おまけ
江戸の町を出て、半刻ほども歩いただろうか──。
街道を外れ、畦道を辿り、やがて道は細く頼りなくなっていった。見渡す限りの田畑と、その向こうに広がる雑木林。空は高く、雲は薄く棚引き、初秋の陽射しが地を照らしている。
盛りを誇った蝉の声はもう儚げだった。風が吹くと頭を垂れた稲穂が一斉に揺れ、ザワザワと葉擦れの音が波のように広がる。
──神谷伝兵衛は田畑の間の道を歩いていた。
道場にいる時の闊達な空気はなく、役宅を探っていた時の張り詰めた気配でもない。大柄な体躯にどこか重いものを背負うような足取りで、ただ黙々と歩いている。
目指す先は古い農家──。雑木林に囲まれ周囲からは見え難い場所にあり、近くには人家もない。
──妹のお絹が療養のために暮らしている家。神谷自身が生まれ育った家でもあった。
戸口に立つと、中から老婆が姿を現した。白髪を手拭いで包み、小柄だが背筋の伸びた女だ。神谷の家に古くから仕えている者。猫憑きの事情を知る数少ない人間であり、だからこそ、お絹の世話を任されていた。
「お越しでございましたか」
老婆は神谷に軽く会釈した。
「今日はいかがだ」
「落ち着いておいでです。ここ数日はお変わりなく」
神谷は僅かに肩の力を抜いた。「落ち着いている」──その言葉で少しだけ安堵する。逆に「少し荒れておりまして」と言われた日は足が重く竦んでしまう。
「裏におられます」
「ああ」
神谷は土間を通り抜け、裏手へと向かった。
§
縁側に女が一人、膝を抱えて座っていた。
背が高い。女としては相当な長身で、膝を抱えて座っていても、その長い手足が目に留まる。やつれてはいたが骨格はしっかりしており、見る人が見れば弓を引いていた者の体だと気づく。
藍染めの木綿の単衣を着て、髪は簡素に一つ束ねた女──お絹は庭を眺めていた。
何を見ているのかは分からない。ただぼんやりと、目の前の景色を──あるいは、そこに映る何か別のものを見つめているようにも思える。
神谷が近づくと、お絹は視線を動かさぬまま口を開いた。
「……兄上」
声は低く、抑揚も乏しい。だが言葉が口から出る。今日は本当に「良い日」なのだろう。
「来たぞ」
神谷は妹の隣に腰を下ろした。大柄な兄と長身の妹が、並んで縁側に座る。似た背丈の二人。どこか似た顔つきの二人。だが纏う空気はまるで違う。
暫く、二人は何も言わなかった。庭の向こうで虫が鳴いている。風が吹いて、雑木林の梢がざわめく。
「──調子はどうだ」
神谷が訊いた。いつもの問い。ここに来るたびに繰り返す最初の言葉。
「落ち着いている」
お絹が答えた。短い言葉だったが、神谷はその声の調子を注意深く聞き取った。震えはない。掠れてもいない。目の焦点も合っている──少なくとも、今は。
「そうか」
「ここ数日は、あまり騒がしくない」
騒がしくない──お絹なりの例え方だった。幻が見え、声が聞こえ、感覚が溢れて収拾がつかなくなる状態を、お絹は「騒がしい」と表現していた。
「月が細いから。満ちてくると、また五月蠅くなると思うけれど」
淡々と、まるで天気の話でもするように言う。だが、その言葉の裏にあるものを神谷は知っていた。諦め、慣れ──慌てていても仕方がないのだと、分かっているからこその静けさ。
「飯は食えているか」
「……それなりに」
「婆さんの作る飯は口に合うか」
「兄上は来るたびに同じことを訊く」
お絹が猫のように目を細めた。少し呆れるように。
「食えているし、眠れている。問題はない」
「そうか」
神谷は頷いた。安堵はする。だが、同時に分かってもいる。今日は良い日であっても、明日がそうとは限らない。月の満ち欠けという要素はあっても、「良い日」と「悪い日」の波は、お絹自身にも自由にならないのだから。
風が吹き、木の葉の擦れる音がして、二人の間を満たす。
「──実は、今日は少し話がある」
神谷が口を開いた。声の調子を整えようとしているのがお絹には分かった。普段の兄は飄々としている。道場にいる時も、任務にあたる時も、大抵のことは軽口で躱す。だが、お絹の前ではそれが綻ぶ。今も──声に僅かな緊張が混じっていた。
