭を下げた。
「でしたら――」
「確認のため、記録を読み上げていただけますか」
ざわ、と場内が揺れる。
儀典官が戸惑ったように視線を向ける。
「……どの記録を?」
「王太子殿下名義で提出された、過去三年間の外交・内政成果報告です」
沈黙。
レオンハルトの眉が、わずかに動いた。
「……それは、私の――」
「殿下の名義、ですよね?」
私は、静かに微笑んだ。
⸻
王は、しばらく私を見つめてから、儀典官に頷いた。
「読み上げよ」
逃げ場は、もうなかった。
儀典官は、震える手で書類を開く。
「……南方諸国との通商条約改定」
「交渉成立。関税率三割削減」
場内が、ざわつく。
「……東部辺境伯領との軍事物資供給協定」
「内乱回避に成功」
侯爵令嬢の表情が、わずかに強張る。
「……王都穀物価格安定政策」
「飢饉予測に基づく備蓄放出」
一つ、また一つ。
誰もが知っている成果が、読み上げられていく。
だが。
「――以上の施策を主導した人物名」
儀典官は、一度言葉を切り、確認するように続きを見た。
「……補佐官、エリシア・アルヴェーン」
空気が、凍りついた。
⸻
「……続けよ」
王の声は、低かった。
「……追加報告」
「交渉文書の草案作成、リスク分析、代替案提出」
「すべて、同補佐官によるもの」
誰かが、息を呑む音がした。
レオンハルトは、何も言わない。
言えない。
彼は気づいてしまったのだ。
――自分が、何もしていなかったことに。
⸻
「殿下」
私は、彼を見上げた。
「地味な事務作業、と仰いましたね」
「……」
「その“地味”を、誰がやっていたのか」
「今、皆様の前で明らかになりました」
私は、深く一礼する。
「以上です」
それだけだった。
言い訳もしない。
責めもしない。
事実だけが、そこに残った。
⸻
沈黙のあと。
最初に視線を逸らしたのは、侯爵令嬢だった。
次に、参列していた貴族たち。
最後に――王太子。
彼の肩が、わずかに落ちた。
この瞬間。
婚約破棄は、逆転した。
捨てられたのは、私ではない。
彼の虚飾だった。
◆
あの場で、正式な処分は下されなかった。
王は何も言わず、ただ式を閉じただけだった。
だが――
沈黙こそが、最も雄弁な裁定だった。
翌日から、城の空気が変わった。
私に向けられていた、憐れみと好奇の視線は消えた。
代わりに増えたのは、戸惑いと、慎重さ。
「……昨日の件ですが」
「今後の政務文書、確認をお願いできませんか」
そう声をかけてくるのは、今まで王太子に直行していた官僚たちだった。
彼らは気づいてしまったのだ。
誰が“考えていた側”なのかを。
一方で。
レオンハルト王太子の執務室は、静まり返っていた。
彼は相変わらず机に座っている。
だが、書類は進まない。
判断ができないのだ。
今まで「自然に」出てきていた選択肢が、どこにも見当たらない。
「……補佐官を呼べ」
そう命じてから、彼は思い出す。
――もう、私は彼の補佐官ではない。
⸻
数日後。
南方諸国からの使節団が到着した。
再交渉の申し入れ。
本来なら、王太子が対応する案件だった。
だが会議は、荒れた。
「関税率の再調整を求める」
「代替案は?」
「……」
沈黙。
王太子は、答えられなかった。
その結果、交渉は延期。
“有能な王太子”という評価に、最初の傷が入る。
誰も大声では言わない。
ただ、小さく囁く。
「……以前は、こんなことなかったのに」
「……あの方が、いなくなってからだな」
それだけで十分だった。
私はというと。
正式に、王宮を離れる許可を得た。
実家へ戻るための準備をしていると、王から呼び止められる。
「……余の判断が、遅れた」
それだけの言葉だった。
謝罪でも、引き止めでもない。
でも、私は首を横に振った。
「いいえ。必要なことでした」
私自身が、ここを離れるためにも。
◆
侯爵令嬢リュシエンヌは、自分が“勝った”と信じて疑わなかった。
婚約破棄の場で、あの地味な女は黙り込み、
王太子は自分の手を取った。
それだけで、十分だった。
――自分の方が、美しい。
――自分の方が、愛されている。
そう思い込むには、彼女の世界はあまりにも狭かった。
⸻
彼女は、努力をしたことがない。
正確に言えば、努力の必要を感じたことがなかった。
微笑めば人は譲り、
涙を浮かべれば同情され、
甘えれば、誰かが代わりに考えてくれた。
だから彼女は知らない。
「決断」とは何か。
「責任」とは何か。
そして、「王太子の隣に立つ」ということの重さを。
⸻
王太子妃候補としての最初の公務。
外交使節との顔合わせ。
彼女は、完璧な笑顔で臨んだ。
「遠いところから、ようこそお越しくださいましたわ」
声は可憐で、所作も優雅。
だが、そこまでだった。
