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功績をすべて差し出した婚約者に「無能」と言われ婚約破棄されましたが、その後すべて私の仕事だったと判明しました

作者: やまぶき

 王宮の大広間は、本来ならば祝福の言葉と拍手に満ちているはずだった。


 天井から下がる幾重ものシャンデリアは眩いほどに輝き、磨き上げられた大理石の床には、正装した貴族たちの姿が映り込んでいる。

 今宵は、隣国との外交成功を祝う式典――そして同時に、功労者の婚約を正式に披露する場でもあった。


 少なくとも、私はそう聞かされていた。


 だから私は、深く息を吸い、背筋を伸ばしてその場に立っていた。

 隣に立つはずだった婚約者の顔を、まっすぐに見つめながら。


 その期待が、音を立てて崩れたのは、一瞬だった。


「――エリシア・アルベルト」


 私の名を呼んだ声は、驚くほどよく通った。


 婚約者だった男――レオンハルト・ヴァイスは、一歩前に出ていた。

 自信に満ちたその表情は、今日が“自分の晴れ舞台”であると疑っていない顔だった。


「君との婚約は、本日をもって破棄する」


 静寂。


 広間から、すべての音が消えたように感じた。


 次の瞬間、ざわり、と空気が揺れる。

 誰かが小さく息を呑み、誰かが囁き合い、誰かが私を値踏みするように見つめる。


 ――ああ、やはり。


 胸の奥で、小さく何かが落ちた音がした。

 驚きよりも先に、妙な納得があった自分に、私は苦笑しそうになる。


「理由は簡単だ」


 レオンハルトは私を見下ろし、はっきりと言い切った。


「君は無能だ。

 私の仕事に、何一つ貢献していない」


 言葉が、刃物のように突き刺さる。


「それに、家格も釣り合わない。

 これから先、私の隣に立つのに相応しい女性ではない」


 その言葉に、周囲の視線が一斉に私へ集まった。


 同情。好奇心。軽蔑。

 混ざり合った感情が、ひどく居心地が悪い。


 レオンハルトの隣には、淡い色のドレスを纏った侯爵令嬢がいた。

 彼女は小さく首を傾げ、困ったような笑みを浮かべる。


「殿下も、お辛かったのですわ。

 でも……これからは、ご自分のために進まれないと」


 その声は柔らかく、優しげで――けれど、私に向けられた視線には、確かな勝利の色があった。


 私は、そのすべてを静かに受け止める。


 怒りも、悲しみも、もう声に出すほど残っていなかった。


「……承知いたしました」


 私はそう答え、ゆっくりと頭を下げた。


 ざわめきが、ひときわ大きくなる。


「反論しないのか?」

「泣きもしないなんて……」

「本当に無能だったのかしら」


 ひそひそと交わされる声が、背中に突き刺さる。


 けれど私は、何も言わなかった。


 ここで何を言っても、この人たちはもう聞かない。

 ――それを、私は長い時間をかけて学んできたのだから。


 ただ一つだけ確かなのは。


 この婚約破棄が、終わりではないということだった。



 婚約破棄の言葉を告げられ、頭を下げたままの姿勢でいると、ふと過去の光景が脳裏をよぎった。


 ――最初は、こんな形になるとは思っていなかった。


 レオンハルトと婚約した頃、彼は今ほど自信に満ちた男ではなかった。

 若くして官職に就いたものの、失敗を恐れ、常に周囲の顔色を窺っていた。


「もし、交渉が失敗したらどうしよう」

「この判断、本当に正しいのかな」


 夜遅く、誰もいない執務室で、彼は何度もそう口にした。


 私はその隣で、黙って資料を広げる。


「ここは、先方の要求を一部受け入れた方が無難です」

「この文言は、後々問題になります。少し変えましょう」


 そう言うと、彼はほっとしたように息を吐いた。


「君がいてくれて助かるよ、エリシア」


 その言葉が、嬉しかった。


 自分の居場所が、確かにここにあると思えたから。



 私の仕事は、常に裏方だった。


 交渉前夜、相手国の事情を洗い出す。

 王宮内の派閥を整理し、誰が何を望んでいるのかを書き出す。

 利害が衝突しそうな部分は、事前に折衝して潰しておく。


 表で華やかに話すのは、いつもレオンハルト。

 その後ろで、私は静かに道を整えていただけだ。


 誰にも気づかれなくてもいい。

 問題が起きなければ、それでよかった。


 そう思っていた――あの頃は。



 気づけば、私は毎晩のように王宮に残るようになっていた。


 窓の外が暗くなり、灯りが落とされても、私の机だけは明るいまま。

 指先は紙で切れ、目は霞み、肩は重く痛んだ。


「今日は、もう帰ったら?」


 そう言われることもあった。


 けれど私は首を振った。


「この書類だけ、終わらせてしまいますから」


 誰かが失敗しないために。

 誰かが責められないために。


 それが、いつの間にか当たり前になっていた。



 いつからだろう。


 レオンハルトが、私の仕事を「そこにあって当然のもの」と思うようになったのは。


「書類はもうできてるよな?」

「根回しは任せた」


 確認ではなく、命令。

 感謝の言葉は、次第に減っていった。


 それでも私は、何も言わなかった。


 ――婚約者なのだから。

 ――支えるのが、私の役目なのだから。


 そう言い聞かせていた。



 周囲の評価が、彼に集まるのを見て、胸が痛まなかったわけではない。


「レオンハルト様は、やはりお優秀ね」

「若くして、あれほどの成果を出すなんて」


 その言葉の一つ一つが、私の仕事の結果だと知っていても。

 私は、微笑んでいた。


 彼が誇らしげにしている姿を見るのが、嫌いではなかったから。



 けれど、あの侯爵令嬢が現れてから、空気は変わった。


「殿下って、本当にお忙しいのですね」

「でも、無理をなさらないで。周りに頼るのも大切ですわ」


 彼女はそう言いながら、私を見る。

 まるで、そこに“余計なもの”があるかのように。


「最近、エリシアは何をしているんだ?」


 ある日、レオンハルトがそう言った。


「以前ほど、目立った働きが見えない」


 その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。

 ――目立たないようにしてきたのは、あなたでしょう?

 喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。


「……必要なことは、しております」


「そうか」


 それだけだった。



 私は、その日も夜遅くまで机に向かっていた。


 手元の書類が、少し滲んで見える。

 疲れからか、視界が揺れていた。


 それでも、手を止めなかった。


 もし、私がやめてしまえば。

 もし、私が手を抜けば。


 ――彼は困る。


 そう思っていた。けれど。

 実際に困るのは、いつも私だけだった。


 婚約破棄を告げられた今、ようやく分かる。


 私は、彼の隣に立っていたのではない。

 ただ、彼の後ろで、影のように支えていただけなのだと。

 そして影は、光の中では――見えない。



レオンハルトは、変わった。


 正確に言えば――

 変わったのではなく、勘違いを重ねるようになったのだ。


 いつの間にか、彼は「できる男」として扱われることに慣れていた。


「今回の交渉も見事でしたね」

「若くして、ここまで成果を上げるとは」


 そう言われるたび、彼は謙遜しながらも、どこか誇らしげだった。


「まあ、努力の結果だよ」


 その言葉を聞くたび、私は胸の奥で、小さく何かが軋むのを感じていた。


 努力していたのは、確かに彼だった。

 けれど――それを成立させるために、誰が夜を削っていたのかを、彼はもう考えもしない。



 仕事の場で、彼は次第に私を外すようになった。


「今回は、俺一人で大丈夫だ」

「君は、そこまで関わらなくていい」


 そう言われるたび、私は一歩下がる。


 それが彼の望む距離なのだと、思うことにした。


 実際、表向きは何も問題が起きなかった。

 ――正確には、起きていないように見えていただけだ。


 細かな修正。

 誰にも気づかれない調整。

 裏で起きかけていた衝突を、事前に潰す。


 私は相変わらず、それらを続けていた。


 ただし、彼の目に触れないように。



 侯爵令嬢は、その変化を敏感に察していた。


「殿下、本当にお一人でお仕事なさっているのですね」

「素敵ですわ。依存されるのは、お嫌でしょう?」


 彼女はそう言って、ちらりと私を見る。


 微笑みは柔らかい。

 けれど、その奥には、はっきりとした悪意があった。


「彼女は……真面目すぎるだけですわよね」

「支えるのが得意な方、というだけで」


 その言葉に、レオンハルトは曖昧に笑った。


 否定は、しなかった。



 ある日、彼は私に、はっきりと言った。


「正直に言うと、君がいなくても仕事は回っている」


 胸の奥が、ひどく冷えた。


「君は……悪く言えば、補助的な存在だ」

「必要ではあるが、不可欠ではない」


 それは、彼なりに気を遣った言い方だったのだろう。


 けれど私は、その瞬間に悟った。


 ――この人はもう、私を対等な存在として見ていない。


「分かりました」


 そう答える私を見て、彼は安心したようだった。


 抵抗しない。

 感情をぶつけない。


 それを「理解してくれた」と、勘違いしたのだ。



 侯爵令嬢は、さらに距離を詰めてきた。


「殿下は、もっと評価されるべき方です」

「今の立場に、相応しい女性が隣にいなければ」


 その言葉に、彼は頷いた。


 自分が選ばれる側だと、疑いもしない顔で。



 私は、少しずつ仕事を整理し始めた。


 引き継ぎの書類を書き、記録を整え、名義を明確にする。

 それは、何かを訴えるためではない。


 ただ――

 終わりが来たときに、混乱が起きないように。


 その準備をしている私に、レオンハルトは気づかなかった。


 彼は、自分が積み上げたと思い込んでいる成功の上で、

 どれほど薄い氷の上に立っているのかを、まだ知らなかった。



式典当日の朝、私はいつもより早く目を覚ました。


 窓の外は、まだ薄暗い。

 街が動き出す前の、静かな時間帯だった。


 鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。

 少しだけ、目の下に影ができていた。


 ――今日は、終わる日だ。


 そう思うと、不思議と心は落ち着いていた。


 悲しみも、怒りも、もう一通り味わってしまった後だったからだろう。

 残っているのは、静かな覚悟だけだった。



 王宮へ向かう馬車の中で、私は手元の書類を確認していた。


 古い癖だ。

 何かあったときのために、最終確認をしておきたくなる。


 外交交渉の記録。

 修正履歴。

 誰が、いつ、どの判断を下したのか。


 そこには、淡々と私の名前が並んでいる。


 ――これでいい。


 私はその束を閉じ、膝の上に置いた。



 王宮の大広間は、すでに準備で慌ただしかった。


 侍女たちが行き交い、楽団が音合わせをしている。

 華やかな装飾が施され、誰もが今日を“祝う日”だと信じて疑っていない。


「エリシア様、おはようございます」


 文官仲間が声をかけてくる。


「今日の式典、緊張しますね」

「……ええ」


 それ以上、言葉は交わさなかった。


 彼らは知らない。

 今日、この場で何が起きるのかを。



 控室で、私は一人になった。


 しばらくすると、扉が開き、レオンハルトが入ってくる。


 晴れやかな顔だった。

 どこか、浮き立っているようにも見える。


「緊張しているか?」


 彼は、まるで何も問題がないかのように声をかけてきた。


「いや……まあ、少しは」


 曖昧に答えると、彼は満足そうに頷いた。


「今日で、すべてがはっきりする」

「俺たちは、それぞれ前に進むんだ」


 その言葉に、私は何も返さなかった。


 ――あなたは、本当に分かっていない。


 今日、はっきりするのは。

 前に進むのは。


 私だけだということを。



 式典が始まる直前、侯爵令嬢が姿を見せた。


「エリシア様」


 親しげな声色。

 けれど、距離は保ったまま。


「殿下のご決断、驚かれたでしょう?」


 同情するふりをしながら、彼女は私の反応を窺っている。


「いえ」


 私は、正直に答えた。


 彼女は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。


「……そうですか」


 その目に、苛立ちが浮かぶ。


「でも、これからはご自分の身の丈に合った生き方をなさるべきですわ」

「殿下のような方には、相応しい伴侶が必要ですもの」


 私は、静かに彼女を見返した。


「そうですね」


 肯定でも否定でもない、その返事に、彼女は言葉を失った。



 大広間へ向かう扉の前で、私は足を止めた。


 向こう側から、ざわめきが聞こえる。

 集まった人々の期待と興奮が、空気越しに伝わってくる。


 私は一度だけ、深く息を吸った。


 ――大丈夫。


 私は、やるべきことをやってきた。

 そして今日は、ただ“事実”が示されるだけだ。


 扉が開く。


 光と視線が、一斉にこちらへ向けられる。


 そして私は、その中心へと歩き出した。


 ――ここから先は、もう戻れない。



大広間の中央に、王太子が立つ。


 晴れやかな衣装。

 自信に満ちた表情。


 彼の隣には、侯爵令嬢が控えていた。

 わずかに顎を上げ、勝者の立ち位置を疑っていない顔だ。


 参列者たちの視線が、期待と好奇心を帯びて集まる。


 ――婚約破棄。


 それはこの国において、ひとつの“見世物”だ。

 とりわけ王太子が関わるなら、なおさら。


 誰もが、私がどんな顔で断罪されるのかを見たがっていた。



「これより、王太子レオンハルト殿下より、正式な発表が行われる」


 儀典官の声が響く。


 場内が静まり返る。


 レオンハルトは一歩前に出て、胸を張った。


「諸君。本日、私は――」


 一瞬、彼の視線が私を掠める。


 そこにあるのは、憐れみでも後悔でもない。

 切り捨てる者の顔だった。


「長年の婚約関係を解消することを、ここに宣言する」