「話?」
「あぁ。少し前にお前を捕らえた男のことなんだが──」
お絹の指が、抱えた膝の上で僅かに動いた。
「……覚えている」
というより忘れようがなかった。山王祭の夜。盗賊団への潜入の最中、捕り物になった。仲間だった者達が次々と捕らえられていく中──先陣に、あの男がいた。
お絹は弓の名手だった──。夜目も利く。距離を取り、矢を番えれば大抵の相手は仕留められる自信があった。だが、あの夜、あの男の動きを見た瞬間──番えた矢を放つのに迷いを抱いた。
──当たらないと思ったのだ。理屈ではない。あの男を捉えようとする意思そのものが噛み合わず、するりと逸らされてしまうような──そんな奇妙な感覚。
御庭番として幾度も修羅場を潜ってきた。腕の立つ武士も見てきた。だが、あのような男に遭遇したのは初めてだった。
「その人が……どうしたの」
「別件で接触することになってな。人としての器を間近で見る機会があった。人を裏切らない、信頼に値する男だと俺は判断した」
お絹の視線を感じ、神谷は言葉を選びながら続けた。
「それでな……あの男にはどうやら──人ならざるものが視える力があるようなのだ。お前と同じように」
しかし、お絹は黙ったまま。
「お絹。あの男に……一度、会ってはみないか?」
風が吹いた。雑木林の梢がざわめき、お絹の束ねた髪が揺れた。お絹は何も言わなかった。ただ、膝を抱える腕に僅かに力が入ったのを、神谷は見逃さなかった。
「……会って、どうするの」
声は平坦。その平坦さが神谷には痛く感じる。
「お前の障りを視てもらう。あの男ならば──お前が見ているものが幻ではなく、本当に在るものなのかどうか確かめられるかもしれん」
「…………」
「ただ、祓えるかどうかは分からんと、あの男自身が言っていた。安請け合いはできぬと。だが──」
だが、何だ。神谷は自分でも言葉を探していた。何を言えば、この妹に正しく伝わるのか。期待しろとは口が裂けても言えない。けれど、諦めるなとも簡単には言えない。
「──少なくとも、あの者はお前と同じ世を見ている者なのかもしれん」
お絹がピタリと固まった。同じ世を見ている者。その言葉が、静かに胸の奥に落ちていくのを感じた。
§
お絹は過去の記憶を辿る。障りが表に出始めたのは、十三、四の頃だった。
それ以前にも何かの気配を感じることはあった。庭の隅に何かがいるような感じ。夜中に何かが囁くような音。だが、それは子供の怖がりで片がつく程度のもので、気のせいだと言われれば、そうかもしれないと思える範囲だった。
──変わったのは、初潮を迎え、体が女になり始めた頃からだ。
ある晩、庭を横切る獣のようなものがはっきりと見えた。影のようなものが壁を這い、天井の梁の上から何かがこちらを見下ろしていた。声が聞こえた。囁くような、笑うような、泣くような──何処から来るのか分からない声が頭の中でワンワンと響き、視界がぐるりと揺れた。
狂いそうになって、お絹は悲鳴を上げた。
その尋常でないお絹の様子に母は狼狽え、父は眉を蹙めた。
そして、それを神谷の血に宿る憑き物の障りだと、父は吐き捨てるように言った。あれは最早、道具としても使えぬと。卓越した弓の才と身の軽さがなければ、道具としての価値も示せなければ、そのまま座敷牢に入れられて終わりだったかもしれない。
そんな様子のおかしくなったお絹に──兄と母だけが正面から向き合ってくれた。
見えると言えば、何が見えると訊いてくれた。声が聞こえると言えば、どんな声だと訊いてくれた。信じているのか、それともお絹を安心させるためにそうしていたのかは分からない。だが、少なくとも──否定したり、見捨てることはしなかった。
家族である兄と母だけが、お絹の味方だった。
──だからこそ、辛いこともあった。
兄が蘭学を学び始めた時のこと。「西洋の医術なら、お前の病を治せるかもしれぬ」と目を輝かせていた頃の兄の顔。得た知識、漢方の処方を持ち帰り、「これを試してみよう」と言った時の声。そして──効果がなかった時の隠しきれない落胆。