使節が口にしたのは、通商条件の再調整。
「関税率について、再考の余地は?」
リュシエンヌは、瞬きをした。
「……まあ、細かいことは殿下が」
殿下――
そう言って視線を投げた先で、王太子は言葉を失っていた。
彼もまた、答えを知らなかったからだ。
⸻
それは、一度きりでは終わらなかった。
会議のたび、彼女は笑い、相槌を打ち、
そして必ず、誰かに判断を投げる。
そのたびに、周囲の沈黙が深くなる。
やがて囁きが生まれた。
「……何も、分かっていない」
「……前の補佐官は、こんなことはなかった」
その声を、彼女は理解できなかった。
理解するための器が、なかった。
⸻
彼女の醜悪さは、無能さそのものではない。
それを自覚しないことだった。
ある日、苛立った王太子が声を荒げた。
「どうして君は、何も考えていないんだ!」
その言葉に、彼女は泣いた。
「……ひどいですわ」
私は、殿下を信じているだけなのに」
自分は被害者。
考えるべきなのは、他人。
その思考が、最後まで変わることはなかった。
⸻
そして、決定的な一手。
彼女は、以前から行っていた“癖”を、公の場でも繰り返した。
――情報の歪曲。
自分に都合のいい形に言い換え、
気に入らない人物の評価を、さりげなく下げる。
小さな悪意。
だが、それは記録に残る。
以前は、私が裏で修正していた。
今は、誰もいない。
⸻
内部調査が始まった。
侍女の証言。書類の不整合。改ざんされた報告の痕跡。
一つ一つは些細でも、
積み上げれば、言い逃れはできない。
呼び出された謁見の間。
彼女は、初めて“守られない場所”に立った。
「……私は、悪気なんて」
「殿下のために、良かれと思って――」
だが、誰も頷かない。
誰も、庇わない。
それが、彼女の積み上げた人間関係のすべてだった。
⸻
「侯爵令嬢リュシエンヌ」
王の声は、淡々としていた。
「汝は、自らの立場を理解せず」
「他者の労を軽んじ、虚飾に溺れた」
処罰は、静かだった。
追放。
社交界からの排除。
王都立ち入り禁止。
命は奪われない。
だが、居場所は、完全に失われた。
⸻
馬車に乗せられる彼女の背中は、小さかった。
着飾ることしか知らない者が、
何もない場所へ行く。
それが、どれほど残酷か。
けれど。
それは、誰かを踏み台にして築いた虚像の、当然の結末だった。
⸻
彼女は最後まで、理解しなかっただろう。
自分が負けた理由を。
才能でも、美貌でもない。
中身が、空だったこと。
◆
それから、三年が経った。
私は今、隣国の王都にいる。
小さな執務室。
窓から差し込む光は柔らかく、書類の文字を優しく照らしていた。
「エリシア、こちらの条文ですが」
声をかけてきたのは、幼い頃から知っている人。
――隣国の第二王子、そして今は正式に王位継承権を持つ、彼。
けれど私にとっては、昔と変わらない幼馴染だった。
「その表現だと、相手国に逃げ道を与えます」
「代替案は、こちらです」
私が紙を差し出すと、彼は目を細めて笑った。
「やっぱり君だ」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
⸻
この国では、私は“影”ではない。
誰かの名を借りることも、
功績を他人のものにされることもない。
失敗すれば指摘され、
成功すれば、きちんと私の名が残る。
それだけのことが、
こんなにも心を軽くするなんて、知らなかった。
⸻
「ねえ、エリシア」
彼が、少しだけ真剣な顔になる。
「君は、自分がどれだけ多くのものを支えてきたか」
「まだ、自覚していないだろう?」
私は、少し考えてから首を振った。
「いいえ。今はもう、知っています」
支えることが、
誰かの代わりに立つことではないと。
誰かの人生を犠牲にしてまで、
尽くす必要はないのだと。
⸻
夕暮れ。
城の回廊を歩きながら、私は立ち止まる。
窓の向こうに、沈みゆく太陽。
あの国で過ごした日々は、もう遠い。
けれど、無駄ではなかった。
あの時間があったから、
私は“自分の名前”を、大切にできるようになった。
⸻
「エリシア」
彼が、はっきりと私の名を呼ぶ。
誰かの肩書きでも、
誰かの付属物でもない。
私自身の名前を。
私は振り返り、微笑んだ。
「はい」
その一言だけで、十分だった。
ここは、私の居場所だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
もし少しでも、
「読んでよかった」
「この結末が好きだな」
と感じていただけたら、評価やブックマークをしていただけると、とても励みになります。
また別の物語で、お会いできたら嬉しいです。
――ありがとうございました。