 ざわり、と空気が揺れる。


 予想通りの展開に、人々は小さく頷き合った。


「理由は明白だ。彼女は、王太子妃として相応しい成果を示せなかった」


 私は、微動だにしなかった。


「外交・内政において目立った功績はなく」

「ただ、地味な事務作業に埋没していただけだ」


 ――違う。


 だが、私は反論しない。


 ここで言葉を挟めば、物語は“感情論”になる。

 それでは意味がない。


「王太子妃には、より高い能力と華が必要だ」


 彼はそう言い切り、隣の侯爵令嬢に視線を向けた。


 彼女は、控えめに微笑んだ。


 完璧な構図だった。



 そのとき。


「――発表を続ける前に、よろしいでしょうか」


 静かな声が、大広間に落ちる。


 私だった。


 一瞬、空気が止まる。


「……発言を許可する」


 レオンハルトは、余裕を崩さず頷いた。


 私は一歩、前に出る。


 ドレスの裾が、床をなぞる音がやけに大きく聞こえた。


「殿下は、私に功績がないと仰いましたね」


「事実だ」


 即答だった。


 だから私は、軽く頭を下げた。


「でしたら――」

「確認のため、記録を読み上げていただけますか」


 ざわ、と場内が揺れる。


 儀典官が戸惑ったように視線を向ける。


「……どの記録を?」


「王太子殿下名義で提出された、過去三年間の外交・内政成果報告です」


 沈黙。


 レオンハルトの眉が、わずかに動いた。


「……それは、私の――」


「殿下の名義、ですよね?」


 私は、静かに微笑んだ。



 王は、しばらく私を見つめてから、儀典官に頷いた。


「読み上げよ」


 逃げ場は、もうなかった。


 儀典官は、震える手で書類を開く。


「……南方諸国との通商条約改定」

「交渉成立。関税率三割削減」


 場内が、ざわつく。


「……東部辺境伯領との軍事物資供給協定」

「内乱回避に成功」


 侯爵令嬢の表情が、わずかに強張る。


「……王都穀物価格安定政策」

「飢饉予測に基づく備蓄放出」


 一つ、また一つ。

 誰もが知っている成果が、読み上げられていく。


 だが。


「――以上の施策を主導した人物名」


 儀典官は、一度言葉を切り、確認するように続きを見た。


「……補佐官、エリシア・アルヴェーン」


 空気が、凍りついた。



「……続けよ」


 王の声は、低かった。


「……追加報告」

「交渉文書の草案作成、リスク分析、代替案提出」

「すべて、同補佐官によるもの」


 誰かが、息を呑む音がした。


 レオンハルトは、何も言わない。


 言えない。


 彼は気づいてしまったのだ。


 ――自分が、何もしていなかったことに。



「殿下」


 私は、彼を見上げた。


「地味な事務作業、と仰いましたね」


「……」


「その“地味”を、誰がやっていたのか」

「今、皆様の前で明らかになりました」


 私は、深く一礼する。


「以上です」


 それだけだった。


 言い訳もしない。

 責めもしない。


 事実だけが、そこに残った。



 沈黙のあと。


 最初に視線を逸らしたのは、侯爵令嬢だった。

 次に、参列していた貴族たち。


 最後に――王太子。

 彼の肩が、わずかに落ちた。


 この瞬間。


 婚約破棄は、逆転した。

 捨てられたのは、私ではない。


 彼の虚飾だった。



 あの場で、正式な処分は下されなかった。


 王は何も言わず、ただ式を閉じただけだった。


 だが――

 沈黙こそが、最も雄弁な裁定だった。


 翌日から、城の空気が変わった。

 私に向けられていた、憐れみと好奇の視線は消えた。

 代わりに増えたのは、戸惑いと、慎重さ。


「……昨日の件ですが」

「今後の政務文書、確認をお願いできませんか」


 そう声をかけてくるのは、今まで王太子に直行していた官僚たちだった。


 彼らは気づいてしまったのだ。

 誰が“考えていた側”なのかを。


 一方で。