何度も繰り返された。期待し、試み、失望する。その度に兄の顔から光が消える。お絹にとっては、自分の障りそのものよりも兄の失望を見る方がよほど堪えた。
──今度もそうなるのだろうか。
「……兄上」
お絹は庭を見つめたまま言った。
「あまり、期待しない方がいい」
「…………」
「今までだって、何度も同じことがあった。今度は漢方だ、今度は祈祷だ、今度は蘭方の新しい処方だ、と。その度に兄上は──」
そこで言葉を止めた。兄が傷ついた顔をしている。見なくても分かった。
「私のことは、もう──」
声が途切れた。「放っておいてくれ」「諦めてくれ」とは言えなかった。そう言えば兄がどんな顔をするか想像がつくから。
神谷は暫く黙っていた。風が吹き、稲穂が揺れる音が聞こえる。遠くで鳥が鳴いた。秋の空は、どこまでも高い。
「……期待するなと言われてもな──それは無理だ」
兄の声は低く、言葉は短い。だが、そこに込められたものは重い。御庭番として身に着けた、いつもの飄々とした調子はどこにもなく、お絹は何も言えなくなった。
「分かっている。分かっているのだ。今まで何度も……だが……」
兄の拳が膝の上で握られていた。
「お前が苦しんでいるのを見て、何もせずにいられるほど──俺は腑抜けた兄ではないつもりだ」
あの父が生きていたら、何と言っただろう。正妻の子たちが病で皆死んで、ようやく名を呼ぶようになった二人に対して。妾の子。残りものと呼んだ子達に。
兄は父とは違う──。父は最後まで二人を駒としてしか見ていなかった。道具は使えればよい。壊れれば替えればよいなどという、父のような考えを兄は持たない。
兄は人の心を失っていない──。だからこそ、もう落胆させたくなかった。心を傷つけて、人でなしの父のようにはなって欲しくはなかった。
──沈黙が落ちた。
お絹は膝を抱えたまま、顔を俯かせた。自分の内側を探るように黙る。いつもそうだ。兄の前では言葉が足りなくなる。
──ただ、一つだけ。
兄を傷つけたくないという気持ちとは別に、胸の底に溜まる不思議な想いがあった。兄が「同じ世を見ている者」と言った、あの男のことについて。思い出すと……何となく、話してみたくなった。
「……あの人」
お絹が言った。驚いたように兄がお絹の方を見た。
「渡辺という人は」
「ああ」
お絹は少し間を置いた。何から話せばいいのか、自分でも整理がついていないようだった。
「……不思議な人だった」
思い出す──。あの時に感じたことを。あの男を前にして思ったことを。そして、ゆっくりと口から言葉として紡ぎ出す。
「……あの時。火盗改に捕まって、覚悟はしていた。拷問にかけられるものだと。でも……あの渡辺という人は……拷問することもなく、一人で牢に来ては勝手に一人で話をして、勝手に帰っていった」
「……」
「私が何も答えなくても、気にしていない様子だった。今日はいい天気だとか、飯は食えているかとか……時には独り言のように、蕎麦は何処の店が美味いだとか、町奉行所との縄張り争いが面倒だとか、意味のないことを愚痴っては……満足すると去っていく」
兄が困惑するように目を瞬いた。
「……そ、そうか」
「何がしたかったのか、未だに分からないけど」
お絹の口元が──ほんの僅かに、動いた。笑みとまでは言えない。だが、鉄面皮の密偵が見せる表情としては破格のもの。
「……本当に変な人だった」
それきり、お絹は少し黙った。風が梢を揺らし、どこかで鳥の羽音がする。やがて──声を落として、また口を開いた。
「……多分、あの人は普通の人とは違う」
「どういう意味だ?」
「上手く言えない。ただ何か……嗅ぎ慣れない匂いのようなものを感じた」
「匂い……」
「江戸の生まれじゃないような……浮世離れしてるような……もしかしたら異国人の知り合いでもいるような……?わからない……でも、あの時、何となく西洋カブレの兄上とは話が合いそうって感じた。ただそれだけ」
お絹が首を傾げ、兄は瞑目した。
お絹の「感じる」は、常人のそれとは違う。猫憑きの血がもたらす異常な超感覚──それは時にお絹を苦しめ、時に助けてきた。その超感覚が時として嘘を曝き、真実を嗅ぎ取ることもあったのだから。