 レオンハルト王太子の執務室は、静まり返っていた。

 彼は相変わらず机に座っている。

 だが、書類は進まない。


 判断ができないのだ。


 今まで「自然に」出てきていた選択肢が、どこにも見当たらない。


「……補佐官を呼べ」


 そう命じてから、彼は思い出す。


 ――もう、私は彼の補佐官ではない。



 数日後。

 南方諸国からの使節団が到着した。

 再交渉の申し入れ。


 本来なら、王太子が対応する案件だった。


 だが会議は、荒れた。

「関税率の再調整を求める」

「代替案は?」

「……」


 沈黙。


 王太子は、答えられなかった。


 その結果、交渉は延期。


 “有能な王太子”という評価に、最初の傷が入る。

 誰も大声では言わない。


 ただ、小さく囁く。


「……以前は、こんなことなかったのに」

「……あの方が、いなくなってからだな」


 それだけで十分だった。


 私はというと。

 正式に、王宮を離れる許可を得た。


 実家へ戻るための準備をしていると、王から呼び止められる。


「……余の判断が、遅れた」


 それだけの言葉だった。

 謝罪でも、引き止めでもない。

 でも、私は首を横に振った。


「いいえ。必要なことでした」


 私自身が、ここを離れるためにも。



 侯爵令嬢リュシエンヌは、自分が“勝った”と信じて疑わなかった。


 婚約破棄の場で、あの地味な女は黙り込み、

 王太子は自分の手を取った。


 それだけで、十分だった。


 ――自分の方が、美しい。

 ――自分の方が、愛されている。


 そう思い込むには、彼女の世界はあまりにも狭かった。



 彼女は、努力をしたことがない。


 正確に言えば、努力の必要を感じたことがなかった。


 微笑めば人は譲り、

 涙を浮かべれば同情され、

 甘えれば、誰かが代わりに考えてくれた。


 だから彼女は知らない。


 「決断」とは何か。

 「責任」とは何か。

 そして、「王太子の隣に立つ」ということの重さを。



 王太子妃候補としての最初の公務。


 外交使節との顔合わせ。

 彼女は、完璧な笑顔で臨んだ。


「遠いところから、ようこそお越しくださいましたわ」


 声は可憐で、所作も優雅。

 だが、そこまでだった。


 使節が口にしたのは、通商条件の再調整。


「関税率について、再考の余地は?」


 リュシエンヌは、瞬きをした。


「……まあ、細かいことは殿下が」


 殿下――

 そう言って視線を投げた先で、王太子は言葉を失っていた。


 彼もまた、答えを知らなかったからだ。



 それは、一度きりでは終わらなかった。


 会議のたび、彼女は笑い、相槌を打ち、

 そして必ず、誰かに判断を投げる。


 そのたびに、周囲の沈黙が深くなる。


 やがて囁きが生まれた。


「……何も、分かっていない」

「……前の補佐官は、こんなことはなかった」


 その声を、彼女は理解できなかった。

 理解するための器が、なかった。



 彼女の醜悪さは、無能さそのものではない。

 それを自覚しないことだった。


 ある日、苛立った王太子が声を荒げた。


「どうして君は、何も考えていないんだ!」


 その言葉に、彼女は泣いた。


「……ひどいですわ」

私は、殿下を信じているだけなのに」


 自分は被害者。

 考えるべきなのは、他人。


 その思考が、最後まで変わることはなかった。



 そして、決定的な一手。

 彼女は、以前から行っていた“癖”を、公の場でも繰り返した。


 ――情報の歪曲。


 自分に都合のいい形に言い換え、

 気に入らない人物の評価を、さりげなく下げる。


 小さな悪意。

 だが、それは記録に残る。

 以前は、私が裏で修正していた。


 今は、誰もいない。



 内部調査が始まった。


 侍女の証言。書類の不整合。改ざんされた報告の痕跡。


 一つ一つは些細でも、

 積み上げれば、言い逃れはできない。


 呼び出された謁見の間。