「──そうか」
それが分かっているのだろう──兄はポツリと、ただ一言、そう呟いた。
§
アキアカネが空を飛ぶ。陽が傾き始め、空の色が橙に変わり始めていた。
二人はまだ並んで縁側に座っていた。会話は途切れ、暫く沈黙が続いている。だが、気まずい沈黙ではなかった。昔からそうだ。お絹は無口で、神谷もそれに慣れている。
「──会うだけなら」
唐突に、お絹がぽつりと言った。
「会うだけなら……いい」
神谷は妹の横顔を見た。お絹は相変わらず庭を見つめている。その表情は読めない。期待しているのか、諦めているのか──。
「ただ──期待はしないで」
しかし──それが兄を守るための言葉だと、神谷には分かった。自分から期待していないと宣言しておけば、何も変わらなかった時に傷つく度合いが、少しは減る。不器用な妹は、そう考えているのだ。
「……分かった」
神谷が頷く。自分でも気づかぬうちに安堵していた。会うことを承諾してくれた。それだけで十分。治るかどうかは分からない。また何も変わらないかもしれない。だが、少なくとも──まだ心折れていないと分かった。
「ありがとう、お絹」
「……別に。礼を言われるようなことではない。兄上の顔を立てただけ」
お絹はそっぽを向き、顔を背けた。
──日が沈みかけていた。
空が茜から紫に変わり、影がより一層濃く浮かび上がる。畑の向こうの雑木林に鴉が飛んでいった。夕暮れの風が肌寒く感じる。
神谷は腰を上げた。
「……そろそろ行く。暗くなる前に街道に出たい」
「ん」
お絹は頷いた。立ち上がりはしない。縁側に座ったまま、兄を見上げる。
「飯はちゃんと食え。お前は痩せすぎだ」
「……ちゃんと食べてる」
「次に来る時は、何か美味いものを持ってくる」
「いらない」
「持ってくる」
押し問答にもならぬやり取り。それでも神谷の声はどこか安堵が感じられた。こうして軽口を叩ける日は良い日なのだから。悪い日のお絹は本当に声も出さない。
背を向けたまま──振り返らずに言った。
「……母上が生きていたら、何と言ったかな」
不意に零れた言葉だった。言うつもりはなかったのかもしれない。お絹は少しだけ間を置いて答えた。
「さあ。……でも多分、兄上と同じ。母上も諦めが悪かったから」
神谷は振り返らなかった。ただ、一つ笑って──歩き出した。
──その背中が道の向こうに消えていく。
お絹は縁側に座ったまま、その姿を見送っていた。大柄な影が小さくなり、やがて曲がり角を過ぎて見えなくなる。
──火盗改の男。
あの夜の記憶が蘇る。鋭い眼光。闇の中を奔る剣。矢を番えても当てられぬと悟った、あの感覚。そして、牢に一人でやって来ては勝手に話してまた帰っていった、あの不思議な言動。
生まれてこの方、初めて感じる空気感──。
憑き物が落ちるなど期待はしていない。何も変わらない。変わった試しがない。けれど──どこか、言葉にし難い妙な予感もある。
──ふと、膝の上に重みを感じた。
見下ろすと、一匹の猫が乗っていた。赤毛の大きな霊猫。いつの間にいたのか、膝に乗り切らない大きな体を丸くして目を細めている。
お絹はその毛並みに手を伸ばした。指先が触れると──柔らかい感触。赤い毛並みは微かに光を帯び、残照を受けて炎のように煌めく。二つに分かたれた尾の先が、ゆらゆらと機嫌良さげに揺蕩う。
兄の連れる霊猫とは何かが異なる。お絹にはそれが分かる。分かるが──この猫が悪いものではないことも分かっていた。障りが表に出始めた頃から、ずっと傍にいる。騒がしい日も、静かな日も。
「……お前も会いにいく?」
お絹が訊く。霊猫は低く、ゴロゴロと喉を鳴らした。
日は落ちて空は紫から藍に変わり、一番星が瞬き始めていた。田畑の向こうに広がる闇の中に──影のようなものが幾つか、蠢いているのが見える。
今日はそれらがボンヤリとしか見えず、話し声も聞こえない。感覚が溢れることもなく落ち着いている。
静かな良い日だ──。
お絹は膝の上の赤毛の猫を撫でながら、しばらく空を眺めていたのだった。