 彼女は、初めて“守られない場所”に立った。


「……私は、悪気なんて」

「殿下のために、良かれと思って――」


 だが、誰も頷かない。


 誰も、庇わない。

 それが、彼女の積み上げた人間関係のすべてだった。



「侯爵令嬢リュシエンヌ」


 王の声は、淡々としていた。


「汝は、自らの立場を理解せず」

「他者の労を軽んじ、虚飾に溺れた」


 処罰は、静かだった。


 追放。

 社交界からの排除。

 王都立ち入り禁止。


 命は奪われない。

 だが、居場所は、完全に失われた。



 馬車に乗せられる彼女の背中は、小さかった。


 着飾ることしか知らない者が、

 何もない場所へ行く。


 それが、どれほど残酷か。


 けれど。


 それは、誰かを踏み台にして築いた虚像の、当然の結末だった。



 彼女は最後まで、理解しなかっただろう。


 自分が負けた理由を。

 才能でも、美貌でもない。

 中身が、空だったこと。



 それから、三年が経った。


 私は今、隣国の王都にいる。


 小さな執務室。

 窓から差し込む光は柔らかく、書類の文字を優しく照らしていた。


「エリシア、こちらの条文ですが」


 声をかけてきたのは、幼い頃から知っている人。


 ――隣国の第二王子、そして今は正式に王位継承権を持つ、彼。


 けれど私にとっては、昔と変わらない幼馴染だった。


「その表現だと、相手国に逃げ道を与えます」

「代替案は、こちらです」


 私が紙を差し出すと、彼は目を細めて笑った。


「やっぱり君だ」


 その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。



 この国では、私は“影”ではない。


 誰かの名を借りることも、

 功績を他人のものにされることもない。


 失敗すれば指摘され、

 成功すれば、きちんと私の名が残る。


 それだけのことが、

 こんなにも心を軽くするなんて、知らなかった。



「ねえ、エリシア」


 彼が、少しだけ真剣な顔になる。


「君は、自分がどれだけ多くのものを支えてきたか」

「まだ、自覚していないだろう?」


 私は、少し考えてから首を振った。


「いいえ。今はもう、知っています」


 支えることが、

 誰かの代わりに立つことではないと。


 誰かの人生を犠牲にしてまで、

 尽くす必要はないのだと。



 夕暮れ。


 城の回廊を歩きながら、私は立ち止まる。

 窓の向こうに、沈みゆく太陽。


 あの国で過ごした日々は、もう遠い。


 けれど、無駄ではなかった。


 あの時間があったから、

 私は“自分の名前”を、大切にできるようになった。



「エリシア」


 彼が、はっきりと私の名を呼ぶ。


 誰かの肩書きでも、

 誰かの付属物でもない。


 私自身の名前を。


 私は振り返り、微笑んだ。


「はい」


 その一言だけで、十分だった。


 ここは、私の居場所だ。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


もし少しでも、

「読んでよかった」

「この結末が好きだな」

と感じていただけたら、評価やブックマークをしていただけると、とても励みになります。


また別の物語で、お会いできたら嬉しいです。


――ありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
王家と侯爵家の教育が悪かった結果こうなったと言う事だね。
婚約破棄を見世物にする国はやばい。 王は最後はひき止めず潔いけど、婚約破棄を許可したんだろうし、息子が優秀と思いたかったのか根回ししてた裏方を見抜けなかったのがなぁ。
着飾って美しいだけって娼婦にも劣るのでは・・・ 娼婦って会話術とかそれなりの教養もないと相手を不快にさせるだけでリピートされないみたい話も見たことあるし
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